蝶好き令息宰相家へ行く③
「エレオノーレ様!?大丈夫ですか!」
「奥様!ヨゼフさん私達はいったいどうすれば……!」
「とりあえずまず水分をゆっくり飲ませるのじゃ!ポッドの紅茶で良かろう!」
昼食でむせた事がきっかけで喘息発作が止まらなくなったエレオノーレをアルベルト達はどうにか落ち着かせようとする。ヴェンツェルに指示された通り温かい紅茶をゆっくり飲ませたが発作が治まる気配はなかった。
「だめですヨゼフさん!止まりません!」
「エレオノーレ!深呼吸でゆっくり息を吸うのじゃ!おい!急いで侍医殿を呼んできてくれ!」
「かしこまりました!」
ヴェンツェルは側にいた侍女に侍医を連れてくるように伝える。危険な状況の中アンナはアルベルトと共に必死にエレオノーレを励ました。
「奥様!奥様!どうかしっかりしてください!」
するとエレオノーレの背中を摩っていたアンナは摩っている自身の左手が急に温かくなるのを感じた。
(何かしら?私の左手が……?)
アンナは一瞬温かくなった自分の左手に違和感を感じ摩るのをやめた。それと同時にエレオノーレの発作は段々と静まり喋れるようになった。
「ゴホッ!……ハァ……ハァ……あら……?治まったわ……」
「エレオノーレ様!」
「エレオノーレ!?治まったのか!」
「えぇ急に……でもなぜかしら?さっきまで苦しかったのに……」
「きっと一時的なものじゃったんじゃ。とにかく治まって良かった……」
ヴェンツェルは深く考えずエレオノーレの無事を喜んだ。一方アンナは自身の左手をじっと見つめていた。
(……さっきのは何だったのかしら?とても温かかったしそれに何か不思議な力が湧いてくるみたいな感覚が……)
「アンナ?アンナ!」
「ハッ!?どっ、どうしましたかアルベルト様!」
左手を見つめ続けるアンナをアルベルトが呼ぶとアンナはハッと我に返り返事を返した。
「どうしたかは僕のセリフだよ。なんで左手をずっと見ているの?」
「えっ!?あっいえ、何でもないです!」
「?」
「それよりも奥様咳が治まったのですね!良かった……」
アンナは怪訝な表情を浮かべるアルベルトに慌てて返事を返した上で誤魔化した。この後侍医がやって来たが咳は完全に収まっておりひとまず様子を見ることになった。
「一時はどうなるかと思ったぞい。もし妻に何かあったらワシは冷静でおられなくなってしまう」
「本当に回復して良かったです。おかげでこれからヨゼフさんと蝶の採集に出かけられますし」
昼食での騒動後、ヴェンツェルはアルベルトに屋敷の周辺で蝶を見に行こうと誘った。アルベルトは蝶や蛾を採集する準備をたった三分で済ませヴェンツェルの元にやって来た。
「捕虫網を用意して準備万端じゃな。ワシはまだ服も着替え終えておらんぞい。もう少し待たんか」
「あはは、楽しみ過ぎてつい急いでしまいまして。玄関で待っていますね」
採集が楽しみなあまり早く準備を終えてしまったアルベルトは暫く玄関先で待機する。程なくヴェンツェルが支度を終えたのだがアルベルトと違い網を持っていなかった。
「あれ?ヨゼフさんは蝶を採集しないのですか?」
「採集したいのはやまやまじゃがこの辺の住民はワシの顔を知っておる。貴族の別荘地も近い故変に噂が立つと面倒じゃ。じゃからワシは自宅の周囲では採集するのを控えておるんじゃよ。君も親戚の子という事にしておくつもりじゃ」
「そうなんですね。自宅の周りで蝶や蛾の採集も出来ないなんて……」
「宰相は社交界での評判が大事じゃからのぅ。君ほど気楽では無いんじゃよ」
「まるで僕が無責任な立場みたいな言い方で腹が立ちますね」
