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晩翠  作者: あかるい
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沈める

 ごうごうと音が鳴る。生あたたかい世界に抱かれたわたしは冬眠する動物のように安堵する。時間がゆっくりと流れる。旋回し、留まり、浮き沈みを始める。ずっとここにいられたらいいのに。ここにいて、誰も、わたしのこと、好きにも嫌いにもならないでくれたなら、いいのに。

 水面に顔を出すと一気に引き戻されて、世界の秒針が一気に進み出したような気がした。現実に戻される引力が不快だった。二十二歳。大人。浴槽に潜る、だなんて、どうかしている。追い焚きをしたはずの湯はいつの間にかぬるくなっていた。熱いシャワーを首筋に当て、まんべんなく浴びてから浴室を出る。

 裸のままで鏡の前に立つ。たしかにおっぱいが大きくなった気がする。少し離れてはいるけれど、外と、それから下に向かってまろやかにたたずむわたしのおっぱい。触ってみるとやわらかくすべすべとしていて、どうしておんなにはこんなにやわらかい部位が必要だったのだろう、と思った。雄一は、おれがいっぱい揉んでいるからだね、と得意そうに言っていたけれど、そんなわけ、ない。きっとお手洗のたびに背中の肉を集めてブラに入れ直しているからだ。だいたいわたしはおっぱいなんか、気持ちよくも何ともないんだ。さわられて、吸われて声を漏らすのは、いやらしくてたのしい雰囲気をつくるため。そういう空気にしなければ、わたしのあそこは濡れないし(きちんと濡らさないと裂けるように痛いのだ)、今年三十一になった雄一のあれも、しなしなとだらしのない、赤いばかりの情けないものになってしまうから。

 雄一はわたしを何もできない女だと思っている。わたしをもう、みちさん、なんて、呼ばない。みちゃ、と呼ぶ。みちさんが、みちちゃんになって、みちちゃになって、みちゃ、になった。みちゃ、かわいいねえ。世界で一番、綺麗だねえ。赤ちゃんみたいだ。でも、人のことは言えない。わたしも雄一のことは、ゆちゃ、と呼ぶ。かれと付き合って、わたしの語彙はとんでもなく幼くなっていった。もう、雄一さんの理知的で堂々とした振る舞いが好きなの、なんて、言わない。ゆちゃだいすき、これからも一緒にいようね、しか、言わない。言えない。言えなく、なった。

  雄一はやさしい。めったに怒らない。こちらが合わせていれば、絶対に不機嫌になることはない。もちろん、言葉通りのなにもできない女なら、すぐに愛想を尽かされてしまう。だから、家事やかれのメンタルケアはしつつ、何にもできないふうに装う。かれが得意なことに関してのみ、不得意なように振る舞えばよいのだ。そのうちわたしはなんにもできないおんなのように扱われるのが、心地いいということに気づいた。男に保護され、守られ、幼く扱われる心地良さを知ってしまった。そのせいだろうか、わたしはどんどん、彼への違和感を見ないように見ないようにと押しやるのが、とてもうまくなったように感じる。

 どういうときに? 例えば、かれが食器を洗わないとき。水ですすがずに、そのままにしておくとき。シンクに置かれたままにしてある汚れたお皿。一人暮らしでも全く家事をせず、そのままの部屋で過ごす雄一に、最初のうちは、いらいらしていた。けれどもう慣れた。というか、どうでもよくなった。不満を可愛く言えばいいのだった。こんなふうに。

「ゆちゃ、またお皿そのままにしているよ」

 その日もわたしは、ワンルームのソファに腰をかけてテレビを見ている雄一に、キッチンから声を掛けていた。雄一は画面に釘付けになっていて、気づかなかった(気づかないふりをしているのかもしれない)。もう一度、ゆちゃ、と大きく呼ぶ。かれは視線を動かさずに頬を膨らませる。三十一の男が二十二のわたしの前で頬を膨らませている。わたしはせっせとそれらを洗い、片づけると、かれの隣にうずくまるようにしてしゃがんだ。上目遣いで、かれを見つめる。かれは穏やかな眼でわたしを見かえす。わたしは幼く甘くきこえるような響きで、

「食器洗いしたよお!」

 と言うのだ。そうすれば、

「あら、しちゃったの?」

「しちゃった」

「すごいねえ、偉いねえ、偉い子さんだねえ」

 雄一はとろりとした目をにこにことさせて、わたしの頭を撫でる。わたしはわたしたちの間の波風を収められたことにほっとしてかれの胸に飛び込んだ。偉いねえ。偉い子だねえ。そう、わたし、偉い子なの。いつもこうやって雄一のことを気持ちよくしている。気持ちよくさせるのが、得意なの。そうやって偉い子だねって、甘やかされたくて。優しくされたくて。年上の男に、愛おしそうに、宝物のように、見守られたくて。

「そうなの、みちゃ、偉い子なの」

 ああでも。

 こういうことを続けて、もう、三年になる。



 四月は最も残酷な月、とT.S.エリオットは言うけれど、ぴんと、来ない。モデルじゃないんだからと笑われた、白湯の入った水筒を、一口だけ飲んだ。由香の少し咎めるような言い方にも慣れてしまった。彼女は教室の入口で綾と談笑している。わたしたちは三人グループだけれど、なぜだろう、わたしはいつも講義室の後ろに座って、ぼんやり本を開いている。

