宰相との出会い③
「さぁどうぞ!中が少々散らかっていますが……」
アルベルトに促されて宰相は白壁赤屋根の研究室の中に入っていく。木製の玄関を入るとすぐに広い部屋があり、奥の壁には大きな木製の標本棚と本棚が並んでいる。部屋の中央に置かれたテーブルには図鑑や本が積み上げられまた部屋のあちこちにドーム型の目の細かい金網や網を被せた素焼きの植木鉢が並ぶ大きな机が置かれていた。部屋全体には標本やその保存に使う薬品の独特の匂いがぷんと充満し宰相の鼻をつく。
「これは……標本用の棚だけでなく異国の図鑑が並んだ本棚に窓際の小さな学習机には顕微鏡まで置かれておる……アルベルト殿、君は単に標本をコレクションするだけでなく本格的にこの建物で蝶や蛾の研究をしておるのじゃな」
宰相は想像していた以上に研究室らしい建物内の光景に驚く。
「えぇそうなんですヨゼフさん!あの学習机で標本を作成したり翅の細かい模様を観察したりしていますよ!あっでもこの研究室では標本ばかり扱っている訳では無いんですよ!」
アルベルトは宰相の反応にこにことしながら足元にある金網をかぶせた鉢のうち一つを抱えて宰相に見せた。
「ここでは標本を作るだけじゃなくて生きた蝶や蛾の幼虫も育てているんです。例えばこの鉢にはサツマイモの苗が植えてあってカミナリスズメの幼虫がいます」
アルベルトが鉢を机の上に置き金網を開ける。宰相が注意深く覗くとお尻に小さな尻尾があり黒い体にギザギザの黄色い線が2本背中にはいったイモムシが元気にカリカリ咀嚼音をたてながらサツマイモの葉っぱを食べていた。
「カミナリスズメといえば確か雷属性の魔力を持つスズメガじゃな。成虫の標本は持っているが幼虫を間近に見たのは初めてじゃ」
「可愛いので時々手に乗せるんですけど、機嫌が悪いと少し強めの電気を出すから手が痺れて大変なんですよ。でもこの魔力で厳しい自然を生き抜いているんだなぁって想像すると健気に思えてきて更に愛おしくなります」
カミナリスズメの幼虫を優しく見つめながら嬉しそうに話すアルベルトを見た宰相はアルベルトの筋金入りの蝶好きに深く関心した。
「君は本当に蝶や蛾が好きなんじゃのぅ。もしよければしばらくこの部屋の標本や図鑑を見て回っても良いかね」
「えぇどうぞ!好きなだけご覧下さい!」
許可をもらい宰相は棚から標本箱を取り出して眺める。中には生きている時と同じように美しさを保つ様々な大陸や地域の蝶や蛾の標本が翅も触覚も脚も殆ど欠損や狂い無く丁寧に整えられながら入っており、一個体一個体に種と産地が書かれた紙のラベルが虫ピンでとめられていた。いくつかの棚を見て回った宰相はアルベルトに質問した。
「……いやはや想像していた以上に立派な棚や標本の数に先程から圧倒されっぱなしじゃ。この標本や棚も全て君が集めたのかね?」
「いえ、棚や外国産の標本は他国にいる祖父や兄上に買っていただきました。この研究室も元は狩猟小屋でしたがそれを改築する際も祖父に手伝って貰ったんです!」
「ほほぅ、なるほどなるほど」
アルベルトは宰相に棚や標本や研究室をどうやって手に入れたか詳細に話した。それを頷きながら聞いていた宰相はふと机に置かれた小さな標本箱に目をやった。金の装飾金具がついた上質な木の箱だが中には何も入っておらずピンのラベルにも採集地や日付は書かれていなかった。ただ(ナナイロマダラ)という種名とその学名のみが書かれていた。
「アルベルト殿、この空の標本箱は一体何かね?」
「あぁ、それは僕が採集する事を人生最大の目標にしているナナイロマダラの標本箱です!」
「ほぅナナイロマダラか。あの五頭しか標本が採集されておらず幻の虹色の蝶と呼ばれとるあれか!」
「えぇ!僕も幼い頃にその存在を知ってずっと探し求めているんです。全世界で目撃されている蝶ですからユーロッパでも採集するチャンスがあります!でも大変珍しい蝶なので見つかると新聞にも載るんですが未だ目撃情報の記事は見た事無くて……」
「確かにワシも今まで本物を見た事すら無いのう」
空の標本箱をしまったアルベルトはそう自身の目標を語り更に具体的な夢について話した。
「僕、本当は蝶や蛾の研究者になりたかったんですよ。でも領地を継がなくてはいけない手前諦めざるおえなくて……ですが好きな蝶や蛾の研究は領主になった後も続けます。そしていつか憧れの蝶ナナイロマダラをこの手で捕まえて研究するんです!それが僕の夢なんです!」
目を輝かせ夢を語るアルベルトの姿に宰相は本当に蝶や蛾が好きなのだなと感心した。そして気になった事を質問した。