ヴェンツェルの物言いにアルベルトはムッとして頬を膨らませる。
「ハッハッハ、いやすまんすまん。お詫びに君を良い穴場へ連れて行くから許してくれ」
ヴェンツェルは採集の穴場にアルベルトを連れて行く事にして屋敷から出発した。二人はやがて十五分ほど歩いて湖の湖畔にある広葉樹ともみの木が混ざる雑木林へ着いた。小道から林に入ったアルベルトは美しい光景に息を呑む。
「わぁ……!」
雪が解けかけの林床にはスノードロップやセツブンソウなど鮮やかな春の花々に覆われており長い冬の眠りから覚めいち早く飛来した蝶やハナアブ達が蜜を求め飛び回っていた。
「良いところじゃろう。ワシのお気に入りの場所なんじゃよ。春に帰宅した際には必ずこの林へ散策に来るんじゃよ」
「すごい!ミヤマセセリやヤマキチョウの仲間もいる!よーし早速採集するぞ!」
アルベルトは早速網を振るい花に来た蝶を捕まえヴェンツェルに見せびらかし満面の笑みを浮かべる。
「あはは、見てくださいヨゼフさん!ユーロッパクジャクチョウを捕まえましたよ!」
「おぉ鮮やかな目玉模様の蝶か。ワシもタテハチョウの仲間で一番好きじゃぞい。さて、ワシもお気に入りの煙草を喫みながらゆっくり蝶や花々を眺めるとしようかの」
ヴェンツェルはバッグから持ってきたお気に入りのビリヤードパイプを取り出すと刻み煙草を入れ自身の魔力で指先から出した火をつけ吸い始めた。
「あれ?ヨゼフさんってお煙草を吸われるんですね」
「うむ、妻が喘息である関係上外でしか吸わんがの。因みにパイプも集めるのも趣味じゃから屋敷にはパイプのコレクション部屋もあるぞい。同じ部屋ではウイスキーも集めてある」
「へぇー多趣味なんですね。すごい大人っぽい……」
「ワシは趣味に対しては広く浅くなんじゃよ。アルベルト君のように深く狭くではなくてな」
「なるほど……」
ヴェンツェルは自身の趣味に関する姿勢を語りまたパイプを口に咥えゆっくり楽しむ。
「いやぁ本当に良い場所だなぁ。花は綺麗だし蝶は沢山いるし何時間でもいられるよ……わわっ、蝶やハナアブ達が僕の周りに集まって来た!」
蝶の採集を楽しんでいたアルベルトだったが急に飛んでいた蝶やハナアブ達が自分の側に近づいて来て困惑した。更に木陰や藪から小鳥やリスや子鹿なども現れて次々寄り添った。
「あはは、もしかして皆んな僕に挨拶に来てくれたの?可愛いなぁ」
「うーむ、陛下から聞いてはおったが本当に生き物達から好かれておるんじゃのう」
ヴェンツェルは虫や小動物に囲まれるアルベルトを見て女王から聞いた話を思い出した。
「最近より好かれやすくなりまして……蝶や蛾も向こうから僕に近づいてくるようになりましたよ。でもその分捕まえて標本にするのがかわいそうにも思えてきたのが最近の悩みです」
「アルベルト君は優しいからのう。ワシなら蝶や蛾の方から来てくれるなら単純に嬉しいがな。ハッハッハッ」
アルベルトは自らが生き物に好かれるようになったと同時に生じた悩みを複雑そうな表情で話すとヴェンツェルは冗談混じりに笑い返事を返す。そしてヴェンツェルは生き物と戯れるアルベルトを眺め頭の中で色々考えを巡らせた。
(アルベルト君のこの好かれ具合はもしや特殊魔力の一種によるものかもしれんな……本人は無自覚なようじゃが。そういえばイリス教の聖典にもそんな力を持つ人物がおったな。名前は何じゃったか?……まぁ良い。一度調べる必要があるやもしれんな)
「あははは、見てくださいヨゼフさん!僕の手の甲にユーロッパアカタテハが止まりましたよ!綺麗だなぁ……あっ、肩には小鳥さんが乗ってきた!隣に熊さんまで!えっ?熊???」