 わたしは、荒地よりもカンタベリー物語に賛成。四月はきっと恵みの月だ。植物を生き返らせ、花を咲かせる時期。人の心を最も潤す時期。一年次の春。由香も綾も、優しかった。彼女たちだけじゃない。クラスの女の子たちも先輩たちも。わたしは守られていた。何から? ろくでもない男から。小柄でかわいいみちに変な虫がつかないように守っているのだ。いつも彼女たちは口をそろえてそう言い、笑うのだった。

「みんながみちを狙っているだろうから」

 守ってもらうほど、たよりない人間ではないのだが、と、当時のわたしは思ったものだが、あいまいに微笑んでいた。微笑んでいるだけで、済むことだった。緑が茂り、夏のきざしが見え始めると、みんな、飽きた。飽きて、また二年生の春に興味を持って。その繰り返し。四年生になると、また興味を持った。感染症の影響で、三年生、という月日がほぼ空白になっていたからだと思う。対面授業になって大学に通い始めると、みんなが褒めた。これまで忘れていた、わたしのなんでもない容姿。わたしの頼りない笑顔。わたしの小さくて細くて「折れてしまいそう」な身体。本心を聞くまでもなく、あれよこれよと庇護されていったわたしの肉体。存在。小さくて、細くて、いつでも癒しになる、小動物みたいな、かわいい、みんなの「みちちゃん」。そう言われる度に、わたしは脆弱に微笑んでいる。由香と綾だけが、黙ってそれを見ている。

 教授が入ってきて、学生たちは席に着いた。それでは、授業を始めましょう。由香も綾も、前の席に着席している。近くの席のクラスメイトが、おはよう、と声をかけてくる。挨拶を返すと、かわいい、とか、今日も癒しだね、だとか、返ってくる。わたしは今日も頼りなく微笑む。どう返せばいいのかわからないまま、もう、四年の冬を迎えようとしている。

 教授がディスカッションを指示すると、教室の雰囲気が一気にやわらかくなった。由香と綾は同じタイミングで後ろを振り返り、体の向きを変える。わたしの後ろに座っていた真田くんたちが前につめてくる。わたしは壁に背を向けて、どちらとも会話ができるように横向きに座り直した。

「各々の実習での実践を話せばいいんだよね」

 真田くんが調子の良い声でわたしに尋ねたので、頷いた。するとたちまち彼は、向かいの男子グループからからかわれる。わたしは唇を噛んで、一点を凝視する。じゃあ、どうする? 誰から行く?真田くんの声がだんだん高くなる。

「真田から、時計回りでいいんじゃない?」

 綾が横から言った。わたしが最後になる順番だ。そうしよう、とわたしは綾に微笑んだ。

 真田くんと柿内くんの発表はすぐに終わった。中身も何もない発表だった。どうして男の子たちは一生懸命取り組むことを恥ずかしく思うのだろう。やるべきときにやらないほど、ダサいことはないのだけど。綾は同じようなことを思ったのか冷たく彼らを見つめ、ため息をついた。じゃあ、私も話すね。綾はそう言って担当した小学一年生での実践を話し始める。わたしは相槌を打ちながら、彼女の実践をメモしていく。

 教育学部に入って、いちばん辛かったのは実習だった。学校とは臨機応変な対応が求められる場で、小学生の授業でさえも狙うようにいかず、狼狽えてしまう。意外にも高校生に授業するより、小学生に授業する方がつらい。英語でも、国語でも、算数でも、理論をいかに易しく、本質をつくかたちで組み立てるか。子どもには誤魔化しがきかない。四学年を担当したわたしよりも、幼い学年を担当した綾の方が、よっぽど辛かったはずだ。

「全然話通じなかったんだけどさ、そこがまたかわいいんだよね」

 思い出して微笑する綾に、わたしも思わず微笑んだ。真田くんがそれに同意し、なかなか指示が通らない子どもを泣かせてしまったのだ、とおもしろおかしく聞かせた。良いことではないけれど、わたしは思わず笑う。すると真田くんが少し照れてはにかんだ、ので、わたしはもう一度くちびるを結んで一点を見つめた。危ない。やりすぎると、危ない。由香を見ると不機嫌そうに爪のささくれをいじっている。

 由香の番になった。由香は様々な教材を机の上に出して見せた。彼女のつくった、色とりどりの整理されたプリントに、みんなが興味を惹かれる。由香はひとつひとつをどのように利用し、どのような効果が得られたのか、話し始めた。

「これだけやっても、まあ、できない子はできないんだけどね」

 由香は諦めたように笑いながら言った。不得意な子への手立ては難しい。綾が具体的な声掛けを尋ねる。由香は答える。もう一度、別のことを綾が尋ねる。由香が答える。綾が尋ねる。由香が答える。綾が尋ねる。……

「ごめんね、みちの発表時間、なくなっちゃった」

 腕時計を見るとなるほど、由香は二十分も話していたのだった。わたしはだいじょうぶ、と言って笑った。途中わたしは一瞬腕時計を見てしまい、由香はそれが気に食わなかったのだろう、意地になって説明を続けていた。だいじょうぶ。時計を気にしたわたしも悪い。だいじょうぶだよ。なるべく気にしていないように聞こえるように。なるべくみんなを安心させられるように。なるべく波風がたたないように、言った。だいじょうぶ。

