愛日
先生の体はわたしがつくる。そう意気込んで始めた料理だったけど、七日目にしてもう、がたが来ている。なんだってこんなに手間がかかるのだろう? せっかちなわたしはいらいらしながらクックパッドを覗き込む。油の取りきれていないぬめぬめとした指で触ったせいで、端末の画面が汚れてしまう。ああ、と声を漏らす。ああ、もう! どれもこれも、先生のせいだ。先生が、メロンパンばかり食べているから。コンビニのメロンパンだけで、食生活を成り立たせているから。
先生はもう遠慮しない。来るときは「行きます」の四文字を送ってくれる。先生は長文になると句読点が多くなってしまうので、これくらいの文量がちょうどいいと思う。返信を忘れていたことに気づき、「OK」スタンプを送り返した。
今日の夕食! 鍋焼きうどん。唐辛子とかぼちゃと玉ねぎの天ぷら。レタスときゅうりとトマトのサラダ。味噌おでん。梅とゆかりの小さめおにぎり。狭いキッチンを活用しながら作業する。作り終えたものは冷蔵庫に入れるか、テーブルに置く。東京の部屋は小さくて、三年経った今でも慣れることができない。お金持ちになったら、絶対に大きなキッチンのある家に住もう。そう心に決めながら、味噌だれに砂糖を混ぜていく。
先生は、十八時に来た。予備校の先生でも定時近くに上がれるんだなあ。そう思いながら来客用のスリッパを差し出す。体格はいいが、ちょっと不健康な太り方をしているその中年男は、いやはやいやはや、と呟きながら弁明するようにわたしを一瞥した。責めているわけではないのに、いつもいつも、窺うようにして話しかけてくる。
「いやね、会議が伸びてしまった」
「いいよ、そんなの。ご飯できてるよ」
先生はソファの足元に鞄を置き、ハンカチを取り出してわたしを見た。わたしは洗面所のドアを開け、使っていいよと話しかける。洗い終わったら消毒液つけてね。先生は素早く立ち上がり、はいはいはいと言いながら吸い込まれていった。その挙動不審な言動が面白くてちょっと笑う。
先生が家庭を持っているなんて想像がつかない。中学生の娘が一人。小学生の息子が一人。晩婚なのだ。写真を見せてもらったら、ぜんぜん可愛くなかった。先生に似ているのだ。かわいいね、先生に似ているねと言うと、彼は少し嬉しそうにしたっけ。
先生は、今日もがつがつと食べた。あんまり食べるものだから、自分の分も少しあげた。先生が夢中で食べるのを見るのが、わたしは好きだ。おいしい? と聞くと、おいしいと返ってくる。おいしい。その言葉の響きだけで、こちらが優位に立てるような気がしてくる。先生の口に入るものはゆっくりと消化され、身体全体に染み渡ってゆく。習慣になれば肌が、髪が、心が、出来上がってくる。生きているのか死んでいるのかも分からない顔色の先生が、いつまでも健やかに生きられればいいなと思って、わたしはご飯を作るのだった。めげそうになりながらも、結局。
先生は不能なので、わたしたちはたまにしかセックスをしない。たいていは先生が触って、それで終わる。先生とこうなるまで、あそこがこんなにままならない器官だなんて、わたし、知らなかった。わたしの知っている男の子たちは、自分の意思なんてまるで関係ないようにそれを屹立させたからだ。よっ、大将、来ましたぜ! しかしいざ挿入しようとすると、しょんぼりしてしまう先生のあそこ。柔らかくて頼りない、はんぺんのようなそれが押し付けられると、わたしはなんだか怒る気もなくなって、打ち上げられた貝みたいに静かに横たわるのだった。
