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マザーの腹心  作者: mn
1/1

桐谷 1



「あの子の遊び相手になってくれないか」

挨拶もそこそこに、父はそう言った。

久しぶりの着信に期待をしていたわけでもなかった。

「俺がいなくても、あいつは友達なんてよりどりみどりでしょうに」

欠点らしい欠点のない父が電話口でみせたわずかな沈黙は、何かがあることをはっきりと物語っていた。いや、父にだってわかりやすい欠点はあった。薬缶から熱湯を注げば美味しいご飯ができる6畳半で、桐谷は電話越しの父が抱える「何か」を思って薄く笑っていた。

ーー愛人に産ませた子供に、大事な大事な跡取り息子のことを相談してくるなんて、並の人間の神経ではできないよな。

「どうやら最近、悩んでいるみたいなんだ。あの子の性格だ、私が心配しても大丈夫としか言わない。親には言いにくいことでも、同じ歳で身内のお前になら、相談できるんじゃないかと思ってな。さりげなく聞いてもらえないだろうか。解決してくれとまでは言わない。私に内容を教えてくれれば、こちらで対応するから」

ーーなるほど。大事な出来の良い実子には聞きにくいことでも、同じ駒でも妾の子なら気安く頼めるってことか。

被害妄想だと、うがった見方をするんじゃないと、昔、母親がよく言っていた。まるで母が自分自身に言い聞かせているようだったので、幼い桐谷は頷くふりをしてみせて、それから人好きのする笑顔を作って大人を安心させた。そのくせが大人になっても抜けない。

「大事な跡取りですもんね。いいですよ。真壁に会ってみます。でも期待はしないでください」

「変なことを頼んで悪かったね」

通話を切って、感傷に浸る間もなく、向かいから差し出された割り箸を受け取った。

「ちょうど3分です」

野球帽を目深に被った男が、無愛想に呟いた。蓋をめくれば、香ばしい匂いと湯気が狭い部屋の中に広がった。

「うまそう。あ、待って写真とるから」

携帯のカメラで収めた、ちゃぶ台の上の2つ分のカップラーメン。

「この貧困の有様を経理に送りつけてやろう」

「電話、神坂さんから?」

桐谷は首を横に振った。

「いや。こっちの話」



世の中には壊せるものと壊せないものがある。

この仕事につくようになってから、あらゆるものの判断基準はそれによるようになった。

このボロアパートは一日かからず壊せる。道ゆく通行人のほとんどは壊せる。尊敬する気持ち、変わらない愛情、誰にも打ち明けられない秘密、どれも踏みにじって凄惨な形に変えることができる。けれど、井尾は、桐谷だけの力では壊せない。神坂は、井尾を百年に一度の破壊に愛された子と称し、そして桐谷に預けることに決めたと言って笑った。


縁もゆかりもない地方の郊外にある美術館、軋む床板の上で二人は立っていた。天井の高いこのフロアは、寒くも暑くもない完璧な空調が効いていて、白い壁には数点の絵が等間隔に掛けられていた。

携帯の画像と見比べ、そのうちの1つの前で桐谷は立ち止まった。背後を歩いていた井尾の足も、必然的に止まった。

「この絵?」

帽子のつばを心持ち上げ、井尾がしかめっ面をする。

「簡単すぎて萎えたって顔をするな」

「でかくもなければ、鉄の塊でもない」

額縁に手を添える。かすかだけれど、電子音の鼓動が指先を揺らした。

「それでも警報は鳴る」

引き剥がせば埋め込み式の警報がなり、警備員が駆けつけ、数分もしないうちにさらなる追っ手が到着し、館内中にばら撒かれるだろう。それでもやらなきゃいけないから、仕事ってのは辛い。

額縁を床に叩き落とし、ガラス片をかき分けて中の紙を奪い取った。しっとりした肌触りのそれを乱暴に丸めて筒状にして、金属バッドを背負っている井尾の手に渡した。

「これはお前に託す。足止めも頼むな。処分は合流地点だ」

井尾は小さく頷くと同時に、走り去って行った。頭をかち割るようなサイレンを浴びながら、桐谷は井尾とは真反対の順路を進んだ。

数メートルある巨大なキャンバスを見上げる。穏やかな女神が、ふくよかな体の前に瓶を抱えて微笑んでいる。見るからにプレミアのつきそうな絵はいくらでもあった。その中で神坂が指定したのは、児童コンクールの受賞作の優秀賞作品だった。年齢相応の画力で描かれた家族との憩いの風景。はみ出た絵の具と、下書きの鉛筆の線の残る不完全さが微笑ましくもあった。

