彼女の間合い、僕の間合い
「つかれた……」
僕は深い溜め息をつく。外はすっかり暗くなっており、ビルの前は帰宅する人々が行き交っていた。夜風が肌に沁みる。
「そうね……なにしろ4時間指し詰めだもの……」
さすがの西園寺も声に疲労が滲み出ている。三柳は喋る気力すら無いようだ。
過重労働に脳味噌が悲鳴をあげている。あとでラムネでも買うかな。脳疲労にはブドウ糖だ。
しかし、良い勉強になった。
次第に道場へ集まってくるオヤジたちは、めっぽう強かった。次から次へと目まぐるしく入れ替わるオヤジどもは駆け引きに長けている人が多く、為す術無く翻弄され続けた。やはり人生経験の差だろうか。
何より、彼らはとても楽しそうに将棋を指す。
隣と上司の文句を言い合う人、ブツブツと独り言を垂れ流しながら指す人、妻の愚痴をこぼす人、やたらと僕に話しかけてくる人。
最初は下品な上に失礼だと思った。
だが、彼らは僕が渾身の一手を指すと必ず楽しげな反応をした。「おっ」等と声に出す人も少なくなかった。
そして、物凄く真剣な顔になって考え出すのだ。
彼らは、勝つと年甲斐も無く喜んだ。得意気にこちらを見てくる人もいた。
逆に、負けると『やるじゃねぇか、ボウズ』とでも言いたげな清々しい表情をする。
そして、「この銀打が悪手だ」だの「じゃあココに角を成り捨てはどうですか」だのと互いに意見を交換する。
『オレ達は将棋が好きで、ここにいる』というのがひしひしと伝わってきた。
「良いところでしょ」
西園寺は囁くように言った。
「ああ」
良いところだと思った。
「あれ、三柳さんは?」
西園寺は周囲を探す。僕も周りを見渡すが、三柳はいなかった。
「たぶん、駅のほうに行ったんだと思う」
「三柳さんと幼馴染みなんでしょ?」
「うん」
「家近いんじゃないの?一緒に帰れば良いじゃない」
「……まぁ、色々あってな」
「色々って?」
「べつになんだっていいだろ」
それっきりで会話が途切れてしまった。西園寺が周囲の人の気配に溶け込んでしまいそうで、無性に落ち着かなくなる。
「……ちょっと散歩していかない?」
彼女の唐突な提案に、僕は返答できなかった。
「良い景色が見られるわよ」
そう言って彼女は駅の反対側へと歩き出した。
二人とも無言だった。
時折吹く夜風は温かくて心地よい。
駅から遠ざかるにつれて交通量も減っていく。
隣に西園寺がいると意識するとなんだか恥ずかしくなってくるので、関係ないこと考える努力をする。
閑静な住宅街を抜けると、大通りに出た。たまに車が物凄い勢いで走っていく。
しばらく道なりに進んでいくと、白い塗装が目に付く大きな鉄橋の入り口に辿り着いた。
そのまま鉄橋の真ん中あたりまで進んでいく。
「綺麗でしょ」
西園寺は欄干によりかかり、遠くを眺めながら言った。
視線の先には盆地中心部の夜景が一望できた。巨大ターミナルと複合施設、それらを取り巻く高層ビルが光っている。
ビル群の光が夜に滲んでいる様に、思わず息を呑む。
橋の上はやや風が強く、西園寺の綺麗な黒髪はサラサラと流される。
「わたしはね、あなたのことが知りたいの」
まるで独り言のように呟く。
「なぜ?」
「……あなたならわかり合える気がするから」
彼女は流れる髪を細い指で丁寧に耳にかける。
「べつに下卑た趣味だったり、下衆な好奇心ってわけではないわ。あなたが三柳さんと過去に何があったか、言いたくなければ言わなくてもいい。でも、わたしが力になれるのなら、話してほしい」
「……ごめん、話すことはできない。あいつもきっと、お前に知られるのは嫌がる」
西園寺は三柳にとって、憧れの具現だ。尽くしたいと思うことはあっても、自分を知って欲しいとは思ってないだろう。
「そう……」
それきり、また黙り込んでしまった。
湿気った風が吹いていた。