先生が帰った後は、いつものように出勤する。繁華街から少し離れた静かな通り道に建つ、比較的新しいビル。五階に行き着くエレベーターの中で、二日酔い防止の錠剤を噛んだ。開店前のホールがわたしは好き。照明もムーディじゃなくて、わざとらしくないから。横髪を刈り上げたオーナーと、スリットの入ったタイトワンピを身体に貼りつけたみなみがこちらに気づいた。挨拶を交わすと、みなみがか細い腕をからみつかせてくる。
「なっちゃん! また佐佐木さん来るんだってえ……」
「相当みなみのこと気に入ってるんだね」
わたしはみなみの羽のようなまつ毛を見て微笑んだ。彼女は険しい顔になった後、がっくりと肩を落として、
「いやだあ。中国の文学とか全然分かんないもん。分かんないって言うとご丁寧に講義し始めるんだよお」
と言った。ころころと表情を変えるみなみに優しい気持ちになりながら、わたしは控え室で支度をする。ここに来れるだけ、いいと思う。来れるだけのお金と時間の余裕があるのだから。あの人には……先生には、ない。それにあのような話し方では、女の子たちの相手にもされないだろう。わたしは先生の猫背を思い出して少しだけ切なくなった。
「最近は魯迅ばっかり読まされて、もう頭おかしくなりそうだよ!」
そう言ってみなみはしばらくの間のけぞって座っていたが、オーナーの呼びかけに返事をし、つんと顎を上げ歩いていった。それが知的に見せるコツなのだそう。きょうもみなみの客は顔を明るくさせて彼女を迎えるのだろう。苦労を知らない子供のような表情。先生とは、ぜんぜん違う。先生の背負っているものとはぜんぜん違う表情。けれども、わたしは先生に今以上のものを求める気持ちには、なれなかった。先生は、先生のままでよかった。先生はこれからもずっとわたしを当てにしていればいいのだ。そう本気で思っていたのである。
⭐︎
ラウンジで働き始めて一年になる。大学を辞めても、もう一年になるだろうか。シフトが入っていない時はアパート近くのホームセンターに足を運ぶ。ぼんやりと魚や昆虫のコーナーを見たり、可愛い文房具を買ったりして過ごす。その日もわたしは虹色に光る小さなグッピーを指で叩き、脅かしていた。グッピーはアホみたいにビクッとして一旦は拡散するのだが、やがて群がり、統一された方向へ進み始める。この狭い水槽で、誰にも買われることがないのにのうのうと生きているのが、気に食わない。緊迫感を持ちなよ。自分に言い聞かせるみたいに、そう呟く。
店員の姿が見えたので、何事もなかったようにその場を離れた。ホームセンターは面白くて、特に画材コーナーと犬猫のコーナーが心躍る。値札のつけられた不細工な犬猫を見た後、画材コーナーに置かれた落書き用のスケッチブックをじっくり読んだ。訪れた人のイラストや文章が、コラムみたいにまとまっていて面白い。大きな画板や様々な細さのペン、マンガの原稿用紙などを見て、上手くもない落書きをスケッチに加え、店を出る。
夕方になると食材を買って帰る。最初の頃、先生は食費と少しの生活費を与えようとした。かぶりを振ると、少しほっとしたような顔をしたのを覚えている。若い女にたかられるのが怖かったのだろうか。その頃から何となく先生を、守らなければならない、優しくしなければならない存在と思い始めたのだった。結局食費は貰うようにしたので、自由に食材を買うことはできているのだけれど。
「なっちゃんにも、反抗期って、あった?」
その日も先生は夕食を食べにきて、そんなことを聞いた。白米。豚汁。アジの塩焼き。サラダ。麻婆豆腐。きゅうりとだいこんの漬物。先生を見上げると、彼の魚のような大きな目にぶつかってしまった。わたしは少し微笑んで、
「あったよ、わたしにも」と言った。
もちろん、反抗期なんかなかった。反抗するほど、わたしの家族はわたしを気にかけなかったから。お婆ちゃん家に家出をして困らせたこともある、とテキトーな作り話をすると、先生は興味深そうな顔でわたしを見た。お婆ちゃんだって。父の顔さえ知らないのに。わたしは自分のでっちあげたウソに思わず笑ってしまう。