「むしろ、発表する時間なくて、ラッキーだったよ」

 わたしは自分の資料を小さく折りたたんで、そう微笑んだ。だいじょうぶ。だいじょうぶ。

 いつも、やられてから気づくのは、どうしてなんだろう、と、思う。



「また、みちゃに会いたいって言っているんだけど」

 寝起きの雄一はスマホゲームから目を上げてそう言った。わたしは話を促すように首をかしげて、彼にコーヒーマグを渡す。土曜日。十時五十分。わたしたちは、どこへ行くわけでもない。今日も自宅から一時間半離れた彼の家で寝ながら過ごしている。

「島田さんたち?」

「うん」

「いいけど、いつ?」

「急だけど、明日は?」

 商学部出身の雄一は、大学の講義なんて、そんなにあるものではない、と、思っている。きっと、自分のように旧帝大ではないのだから、そこまできつくないだろう、と構えているのだろう。雄一より難易度の低い大学だからといって、むろん、楽なわけではない。それにわたしは教職課程をとっているのだから、月曜日から金曜日まで授業がびっちり入っている。けれどもかれは、そんなこと、想像もしない。どうでもよいのだ。どうでもよいからこんな風に予定をつめてくる。いや、つめているつもりはないのだろう。ただ想像が及ばないだけで。無頓着で、無意識で、無責任。ときどき信じられないくらい、嫌な男だと感じる。喧嘩したくないからといって断らないわたしも、同じくらい、嫌な人間だけれど。

「いいよ。一限じゃないし。誰がくるの?」

「島田と野上かなあ」のんびりした口調で雄一は言った。

「何か、持って行った方がいいかな」

「ええ? いいよ、そんなの。気使わないで話しな、ね?」

 わたしは頷く。気を使わないで、か。たいして知りもしない十歳近くも年の離れた男たちに、気を使わないで話すのね、わたしが。わたしはそういうふうに思い、意地悪な気持ちになった、が、かぶりを振ってそれらを消した。楽しみだね。ゆちゃの彼女なんだから、わたし、可愛くして行かないとね。そう舌足らずな調子で言うと、雄一は可愛くてしかたがない、というふうにわたしを抱き寄せた。雄一の首の匂いが好きだ。柔軟剤の匂いと交じり合って、苦いような、甘いような、ふしぎな香りがする。口を当ててみると、それに合わせて、皮膚がかたちを変える。気持ちが良かった。雄一の身体は。雄一の匂いは。おれも、みちゃの匂いがだいすき。きっとおれたちは昔からふたりでひとつなんだよ。ずっと一緒なんだよ。いつかかれにそういわれたことを思い出す。そうだ、わたしたちはふたりでひとつだ。肉体としては。それなら、精神としては?

 雄一の友人、島田さんたちと出会ったのは、わたしが雄一と付き合い始めたころだった。当時わたしは十八だった。雄一に連れて行かれて、羊の肉を食べに行ったのだ。その先に、たまたま(と思っていたが実際は約束していたらしい)彼らがいた。彼らは年下のわたしに触れることはせず、雄一に穏やかなまなざしを向けた。みちさんはね。と雄一は言ったーーみちゃとは言わなかったーーみちさんは、料理も上手なんだよ。へえ、と後輩の野上さん。どういう料理を作るんですか? わたしは応えようとするが、うまく言葉にできない。雄一は「この前はお鍋を食べたよ」と言った。お鍋なんか、手抜きのメニューじゃん。煮物とか、コロッケとか言ってよ。そう思い、顔を赤らめたが、野上さんは大袈裟に目を開けて「いいですね」と微笑んだ。それからはずっと彼らの大学の思い出話を聞いていた。十八だと告げたときの、彼らの表情。少しだけ、驚く。そして、少しだけ、嘲るような表情。お前、騙されているんじゃないか。そんな視線が雄一に向けられる度に、わたしはいたたまれなくなったものだ。

 しかし久しぶりに会った彼らは愛想良くわたしを取り囲んだ。雄一さんのおかげです。雄一さんは優しく愛情深くて、素敵です。つらつらと出てくる言葉に思わず笑いながらわたしは話す。いいなあ、雄一。こんなにいい彼女がいて。雄一は内心喜んではいるが、仲間うちにはそれを示さない。わたしははにかんだまま頷く。

 みちちゃん、モテるでしょう。雄一と島田さんが席を外した際、野上さんはそんなことを尋ねた。わたしは首を振る。モテないですよ。本当は彼氏とか居るんじゃないの?そんな、 わたしの彼氏は雄一さんだけですよ。ふうん、本当かなあ。

「話とか合うの? そんなに歳が離れていて」

 野上さんは鍛えられて膨らんだ上半身を、やや前に向けて傾けた。大人の男の苛立たしげな調子に、わたしは少し怖くなって言葉を濁した。雄一がかれらに、「みちがどうしても自分たちの集まりに行きたがっている」と伝えていることを、わたしは知っている。たまたま見えたラインの画面で知ったのだ。でも。でも、わたしはあなたたちがわたしに会いたがっていると、聞かされています。雄一はそういう男です。雄一は、あなたがたに、わたしを自慢したくてたまらないのです。若くてかわいい、何にも知らない、馬鹿げたおんなに好かれていることを。

