初恋
みのりがわたっちょを好きだって言ったとき、あたしはそんなに驚かなかった。だってこれまでもみのりの会話のふしぶしには、わたっちょの話題が出ていたのだもの。それに遠目で観察していても、彼女が向ける視線は特別なものだったから、「ああ、好きなんだなあ」って、ずっと思っていた。
正直なところ、わたっちょのどこがいいんだか、あたしにはさっぱりわからない。たしかに背は高いかもしれないけど、でも、それだけだ。あたしは彼とは小学校のころから一緒だったけど、彼を良いなんて言っている女の子は、ほとんどいなかったように思う。(彼は下着姿の女の子がたくさん出てくるライトノベルを読んでいたのだ)。それなのに、学年の中でも特に女の子らしくてかわいいみのりがわたっちょを好きだなんて、なんだかもったいない気がするなあ、と、あたしは思ってしまう。
彼のどこがいいの?とたずねたら、彼女、「おだやかなところ」って、答えた。それと、「ふくらはぎ」とも。ふくらはぎ? あたしが問い返すと、彼女は筆を置いて恥ずかしそうに頷いた。みのりは人物画よりも風景画の方が得意だった。淡い青を背景にして描かれた町の展望台が、こちら側からちらりと見える。
「ふくらはぎが、ピクルスみたいでおいしそうだなと思ったの。そこからいいなって、思い始めたの」
あたしはわたっちょのふくらはぎなんか見たことないし(みのりは体育のときにでも見たのだろうが)、見たいとも思わない。でも、そういうふうに、身体の一部分をいいと思えるのは、なんとなく、いいな、と思った。うまく言えないけれど、大人な気がした。他の女子が男子の身体についてあれこれ言うのは、なんだかいかがわしいように聞こえるけれど、品があるみのりが口にすると、その言葉には真実のような、本物のような価値がある気がした。「ふくらはぎが好き」。それは外国の焼き菓子が膨らむように、あたしの心を甘く焦がしたので、あたしはたまらなくなって「応援するよ」と言ったのだった。
その日もみのりは画版を準備しながら、彼と目が合った回数を教えた。みのりは四組で、あたしは二組だった。あたしが少し得意げな顔をして、今度の席替えでわたっちょの前の席になったことを伝えると、彼女は羨ましそうな顔をした。
「私が知らないかれもいるんだろうねえ」
複雑そうな顔で耳の下の二つ結びをさわるみのりがかわいくて、あたしは彼女にハグをする。身体の細いみのりを抱きしめると、やさしいボディコロンの香りがして愛おしくなった。みのりはてれくさそうに顔を赤くしてほほ笑んでいた。恋をして、今まで以上にかわいくなっている。想いを言葉にするたびに、わたっちょが好きになっている。みのりの白くふっくらとした頬を、わたっちょが指で押す。彼女がくぐもった声をあげると、彼の指はあごの先へ、そして、首の後ろへ進む。それを想像するだけでなんだか身体がむずむずしてくるのだった。ぎゅっと目をつぶる。みのりが言っている、「おいしそうなふくらはぎ」とは、きっとこの先のことなのだろう。小さくてかわいいみのりは妹みたいなものだ。しかしそういう身体が関係することに関しては、あたしよりもみのりの方がずっとずっと、大人なように感じる。
ママとちょうど入れ替わりに、あたしは家に帰ってきた。華やかな装いで「チンして食べてね」と振り返るママに返事をし、あたしは靴を脱ぐ。それから二階へ続く階段を登り、手前の部屋を開ける。
お姉ちゃんは今日も絵を描いていた。そしてノートパソコンの画面を見つめたまま、「おかえり」と迎えた。あたしはただいまと返して荷物を置き、隣に座る。
「それ、冬コミ……に出すマンガ?」
「違う違う、サイトに載せるだけだよ」