「皆あるのかもねえ」
先生は安心したように頷いて、娘の反抗期について話し始めた。わたしは視線を落とし、アジの身の部分をつつく。先生が家族の話をする時、なんとなく、見てはいけないような気持ちになるのだった。先生はそれにも気づかず、「あっ、おいしいですねえこれ」とか「最近はマジ無理とか言われるんだよね」とか言って食べ続けている。
皿を洗っているときも、先生は後ろに立ってうろうろしていた。家でもこうして役に立たない立ち回りなのだろう。そして手持ち無沙汰のままの腕をだらりと下げ、家族の話を続ける。わたしはため息をついて先生に向き直り、
「家はもういい」
と膨れた。
先生は目を大きくさせると、身体を近づけてきたーーので、わたしたちは抱き合うかたちになった。先生と抱き合うと、何だかファニーな感じになる。ちぐはぐでこわごわとしていて、おかしみがある。照れ臭さから、わたしは先生の肩に鼻を擦り付けたまま、両手を背中の方に置こうか、腰の方に置こうか考えていた。少し俯いて額を胸板に押し付けると、自然と肩に手を添えるようなかたちになって落ち着く。
「これ」
先生はわたしの手をとり、股間を触らせた。思っていたより硬くて思わず笑ってしまう。「したいの?」と尋ねると、うんと答えたので、そのまま崩れるようにシンクにもたれかかった。いつも先生とは、その場で始めなきゃいけなかった。先生の勃起は時間との問題だからだ。かじりつくように口付けると、先生はわたしをより強く押しつけた。お腹を見られるのが恥ずかしいのか、上の服は脱がずにベルトを外している。わたしはうっすらと口を開けて、彼を見上げた。目が合う。入ってくる。そうして太い二本の指が、わたしの口内をまさぐるーー
果てた後、わたしは久しぶりの射精にはしゃいで、コンドームを透かして眺めていた。先生は照れ臭そうに微笑んで、わたしの下着を拾い集める。その姿を見て、なんだか胸がきゅっとなった。先生は今夜も家に帰って行く。わたしの下着を拾ったように、息子の靴下を拾い、わたしに微笑みかけたように、奥さんに微笑む……。
嫉妬したいわけじゃない、とわたしは思う。嫉妬しているわけじゃない。ただ切なくなるだけだ。夕食が用意されない先生。娘に疎ましく思われる先生。先生が大事にされていないことが、ただ、切なくなるだけだ。
⭐︎
みなみがラウンジを辞めると聞いたのは、それからまもなくだった。表向きは夢を叶えたいという話だったが(芸能の道に行く子もいるから)、佐々木さんに水揚げされるからだということは、わたしも知っていた。でも、こんなに早く辞めるとは思わなかった。水揚げって! 閉店後、控え室でみなみは声をあげて笑った。そんな大層なものじゃないよ、と。わたしは彼女の形のよい、白く尖った顎をぼうぜんと眺めている。
「ただね、疲れちゃっただけ。こういうの、いつまで続くのかなって、思っただけ」
それに、彼、地主なのよ。あたし、働かなくていいってことじゃん? そう言ってみなみは舌を出して笑った。わたしは身を乗り出して彼女の紅い舌を吸った。彼女は顔を美しく傾けて目を閉じていた。しばらく口づけ合い、わたしの指が彼女のお尻に辿り着いたとき、「なっちゃん」とみなみはいった。
「学がない女は、男にすがることしかできないね」
みなみは微笑して離れ、コートを着込んだ。少し瞳が潤んでいるような気がした。窓の外ではさやさやと冬の雨が降っていた。黒々とした夜は、食い込むようにわたしのうなじを冷やしていく。
「それじゃお疲れ、なっちゃん! 真っ直ぐ帰るんだよ」
