僕の意志
「おっ、サツキくんじゃないか」
西園寺が部活に来なくなって三週間が経ったある日の学校帰り。あたりは薄暗く、シトシトと雨が降っている。
声のする方を振り向くと、不健康なまでに痩せた青年が立っていた。
「先生……こんばんは」
西園寺は週に二回の道場錬も来なくなってしまった。
そういえば、道場の人たちはそのことに触れてこない。今思えば不自然だ。
「今から少し話せないかな?その辺のお店にでも入ってさ」
「……はい」
僕と先生は寂れた喫茶の古びたテーブルに向かい合って座っていた。
先生は特に話すでもなく紅茶を啜っている。
話し出す気配がないのでこちらから切り出すことにした。
「で、話って何ですか?」
先生はゆっくりとティーカップを置くと口を開く。
「最近部活動はどうだい?」
予想範囲内の質問。遠回しに西園寺のことを聞いているのだろう。
「概ね普通ですよ。西園寺はどうやら行事の準備で忙しいみたいですが。ウチの学校、行事運営は基本生徒会主体で行うんですよ。西園寺は生徒会長ですし、しばらくは部活に来られないと思います」
先生は再び紅茶に口を付ける。ティーカップをあおった後、テーブルに置いた。ティーカップは空だ。
「成る程ね。君は嘘を付くとき饒舌になるタイプか」
「……どういう意味ですか」
さすがにムッとして聞き返す。
「なに、そのままの意味さ。彼女は昔から辛いことがあると道場に来なくなる。彼女にとって将棋はあくまで趣味だ。精神的に余裕がないときは楽しめないんだろう」
一応は筋の通った話だが……あの西園寺がそこまで直情的な行動にでるのだろうか?
「その顔、信じてないだろ」
先生は柔和な笑みを浮かべて言った。
「ええ、まあ……」
なんとく苦笑いしながら曖昧にうなずく。
「たしかに彼女はキャラ掴みづらいもんなぁ。特に高校生になってから心に距離感出たしな」
そこで大きな溜め息をつく。
「こういうことはあまり本人のいないところでは話したくないんだが……仕方ないか」
ブツブツと呟く。
「彼女はな、今の高校は第一志望じゃないんだ」
館河が第一志望じゃない……?
館河はこの地域で二番目に偏差値の高い進学校だ。
ほとんどの生徒は第一志望として入ってくる。
「彼女の第一志望は東京の国立大附属高校だった。だが、合格者最低点にあと二点足りずに落ちてしまった。
それは酷い落ち込みようでな。将棋もあまりに集中できてないものだから、思わず『辛いなら道場を休んでゆっくりしたらどうだ』って言ったんだ。以来、彼女はたまに道場を休むようになった」
完全に初耳だった。というか、観音崎でも知らないんじゃないだろうか。
特に勉強する素振りも見せていないのにやけに成績が良いのも納得がいく。
東京の国立大附属高校の偏差値は、軒並み75を超える。
その上少ない募集定員のせいで倍率も跳ね上がり、合格は極めて困難。
そんな高校に合格寸前まで迫る学力を持つのだ。地域の進学校で満足している学生などとは頭の作りが違うのかもしれない。
そうすると、館河への入学自体が不本意だった可能性が高い。
西園寺は、本当に才能を持っているのだ。
「ただ、彼女が二週間以上来ないのは初めてだ。さすがに少し心配になってな」
悩ましいところだ。正直、話したところで解決するとも思えない。だが、先生が生半可な気持ちで聞いている訳ではないことも伝わってくる。
悩んだ末、僕は話した。
西園寺が僕らを避けていること、厄介な彼氏がいること、僕らが口を挟める問題ではないこと。
先生は黙って、時折うなずきながら聞いていた。
「なるほどな。君は大人なんだね」
「はぁ……ありがとうございます」
唐突に褒められ、こそばゆくて俯く。
「あ、いや別に褒めたワケじゃないんだが……何というか、諦めを知ってるんだなぁ、と思って」
こそばゆく思った気持ちを返せ、と思いつつ何か引っかかった。
「諦めを知っていると大人なんですか?」
「ん、まぁそれが大人と子供の最大の違いだと思ってるよ」
それを先生が口にするのはおかしい、と思った。
奨励会員でプロ棋士という夢を進行形で追いかけている先生。だが、20を超えている。
『心は子供』なんて月並みなことを言う性格とも思えない。
「先生はまだ夢を追いかけているじゃないですか」
不満気につぶやく。
「僕かい?たしかに諦めてないねぇ。でも僕は大人さ。それは間違いない」
「矛盾してるじゃないですか……」
「いいや、してないさ」
そう言うと、先生は店員を呼び止めて紅茶を頼んだ。
「いいか、サツキくん。大人は子供と違って諦めを知っている。後悔はするがどこかで折り合いをつけられる、それが大人さ。君たちは今まさに諦めを学んでいる時期。もっとも、サツキくんはほとんど理解してるみたいだけどね」
そこで一旦言葉を切り、運ばれてきた紅茶を受け取る。
「たしかに諦めは大人の特権だ。だが、夢見るのは子供の特権じゃない」
先生は一口紅茶をすする。
「だが、諦めは一度使いこなせば便利な道具だ。『仕方ない』の一言で済むんだから。使い勝手の良さのあまり大人はみんな使いだして、いつの間にか『夢見るのは子供の特権』なんて認識になってる」
先生は特に力むでもなく、自然体を保ったまま滔々と話す。
「それは君についても言える。君は彼女の件について諦めてしまってるようだが、本当にそれでいいのかい?一緒に将棋を指してた仲間じゃないのか?」
ふと、あの暗い廊下で三柳に言った言葉が蘇る。
『僕は、三人でいるのが楽しいんだ。僕と、西園寺と、三柳で一緒に将棋をさしていたい』
我ながら青臭いことを言ったな、と思わず苦笑いしそうになる。
何てことない、ささやかな、願いとすら呼べない気持ち。
だが、その気持ちは嘘でなく、ハッキリと心に刻まれていて。
「本音を言うと君になんとかして欲しいが……まぁ、君の選択に委ねるよ」
先生は紅茶を一気に飲み干すと席を立った。
「あの、一つ聞きたいんですけど」
「ん?」
先生は立ち止まって振り向く。
「西園寺が二週間道場を休んでいたのっていつ頃ですか?」
「あぁ、サツキくん達を連れてくる前だね。君たち二人を連れて道場に来たのがちょうど二週間ぶりだったな」