お姉ちゃんは笑った。さいきんお姉ちゃんの顎にできた赤いニキビはなかなか治らない。あたしの視線に気づいたのか、お姉ちゃんは恥ずかしそうにそれを指でおさえた。
「お姉ちゃんってプロみたいに上手だよね」
あたしがそう言うとお姉ちゃんは手を横に振って否定した。振るたびにふっくらした腕がぶるんぶるんと揺れる。見ないうちに太ったお姉ちゃんは昨日の夜と全く同じ服装をしていて、着替えなかったのだなあと、あたしは思った。
お姉ちゃんは一つとしうえの中学三年生だ。あたしが小学生のころから、ずっと学校に行っていなかった。何が原因となったのかは、わからない。バカな男子のからかいだったかもしれないし、高学年の女の子たちに芽生える選民意識だったかもしれない。勉強についていけなかった? ……いやお姉ちゃんはあたしよりもずっと頭が良いので、そういうことではないのだろうけど……きっと、原因なんてないんだろう。そういうのは、ある日とつぜん、だめになってしまうものなんだ。何か理由があるわけではないけど、お姉ちゃんはぷっつりと糸が切れてしまったのだった。
あたしはお姉ちゃんが好きだ。ママも、ママの彼氏もすきだけど、いちばんはやっぱり、お姉ちゃん。だっていつもあたしに優しいし、褒めてくれるし、可愛いって言ってくれる。だからあたし、お姉ちゃんのことをたくさん先生に話すようにしている。お姉ちゃんのこと、忘れてほしくないから。もちろん、みのりにも話した。無言で持ち出したお姉ちゃんの絵をみのりに見せたら、みのりは「すごい、イラストレーターさんなの?」って目を輝かせたっけ。
「今回も恋愛マンガを描いているの?」
あたしは尋ねた。
「うーん、まあ、そうかもしれない」
「少女漫画? カナも見たい」
「でも、男同士だよ?」とお姉ちゃんは言った。
「男同士?」
あたしはぽかんと口を開けて、お姉ちゃんのパソコンを覗いた。確かに漫画の中の人物は男の子ばかりだ。男の子が、もう一人の男の子になにかを言われて(ふきだしの部分はまだ白い)顔を赤らめている。そしてそれはお姉ちゃんがよく見ているアニメのキャラクターにも見える。
「気になる?」とお姉ちゃんが言った。からかうような表情をしている。
「わかんない。あたしこういうの、知らなかった」
「今度フォロワーと会う時、同人誌見に行くから、あんたにも見せてあげる」
お姉ちゃんの言葉に、あたしはあいまいに頷いた。男と男、というのは、なんだか禁断の、と言ってはありきたりだけど、ふつうではない、触れてはいけないもののように感じた。あたしは部屋に帰って何気なくスケッチブックを開いた。そして男の顔を描いてみる――だめだ、ふだん女の子ばかり描いているせいで、骨格が女の子のそれになってしまう。諦めてベッドにもぐりこんだ。男と男。それは弾ける炭酸水みたいに目をくらませてあたしを想像の世界に引きずり込んでいく。
わたっちょとは、通っている塾が一緒で、仲よくなったらしい。授業の前にふたりきりで話すのが楽しいのだとみのりは笑った。風景画の制作を終えた部員たちはすることもなく心のままに描いている。あたしはと言えば櫛でみのりの髪を梳かしていた。図工で使ったリボンが余ったため、みのりの髪に結びたかったのだ。彼女はスケッチブックにこちらをふりかえっている女の子の絵を描いている。みのりが描く女の子はいつもセーラー服を着ていて、彼女に指摘したら、照れ臭そうにこう言った。
「十四歳がいちばん綺麗な年だから。子供でも、大人でもない特別な年だと思っているの」