つまづくまで、足元の小さな石には気づかない。

コートから支給品の銃を取り出すと、銃口を女神に合わせる。弾を向けられても柔らかな表情を変えない。対象はどれでもよかった。あの絵よりももっと価値があると皆が信じてやまないもの。井尾の足止めがあっても、全てを破壊できる余裕はない。だから、数点置きに破壊していく。どうしてこの絵が被害者として選ばれなくてはならないのか、加害者の桐谷本人ですら知らない。どうしてその隣りの作品は桐谷の興味から外れ、無事に生き残ることができたのか。まるで人生みたいだと思った。誰もが幸せになるべき理由も、誰もが悲しみに襲われる義務を背負っているわけでもない。ただ、選ばれてしまったのだ。マザーの標的に。

束になった足音が、廊下に響いている。追いつかれる前にあらかじめ把握していたルートでロビーに出て、解放的な演出のガラス戸に銃弾で粉々にすると、一目散に逃げ出した。


「あ、神坂さん?俺です。指定された絵、これから処分します。あの絵だけがピックアップされることもないですよ。あ、色々壊しちゃったんで、いつも通りフォローはお願いします」

メッセージを吹き込み終われば、携帯をコートのポケットへ突っ込んだ。

落ち合わせ場所の高台の公園には、すでに井尾が立っていた。適当にベンチなりブランコなりに座ればいいのに、井尾は所在なさげに砂場の横でポツンと立っていた。

それでなくとも、派手な色のスカジャンを羽織って目つきが最恐な井尾は、昼間の公園には大変似つかわしくなかった。

「お前・・・また暴れたのか」

バッドの汚れを見つけて、桐谷は嫌な顔をした。

「しつこかったから」

その汚れを乾いた砂に吸い込ませ、上着の袖で拭う。井尾にとって、帽子とバットの優先順位が高いことは今に始まったことではなかった。

「で、餌は?」

「・・・」

「おい、何のために奪ったと・・・」

「ポケットの中に入れたの思い出しました」

八つ折りにされた画用紙を広げれば、美術館の照明の下よりもずっと頼りない絵が現れた。

「なぁ、お前にはこれどんな風に見える?」

「フツーの絵」

「だよな」

桐谷は、絵を広げた状態で砂場に置いた。二人でその絵をのぞきこみ、やがて井尾はそっと視線を逸らした。

「だから、じゃないですか」

井尾の聞こえるか聞こえないかの呟きに、桐谷は顔を上げた。

「だから?」と、桐谷が聞き返すと、「だから」と井尾が憮然として答える。

「だからだからはもういいんだよ。つまり、どういうことだよ」

詰め寄られた井尾は、野球帽のつばを触った。自分の意見を言葉で表現するのが苦手な井尾が、バツが悪くなった時にしばしば見せるサインだった。

「フツーのフツーが、苦しくなる」

「フツー、ねぇ・・・」

井尾がたどたどしい手つきでマッチ棒を擦って、火をつけた。オレンジ色の光は優しげに揺れて、あっという間に幼い子供の絵を真っ黒に変色させた。不思議と罪悪感はなかった。風に舞った塵の一部が、丘の上から四方に飛び散っていく。

「似たような絵なら、いくらでもあっただろ」

燃え滓を足で踏み潰しながら、桐谷は言った。

「・・・フツーの人なんてそういませんよ。みんな意識してか無意識かの違いはあっても、歪さを隠すのに必死で・・・でも、本当に稀にいます。本当にフツーの人。フツーに幸せそうに笑ってる人。フツーに正しい人。完璧なフツーを描く人」

「それのどこがいけないんだよ」

井尾の帽子の下の目玉が、かすかに意思を持って動いた気がした。交錯した視線の先の井尾の目は、物珍しさゆえに新種の動物を観察しているような目だった。

「先輩には、わかんないと思います」

会話を遮るように、井尾は帽子のツバをより一層深くした。



「ほら、井尾。絶対失くすなよ」

券売機で買った切符の一枚を渡すと、井尾はたっぷり数秒それを眺めてから、ズボンのポケットに滑り込ませた。

「経理に文句言われんの俺なんだから」

人気のまばらなホームで帰りの列車を待っていると、右肩を軽く叩かれた。反射的に振り向けば、キャメルのダッフルコートに身を包んだ男が、桐谷に向かって笑顔で手を振っていた。