「野上、口説いていないだろうな」

 戻ってきた雄一はそう言って野上さんを小突いた。

「いやいや、雄さんの好きなところ聞いていただけっすよ」

「野上、雄一たちが来るまで自分の彼女の惚気をしていたから大丈夫」島田さんが笑って場をおさめる。

 これから野上の家で飲み直すけど、大丈夫? 疲れてない? 雄一がわたしに尋ねた。雄一が好きだな、と思う。何も知らない、脳天気なところが。優しい目。優しくて、穏やかで。大きな会社に勤めていて、国立大の院を出ていて、お金持ちでかっこいい、大好きな恋人。たくさん甘やかしてくれる、としうえの恋人。

 だいじょうぶ、とわたしは答えた。心配しなくても、二限は、切るよ、今回も。



 水。

 水が足りないのだった。これまで浴槽には体育座りをするように潜っていたのだが、ふいにもの足りなくなってしまった。もっと深い、もっと広い場所がいる! 確か二駅先に区民プールがあったな、と思いながら、再び潜る。

 仰向けになって顔の表面のみ、水面に出す。ほんとうは海のような深くてつめたいところがいいのだけど、現実的にそこまで沈むことができるのはその区民プールだけだ。海に沈みたいだなんて。なんて大仰な言い草だろう。わたしは思わず苦笑する。

 由香と綾が旅行に行っているのを、ゼミの講義で聞いた。みちちゃんは行かなかったの? だから俺、教授にうまく話つけておくように言われているのだよね。ゼミ長の橋本くんの話をぼんやりと聞きながら、わたしは一点を凝視する。なんだってタイミング悪く、そんなものを聞いてしまうのだろう。自分の折りの悪さに嫌気がさした。何かふたりを怒らせるようなことをしただろうか――思いを巡らせる。そういえば、少し前に卒業論文の話をした。わたしは教授と相談し、他の人よりも早く全体像を完成させることになっていた。みち、卒論いちばん進んでいるんだって? ダントツで早いって、先生から聞いたよ。わたしは、そうなんだ、先生、すごく急かすんだよね、と不平を言ったのだったか。頭を抱えた。それかもしれない。得意げに聞こえたのかもしれない。

「誘われなかったの? みちちゃん」

 わたしの表情を読み取ったのか、橋本くんが言った。わたしはぶっきらぼうに首を横に振り、

「断ったの」

 と断定した。同情してほしくなかった。仲良くもないあんたなんかに。

 わたしたちは、仲が悪いわけじゃない。話が合わないわけでもない。ただ、ふたりにはふたりの結び付きがあって、わたしはときどき、彼女らの不機嫌をぶつけられる対象になる。なぜなのかは、わからない。顔に出やすい性格だ。ふとした瞬間に不快な思いをさせているのかもしれない。脆弱に微笑んでいるのが、気に食わないのかも。そんなことを考えて、また内へ内へとこもってしまう。

 雄一との電話でそれを話したら、気のせいなんじゃないの、と笑われた。別に、その友達に何かを言われたわけじゃ、ないんでしょう? 事実じゃないこと、いちいち受け入れても疲れちゃうよ。みちゃは、本当に心配症さんだなあ。そうなのかな、と思った。雄一にそう言われると、そんな気もしてくる。何も、いじめられているわけじゃない。機嫌が戻れば、彼女たちも優しくなる。少し優しくされたらまた好きになる。違和感を覚えたら? 今日みたいに、また水にこもる。その繰り返し。やられたこと、ばかみたいに、忘れちゃう。

 雄一は、就職のことだけれど、と持ち出した。二、三年くらい地元で働いてから、こちらで就職する、と言っていたじゃない。あれ、一年に短縮できないかなあ。おれの部署が、一年後くらいに横浜に移転するんだって。だからそうなったら一緒に暮らそうよ、みちゃの好きな猫でも飼ってさ。

「一年じゃ、研修期間だから、正式には雇ってもらえていないんだよ」

「そうなの? でも、教員免許は持っているんでしょう? 神奈川来て、受け直せばいいじゃん」

 そうだね、とわたしは言った。面倒で、なにも言わなかった。雄一にいらいらすることは、多かった。でも、そういうとき、必ず雄一は言葉でわたしを追いつめる。あの時はこういう風に言って了承したのにどうして今になって断るの? 雄一にそう詰められるたびに、わたしはしょんぼりしてしまう。喧嘩したくない。疲弊するから。そのうち反論するのも面倒になってきて、こんな風に、同意してしまうようになった。

 思い立ったが吉日。浴槽を出て準備を済ませたわたしは、アパートを後にして電車に乗った。区民プールは二つ先の駅近にあって、西口の先を真っ直ぐ歩いていった方向にある。入場料は六百円。白いタイルの貼られた大きな施設。会計を済ませ、髪を後ろに束ねながら、脱衣所に向かう。

 平日の昼下がりは、やはりすいていて、わたしをほっとさせた。スパのようになっているプールが手前にいくつかあって、25メートルのプールは奥側にある。スイマー用のレーンに身を沈めると水がひんやりとしていて気持ちがよかった。潜る。いちめんの藍色。長方形のタイル。足を使って進み出すと身体が薄くなったように感じられる。背泳ぎをする。高い天井に全ての音が集約されてゆく。アナウンスの声がうすぼんやりと聞こえる。これだ。わたしの、わたしだけの、時間を遅らせる、装置。