みなみが送迎のボーイと店を出たので、わたしはひとり取り残された。言われなくても、真っ直ぐ帰っている。真っ直ぐ帰ることが、正解なのかも分からないまま。わたしはいつ死んでもよかった。わたしの生きているこの時間と、わたしが死んでも続く時間のことを考えると、生きるということがとたんにばかばかしく思えてくるのだった。
みなみは生きたいのだ。生きたいから、佐々木さんと生きることを決めた。人形のように愛でられるよりも、これから続く人生に対する漠然とした虚無の方が、みなみには恐ろしかったのだ。生きるために前に進む。みなみは未来を向いている。生きることに前向きになっている。
でもわたしはそうはなれない。あなたはどうして生きたいのですか? そんな風に聞かれても、答えられない。答えるため。そう、答えるために先生との関係を始めたのではないか? あなたは生きたいですか? はい。どうして生きたいのですか? それは、先生にご飯を食べさせるため。先生を支えるため。先生を保護して自分が必要な人間だって、言い張るため。だから先生にはいてもらわないと困るんです。これからもずっとずっと不幸せでいてもらわないと困るんです。
みなみが辞めてもラウンジは続くだろう。あれだけ美しく、明るく、人気のあったみなみがいなくなっても、時間は淡々と過ぎてゆく。わたしたちは彼女の不在に慣れるだろう。そしてゆるやかに忘れていく。彼女のヴィトンの香水も、セリーヌのラゲージも、マノロのハイヒールも、あのとろけそうな舌も、とうとう、覚えているのはわたしだけになる。
そういう風にされるのがいちばん怖かった。忘却が抗えないものならば、初めから必要とされずに死んでいく方がよっぽど恥ずかしくないのじゃないか? しかし結局死ぬのは怖くて、必要とされないのはもっと怖くて、いつもいつも、先生を頼りにしてしまう……。
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今日の夕食! 生姜焼き。たまごとにらのすまし汁。ほうれん草のおひたし。芋の煮っ転がし。いちご。先生は美味しいですねえと身を乗り出し、わたしを下から覗き込んだ。そうだねえ、とか、なるほどねえ、とか、お邪魔しますよお、とか、先生は変なふうに声を伸ばして話しかける。この前は綺麗な柄のついたマッチをワイシャツの胸ポケットからすっと取り出して、「どうですかねえ」と得意げな顔をしていた。先生はいつも少しずつキモくて、わたしはそれがすきだった。
「なっちゃんはクリスマス、彼氏と遊ぶのかい」
「彼氏いないよ」
「いないの? でも、モテるでしょう」
大袈裟に首をゆらゆら動かして尋ねてくる先生に、わたしは少しいらいらして答える。
「モテないよ」
さいきん、先生は落ち着いていた。初めて出会った時みたいに、切羽詰まっていなかった。家庭が落ち着いているのだろうか? 奥さんとうまく行っているか、娘に口を聞いてもらえたか。先生の心を引っ掻きまわせるよう、ホームセンターの店員を引っ掛けていたのだが、先生からのメッセージが「いきます」から「今日、行っても、いいですか?」になったのに気づき、慌てて避妊具のゴミを持ち帰らせた。そんなことで傷つくほど、先生は余裕がないわけではないのだった。
「わたしのこと好き?」
そう聞くと、先生はほうれん草を口に運びながら、「好きですよ」と真面目な顔で言った。どれくらい?と尋ねると、霜が降りた朝くらいと言う。「キモーい」わたしは笑って、言葉を続けた。
「わたしは先生のこと好きなのかな?」
「それは私には何とも言えないが……」
先生はわたしの投げやりな声色の手前、少しあせるようだった。先生の腕を取って、ぬいぐるみを抱くように胸に収める。先生の皮膚からはすこし、塩からい匂いがした。わたしの皮膚からは、どんな匂いがしているのだろう?
