蝶好き令息神聖帝国へ行く(前編)⑤
「帝都の永住権に無試験での推薦入学……ご冗談ですよね?」
「下らない嘘を言うと思うか?私はお前が研究者として名を上げられる機会を与えたいのだ。入学先は帝都のジギスムント大学だ。光栄な話の筈だぞ」
ジークリードからの身に余り過ぎる好待遇にアルベルトは冗談だと思い込んだがジークリードは本気であった。
「お前は次期皇帝となる私の命を救う大義を果たした。それだけの待遇を受ける権利はある」
「でっ、でも僕は将来領主になる事が決まっています!移住も推薦入学も父上が許さないと思います!」
「お前の父親のような貴族の扱いは良く知っている。あの程度の男は少しばかりの富をチラつかせておけば簡単に要求を呑むだろう」
「ですが……」
まだ戸惑っているアルベルトの肩をジークリードは掴み更に熱を入れ説得した。
「アルベルト、私はお前の蝶や蛾に対する情熱を買っているのだ。去年研究室を見せてもらった時にはっきり分かった。その知的好奇心と行動力は帝国の生物学の発展にとても重要だ。お前は中世の空気に閉じ込められた田舎の国の領主に甘んじているより先進的な我が国の学会で活躍すべき人間だ。自分でもそうは思わないか?」
(中世の空気に閉じ込められた田舎の国じゃと!?悪かったですなその国の宰相で!)
ヴェンツェルはジークリードの発言から彼がボナヴィアを見下しているのを感じ内心で憤り眉を顰める。すると突然ジークリードに異議を唱える声が上がった。
「お待ちください殿下!!!その提案には賛同致しかねます!」
「何?」
声の主はローゼンハイムであった。ジークリードはうんざりした表情でローゼンハイムに視線を移す。
「殿下のアルベルト殿へのご贔屓は常軌を逸しておられます!救命の手伝いを少ししただけの帝国臣民でもない青年を帝都に住まわせしかも名門ジギスムント大学に推薦入学させるなどあり得ません!」
「私の提案に反対すると言うのか?ローゼンシュタイン」
「ローゼンハイムですっ!!!友人だからと過剰なご贔屓をなされば私一人どころか貴族や臣民達から不興を買う事になります!どうかご自身の判断が本当に正しいか冷静にお考えを……っ!!!」
ローゼンハイムは真剣な顔で断固として異議を唱えたが次の瞬間ジークリードはローゼンハイムの右頬を平手打ちした。
「……でっ、殿下!?」
「お前はクビだローゼンフェルト、主人に逆らうような秘書官は要らない」
「!?」
「お前の口煩い小言には常々うんざりしていた。私が言い間違えた名前を訂正するのも煩わしい。陛下の命で取り立ててやってから九年耐えて来たがもう限界だ。今すぐこの場から去れ」
理不尽にクビを宣告されたローゼンハイムはやり場のない怒りに打ち震え立ち尽くしていたがやがて踵を返してその場から去った。アルベルト達は長く尽くした側近をあっさり切り捨てるジークリードの冷淡さに戦慄したがジークリードは再び穏やかな表情をアルベルトに向け何事も無かったかのように話を続けた。
「アルベルト、私の提案を受け入れてくれるだろう?私は友人としてお前が将来帝国の生物学発展に尽くしてくれる事を期待している」
ジークリードは提案を受け入れてくれるものと信じ嬉しそうに微笑む。しかしアルベルトはすぐには受け入れられず考える時間を求めた。
「ジーク様、お気持ちはありがたいですが何分急なお話なのでその……考えるお時間が欲しいです。本当に帝国に移り住んで大学に入学したいかどうか」
「考える時間?まぁ良いだろう。首脳会談の期間は残り二日、最終日に返事を聞かせてくれ。良い返事を待っているぞ」