「君が心から蝶や蛾を愛しているのは君の振る舞いや研究室の様子からわかった。その熱量はワシ以上じゃ。だがそもそも君はなぜそこまで蝶や蛾が好きなのかね」
宰相の質問を聞いたアルベルトは窓のそばにかけてある小さな額縁に顔を向けた。額縁を見るとそこにはアルベルトに似て栗色の髪に琥珀色の瞳の貴族女性の肖像画が飾られていた。
「この女性は……」
「僕の母上です。僕がまだ子供の頃に亡くなりましたがとても優しい人でした。僕の標本作りや観察の趣味に寛容で、いつも趣味の事を父から怒られるたびにかばってくれました。そして蝶や蛾を好きになるきっかけも母なんです」
★★★
「ははうえ!ははうえがだいじにしているはたけにあおむしがいます!」
「あら本当?まぁ!私の育てているルッコラを食べちゃっているわねぇ」
時は遡りアルベルトがまだ五歳の子供だったある日の昼下がり、アルベルトの母であるベルンシュタイン夫人が庭園で育てているルッコラの葉っぱに青虫がついているのを発見した。
「ははうえ!このわるいあおむしはぼくがつぶしてやっつけます!」
「あらダメよアルベルト。青虫さんだって私達と同じで生きる為にルッコラを食べているのよ。ねぇそれよりこの青虫さんを育ててみない?綺麗な白い蝶々になる筈よ」
「えっ!?このあおむしがちょうちょになるんですか!」
「そうよ。ママは蝶々に詳しいの。この青虫はルッコラ以外にもキャベツを食べるわ。領内の農家さんからキャベツの葉っぱを貰って育ててみましょう!」
「ははうえがいうなら……そうします!」
アルベルトは夫人から促されてルッコラから採集した青虫をキャベツで育てて羽化させる事にした。
「……その青虫はユーロッパモンシロチョウの幼虫でした。青虫が蛹になって無事綺麗なモンシロチョウへと羽化した時の感動は今でも忘れられません。あのブヨブヨの芋虫からこんな綺麗な生き物が生まれるんだと不思議に思いそこから蝶への興味に火がついたんです。やがて蛾についても興味を持ち始めてそれから今日まで続いています」
「なるほどのぅ、お前さんが蝶や蛾に興味を持ったのはご母堂との幼い日の思い出が関係しておったのか」
アルベルトは宰相に蝶や蛾が好きになるきっかけになった過去の思い出を宰相に語りながら壁に掛けてある母親の肖像画を優しい眼差しで見つめた。
「父上はその頃から蝶や蛾に興味を持つ僕に冷たかったのですが母上はずっと優しく僕の趣味を応援してくれました。僕はそんな母上が今でも大好きでこうして研究室にも肖像画を飾っています。きっと空の向こうからも笑顔で見守ってくれているでしょう」
アルベルトの一連の話を聞いた宰相はうんうんと深く頷いて同意した。
「やはり親族の影響というのは大きいものじゃのぅ。ワシも蝶や蛾に興味を持ったのは君と同じ少年時代でな。亡き父に買い与えられたブリトニアの鱗翅類図鑑がきっかけじゃった」
「ヨゼフさんもそうなんですか!」
「うむ。ただ君も知っての通りこの国には蝶や蛾はおろか昆虫採集を趣味とする者は少数派じゃ。じゃからワシも学園時代には蝶や蛾の趣味を持つ友人を見つけるのに苦労したし結局見つけたのも下級貴族二人だけじゃった。ただ彼らと森や野原に採集に行ったり標本を交換し合ったのは良い思い出じゃよ」
「良いですねぇ。僕なんて学生時代一人も趣味を共有出来る友達が居ませんでしたし気味悪がられてすらいましたよ。今でも元同級生のパーティーに参加を拒否されるくらいです。父上の過去のやらかしのせいもあるんですがね。トホホ」
宰相は学生時代の数少ない趣味友達との輝かしい思い出を遠い目をしながら語った。
「ただ彼らとは卒業後交流が無くなってしもうた。もう既に鬼籍にも入っておるしの。それに加えて仕事が忙しくなって蝶や蛾の趣味も長い事辞めておった。じゃが宰相となって暫くしてから屋敷を整理しかつて集めた標本を眺めておったら趣味を再会する気が起きたんじゃ。年老いた今でも蝶や蛾を愛する気持ちや情熱は失っておらんぞ」
「そうなんですねぇ……えっ?宰相?」
「はっ!?」
話の流れで隠していた本当の身分をうっかりバラしてしまった宰相は思わず声を漏らし顔を青くした。二人の間に暫し沈黙が流れる。
「あぁっ、いやそのっ……」
「まさかヨゼフさん本当は宰相……父上に知らせないと!!!」
「まっ!待ってくれアルベルト殿!」
老人の正体に勘づいたアルベルトが屋敷へ行こうとしたのを宰相は腕を掴み慌てて引き留めた。そして観念した様子で自身の正体を明かしたのだ。
「……どうやら下手に隠さん方が良いみたいじゃな。そう、ヨゼフはワシのお忍びの際の偽名……ワシの本当の名はヴェンツェル・ヨーゼフ・フォン・シュメルテンベルク。この国の宰相じゃ」