「わたし、ときどき、先生の奥さんになりたいの」
「……と言いますと」
「わたし、イルミネーション見にいきたい。先生と」
見るだけでいいの。行くだけでいいから。わたしはテレビを意味もなく凝視しながらそう続けた。先生は箸を置いて、わたしの短い後ろ髪を撫でた。撫でられながらわたしは、今、世界でいちばんかわいい顔をしているな、と思った。
先生が肩を引き寄せたとき、わたしはくすぐったい気持ちになって下を向いた。そっと見上げると、先生の喉ぼとけと顎が見える。剃られた髭が冬の星座みたいに浮かび上がっていた。連れていってね。約束よ。先生はわたしを見て口をうっすらと開けた。言葉を待つが、音は出てこなかった。約束よ。もう一度言うーーすると呼応するように先生は微笑した。ゆったりと時間が流れる。微笑んでいると、みなみとは異なる大きな唇が降ってくる……
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先生はイブを指定した。平日だからだ。
鏡の前で均等な形の眉毛を書く。下まぶたに薄い粘膜カラーをいれ、ディオールのピアスを挿す。先生と部屋以外の場所で会うのは初めてだった。ウールのワンピースを着てマフラーを巻く。七センチのパンプスを履き、内側に巻いたボブをオイルで整える。アルマーニの香水を宙にプッシュして、くぐるように身体にまとわせた。
待ち合わせ場所は、人通りの多い駅だ。しかし行き先がイルミネーションなので、若い女と中年の男には似つかわしくないかもしれない。わたしはなんだか意地悪な気持ちになる。先生が娘のような年齢の女と歩いているいやらしい人間として人の目に映るのを考えると、わたしはほくそ笑まずにはいられないのだった。もっと嫌なおじさんになってほしい。もっと気持ち悪いおじさんになってほしい。もっと虐げられて、もっと軽蔑されてほしい。そうすれば、先生はわたしのものになる。わたしだけのものになるのに。
雪がちらちらと降っていた。防寒されていない耳は、感覚がなくなるくらい冷えてしまった。わたしはマフラーに顔を埋め、スマホをちらちらと眺める。しかし、先生は来ない。十分経っても、二十分経っても、来なかった。若いカップルが目の前を通り、イルミネーションの方向へと肩を並べて歩いていく。男は女の右手を自然にコートのポケットにいれた。みなみも、あの客とこういった場所に来るのだろうか? ふつうのカップルとして、ふつうの女の子として、ああいうふうに笑うのだろうか。笑えるのだろうか。
結局一時間しても連絡はなく、先生は来なかった。わたしは肩をすくめて引き返す。不倫とはそういうものである。引き返しながら、先生を思った。仕事が忙しくなったか、クリスマスパーティの日が急遽イブに変更されたか。最悪のパターンは、わたしとのあれこれが家族にバレたか。いや、それはない、とわたしは思う。第一夫の不貞を疑うほど愛しているなら、コンビニのメロンパンなんか持たせやしまい。
わたしは内心ほっとしていた。先生が来なかったことに。そして先生が来てくれなくても、それほど傷ついていない自分に。先生をイルミネーションに誘ったとき、わたしは甘美なうわごとを言っていたように思う。先生の愛おしそうな顔を見たいがために、可哀想な自分を演じていた。今回先生と会って、先生の腕にもたれて、甘やかな気持ちでばかばかしい無数の電気を見ていれば、きっと先生を好きになっただろう。先生の家庭を憎んだだろう。先生に深い口づけをせがんだだろう。そうなれば、その先はもう、目に見えている。わたしは部屋に戻って化粧を落とし、そのままベッドにもぐりこんだ。少しだけ、涙が出た。どうして泣いているのかは分からなかった。目を擦ると翌朝腫れぼったくなってしまうので、そのまま流して、眠りについた。
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先生から連絡はなかった。これまでも夕ご飯を食べるか、食べないかの連絡しか、やりとりをしていなかったので、食べに来なくなったいま、こちらから送る内容もなかった。わたしはぼんやりと過ごしていた。ラウンジにも行く気がなくなってしまい、休みがちになった。もともとみなみがいたから頑張れていたようなもので、続く欠勤によってキャストやオーナーともうまくいかなくなった。わたしは意味もなくホームセンターに通った。そしてペットショップや園芸コーナーをうろうろする生活を続けた。