みのりはセーラー服がよく似合う。首が長くて、きゃしゃだから、胸元の赤いタイと膝丈のスカートがぴったりと身体に沿って、似合うんだ。あたしの学校では登校したらジャージに着替えるのがきまりとなっている。だから制服は普段、朝の登下校や集会の時くらいしか着ない。ずっと制服でいられたらいいのに。あたしみたいに横の髪を垂らさないでふたつ結びをしているみのりほど、この田舎の中で制服が似合う人はいないのになあ、とあたしは思う。
みのりの髪はきらきらでさらさらで、夜に溶ける天の川みたいだ。ゆったりと胸まで垂れた黒髪は、あたしの寝起きに括ったままの髪とは全くの別ものだった。もともと上向きに生えている長い睫毛は瞬きのたびにゆるいカーブを描いている。反りすぎず、大きすぎない鼻はあたしを安心させる。富士山のかたちをしたうすもも色の唇に、リップクリームの膜が張られていていた。小さなキャンバスに並び良くおかれた彼女のパーツ。どうして同じ中学生なのに、こんなに違うのだろう。彼女を目の前にすると目がちかちかして、呼吸が速くなる。
あたしがこの部活に転部してきたとき、みのりはひとりで座っていた。他の部員からは、ハブられているみたいだった。みのりのことは、前からあたし、知っていた。おとなしくて目立たないけど、すごくかわいくて、密かにファンがいるような女の子。トイレや体育で一緒になるたびに、何気なく女の子の視線も集めてしまうような子だった。緊張しながら話しかけたら、彼女は嬉しそうに笑った。楽しげに話を聞き、そして、他の部員を、ブスなんか、相手にもしていない、と一蹴した。天使みたいで、ときどき悪魔みたいだったみのりは、あたしの心を一瞬で掴んで、揺さぶった。
「できたよ」
手鏡を渡すと、みのりは愉快そうに眺めた。アリスみたい、と涙袋をふっくらさせて、あたしを見る彼女。赤いリボンは肩にかかり、白い肌を惹きたてている。
「今度はカナにも結んであげるね」
みのりがそう言ってリボンを解こうとしたので、あたしはあわててそれを止めた。どうしてかわからないけど、あたしの胸はいっぱいだった。燃えるようなよろこびだった。それはいちめんの雪に猫の足跡を見つけた時みたいに、あたしの心をたまらなくさせた。みのりが目の前で笑い、満足し、あたしを気にかける ――それが、何より、うれしかった……。
リボンが似合う女の子には、生まれてきた価値がある。人を幸せにする価値があるのだ。
お姉ちゃんが待ち構えていたように手招きした。あたしは誰もいないのにあたりを伺って、なるべく少ない歩数でお姉ちゃんの部屋に入った。
「買ってきた」
それがお姉ちゃんの言っていた同人誌だということは、どんくさいあたしにも分かった。
「あげるよ、これ」
「えっ? お姉ちゃんは読まないの?」
「うちはもう読んだから」
お姉ちゃんから貰った一冊の本を、あたしはありがとう、と片手で受け取った。興味津々だと思われるのがはずかしかったのだ。締め切った部屋の中で表紙を眺める。あたしも知っているアニメのキャラクターがこちらを見て微笑んでいた。ふたりいて、どっちも男だ。この、白い髪の方はお姉ちゃんが描いていたのを見たことがある。
遭難してとある島に流れついた白髪の青年は、原住民の黒髪の青年に間一髪のところで助けてもらう。黒髪はやさしげだけど、すこしさびしそうな訳ありの男の子。それに比べて白髪の方は、自信があるタイプでがさつな感じだ。お姉ちゃんの絵と似ていた。お姉ちゃんはこういうものを見て練習していたのかもしれない。
黒髪が顔を近づけてキスをする。白髪は初めてのことにおろおろしている。白髪のアレが大きくなる。大きくなる! あたしはびっくりしてページを前に戻した。いきなり大きくなるもんなんだ。黒髪がそこに手を伸ばすーーと白髪が「汚いから」とうつむく。黒髪はかまわずにパンツを下げて、ソレを口に含む。そして、いきなり“出し”た白髪に言うのだ、栗の花の匂いがする、と。
