伯爵領の夜盗虫①
「アルベルト様、旦那様が屋敷の応接間にお呼びです」
女王に呼び出されてから数日後のある日、謹慎が解け朝から研究室前にある畑を耕していたアルベルトにアンナがそう言った。
「父上が?まさか部屋にガロワ産のカトカラ類の標本を持ってきたのがバレたかな」
「また標本を屋敷に持ってきたのですか……捨てられますよ」
アンナはいくら注意されても屋敷に蝶や蛾の標本を持ち込むアルベルトに呆れた顔をした。
「ですが多分違うと思います。旦那様怒っている様子ではありませんでしたし何やら真剣な表情をしておりました」
「えっ?それじゃあ一体何だろう……とりあえず屋敷に行ってみよう」
アルベルトは鍬を研究室近くの農具入れにしまい屋敷に向かう為アンナと共に森の小道へと歩いて行った。
「旦那様、アルベルト様をお連れしました」
屋敷に着いたアルベルトはアンナに言われて玄関で土を落とし着替えを済ませてから応接間の前まで来た。中にいるフランクにアンナがノックをして声を掛けた。
「アルベルト、土はしっかり落として着替えてきたんだろうな」
「大丈夫です父上」
「なら入ってワシの前に座れ」
フランクから入室が許されアルベルトは応接間に入った。そして部屋の真ん中にあるソファに座るフランクの前に向かい合って座った。フランクは神妙な面持ちで話を始めた。
「ワシはつくづく思った。お前は蝶や蛾を追いかけてばかりでどうも将来領主になるという意識が足りんのではないかと」
「はぁ……」
「たまに領地を見回ってきたと思えば農民共のどうでもいい要求をワシに言ってきたり農民のガキ共と遊んだりろくな事をせん。だからワシは考えた。お前には責任感を持たせる必要があるとな」
フランクは腕を組んで背をもたれながらそう言った。そして静かに聞くアルベルトにノルマを課した。
「そこで今日から一週間お前には領主の仕事を全てやってもらう」
「!?」
フランクから告げられた思いがけないノルマにアルベルトは驚いて目を丸くした。
「そっ、それはつまり父上が普段からやっている政府に送る公文書の作成や領民の裁判も僕がやるという事ですか!」
「そうだ。それから見回りも毎日やってもらう。ワシはその間西の村の別邸にいるからな。一切手伝わんぞ」
「そんな!蝶や蛾を採集研究する時間が減ってしまうではないですか!」
「黙れバカ息子!!!全てはお前を立派な領主にする為だ!分かったら今すぐ見回りに行ってこい!」
反発するアルベルトにフランクは怒鳴りノルマを押し付けた。アルベルトはガックリと肩を落とし項垂れながら応接間を出ていった。しばらくしてフランクはニヤリとして
「よーしこれで一週間の休みが出来た。別邸に保管している骨董品を眺めて楽しみつつ整理するぞ!アルベルトには悪いがワシは今日から楽しい夏休みだ!ガッハッハッハ!!!」
と言いながら大口を開け大笑いをした。フランクがアルベルトに領主の仕事を丸投げした本当の理由は単に自分が休みを取りたかっただけだったのだ。
★★★
「折角畑にヘスティアセセリを呼ぶ為にウールグラスの種を蒔こうと思っていたのになぁ……まあ仕方ないや。見回りに行こうかルーカス」
アルベルトは不満を呟きながら愛馬ならぬ愛ロバのルーカスに跨り見回りの為屋敷を出発した。夏の暑く照りつける日差しの中をゆっくり歩くルーカスに揺られてアルベルトは農道を進んでいく。
「そういえば去年の今頃はヨトウムシの被害が酷かったなぁ。今年は村の人達が頑張ってくれたおかげでどの村も被害が少ないみたいだけど北の村はどうだろう。一番深刻だった村だから見に行ってみよう」
アルベルトはそう言って北の村のある方角へ向かおうとした時背後から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。アルベルトが気になり振り返るとなんと半袖シャツ姿で捕虫網を持ったヴェンツェルがいた。
「ヨゼフさん!?なぜここに!?」
アルベルトは驚いた顔でロバを止めた。ヴェンツェルは驚くアルベルトに苦言を述べる。
「なぜここにではないぞいアルベルト君。今日は共に領内で蝶の採集をしようと言っておったではないか」