ジークリードはアルベルトに考える猶予を与えた上で受け入れる事を期待した。やがて一行は博物館を離れ宮殿へと戻った。
「アルベルト様夕食会にはご参加されなかったのですね。ご体調が悪いのですか?」
「うん……まぁ色々あってね」
その夜アルベルトは宮殿の夕食会を欠席し国賓の宿泊用に設けられた部屋で一人窓を眺めぼんやりとしていた。庭園での一件から復帰したアンナは部屋に入りアルベルトの体調を心配する。
「アンナこそ体調は大丈夫なの?鼻血を出して倒れたけど」
「私はもう大丈夫です!眼福過ぎて興奮しただけですので」
「眼福?」
「わっ、私の事はどうでも良いですから!それより今のアルベルト様の方が心配です」
「体調不良では無いから大丈夫だよ。でも一人にはして欲しいかも」
「アルベルト様がそう仰るなら……お休みなさいませ」
アルベルトは一人になりたいと言ってアンナに退室を促した。アンナは不安ながらも退室しドアを閉めたがその時ヴェンツェルと鉢合わせした。
「ヨゼ……いえ宰相閣下!?」
「アンナ殿。今部屋にアルベルト君はおるかね?ちと話があるんじゃが」
「おりますが一人になりたい気分だそうです」
「十分程度で良いんじゃ。彼に確認してみてくれんか?」
ヴェンツェルに頼まれアンナは再び部屋のドアを開けアルベルトに確認を取る。ヴェンツェルの話が気になったアルベルトは十分だけならと部屋に通した。
「よいしょっと。君が夕食会に現れんかったから皇太子殿が心配しておったぞい。その様子じゃと相当悩んでおるようじゃな。皇太子殿からの提案について」
「それもあるのですが……」
ヴェンツェルは部屋に会った椅子に腰かけ足を組むとアルベルトの心中を顔色と元気の無さから察した。
「ですが何じゃね?」
「僕、ジーク様とは母上を亡くした者同士で年齢も近いのでもっと価値観が通じ合うと思っていたんです。でも今日ご一緒してジーク様とは生きている世界も考え方も違うんだと思い知らされました。進化論や植民地の事についても反論出来ないまま有耶無耶になりモヤモヤしています」
「ふむ……」
アルベルトにジークリードからの提案以外のもう一つの悩みを打ち明けた。ヴェンツェルは顎に手を当て少し考えてから話し始める。
「……君と皇太子殿は共通点はあっても受けて来た教育が違う。ワシと君だって同じ趣味の親友とは言えも立場も年齢も異なるじゃろ」
「そう……ですね」
「皇太子殿の場合伯爵令息の君よりも厳しく帝王学を叩きこまれた筈じゃ。彼の人間中心主義、帝国主義は恐らくその影響じゃ。加えて競争の激しい宮中で生きておるから我が強く猜疑心も深い。性格が優しくお人好し君がギャップを感じて当然じゃよ」
「……」
「彼のような思想を持つ者はユーロッパの上流社会では珍しく無い。ワシは宰相として植民地を持つ列強国の有力者と交流してきたが大体同じような考えを持っておった。君がどこで植民地の話を聞いたか知らんがそれが現実じゃ」
「ですが嫌がる人達に文化を押し付けて支配しようとするのは良く無いと思うんです!話せばジーク様も理解して……」
「無理に考えを変えさせようとすれば君が不敬罪で捕まるだけじゃぞい。普段ワシや陛下などと気さくに接して感覚が麻痺しておるかもしれんが君が友人と呼んでおるのは列強国の皇太子じゃ。権力者と付き合うというのは本来恐ろしい事なのじゃぞい」
「うぅ……でも……」
「それに植民地については国益や世論も絡む。皇太子殿一人説得して済む問題では無いのじゃ。現地人が可哀想じゃと思う気持ちは分かるが他国の国策について無闇に触れるべきでは無い。我が国と帝国は重要な同盟国、皇太子殿を怒らせればワシは国益を優先し友人の君さえ切り捨てざるおえない。どうか言葉に気をつけてくれんか」