「アルベルト君危ない!」
「うわぁぁぁ!!!」
ヴェンツェルが叫んだ瞬間アルベルトの脇の藪から黒い塊が急接近してきてアルベルトに覆い被さる。アルベルトは大声を上げて倒れ戯れていた蝶や小動物達はその場から逃げて行った。
「アルベルト君!!!大変じゃ!アルベルト君が熊に襲われ……ておらんようじゃな」
ヴェンツェルはアルベルトが熊に襲われたものだと思い慌てたがよく見る熊はアルベルトを攻撃する様子も無く尻もちをついたアルベルトの顔を舐めて甘えていた。アルベルトはぬかるみにこけて泥んこになりながら苦笑いしている。
「あは……あはは……ヨゼフさん、これどうしましょう?」
「うーむ、生き物に好かれすぎるというのも考えものみたいじゃのう……」
ヴェンツェルは熊が側にいる手前近づけないアルベルトを見てそう呟くしかなかったのだった。
★★★
「あああの……本当によろしいのですか奥様……!」
その頃屋敷にいるアンナは発作から回復したエレオノーレにチューリップやミモザが咲く庭にある東屋に招かれ椅子に座っていた。そしてテーブルにティーセットと共に用意された沢山のお菓子に動揺し震えていた。
「えぇ良いのよ全てアンナさんが食べてくれて。どれもヘクセンハウスのお菓子よ」
「でもこんな沢山の……それも高級なお菓子を私だけでなんて!そっ、それにお昼も頂いたばかりなのに」
「食べきれなければ残してもいいわ。さっき発作が起きた時に側にいて背中を摩ってくれたお礼よ」
「そんな……私はただ摩っただけですから」
「それでも有り難かったわよ。それに咳が止まったのは何となくアンナさんのおかげかなって思うの。暖かい手で摩ってくれた途端に苦しく無くなったから。とにかく沢山食べて頂戴ね。ウフフ」
エレオノーレはにこにこと柔和な笑みを浮かべながらアンナにお菓子を勧めた。アンナは遠慮したものの自身のお菓子欲には打ち勝てなかった。
「そっ、それではいただきます……!?美味しい!応接間で食べたクッキーよりバターが濃くて!あら、このマカロンはラズベリー味なのね!このミニチョコケーキはふわふわでクリームにココナッツが入ってる!あーん私今凄く幸せ♡♡♡」
アンナはお皿に乗ったお菓子を頬張り幸せそうに味わう。エレオノーレはそんなアンナを笑顔のまま眺めていた。
「!?」
エレオノーレの顔を見て我に返ったアンナはお菓子を貪る自分がひどく醜く思えて恥ずかしくなった。
「あっ、あの……やっぱり半分は職場の皆さんに持ち帰ります。私だけで独り占めなんて出来ないので」
「あらそう?ウフフ、ところでアンナさんのご趣味は何かしら?」
「えっ?」
「私もっとアンナさんの事を知りたいのよ。言える範囲で良いから教えて下さらない?」
エレオノーレは興味津々な様子でアンナの趣味について質問してきた。アンナは少し緊張した様子で自身の趣味について話した。
「わっ、私はあまり趣味は多くないのですけど小説を読むのが好きです」
「まぁ小説をお読みになるの?どのようなジャンルが好きなのかしら?」
「えっ!おっ、主にロマンス小説です!主人公の女の子が困難を乗り越えて王子様と結ばれるような物語が特に好きで……あの、奥様は小説はお読みになるのですか?」
アンナは小説の好みについて具体的に話した後エレオノーレに対し恐る恐る質問を投げかけた。
「そんなに読まないけれど古典文学は好きよ。でも私のお友達にはアンナさんみたいにシンデレラストーリーが好きな人がいたわ。いつの時代身分を問わず女の子はそういうお話が好きみたいね。ウフフ」
「そっ、そうかもしれませんね……」