あたしは乱暴にその雑誌を閉じた。ひゃー!と思った。ひゃーひゃーひゃー!こんなのって、ない。どうにかなりそうだった。みのりの「ふくらはぎ」のその先を見たような気がした。みのりはコレを知っているのだろうか。なんだかだんだん嫌な気持ちになってきた。だってきたない。それに、恥ずかしかった。
それなのに。
それなのに、だ。
それからあたしは何度も何度もその本を読み返すようになった。昔、お姉ちゃんに煙草やめなよと言われたママは、辞めたくても辞められないんだよ、と返した。おんなじだった。辞めたくても辞められない。変な癖がついちゃったみたい。しかしそのうちに慣れてきて、冷静になる自分がいることに気づいた。はじめてのひとりえっちも、難なくそれでイッた。他の子はこんなこと、しているのだろうか。あたしだけだったら、どうしよう? イッた後はなんにもできなくなる。うつ伏せになってぼーっとしているあたしに波が引き寄せてきて、ぱちぱちと弾けるような黄色い感覚をさらっていく。
男と男、なら、女と女もあり得るんじゃないかな。女同士だったら、どうやってやるんだろう。あたしはそう思った。思っているうちにまぶたが重くなってきて、ひとりでするコレには安眠作用があるってこと、誰に教えられなくても、わかるようになってくる。
わたっちょは可愛くて小動物みたいな子がタイプなんだって。あたしがそう言うとみのりはそうなんだ、と上履きのへりを押した。放課後、部活が始まる前の休み時間。あたしたちは美術室前の廊下の、少し段差になっている溝にしゃがんで喋っていた。それってみのりのことだよね! あたしが上半身で優しく小突くと、そうなのかな、そうだといいなとみのりも笑った。きょうのみのりは二つ結びじゃなくて、三つ編みにしていて、品のある横顔がもっときれいに見えた。
「カナは良いと思う人、いないの?」
「えっあたし?」
あたしはうーんと考えたが、出てこなかった。代わりに一軍みたいな男子を数名あげて、気になる男として話した。
「カナは目立つ子が好きなんだね」
「まあね」
あたしは爪のささくれをいじった。確かに目立たない子よりは目立つ子の方が好きな気がする。目立つ男子って、面白いし、ちゃんと自分の意見も言うし、声も大きいから。
「女の子だったら?」
「えっ」とあたし。
「わたし、女の子だったら、カナがいちばんすき」
みのりは微笑してあたしを覗き込んだ。ゆったりとしたまばたき。あたしはどきどきしてみのりの顔を見た。なんで、こんなにきれいなんだろう。あたしみたいに、目尻にそばかすもない。つるりとした肌に、つやのある髪。前歯の間に、すこしだけ空間があった。唯一の欠点ともとれるそれが、こんなにもこの子を惹きたてる。
「ありがとう。あたしも、みのりがすきだよ」
みのりはまた笑った。恥ずかしい、と。でもあたしから目をそらさないで、試すように見つめてくる。
あたしはどきどきしてうつむき、唾を飲み込んで、尋ねた。尋ねずにはいられなかった。
「女同士でも、恋愛ってできるのかな」
「……できるんじゃない?」
「そっか」
「男同士があるんだもん」
みのりがそう言ったので、あたしは驚いて顔を上げた。みのりもそういうの、見るんだ。あたしが尋ねると、彼女はきまり悪そうに、「スマホでイラスト調べると、出てくるよね」と呟いた。
「じゃあ、あれも知ってるんだ」
「あれ?」
「男の人のあれ、舐めるやつ」
「ああ……フェラチオ?」
言ったみのりがあたしを見て、ちょっと吹き出した。とたんにあたしたちは腹を抱えて笑った。がまんして押さえようとしても、おかしくておかしくてたまらなかった。カナ、変態! みのりの声にあたしは余計に笑ってしまう。みのりだって変態なんだ。よかった。別に、これ、おかしいことじゃないんだ。