「……」
(最もそうして他の大陸を支配して探検した結果得られたのが海外の珍しい蝶や蛾の標本であり研究成果なのじゃが……これ以上落ち込ませるといかんから言わんでおこう)
ヴェンツェルのアドバイスと宰相としての忠告をアルベルトは納得出来ないながらも聞き入れ頷いた。
「それはそうと閣下、確か僕にお話があるんでしたよね?」
「あぁそうじゃったな。ここからは親友ヨゼフとして話をするが君が帝国の大学でプロの学者になる事を本気で望むなら無理に引き留めはしないつもりでおる」
「!」
「皇太子殿に遅れた国扱いされて憤りこそしたが一方で我が国には君が望むような研究施設が整っておるとは言い難いのも実情じゃ。君がボナヴィアを去るのは正直に言えば寂しい。じゃが友人として長年の夢を叶えたいと願う君を後押ししてあげたくもある」
「ヨゼフさん……」
ヴェンツェルは親友ヨゼフの立場からアルベルトの帝国移住と入学について正直に胸の内を明かした。
「ワシもかつて前線で戦う軍人から政治家になる事が良い選択なのか正直悩んだ。じゃが思い切って政界に飛び込んでみた事で多くの貴重な経験を積む事が出来た。機会があれば人生の進路を変える事も決して悪い事では無いぞい。まぁ陛下が君の永住と推薦入学の事を知ったら面倒な事になりそうじゃが……」
「面倒?」
「いや何でも無い。いずれにしろ気持ちが固まったら最終日にワシにも話してくれんか」
「分かりました。必ずお話しますね」
アルベルトはヴェンツェルとの会話を通じて悩みが多少軽くなったからか少しだけ明るい顔に戻り返事をした。
「さて、話は終わったからワシも部屋に戻るとしよう。君は明日エルンスト殿と会う予定じゃろ?ワシは明日から皇太子殿と両国間の問題について話し合わねばならん。多分君とは最終日の午後まで落ち着いて話が出来んじゃろうから今夜部屋にお邪魔した訳じゃ。それじゃあ明日は気をつけての」
「えぇ、ありがとうございましたヨゼフさん。お休みなさい」
アルベルトは部屋を出るヴェンツェルを廊下まで見送った。こうして二人の帝国での一日目は終わった。だがこの時水面下で様々な陰謀が渦巻いていた事を二人はまだ知らなかった……
★★★
「あああぁぁ弟よおおぉぉぉ!!!会いだがっだぁよおぉぉぉ!!!」
「ちょっと離れてください兄上!人通りの多い街道に居るんですよ!?」
翌日、朝から宮殿を出たアルベルトは兄との待ち合わせ場所である帝都のボナヴィア大使館の門前までバスに乗りアンナと共にやって来た。寒い中黒いフロックを着て待っていたエルンストは弟の姿を見るや否や走って近づき抱きしめ周囲の目を無視して奇声を上げた。
「おいおい、弟君が迷惑しているから放してやれよ」
「いやだ!!!あと三分は弟の匂いと温もりを堪能しないとお兄ちゃん死んじゃう!」
「死にませんしアルベルト様が苦しそうですからおやめくださいエルンスト様!」
同僚ベドリッヒとアンナに注意されてもエルンストは抱き着いたまま離れなかった。最終的にアルベルトを放すのに本当に三分掛かった。
「はぁはぁ……全く力を入れすぎです兄上。苦しい上に恥ずかしかったです!」
「いやぁ済まんな弟よ♡可愛くてついな♡よしよし♡」
まだ苦しそうなアルベルトの頭をエルンストは余り反省の色を見せず頭を撫でながら愛でた。ベドリッヒはため息をつき呆れた様子で呟いた。
「重度のブラコンは本当に変わんねぇな。とても学園時代総合成績二位だった優等生とは思えねぇ」