「あっ!すいませんヨゼフさん。父上に見回りに行くよう言われて約束を忘れていました」
アルベルトは約束を忘れてしまった事を謝りながら申し訳なさそうに頭を下げた。
「全く……その為に研究室前まで来たのに君がいないからアンナ殿に尋ねたら見回りに行ったと言うじゃないか!それで急いで追って来たんじゃ」
「本当にすいませんヨゼフさん……」
「ついでに君が一週間領主をやる事になった話も聞いたぞい。蝶や蛾を追いかけてばかりの君にちゃんと務まるのかね」
アルベルトに領主が務まるか不安なヴェンツェルにアルベルトはムッとした。
「失礼ですね。僕だって父上の仕事を手伝っていますから領主がやるべき仕事くらいできますよ。それに蝶や蛾を追いかけてばかりいる訳では……あっ!ヒバナヒョウモン!」
文句を言っている途中でアルベルトは前を飛んでいたヒョウモンチョウの仲間に目を奪われた。
「今年初めてだ!オレンジと黒点の柄が綺麗だなぁ。この子はオスかな?でもメスにもオス型の個体がいるから……ハッ!!!」
観察していたアルベルトは自分に向く冷たい視線に気づきハッとする。ヴェンツェルはため息をついて呆れながら言った。
「やはり君がきちんと仕事をするか心配じゃ。見回りについていくぞい」
「アハハ……心配させてすみません。ではこれから領地の北にある村へ向かいます。途中に坂道があるので気をつけてください」
アルベルトは恥ずかしそうに謝罪した後行き先を告げてルーカスを動かした。ヴェンツェルもその側について歩き二人は北の方角へと向かった。
「あっ、あれはアルベルト様でねぇか!おーい皆んなー!!!アルベルト様が来てくださっただよ!」
アルベルト達は坂道を越え林道を越え一時間かけて北の村近くの畑までやってきた。畑にいた村男の一人がアルベルトに気付き他の村人達に声をかけた。村人達は一斉にアルベルトに向かって手を振りにこやかに挨拶をした。
「おーいアルベルト様ー!!!久しぶりだ!ぜひ村に寄っていって欲しいだー!!!」
「エリック村長もきっと喜ぶだよー!おいらのおっ母もこの間のお礼を言いたがっていただー!」
「美味しくなったビールも飲んでいってけろー!!!」
村人達のアルベルトに対する熱烈な歓迎を見たヴェンツェルは驚いた。
「いやはや君は思った以上に領民から慕われておるようじゃな」
「いえそれ程でもないですよ。ヨゼフさん、僕はルーカスから降りて皆さんに挨拶してきます。ヨゼフさんもどうですか?」
「うむ、ワシも行くとしようか」
アルベルトはヴェンツェルを誘いルーカスから降りた。すると突然農道の向こうから一人の村娘がアルベルトに向けて駆けてきた。
「アルベルト様ーー!!!♡♡♡」
「かっ、カリーナ!」
カリーナと呼ばれた蜂蜜色の髪を三つ編みにしたそばかす碧眼の少女は名前を叫びながらアルベルトに勢いよく抱きついた。
「久しぶりだべアルベルト様♡おらが恋しくて会いに来てくれたんだべか?」
「くっ、苦しいよカリーナ!それに僕は村の畑を見る為に来たんだよ!」
「もう!そんな照れ隠ししなくて良いべさ。その気になったらいつでもお嫁に行く準備は出来ているべ♡」
苦しがるアルベルトをカリーナは村娘の割に発育の良い体でギュウギュウと抱き締め続ける。すると村人達が畑から駆け寄って来てカリーナを止めに入る。
「アルベルト様に迷惑かけるのはやめるだカリーナ!早く離れるだよ!」
「んだ!それに貧相なおめぇにアルベルト様の奥さんはつとまんねぇだ!アルベルト様には王都から可愛い嫁っ子がきっとくるだよ」
村人達からアルベルトに嫁入りする事を否定されたカリーナは抱きついたまま不機嫌そうに反論した。
「そんなの分かんねぇべ!アルベルト様は身分を気にしねぇ人だ!だからおらだって嫁っ子になれるはずだべ!」
「カリーナ!いい加減離してよ!!!」
長くカリーナに抱きつかれて限界のアルベルトは大声で言った。ヴェンツェルはそんな様子をただポカンと見つめて呟いた。
「何じゃこれは……」
するとカリーナはそのヴェンツェルの存在にやっと気がつき村人達も一斉に見つめる。急に視線を向けられたじろぐヴェンツェルにカリーナは聞いた。
「爺さんあんた誰だべ?」




