昔話
夢を見た。幼い頃の夢。
秋風が少し肌寒い夕方だった。
いくつかの木製ベンチと簡素な滑り台、錆び始めているブランコが置いてあるだけの淋しい公園。
小さな女の子が一人、ベンチで泣いている。
今と同じ、ショートに切り揃えた黒髪と黒縁の眼鏡が特徴的な子だ。まぁ、今の方が胸が豊かだが。
夢というのは不思議なもので、僕はその子の隣に座っている小さな僕を見ていた。どう慰めたものかと必死に思案しているのだろう。
そして、何を思ったか唐突に少女の頭に手を置いて言った。
「今度嫌な奴がいたら、オレが守ってやるよ!」
少女はゆっくりと顔を上げ、幼い僕を見つめる。
「本当に?」
「うん、約束だ。これでも空手やってるんだぜ!ぶっ飛ばしてやる!」
「約束だよ?」
「うん、約束だ」
少女は、安堵の笑みを浮かべた。
場面は変わって中学校の教室。成長した少女は、自分の机を見て茫然としていた。
『ビッチ』『尻軽』『メスブタ』
悪意に満ちた単語が無数に殴り書きされていた。
一見、だれもが想像するような、ごく一般的な中学校の教室風景。だが、彼女の席周辺だけ異様な空気が立ちこめていた。
少し離れたところでクスクスと嗤う声がする。その中には、僕の付き合っていた女子もいた。
中学生の僕は拳を握りしめ、唇を噛む。
しかし、何もすることはなかった。
おもむろに目を開ける。いつもの天井。どうやらベッドでうたた寝してしまったようだ。
時計を見ると、夜の九時を指していた。
「晩飯作らなきゃ……」
妹もさぞかし腹を空かせていることだろう。
起き上がり、のそのそと部屋を出て台所へ向かう。
台所につくと、鍋に水を入れ、レトルトカレーを二パック取りだして放り込む。タイマーをセットして火を着け、テーブルの椅子に座った。
心の底から尊敬していた空手の先生はよく言っていた。
「空手ってのはな、手脚を凶器へ変えることでもあるんだ。厳しい鍛錬は、心までもを強くする。でもな、それだけ強い力は他人の為にこそ振るわなければいけないんだ。空手ってのはな、何かを守らなきゃいけなくなった時に使わないと嘘になるんだ」
僕は、和美を守れなかった。
いじめのきっかけは、些細なことだ。僕と和美の仲が良いのを嫉妬した僕の彼女が、ちょっとした嫌がらせを始めたのだ。
当時付き合っていた女子は僕を束縛したがった。
僕は別に好きでも無かったのだが、告白を断りづらくてオーケーしてしまったのだ。
彼女の嫌がらせは日に日に悪化していった。再三やめるように言ったが、聞く耳持たずだった。
当然僕は別れた。が、火に油を注ぐ結果となった。
『彼氏を寝取られた』と根も葉もないうわさを流して周囲の協力を得た彼女は、やりたい放題だった。
いくら身体を鍛えたところで、僕はただの意気地無しだった。
「どうせ言ってもやめない」などと言い訳し、幼馴染みが為す術なく尊厳を踏みにじられていくのをただ見ているだけだった。
『守らなきゃいけなくなったときに使わなければ嘘になる』
僕の空手は嘘だったのだ。
練習に身が入らなくなっていった。次第に空手自体が鬱陶しくなった。
そして、空手をやめた。
耳につくアラーム音が苦い思い出を断ち切る。
火を止めて皿にご飯を盛り付けた後、パックを取りだし中身をかける。
スプーンと皿をお盆に乗せると、僕は暗い廊下を運んでいった。