「あたしのこと、女の中でいちばんすきなんだよね?」
「そうだよ」
「じゃあ、じゃあさ」
あたしは唇をいったん舐めて、うつむいてから、呟いた。
「二年生が終わるまでに、キスしてみようよ」
みのりは黙っていた。まずいことを言ったかな、と思った。そっと伺うと、彼女は上目遣いであたしのことを見ていた。
「いいよ」とみのり。
「ありがとう」
あたしはそう言って、彼女の艶のある髪を指で梳いた。
その日から、たくさん描いた。みのりが犯されている絵を、たくさん描いた。特に、彼女がフェラチオしているものは、たくさん描いた。みのりがいいように扱われる。それを考えるだけで、太ももがあたたかくなり、目がチカチカした。自分には彼女を自由にできる部位はない。でも想像の中のあたしにはあった。いつでもーー彼女を屈服させるそれがあたしには、あった。
描いたあとは、みのりに見せる。みのりはやだー、と甘い声をあげて笑うこともあれば、辞めてよと不機嫌になることもあった。このアレはね、わたっちょの。そう言うとみのりは顔を赤らめた。そして静かに、変態、といった。たしかに変態かもしれなかった。だってあたしの中では“アレ”はあたし自身のものでもあったのだから。
わたっちょに対してもあたしは“そういう風”にふるまった。もちろんみのりの絵を見せたわけじゃないけど。あたしは後ろの席のわたっちょに見せつけるようにわざと短い髪を束ねたり、屈んでブラが見えるようにしたり、スカートを膝までたくしあげたりした。何にも気づかないような顔で、ソックスの丈を調整すると、わたっちょは分かりやすく動揺した。ときどきみのりのことを話した。関係がない、という顔を保ちつつ、話を聞いてしまうわたっちょが、憎かった。なんであんたがあたしじゃなくて、あたしがあんたじゃないんだろうって、本当に憎かった。
「変態だよ、カナは」
ある日、みのりはあたしに無理やり書かれたスケッチブックの絵を雑に切り取り、鞄の中にいれた。少しうんざりした声だった。
「みのりに言われたくないけど」とあたし。
「好きな人としたいって気持ちは、いやらしいものじゃないと思うな、わたしは」
みのりはそう言ってあたしを一瞥し、続ける。
「その人を好きだと思う気持ちって、その人とセックスがしたい気持ちと、何にも変わらないでしょう。だから素敵なことなんだよ。変態とは違うのよ」
そうか。そうなのか。じゃあ、あたしの持っているこのよこしまな気持ちも、何らいやらしくない、素敵なものなのか。二月になっていた。みのりは誕生日を迎えた。十四歳。セーラー服が一番似合う歳。みのり、あたし、あなたのこと、屈服させたい。あたしの想いにも気づかないで、みのりは今日も伸びている猫のように目を細めて、窓の外に目を向けている。
人の思いというのは、どうしてこんなに確かじゃないんだろう。あたしはみのりの少女めいた部屋でミルクティーを飲んでいる。期末テストの後、みのりは二組までやってきた。周りの視線なんて気にもとめない様子で入ってきて、あたしに耳打ちした。「今日、誰もいないから、うちこない?」めまいがした。この子はあたしが断らないことを知っているのだ。そして横顔――自分の横顔が、あたしの後ろの席のわたっちょの目に美しく映ることも。泉のような唇から出るしっとりした音はあたしの耳を濡らすようだ。
みのりはあたしを天蓋のついたベッドに座らせ、覗き込んだ。あたしは注がれたミルクティーを飲みながら、目線を下に落としていた。キスするのかな。あたしは思った。みのりはもう、赤くならなかった。いつの間にかそういういじらしさが見られなくなっていた。
なぜ?
