彼女の足元
運動会まで残り三日。不安もあるものの意気込んで生徒会室へ入っていくと、西園寺が目の前に立っていた。こう見ると、西園寺って意外と背が高い。もちろん俺より低いけど、女子の中では高いほうだと思う。
「あ、ちょうどよかった。はい」
そう言って紙束を渡すと、席へさっさと戻ってしまった。
ざっと目を通すと、どうやらそれは素案のようだった。A4用紙17枚分、競技ごとにびっしりと規定が書き連ねてある。
実行委員会のゴミ素案が上がってきたのが昨日のこと。さすがにこれが一晩で仕上がるわけがない。彼女は前もって用意していた、と考えるのが妥当だ。
彼女は最初から実行委員会など信用していなかったのだ。否、実行委員会の性質を見抜き、先に手を打っていたのだ。
そもそも、ろくな素案が上がってこないであろうことは僕もわかっていた。本来、これは僕がとるべき行動だ。
なにが「生徒会として認められたようで嬉しい」だ。任せられた仕事すら出来てないくせに。
僕は唇を噛む。
彼女は僕を責めるでも無く、自らを誇るでも無く、まるで呼吸でもするかのように手を打った。
昨日妹が言ったことなど全て否定し得るほどの衝撃だった。
彼女は、あまりにも完璧だ。
何事もそつなくこなし、さりげなく周囲をフォローし、なおかつそれを誇ることが無い。その在り様は、彼女の容姿以上に美しいとさえ思った。
しかし、と思う。
文学者だったろうか。それとも哲学者だったか。
「桜はあまりに美しい。きっと、根元に死体が埋まってるに違いない」と言った人がいたらしい。
その言葉を受けて、ある作家は自らの作中で「ならば美しい彼女の足元にも死体が埋まってるはずだ」と言った。
それならば、西園寺雪葉の足元ではどれだけ尊いものが死んでいるのだろう。
どれだけ大切なものが埋まっているのだろう。
とにかく素案はできた。僕が今やるべきは、取り急ぎ陸部の部長に素案を見せることである。
僕は生徒会室を飛び出した。
グラウンドの隅のほうで陸上部員がめいめいに準備運動をしていた。
「あのー」
部員たちが一斉にこちらを向く。
「部長さんいらっしゃいますか?」
「僕ですが」
背が低く柔和な顔つきの男子が進み出る。
「規定の素案を見て頂きたいのですが……」
僕はおずおずと差し出す。
「あー、了解です。この場で目を通しちゃいますね」
部長は受け取ると、近くのベンチに腰を下ろした。
他の部員たちはしばらくするとバラバラと散っていった。たぶん練習に入ったのだろう。
僕はなんとなく彼の近くに腰を下ろした。
風がグラウンドをゆったりと吹き抜けていく。温かく湿っている風は、春ももう終わることを告げていた。
20分後くらいだろうか。部長は紙面から目を離し、僕に話しかけてきた。
「これをあの実行委員会が作ったんですか?」
僕は返答に詰まる。
部長はそれを否定と受け取ったようだった。
「では、あなたが?」
「いえ、ちがいます」
「では、西園寺さんですか?」
僕はまた答えられなかった。本人が誇ることの無いものを僕が語って良いのだろうか。
部長は、今度は肯定と受け取ったようだった。
「さすがは西園寺さん、って感じですね。訂正箇所はありません。このまま印刷して大丈夫だと思います」
そう言うと、素案を僕の膝にポン、と置いた。
「頑張ってください」
彼はそう言い残すと、グラウンドへ駆けていった。