第3話 義貞哀れ
父の死後、正行は父の心に少しでも触れたいと思い学問に、調練にと没頭した。
兄を見習ってか正時は調練に励み、まだ幼い弟(のちの正儀)も手習の真似を始めていた。
そんな彼らを巻き込む時代の渦は、ますます混迷を深めつつあった。
勤皇の士であったためか、はたまた皇家へ弓引いた引け目からかは判らないが、尊氏は京花山院から脱出し吉野へ向かった後醍醐帝をあえて追討しなかったことにより、ここに京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)という二つの朝廷が並び立つ前代未聞の事態が出来した。
朝廷とはいえ武家隆盛の時代である。
その武家の棟梁と争い、京を逃れた南朝に国を二分するだけの威勢があったわけではない。
争乱こそ全国で起こってはいたが、その実力はせいぜいが紀伊半島を支配していた独立自治区といった程度のものだ。
それとて危ういほどである。
一方の北朝もまた幕府樹立のために担がれただけのものであり、中央政権とはとても言えない。
後醍醐帝に対しては尊敬の色を見せていた尊氏も持明院統の光厳上皇、自らが天皇に担いだ光明天皇に対してはことの他冷淡であったようだ。
このことから見ても政治の実験は武家にあり、北朝は存在以上のものとは言えなかったのである。
日本の歴史において天皇とは、ごく限られた期間を除いて一貫してこの国の権威の象徴として存在して御座すのである。
さて、事実上この国の頂点に立った尊氏に覇気がない。
宿願であったはずの幕府を開いたというのに(実際にはまだ将軍宣下はされていない)清水寺に以下のような願文を捧げている。
この世は夢のことくに候 尊氏
たう心たはせ給候て 後生たすけ
させをはしまし候へく たう心
たはせ給候へく候 今生のくわほう
にかへて後生たすけさせ
給候へく候 今生のくわほうをは 直義
にたはせ給候て 直義あんをんに
守らせ給候へく候
ようやくすると「この世界は夢のようなものだからもう出家したい。自分はあの世で幸せならばそれでいいので、この世の幸せは自分の分まで直義に与えてほしい」くらいになるだろうか。
事実、政治向きの仕事はすべて弟の直義に任せ、軍事実務は師直に預けている。
尊氏本人は禅に傾倒して、半ば遁世したような生活をしていた。
正行は相変わらず機能し続ける父の情報網から、それらの様子を手にとるように伝えられていた。
父に倣い朱子学を学び始めた彼には、おぼろげながら敵大将である足利尊氏という男の心の内が知れたような気がした。
おそらく彼は、後醍醐天皇に叛いたことを余程苦にしているに違いない。
父が生前「新田を除いて尊氏と和睦されたし」と進言したというのも、たぶんにこの勤皇の志を感じてのことだったのだろう。
その新田義貞は、この時代に名を残したものの中でもっとも報われないその生涯の最期を迎えようとしていた。
越前金ヶ崎に立て籠り再起の機会を窺っていたのだが、高師直らの大軍に囲まれて幾度となく続いた猛攻を防ぎながらも飢えに苦しんでいた。
頼みとする瓜生氏に援軍を頼むために金ヶ崎城を脱出し、あれやこれやと方策を思案しているうちに城と息子の義顕、尊良親王を失い、恒良親王も捕らえられてしまった。
その後、懸命の努力で北陸統一に努めた義貞ではあったが、足利方に寝返った平泉寺勢を討つために藤島城へ向かう途中の燈明寺畷で手勢に数倍する敵勢に出合ってしまう。
味方は百にも足らず、城攻めとて接近戦の支度しかしていない。
敵方はといえば、楯を持った多勢の射手が一斉に矢を射かけてくる。
一方的な戦闘の中、義貞は射倒された馬の下敷きになり、起きあがろうとするところを狙われたのだろう。
眉間に一筋矢を受けた。
悲劇と言えば、これ以上悲劇的な男もそうはいない。
鎌倉幕府討幕の功で言えば、決して尊氏に劣るものではない。
どころか「倒幕」を成したのこそ正に義貞なのである。
人の良さでも尊氏に負けなかったであろう義貞が、鎌倉攻めの折に北条氏から逃れて来た当時わずか四歳であったという尊氏の嫡子千寿王(のちの二代将軍足利義詮)を護衛の兵五百騎とともに合流させたことが、彼の後半生を道化師のような喜劇的に哀れなものにしたのかもしれない。
この一件はその後足利氏によって恣意的に歪められ、鎌倉攻略の功は千寿王のものとなり、ひいては尊氏の名声に繋がるのだ。
あとはこの屈辱感を後醍醐天皇に利用されることとなり、尊氏への対抗意識だけでただひたすらに朝廷に忠勤してきた。
その意識は血統によるところも大きい。
新田も源氏の名流である。
どころか、始祖は足利同様に八幡太郎義家の孫であり長男の家筋である。
足利が次男の家筋であることと見比べれば、血筋家柄としては源氏の最上位とも言えた。
一軍の将としても決して弱くない。
天然の要害鎌倉で北条氏を滅ぼしているのをはじめとして、中先代の乱後に尊氏追討で鎌倉へ下った折も足利義貞や高師直らを次々と討ち退けてみせている。
ただ彼は時勢を読み誤り、自らの人徳のなさに悶え、苦しみ、負けていったのだ。
運命は彼を劇的にすら死なせてくれない。
彼の哀れな生涯は、あまりにもあっけない最期に集約されていると言っても過言ではないだろう。