「やあ。桐谷」

「げ・・・っ、お前なんでここにいるんだよ」

桐谷が思わず後ずさると、すぐ横にいた井尾の肩とぶつかった。井尾は桐谷の肩越しに男の姿を捉えると、目元を荒ませる。しかし、背中のバットを掴もうと宙に浮いた井尾の右手は、桐谷の手によって払われた。

「あー、井尾。先に帰っていいから」

「・・・」

「仕事じゃない、こっちの話。切符だけは失くすなよ」

なお不満そうな顔を浮かべ続ける井尾の背中を押して、到着した列車に詰め込ませ、背後を振り返る。一瞬、このまま井尾と一緒に電車に乗り込んで逃げ出そうか迷ったが、どう転んでも後味の悪い夜になりそうだった。電話口の約束も思い出して、桐谷は渋々ながらも男の待つホームへ戻った。

「顔を会わせるのは去年の演奏会以来かな」

「さあ・・・」

気の無い返事を演出したつもりだった。それでもその男がめげることはなかった。

「どうだった?僕の演奏。聞く前に帰っちゃうから」

「何でここにいるんだよ、真壁」

睨みながら尋ねれば、真壁は流石に軽口をやめて肩をすくめた。

「ときどきこの駅で見かけたから。いつもだれかと一緒で、話しかけるまではできなかったけど」

「これからもそうしろ。いいな?」

真壁はわざとらしく眉を下げて指を口もとに当てた。

「おかしいな。父さんが、桐谷が僕に会いたがっているって言っていたのに」

「あーはいはい。それね。会いたがってる、か。あの人も話がうまいよね」

「別に嘘でも構わないよ。僕は単純に君に話しかけるきっかけが欲しかっただけだから。ほら、僕たちせっかくの二人きりの兄弟だし、どうせならもっと親交を深めようじゃないか」

「二人きり、ねぇ」

逃亡を諦めた桐谷は、ホームの中央に据えられたベンチに腰をおろした。靴の先についた泥を見つめて、周囲をはばかって声を抑えた。

「あの父親に限って、本当に俺らだけだと思ってんの?」

真壁は昔から悪意に疎かった。ゆっくりと両目を見開いて、パチリと瞬きをしてから、とびきりの笑顔になる。

「だとしたら素晴らしいことだと思うよ。僕は歓迎する」

「ははは・・・そうだな。真壁の仲良しごっこの相手を俺と代わってくれると良いな」

「母さんも、元気にしてるよ。そうだ今度、家族四人で食事でもどうかな」

ニコニコと笑う真壁には、やはり悪意の影なんて1つもない。確かに、あの父親譲りの無神経さがなければ、生き辛い世の中だ。

目の前の男は律儀に携帯のスケジュールを確認し始めた。儚げで色素の薄い髪や肌は、架空の物語上の王子様を連想させた。長い指はピアノを弾くには重宝するし、音楽の才覚も群を抜いて素晴らしかった。真壁は、風貌も声も、才能さえも父親に似ている。だからこそ、あの女は最後の最後に真壁を選んだ。

「真壁。俺も母さんに伝えたいことがあったんだ。クソババァ早く死ねって。そう伝えといて」

桐谷はそれだけを早口で言い残して立ち上がると、ドアが閉まる直前の列車を選んで飛び乗った。

ちょうど桐谷の背中でドアが閉まったのを確認してから、ゆっくりと振り返る。

「桐谷!」

ガラス越しに、真壁の人の悪意を疑ったことがない綺麗な顔が、驚きの表情を浮かべていた。フツー。昼間の井尾の言葉が脳裏に蘇った。

つまづく寸前まで石に気づかない。人間の悪いくせだと思った。

五感が異常をきたして悲鳴をあげる前に、自分の爪で手の甲に傷をつけた。

ーー抗え。抗え抗え!!

強く心のうちで念じながら、真壁を挑発するように、舌を出し、中指を突き立てた。この行為すら真壁には何1つ届かないのだろうが、桐谷にとっては自分が自分であるために必要な行為だった。

「お前がどうなろうが知ったこっちゃない。せいぜい悩みやがれ」


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