 一時間ほど泳いで、三十分くらいジャグジーにつかった。それから重い腰を上げて水から離れる。離れる瞬間は、やはりいつものように、現実に引き戻されて、身体の重みを感じた。

 水泳キャップを外し、飲み物を置いた場所へと歩き出す。右手ではスイミングスクールの子供たちが専用のプールで浮いたり沈んだりしていた。

 男。

 男と目が合った。コーチの男だ。浅黒く、体格のしっかりしていて、少しつり上がった眼をしている。二十五、六くらいだろうか――男は上目遣いで会釈をした。慌てて目礼すると、彼は微笑んで目を逸らした。水泳キャップを絞り、ナイロンのウェストポーチに放り込む。背中に男の視線が感じられるようだった。どぎまぎして脱衣所に向かう。

 あんな風にわたしを見る男は、あまりいない。いつも、こちらが気がつけば慌てて逸らしてしまうような男ばかりだ。それか、雄一のように、自らのステイタスに自信があるがゆえに話しかけてくる男か。男は、そのどちらでもなかった。自信があるとか、意味ありげにとか、そんな風でもなく。当たり前のようにわたしを窺い、当たり前のようにはにかんだ。一瞬のことが次第に思い返され、永い記憶となっていく。わたしは誰もいないひんやりとする銀色のロッカーに額をつけた。耳が熱かった。



 我慢すれば済むことだから、と、地元の友人の、あんずはよく言ったものだ。もう一年も前のことだけど。あんずの恋人は、彼女をよく殴った。あんずが悪いの。彼女がそう言ってうっとりとしていたから、何も言えなかった。そういう形もあるのだろうと思った。我慢すれば済むこと。それはわたしと雄一の間にもたびたび訪れると、今となっては思う。

 雄一とは三年間、毎週欠かさずに会っていた。ときにはふたりで出かけることもあるけれど、さいきんはもっぱら彼の家で過ごしている。もともと社員寮として位置づけられていた、区内のマンション。就活するから、休みの日は試験の勉強がしたい。そう伝えると彼は言った。それなら、おれの家ですればいいじゃん。邪魔しないからさ。断ることができないわたしは荷物を詰め込んで片道一時間半の電車に乗るのだった。ばかだ。

 雄一は土日の間ずっと眠っていた。日曜日は仕事が残っている、と言って、わたしが帰る日曜の夜から始める始末だった。一日中眠っている男と一日中勉強している女。これって、一緒にいる意味あるのかな、と思うけれど、言わない。これも我慢すれば済むことなのだ。雄一のいびきを聞きながら、わたしは数学、国語、英語と解いていく。勉強は好き。知れば知るほど世界の見方が、世界の切り取り方が変わるから。数学は公式を導く過程が美術品のようだし、国語は全ての学問の土台だからばかにできない。――英語。英語はいわゆる言語という、狭い世界観でしかわたしたちが物事を見渡せていないってことを、痛感させてくれる。英語が好き。英語教師になりたい。でも、雄一の話では、わたしは一年で英語教師を辞めて、横浜に引き上げてこなくちゃあ、いけない。

 水面から顔を上げた瞬間、息が上がっていたことに気づいた。気づかないほど集中していたのだった。向かいのプールでは子供たちが解散して嬉しそうに帰っていく。あれからわたしはここにくる回数が増えていた。そして、

「やあ、今日も練習していくか」

 子供たちのいなくなった浅いプールから声をかけてくる男がいる。あいまいに頷くと長い手足をぶらぶらとさせて近づいてきた。わたしはプールのふちに腕を乗せて、

「したい」

 と言い、にやけそうになる表情を慌てて引き戻す。男は眉をしかめながら白い歯を見せて笑った。今帰った子たちでレッスンは最後。退勤したらすぐ来るよ。わたしは頷いてまた泳ぎ始める。去っていく男の黒々とした背筋を、一瞬だけ盗み見る。振り子時計みたいに大きく手足を動かす動作。きょうも、あの背中にふれたいと思っていた。

 佐伯。スイミングスクールの、コーチ。彼と言葉を交わすまで、そんなに時間はかからなかった。わたしが彼を見つけて、彼がわたしを見つめ返してから、笑えるくらいに簡単に、そのタイミングは作り出されていった。彼は退勤後少しの時間だけ待っていればよかったし、わたしはこれまでの時間を遅らせてプールに向かえばよかった。

「みちは、未だ知らない、と書くんだね。これからは、漢字を思い浮かべて呼ぼう」

 初めて話した時にそう笑った佐伯を、わたしは胸を高鳴らせながら見上げたものだ。未知。彼の柔らかくも賢げな響きをする声帯は、わたしをいつまでも飽きさせることがなかった。雄一のことが、頭から離れたわけではなかった。しかし雄一とのあれこれを思い隠さず話すことで、佐伯と生み出す密やかな雰囲気への罪悪感から抜け出せたように思うのだった。佐伯の退勤時間のころには、天井に近い窓から、黒い夜が拡がっているのが見える。今夜は子供たちもいない。ウォーキングスペースには年寄りもいない。趣味で泳いでいるサラリーマンがちらほらと見えるだけだ。