「お顔も良いのに残念な方ですよね。(BL好きの)私でもドン引きだわ……」
(ん?誰だこのメイド?てかすげぇ可愛いじゃんかよ!ピンクの髪がメラニー嬢を思い出してそこだけは嫌だけど)
同じく呆れた様子でエルンストを見ていたアンナの存在にベドリッヒは気づきその可愛らしさににやける。アンナはその視線に気づき怪訝そうにベドリッヒの方を見た。
「あの……私をじっと見ておられますがどうかしましたか?」
「おぉごめんよ!俺ベドリッヒって言ってエルンストの同僚なんだ!君は?」
「あっ、アンナですけど……」
「へぇ~アンナちゃんかぁ!君可愛いね!良かったら俺と二人だけでお茶でも……あぎゃっ!!!」
女性に飢えたベドリッヒはアンナにナンパを仕掛けお茶に誘おうとするが咄嗟にエルンストがベドリッヒの頭にチョップを入れて妨害した。
「ってーなぁ!何すんだよエルンスト!」
「アンナは弟の大事なメイドなんだ。いくら女好きだからって手を出すな」
「重度の弟好きのお前に説教されたかねぇよ!それにいきなり叩くな!」
ベドリッヒはそのままエルンストと口論を始めてしまった。アルベルトはキリがない二人の言い合いに痺れを切らし声を上げる。
「あの兄上!今日は僕が気に入りそうな場所を案内してくれるんですよね!そろそろ出発したいのですが!」
「すっ、すまない弟よ!この独身デブと口喧嘩して時間を無駄にしてしまったな!よし!お兄ちゃんが帝都を案内してあげるぞ♡」
「デブじゃねぇぽっちゃりと言え!あと独身はお前もだろうが!おい聞いてんのか!」
怒るベドリッヒを無視してエルンストは早速アルベルト達を連れて早速近くの中央広場へ移動した。いくつもの街道が交わる中央広場には灰褐色のビルが立ち並び鉄道馬車や最新式の内燃自動車が行き来している。そして軍人から貴婦人まで様々な人々が行き来していた。
「わぁ凄いや!王都より人の数が多いし王都には無い鉄道馬車や自働車が走ってる!本当に都会なんだなぁ」
「あぁ。お兄ちゃんも初めて帝都に来た時は発展ぶりに驚いたぞ。発展しているのは帝都だけじゃない。今や帝国中に鉄道の線路も敷かれていてどの都市にも数日以内に行けるようになっているんだ」
「へぇそうなんだ!蛾の暗化型が増えるのも納得だ。それで兄上、どこへ行くのですか?」
「本当は博物館に連れて行きたかったが昨日皇太子殿下が宰相閣下と博物館を視察したと新聞に載っていた。多分殿下と一緒に蝶や蛾の標本展示を見たんだろ?」
「えぇ。よく分かりましたね兄上」
「自然公園はどうかとも考えたがもう晩秋だから飛んでいる蝶や蛾も少ない。だから国立図書館に行こうと思う。お兄ちゃんも休日に勉強や読書の為行くんだが最新の図鑑や学術誌が沢山置いてあるからお前も気に入ると思うぞ!その後昼食を取って軽く観光しようか。おっ、丁度空いた馬車があるな!」
エルンストは早速辻馬車を捕まえると御者に国立図書館まで行くよう命じた。辻馬車は成り行きでついて来たベドリッヒを含めた四人を乗せ目的地まで運ぶ。道中の窓にも帝都のシンボルである四頭馬車に乗る女神が飾られた旧関税門が目に入りアルベルトの心は観光気分で浮き立った。
「さぁ着いたぞ!ここが国立図書館だ!」
目的地の国立図書館はまるで古代の神殿のような石柱が入り口にデザインされた白亜の石造りの建物であった。アルベルトは沢山の蝶や蛾の図鑑を読める事を期待して入場する。そんな一行を別の黒い辻馬車から見ている怪しい黒服の男達が静かに監視していた。
(お知らせ)
・次回更新予定:11日