その日は日曜大工コーナーで釘や木の板を見ていた。わたしはかつて建築学を学んでいたのである。大学生だろうか、数人のグループが設計に使う文具を眺めていた。どうやらもうオンライン授業ではないらしい。わたしはつかつかと彼らの後ろを通り過ぎる。
入学したとき、大学の授業はリモート形態だった。わたしはそれが不得意だった。もともと自分の不注意な性質もあり、提出物の出し忘れが多かったのだ。それに加えて書類を読む、ということが人よりもうまくできなかった。目を通すことはできるのだが、何が大切なのかわからない。時間がかかりすぎてしまう。そういうわけで落第したわたしは、半期だけ休学し、翌年の春から心を入れ替えようとした。が、新しい学期になっても、できなかった。ほとんどの課題が提出できていなかったわたしは、教務課に強く罵倒されながら、二度目の成績不十分の通知を受け取った。
先生は、そんなわたしを知らない。甘すぎると叱られたわたしを、上手く生きられないわたしを知らない。知らないでいるのは、先生だけだった。先生との関係だけがわたしがコントロールできる、唯一の事象だった。
たぶん、だからこそわたしは、先生に対して自由に振る舞うことができていたのだと、感じる。
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十二月二十八日、午後六時三十分。もともと授業のコマが少ないのだろうか。先生は予備校から出て肩にリュックを背負い直し、とぼとぼ歩き始めた。背は高いが、コンビニ食やビールのせいで不健康な太り方をした中年男。かきあげていた前髪をきっちりと七三に分け、髪を黒色に戻して小綺麗な格好をしたわたしはコーヒーショップの席から立ち上がり、その跡をつけていく。
ついに、やっちまった。こういうことはしないタイプだったのだけど。先生の後ろ姿を目の端で捉えながらわたしは歩いている。尾行だ。しかも、相手はイケメンでも可愛い女の子でもない。冴えないおじさんの尾行である。
先生は尾行されているなんてつゆ知らず、少し右に傾いて歩いていく。わたしは思いの外落ち着いていた。胸は高鳴っているが、血液がさらさらと身体を巡っているのが分かった。真っ青な血がさらさらさらさらと、降りてゆく。
わたしのことを先生は忘れるつもりなのだろう。なかったことにして、また家庭を築いていくのだろう。それはわたしがいなくなるということだ。わたしがこの世界から消えるということだ。わたしを気にかける者はもういなくなる。みんながみなみを忘れていったように、先生も、わたしを忘れていく。
そんなことになるくらいなら、最後に爆弾を落としたかった。それが大きければ大きいほど、忘れられなくなるだろうと思った。とどのつまり、わたしは、先生の家に押しかけるつもりだった! 先生の家が予備校から近いことは知っていたから、最後に一目でもわたしの姿を見せようと思ったのだ。
先生が大手の建築会社が建てたような安上がりの一軒家に入っていくのを見たわたしは、三十分ほど散策した後、インターホンを鳴らした。前髪に触れ、髪の乱れを直す。出てきたのは先生の妻らしき女だった。顎に梅干しのようなしわが寄ったその太った女は、訝しげにわたしを見た。わたしはにっこりと笑って保険の営業と偽り、
「来年度からこちらのエリアを担当させていただくことになりました、川嶋です」
と言った。ウソばかりがすらすらと出てくる。女は冷静にわたしを見ていた。わたしは自分の醜さを感じながらもにこやかに立っていた。こちらを覗いたあの男は驚愕の顔をしてこちらを見、向かってくる。
男は妻に自分が応対する旨を伝え、わたしを玄関の外に促した。わたしはぼんやりと男の顔を見ていた。見ないうちにすっかりとたくましくなっていた。いやたくましくなったのではなく、これが家庭を持つ男の顔なのかもしれなかった。
「どういうつもりだ?」
「小島さんこそ、どういうつもり?」
男はうろうろと左右に歩き、苛立たしく顔を顰めた。来ないだろう、常識的に、と。わたしが少し涙ぐむと、彼は狼狽して頭を掻いた。わたしは鼻先が丸く、唇も厚い。わたしが俯くと、しょげた子供のような印象を与えること、責めている側に罪悪感を感じさせることを、わたしは昔から知っていた。ほんとうに、昔から……。