「彼氏とは、どう、その後」

戻ってきた佐伯は水につかりながら、尋ねた。興味もなさそうだった。べつに、とわたしは言った。べつに、おなじ。先週とおなじで、家にいた。

「そうかあ」

 佐伯は「まずクロール、行くか」と言ってわたしの腰を押した。わたしは流されるようにスタートラインにつき、離れた場所に立つ佐伯を見つめた。静かだった。静かな空間だった。身を沈めると波打つ水が頬に当たって心地がよい。わたしは蹴伸びをし、それを佐伯が受け止める。両手のかたちを少し矯正されながら、わたしたちは進み始める。視界にうつるのは、佐伯の下半身だ。わたしはまだ、その下を見たことがない。どんな味がするのかも、わからない。

 泳ぐ。泳ぐと、水の底に何かが見えそうな気がする。何か、わたしが喉から手が出るくらい欲しくてたまらない何かがそこに根付いて植物のように咲いている。両手で水をかいて取り寄せようとするのだが、ぴくりとも動かない。そこにあるのに、ない。ないのに、ある。わたしにはまだ、届かないものだ。

「この前よりもフォームが良くなったね。腿から動かせている」

 佐伯の茶色い目にわたしが映っていた。うつむいて、唇を噛み、つぶやく。

「彼氏はね、佐伯さんより、やさしいよ」

「きょうは珍しく喋るな」

「でも喧嘩するの、何だか面倒くさくて、いつも許しちゃう」

 わたしは垂れてきた長い前髪を耳にかけた。佐伯がわたしを見下ろしている。佐伯に話したって何にもならない。雄一と上手くいくわけじゃない。でも、彼を前にすると、正直に胸の内を話さなければならない気持ちになるのだった。

「未知はいい人なんだね。俺だったら、溢れさせるな」

「溢れさせる?」そう尋ねるわたしに、彼は頷いた。「人はね」。彼ののどぼとけが上下に動く。

「誰でも沼を持っている。底のない沼だ。黒くて臭くて汚れている。毒がある」

わたしは佐伯から目を離し、足元を見つめた。赤いペディキュアの色彩がゆらゆらと揺れていた。水の底にあるものは、沼なのだろうか。それにしては、綺麗すぎやしないだろうか。返事も聞かずに、佐伯は続ける。沼は危険だ。汚いし、平気で人を引きずり込むから。生まれてきて、得たもの、押し付けられたもの、みんな引きずり込む。だから普通の人には周りに柵が張ってある。

「さく」

「そう。けれど溢れさせておくんだ。すぐに使えるように。少しづつ、少しずつ。柵は鈍いから、沼が近づいていることに気が付かない。少しずつなら、駄目にならない。少しづつだからね。少しづつだから、いいんだよ、未知」

 澱みなくそう話した佐伯は真顔でわたしを覗きこみ、目を合わせた。後ずさりしようとしたが、いつの間にか両腕をつかまれている。悲鳴をあげようとした。しかし、口から出てきたものは予想とはことなる、意外な言葉だった。

「……どうすれば溢れさせられるの」

 それはね、

「こうする」

 瞬間、視界が泡のつぶで白くなって、少し経つと、青く変化した。佐伯の太い脚が上下に細かく揺れて見えた。酸素を求めて、上へ上へと上がろうとするが、佐伯によって頭を固定されているので、息ができない。わたしはもがいた。もがいて、佐伯の脚を蹴り飛ばした。しかし上手く当たらない。佐伯の脚は大きい。

 死ぬかも。

 死ぬかも、とまだ大丈夫、を頭の中で繰り返した。閃光が指すみたいに、ときどき視界が白くなる。青から白に。白から青に。けれどもうじき全部黒くなる。もう無理かも。死ぬかも。そうだよ。全部、


 べつに大切なものでもなかったんだから。


 あ。

 見えた。

 わたしの、沼。


 佐伯はわたしを水面に抱き上げた。わたしはむせて肩で息をしながら彼を見つめた。彼はすばやく頬に手を回し、右手の親指をわたしの口の中にいれた。大きくてごつごつとした指に口内をまさぐられる。思い切り噛むと、彼は、にやにや笑った。彼の瞳に嘔吐く自分が映っていた。涙がでてきた。

「見えたか」

 佐伯は聞いた。

「見えた」

 わたしは佐伯の言葉を待っていた。彼は、抱きしめるようにして腕を広げると、そのままわたしの尻を撫で、つかみ、耳元で約束を取り付けた。十二日。一緒に夕食を食べよう。電流に打たれたように反応する自身の身体にうろたえながら、わたしは頷いた。彼のふたつに割れた胸が上下にふくらむのを、にじんだレンズを通して眺めた。好きだ。



 雄一はよく泣く。かわいそうなドキュメンタリーを見たとき。上司にきつく叱られたとき。土日を眠って過ごしてしまったとき。美しい夕やけを見たとき。

 わたしがいい返事をしないとき。

 自分の思うようにいかないとき。

 いま、目の前で雄一が泣いている。彼が泣いたとき、それはそれは愛しかった。こんなにも心が揺れ動きやすい、繊細な人なのだ。としうえなのに。頭がいいのに。守ってあげたかった。いろいろなものから。彼を取り巻くいろいろな理不尽から、守ってあげたかった。ずっと。この先も。