エレオノーレの返事にアンナは遠慮がちに頷いた。するとエレオノーレは急に謝罪の言葉をかけた。
「ごめんなさいねアンナさん。こんなおばあさんの我儘に付き合ってもらって」
「どっ、どうしたのですか急に?」
「いえね、夫がアルベルトさんを孫のように思っているように私もアンナさんを娘のように可愛がってあげたいの。それでお庭を見ながら趣味のお話とかしたいと思ったの。でもアンナさん緊張が解けないみたいだから申し訳なくなって……」
「そっ、そんな謝らないでください奥様!むしろメイドの身分の私ごときが宰相夫人に気遣っていただける事自体が奇跡なんですから!」
「ありがとうアンナさん。本当に優しい子ね」
謝罪の言葉を聞いたアンナが慌てて気遣うとエレオノーレは穏やかな微笑みを浮かべて感謝を述べる。そして白磁のティーカップから紅茶を一口飲むと少し寂しげに呟いた。
「……アンナさんが本当の娘ならどんなに嬉しかったかしら。でも仕方ないわね。こればかりは……ね」
「奥様?」
「アンナさん、実は私達夫婦はね……子供を亡くしているの」
「!?」
エレオノーレから語られた衝撃の一言にアンナは言葉を失った。同時に脳裏に昼食時エレオノーレが発作を起こす寸前ヴェンツェルが言った言葉が蘇る。
「私と夫は十歳にも満たない頃に婚約したの。内務卿だった夫のお義父様が貴族議会の最大派閥の長だったお父様と交渉しての政略結婚でね。でも幸い相思相愛だったおかげで円満に結婚できたの」
「そうなんですね……」
「でも子宝には中々恵まれなかった。夫婦の営みさえすれば自然に出来るものだと思っていたからショックだったわ。子供が出来るように神様にお祈りしたし不妊に効くというお薬も沢山試したわ。それでようやく八年経ってから男の子が産まれたの。アダムって名前をつけたわ。私も夫も泣くほど喜んだわね」
「……」
エレオノーレは待望の子供が生まれた瞬間を思い出し微笑む。アンナはただただ静かに話に耳を傾けた。
「私達夫婦はその子を目に入れても痛く無いほど愛情を込めて育てたわ。面白い事にアダムは夫と同じで蝶や蛾に興味を示したの。夫はその頃強い魔力を生かして軍人になり陸軍大尉にまでなっていたの。沢山の兵隊さんを部下に抱えて多忙だったから家を空ける日が多かったけど休日には必ず帰って来てアダムと蝶や蛾の採集に出かけたり昔集めた蝶や蛾の標本も見せてあげていたわ。自国では中々趣味を共有出来ない夫にとっては本当に幸せな時間だったと思うわ。私もそんな二人を見るのが大好きだったの。でも幸せは長く続かなかった……アダムは八歳になった年の冬に死んでしまったわ。流行病に罹ってね」
「そんな……可愛いそう……」
アンナはやっと授かった二人の子供が病で死んでしまったと聞き愕然とした。
「アダムは高熱でうなされながら私や夫を呼んでいたわ。夫も私も枕元でアダムの手を握って必死に呼びかけたけどダメだった……翌日アダムは冷たく……ごめんなさい」
「奥様、ハンカチをどうぞ」
「ぐすっ、ありがとう……本当に優しいわね。夫はアダムが亡くなってから基地に勤務出来ないくらい落ち込んでしまったの。当然私も悲しかったけど夫は趣味を一緒に楽しんでいた分もっと辛かったみたい」
「そうですよね……お気持ちお察しします」
エレオノーレはそこまで話すと紅茶のカップを持ち口をつけた。アンナは当時のヴェンツェルは本当に辛かっただろうと心中を察する。エレオノーレは紅茶を飲み一息つくとある意外な事実を打ち明けた。
「実はね、夫が政治家になったのはアダムを亡くした事がきっかけなのよ」
(お知らせ)
次回投稿予定:29日(←10月16日変更)




