メイドアンナの受難②
「動かない蝶なら大丈夫かなと思って見せたんだけどなぁ……」
アルベルトは右の頬の痛々しい赤い手形を涙目で摩りながら畑に戻った。育てているレッドマンドラゴラという赤い葉の薬草の周りに生えた雑草を抜く作業をするためだ。
「この間みたいに間違えてマンドラゴラの小さな芽まで引き抜かないようにしないと」
「おやアルベルト君。庭仕事の最中かね」
アルベルトが軍手をはめ草むしりを始めると直後に背後から聞き慣れた声が聞こえた。振り向くと私服のシャツと綿パン姿に麦わら帽子を被ったヴェンツェルが立っていた。
「さっ、宰相閣下!!!」
アルベルトは驚きのあまりヴェンツェルを本当の肩書きの方で呼んでしまった。ヴェンツェルは口の先に右の人差し指を当て静かにするように促す。
「アルベルト君!次に会う時ワシは君に雇われた農夫のヨゼフという設定で会おうと話しておいたでは無いか!」
「あぁっ、そうでした!失礼しましたヨゼフさん」
アルベルトは立ち上がって右手を頭の後ろに回して申し訳なさそうに謝罪した。ヴェンツェルはため息混じりに注意を促す。
「全く注意してもらわなければ困るぞ。宰相と伯爵の息子が秘密で会っているなんて知れたらそれだけで大騒ぎじゃからな。ワシは新聞記者の格好の標的になってしまう」
「あはは……気をつけます」
ヴェンツェルはアルベルトに注意を促すと育てている畑や花壇の方に目をやった。
「まぁ良いか。話は変わるが前にフランク殿に聞いたところここは蝶や蛾の幼虫を観察する為の畑らしいのぅ。それで側にある赤煉瓦で囲われたアレは蝶を呼ぶ花を植えた花壇だそうじゃないか。これ全て君が管理しておるのかね?」
「ええそうですよ!ここは僕が管理している蝶や蛾の観察と保護の為の畑と花壇です。花壇の方は蜜を好む蝶や蛾が寄ってくるようにとブットレアやアベリアなど蝶や蛾に人気の花を植えています。畑の方はハーブや野菜を食べて育つ蝶や蛾の幼虫達の為農薬や虫除けの魔法結界を使わないやり方にこだわっているんですよ」
アルベルトはヴェンツェルに畑と花壇の目的ややってくる蝶や蛾の種類について説明する。
「例えばここに植えてあるレッドマンドラゴラはヒノコシジミの食草です。ただ僕がお小遣いを稼ぐ為に売る薬草でもあるので食べ尽くされないように工夫もしてあります」
「ほう、工夫とは?」
「互いの害虫を避ける効果を持つ植物を隣同士で植えたり増えすぎた虫を食べてくれる小鳥の巣箱を設置し更にハリネズミも放しているんです」
「なるほど、蝶や蛾の食草と自分の利益を両立するやり方を無農薬でするとは大したものじゃ」
「あはは。まぁ僕個人の小さな畑や花壇だから無農薬が可能なのですが。領主の令息として農民の皆さんにも低農薬は推奨していますが禁止はしていません」
趣味と実益を両立する為の畑作りの知恵を聞きヴェンツェルは頷き感心した。
「ところでこのやり方は自分で考えたのかね?」
「いえ、実はこの方法は昔屋敷の庭を管理していた庭師の方から教わったんです。薬を出来るだけ控えて別の工夫する、その方のやり方を真似て試行錯誤を繰り返してこの畑は出来たんです」
アルベルトはレッドマンドラゴラの前で屈み葉を一枚めくる。めくった葉の下には赤い小判形の小さな芋虫が葉の表面を齧っていた。
「見てくださいヨゼフさん。ヒノコシジミの幼虫です。元気に育っているでしょう。このレッドマンドラゴラが健康で農薬を使っていない証拠です」
ヴェンツェルもアルベルトと同じように屈んで幼虫を観る。もぞもぞと葉の上を移動する幼虫を優しい目で観察した。
「なるほど、この畑で蝶や蛾の幼虫が元気に育つ事が出来ているのはその庭師と君の努力のおかげなのじゃな。いやはや感心した。よし、ワシも畑仕事の手伝いをさせてもらおうじゃないか」
「ありがとうございます!それじゃあ早速レッドマンドラゴラ周辺の草むしりの続きをするので手伝ってくれますか?その後は花壇の花の剪定も手伝って欲しいです」
ヴェンツェルは畑の工夫に感心して立ち上がるとシャツの腕をまくり手伝う準備をする。アルベルトは手伝ってくれる事を喜び軍手を渡した。
「いいとも。さあやろうアルベルト君」
二人は地面に膝をつけてレッドマンドレイク周辺の草むしりを始めた。その最中アルベルトは気になっていた事を何気なく質問した
「そういえばヨゼフさん、今日は予定していた時間より早くここに来ましたよね。会議があるから遅くなるって言ってませんでした?」
「い、いやまあ色々あってな……それよりワシの方こそ気になっとったが君のその右頬の手形はどうしてついたんじゃ?」
ヴェンツェルはアルベルトからの純粋な質問に会議での失敗を思い出し恥ずかしくなってしまい本当の事を隠して誤魔化した。そしてアルベルトに逆に質問を投げかける。
「あぁこれですか。あはは……実は専属メイドにビンタされてしまって……」
「メイドにビンタ?それはまた一体どうして……?」
アルベルトはまだ痛い頬を摩り苦笑いしながら答えた。ヴェンツェルが何故ビンタされたのか聞こうとした時……
「おいアルベルト!」
後ろから突然大きな声が聞こえ二人が振り返るとそこには仁王立ちして不機嫌な顔をするフランクの姿があった。二人は急いで体の向きを後ろに変え立ち上がる。
「ちっ、父上!どうされたのですか」
「どうされたも何もあるか!またお前アンナに虫を見せて怒らせたそうだな。全く皆が皆虫が好きという訳じゃないのだから大概にしろ!」
フランクはアンナの事でアルベルトを叱る為に来たようだ。アルベルトは申し訳無さそうに頭を掻いてうつむき反省する。
「すみません父上……」
「全く本当に反省しとるのか?まあ良い。ところでワシは少し王都まで用事で出かけてくるからお前に留守番を……ん?」
フランクは話している途中でアルベルトの隣にいる私服の麦わら帽子姿のヴェンツェルに気づいた。そしてヴェンツェルを指差してアルベルトに聞いた。
「誰だ?そこにいる小汚いジジイは」
「!?」
ヴェンツェルは真正面から小汚いジジイと言われた事に驚き目を見開いた。