 だから自分のせいで泣かせてしまったときは、特にこころが傷んだ。わたしに会えないだけでこんなに小さくなってしまうのだ。保護しなければならない。わたしが盾になって、彼を痛みから和らげてやらなくてはならない。セックスがしたい、と誘っても、なかなか乗ってくれなかった。わたしがしたくないと言えば、しくしくと泣くくせに。小さな、にせものの母性は、いつの間にかわたしの身体に、大きな穴を開けていた。少しずつ少しずつ削られていたわたしは今日まで、そう、今日、この男が鼻をすすり始めるまで、その事実に気が付かなかったのだった。

「十二日は、三年記念日じゃないか。その日は空けておくのが普通だよ。おれに対する礼儀でもある。今までのみちゃなら、空けておいたはずだ。予定を入れるなんて、おかしいよ」

 ごめんね、ゆちゃ。わたしは言った。これだけしか、言うことができない。しかし雄一は黙ってよそを向いていた。膨れていた。初めて会った時――どこかの飲み屋だっただろうか――こんなに表情が豊かな男だとは思わなかった。黒縁の眼鏡をかけ、トレーニングで引き締まった身体を持ち、低い声で、自分の仕事について語った。計算が早く、つねに落ち着いていて、穏やかだった。しかしだんだん、身だしなみに気を使わなくなった。天然パーマの髪をそのままに伸ばして、爆発させていた。ほぼ毎日コンビニで食事を済ませるようになった、と思えば、食べなくなった。家に食材が何も無い、とメールされたわたしは、仕方なく食材を買っていくしかなかった。土日は、ほぼ、家事で終わった。食事を作り、洗い、散らかった部屋の掃除をし、洗濯物を干す。耐えられなかった。この人の生活のスタイルに。しかしそれをわたしは彼への愛だと勘違いして、続けていた。少し我慢すればいいだけだから。だってそれ以外ではこんなにも愛情深い人。ほんとうは弱い人なのだから。セックスをするときも、そう。ここが、好きなんでしょう? こうされるのが、気持ちいいんだ? わたしは彼の下手な言葉責めを受けながら、いっちゃう、いっちゃう、と叫んでいた。彼のあそこが萎えないように。彼が、彼のあそこからでさえも、涙が流れないように。

「もういいよ。仕方ない。これからは気をつけてね」雄一は低い声でそう言った。

「うん」

「ほら」と雄一は手を伸ばした。「仲直りのぎゅうしよう?」

 その途端、じわじわと喉元になにかが込み上げてきた。わたしは瞬時に理解した。いや、もとから。昔からほんとうは、分かっていたのだ。わたし、この人のこと、あんまり好きじゃない。そんなに大切じゃないってこと。

 だれかが耳元で、ヤレ!とささやいた。頭の中が騒がしかった。神はいる、とわたしは思う。神とは、人間の足元にある沼なのだ。

「……きもちわるい」

「ん?」と雄一はわたしを見た。

「きもちわるいんだよ。自分は悪くないって顔して泣いて。いつもいつもわたしに押しつけてきてさ。雄一さん、わたしの気持ち、考えたことがあった? わたしの本音に寄り添ったことがあった? ないよね、あなたはわたしの顔と若さしか見てないものね。だいたい、無責任すぎると思う。結婚がどうのこうのって言うけど、わたしの話はひとつも聞かないじゃない」

 雄一は口を開けてわたしを見ていた。わたしの口は滑り出した滑車のように止まらなかった。わたしでないわたしが、淀みなく流れていくのだった。

「お前、生活力が低すぎるんだよ、部屋もこんなに汚い人間見たことねえよ。だいたい社員寮に年齢いっぱいまで入居するやつがいるかよ。常識もクソもねえだろ。あんたわたしとの交際を会社の人に言いふらしたって幸せそうに言っていたけれどね、きっと会社では笑い物だからね。三十一のおっさんが学生にかまけてるんじゃねえよ。そういうところが同い年の女に相手にされないんだよ。お前の友達もキモいんだよ。お前らホモみたいにくっついていてピーチクパーチク、雛鳥かよ、そんなに東大を出たのが偉いのか? 人のことばかにしやがって。舐めやがって。そんなに勉強できたのが偉いのか?応えろよ、偉いのかよーっ!!」

 雄一はもう泣いていなかった。青ざめて口を開けていた。最初から泣いてなんかなかったんだ。下衆だ。「……おれの友達を、そんなふうに思っていたのか」彼は言い、わたしは肩で息をしながら

「殺すぞ!」

 と怒鳴った。それから荷物を乱暴に抱え、走り出た。身体が弾むように軽かった。いつも、彼の家に来るときはパンプスだった。彼が綺麗な服を好んでいたからだ。可愛く見られようと意識していたからだ。でも、きょうはスニーカーを履いていた。無意識ではあるが、運動靴を選んだ自分に、わたしは思わず自分がいとおしくなった。

 走っていくうちに、収まって行った。言った。言ってやった! わたしは笑った。佐伯がいたら、もっと笑えるのに。雄一は、いま、何をしているのだろうか。どんな顔をしているのだろうか。せいぜい、泣いていればいい。だいすきな元サークルメンバーにでも慰めてもらえばいいのだ。