「みのりの部屋、綺麗だね」
「綺麗にしたから」とみのりは苦笑した。
「本がたくさんあるね」あたしはベッドの先にある本棚を指差した。
「好きなの。よく読むの」
みのりは背中からシーツに倒れ込んだ。それから肘を耳の横に付き出して、手の甲を額に乗せた。あたしは横目で彼女を見て、みのりのふくらんだ胸からお腹にかけてのまろやかな曲線をなぞる。みのりは声をあげて笑い、身体をよじる。みのりの部屋着からまっ白いふくらはぎが露出した。このまま力づくで押して、彼女の首や、耳や、唇にふれることなんて、すぐにできる。あたしよりも細くて小さいみのりだ。思うようにすることなんか簡単にできる。……それなのにみのりはさせなかった。線引きして、くすぐりの先には行かせなかった。ふくらはぎの先なんか、見せるもんか。あたしを誘いながらも、そういうふうに跳ね付けるようだった。
「わたっちょとはどうなの?」
「えー、知らない」
「会ってないの?」
「塾辞めたんだよね」みのりはあざけるように言った。彼女は仰向けで寝ころんでいるので、ベッドに腰掛けているあたしには表情を見ることができなかった。それに、ふり返る勇気もなかった。
「ふくらはぎはどうしたのよ、わたっちょのふくらはぎは」
あたしは投げ出されたみのりの足をぎゅっとつかんだ。みのりは足をばたばたさせて笑い声をあげた。少しだけ子どもっぽくて、かわいかった。「わざとやっているんだ」とあたしは思った。
「今は左藤くんの腰まわりが好きなの」
あたしはみのりの脚から手を離し、自分の膝の上で握った。みのりは起き上がってあたしの背中に手を置く。「今のカナみたいに」とみのりは言った。吐息から甘い匂いがする。
「触って確かめて、好きになったの」
「……」
「カナ」
あたしは答えなかった。答えたくなかった。
「キスして、カナ」
みのりはあたしの手をとって、微笑んだ。白くて小さな歯が覗いた。天使みたいな表情でお願いするみのり。可愛いみのり。誰もが自分を大切にしてくれると、信じてやまないみのり。しかし、彼女の顔はだんだん、こわばっていった。とうとう彼女は不機嫌になって、空いたふたつのカップに新しい紅茶を注ぎにいった。あたしはひとり残され、部屋をぼんやりと見渡した。本棚に収納された文庫本はカバーがついておらず、ほとんどが丸裸だった。同じ作家の本が一列に並んでいる。そのうちの一冊を、手に取る。
ぱらぱらとめくると恋愛小説のようだった。海外のものもあれば、日本のものもある。主人公は十七歳。身体の大きく魅力的なクラスメイトと恋に落ちる。誰も素敵だと思っていない。「私」だけが好んでいる、彼の肉体――ふくらはぎ!
すう、と血が引いていくのが分かった。
全部うけうりだったんだ。
「……」
みのりはキスをしてくれなかった。当たり前だ。あたしのことなんか好きでもなんでもないんだから。お姉ちゃんみたいに本当にあたしを愛しているわけじゃない。あの子は、自分が好きなんだ。本の主人公みたいに大人びた自分が好きなんだ。わたっちょのことも、あたしのことも、左藤のことも、本当は全然好きじゃない。いつだって甘やかで賢げな自分が、大好きなんだ。
文庫本を戻すと、本棚の上に時計が置いてあるのに気がついた。一定のリズムを刻む、陶器でできた天使の置時計。手に取って裏返すと、値段のシールが貼られていた。剥がそうとして途中で諦めたのか、半分だけ、そのままにされていた。なんか、もう、
「要らないや」
少し笑って時計を戻した。天使が階段を駆け登ってくる音が、聴こえる。