「悪かったと思っているよ……しかし予定が入ってしまって」
「奥さん」とわたしが言うと、男は顔を強張らせた。分かりやすい。分かりやすく恐れている。嘘をつけないのなら、若い女となんか遊ばなければよかったのに。
「奥さん、わたしのこと、見当ついているみたいね」
「まあ、ちょっと、いろいろね」
「これで終わりかあ」わたしは伸びやかに笑った。男は何とかして微笑みを見せている。ゆっくりとその場で足踏みをする様子が、早く終わらせたいことを顕著に表していた。
「最後にぎゅってして」
わたしの言葉に男は戸惑った。一度塀の外にわたしを向かわせ、それを見送るていで、素早く抱きしめた。男の汗の匂いが、あの日のキッチンでの情事を思い出させた。好きだったなと思った。好きか、嫌いかで言ったら、きっと好きだったな、と思った。だから、
「わたし、先生のことほんとうに好きだったの」
わたしは彼の胸に鼻を擦り付けてそう言った。先生も同じ旨を述べてくれるのを望んだ。しかし彼が言ったのは、甘やかな言葉ではなかった。夏美、と彼は呼んだ。
「君には悪いことをした。分かっていながらこんなことを続けて……。君はまだ分からないかもしれないが、君が好きなのは、私ではないんだよ」
先生は繰り返した。それはね、つまり、つまり。
「同じくらい不幸であれば、誰でもいいということなんだよ」
あたりがしんとしていた。男は窺うようにわたしを見た。わたしはにっこりと笑っていた。わたしがあまりにも明るく振る舞うので、彼は強張った肩の力を抜いたようだった。
その通りだった。わたしは先生に食べさせることで、先生のお世話をすることで、居場所を見つけようとしていた。先生が不幸であれはあるほど、わたしがうまく立てるような気がしたから。生きてもいいって思えるような気がしたから。だから同じくらい不幸な人間を、先生を、利用した。
でもそれがどうしたというのだろう?
先生は知らない。
わたしが退学になったこと。ホームセンターの店員と浮気したこと。冷凍食品を手作りだと偽って出していたこと。違法の会員制ラウンジで働いていること。会話ができなくて指名が取れないこと。そのせいでたくさんのお客さんと寝ていること。家族と絶縁していること。
建築を、諦めたこと。
夢を、諦めたこと。
大学を辞めて働くことになったわたしの背景を、先生は知らない。何もかもが上手くいかないわたしの頭の悪さを、先生は知らない。みなみに恋していたことを、先生は知らない。想像できない。考えの及ばない人間が、この世でいちばん醜い。それなのに先生は何も知らない。何も見えていない。見ようとしない。
「わたしのこと、忘れないでいてくれる?」わたしは尋ねた。
「勿論忘れないよ。なっちゃんはずっと私の大切な友人だ」
先生に教えてあげたかった。
不幸には底がないこと。
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自販機で買った熱いココアを飲むと、粉っぽい、どろりとした甘さが舌に残った。無理にがつがつと飲んだせいか、喉が焼けるように痛い。コートの下に着込んだ白いブラウスに茶色いしみが広がった。構わず飲み干し、乱暴に駅のホームのゴミ箱に捨てる。
えりあしに冷たい空気が刺さって、思わず指で押さえる。弾力があり、押し返された。オーナーに連絡をしなければ、と思った。それに、先生が“切れた”のだからホームセンターの彼も呼び戻さなければ。陽が刺して、降り積もった雪がぎらぎらと反射していた。周りにはちらほらと講義帰りだろうか、女子大生のグループが見える。課題の話。卒論の話。彼氏の話。ゼミの話。卒業旅行の話。入試の話。教授の話。バイトの話……。
なんでことのない普通の女子大生の話ーー
“ただね、疲れちゃっただけ。こういうの、いつまで続くのかなって、思っただけ”
わたしは後ろを振り返った。フェンスの向こう側では、先生の家庭が継続されている。わたしのことを忘れようと、誰もがわたしの名を出さないように心掛けている。わたしはじきにいないものになる。忘れられていく。
わたしにはもう、何もない。
反射する白い光に顔をしかめ、深く呼吸をした。
特急列車が物凄い音を立てて近づいてくるのが、見える。