 わたしは電車に乗った。もうこの駅には来ないだろうと思った。この町は美しかった。星空が綺麗な町で、よく上を見上げながら終電上がりの雄一を駅まで迎えに行った。きらきらと反射するそばの川をふたりで見たこともある。近くの市立図書館で本を読んだことも。駅の近くのつけ麺屋も。商店街も。オートロックの合鍵も。隣人の煙草の匂いも。わたしたちは確かにそこにいた。でも、もう、いないのだ。

 ドア付近で、わたしはしゃがんだ。熱いものがこみ上げてきて、とまらなかった。これで良かったのだろうか。良いにきまっている。ふたつの気持ちが混ざりあって気分が悪かった。雄一。わたしは呟く。大切なものでもなかったが、そこにはきちんと生活があった。幸福があった。笑いがあった。けれどもう戻れない。戻らない。

 雄一は、わたしの中で、くたびれていく。



 一月が終わった。わたしは卒業論文の発表者となった。エリオットにおける水のイメージを考察した論文が、教授の気に入ったのだ。もともと彼からたくさんの本を貸し出されていたわたしは、その本が入った鞄を背後に隠し、彼の決定を聞いていた。褒めてほしくない。特別扱いしてほしくない。教授はひとしきりわたしの作品を褒めると、他のゼミ生にも見習うようにと話を終え、教室を出ていった。瞬間、ゼミ生がゼミ長の橋本くんを取り囲んだ。不思議に思って周りを見ていると、綾が大きな小包を持って前に出てきた。

「橋本くん。今までゼミを引っ張ってくれてありがとう。これ、つまらないものだけど、()()()()()からの贈り物です」

 わたしはぽかんと口を開けてそれを見た。橋本くん、ありがとう、ありがとう、ありがとう。綺麗に包装された小包の上には、みんなからの感謝の手紙がまとまって添えられている。わたしは唖然としてそれを見ていた。橋本くんはサプライズを心地よく受け止め、勿体ぶって感謝の言葉を述べ始める。わたし、わたし。

「わたし、知らない」

 隣に立つ由香を見た。由香は聞こえないふりをしているのか、あたたかい目でゼミ長を見守っている。ねえ。わたしは由香の腕をつかんだ。由香は一度、わたしを見て、少し怯えたように、視線を逸らした。

「たまたま伝えるのを忘れていたなんて、言わせない」

 わたしがそう言葉にしたことに、由香は動転していた。ぐいと身を乗り出すと、彼女の眼球は左右に動いた。醜かった。醜くて、嫌気がさした。わたしは自分の血がこめかみをどくどく打つのを感じた。どうして? どうしてこういうことをするの? 答えてよ、と言った。ゼミ生は橋本くんのスピーチをはやし立てていて気づかない。彼女はどもりながら、小さな声で、こう言った。だって、だって。

「みちは、可愛いんだから、いいじゃん」

 わたしは唖然として彼女の荒れた赤い顔を見つめた。

 いいじゃん? いいじゃんって、何? 時間が止まる。いそいで思いをめぐらせる。いいじゃん、とは、何だろう。どういう意味だろうか。我慢するのは、当然だ。という意味? では、可愛いんだから、とは? 可愛いことは、いじめの免罪符になるのか。可愛いとラベルを貼ったのは、あなたたちであるのに。「可愛い」わたしに好かれようと精一杯努力したのは、四月のあなたたちであるというのに。

 可愛いんだから、どう扱われても仕方がないじゃない。

 可愛いんだから、その他のことを望んではいけないじゃない。

 あ、と思った。

 沈める柵‼

 わたしの柵が、落ちる、落ちる、落ちる。沼に引きずり込まれて落ちていく。白くて高い柵だったのに。あっという間に飲み込まれていく。沈んでいく。もうわたしは戻れない。わたしの沼はもう退かない。わたし自身をも侵食して、とうとうこの教室もドブ臭い水で溢れさせてしまう。わたしの偽りのやさしさ、偽りの我慢強さ、偽りの母性。


“これらの断片で俺はこの廃墟を支えてきたのだ”



 わたしは笑った。笑いを止めようと右手で口を覆うのだが、止まらない。手のひらを見てみると泥が次々と口から出てくるのに気づいた。わたしはおかしくなって笑った。次々に出てくる。汚い、黒い、臭い、わたしの水の底にあったもの。これはほんとうのものだ。ほんとうのものが、由香の身体にまとわりついていく。おかしくておかしくてたまらなくて、涙が出てきた。わたしはけたけたと笑い続けた。

 わたしはやさしい。わたしは小さい。わたしはかわいい。わたしは気が弱い。わたしは世話好き。わたしは家事が得意。しかしそれは何の役にもたたない。わたしは祈る。誰もがわたしを好きにも嫌いにもならずにいてくれるように。わたしの見た目がなるべく早く老いるように。わたしの沼が溢れ続けるように祈る。安堵して、心穏やかに生きられるように、わたしは祈る。

 シャンティ、シャンティ、シャンティ。


 平安を祈るのだ。

 








参考T.S.エリオット『荒地』



大人にならないということ。成長しないということ。変わらないということ。でもそれはひとつの強さでもある気がするんだ〜

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