八話 速さが足りない! ハイスピード・バトル!
二人が降り立ったのは、一周四◯◯メートルほどと思しき土質の周回走路の真ん中だった。
その空間には周回走路の他にも直走路や砂場、投擲競技用のサークルなどがあり、外周には観客席もある。本格的な屋外陸上競技場のようだった。
観客席は満員で、頭が割れそうなほどの大歓声が絶えることなく鳴り続けている。その歓声が向かう先、二人が立つトラックを走る男が一人。現の世界で奇声を発し跳びはねる男は、夢の中ではランナーのようだ。よく観察してみると観客一人一人に顔は無く、ただ歓声音のなるヒト型スピーカーがみっしりと並べられているようで不気味な感じがする。
「あのー、すみません……」
ペルシャは土煙を巻き上げて走る男が目の前を通りかかる瞬間を狙って、声をかけようとした。が、男はペルシャのことなどまるで視界に入っていないかのように立ち止まることなく通り過ぎる。
しばらく待って、次の周でも試してみるが同じ結果。
それならばとその次の周では男の目の前に飛び出してみたりもしたが、一瞬の躊躇もなく、ただの障害物であるかのように一つ隣のレーンに避けて通り過ぎられる。その扱いは、まるでトラック上に転がり込んだただの小石のようだ。
「見えてないわけじゃないはずだ。意図的に無視されてんな」
面白くなさそうに呟くペルシャの後ろでは、エリックがまだ侵域酔いと格闘しているところだった。まともな相槌を打つ元気は無い。
「ああ、そのようだな……」
とだけ弱々しく言って、頭を押さえてしゃがみこんでいる。
男は走り続ける。
どうやってその足を止めるべきかと、ペルシャはあらゆることを試した。砂を投げてみたり、足をひっかけてみたり、トラックに穴をほってみたり。そのどれもが、軽くかわされてしまう。風で吹き飛ばしてみたりもした。吹き飛んだ男は流石に一度転がったが、すぐに立ち上がってまた走りはじめる。
精神世界に肉体的疲れは無い。魔力が続く限り、きっとこの男は走ることをやめないのだろう。
どうしたもんか、とペルシャがしゃがみこんでいると、やっと回復したらしきエリックが歩み寄って一言、
「話すだけなら止めなくても良いのではないか? それでも無視される可能性はあるが」
「お前、今日冴えてんね。よし、ちょっくら準備運動してくらぁ」
ペルシャは両手を上げてその案を褒め称えて、男がまわってくるのを待って並走をはじめた。
エリックはハンカチを振って見送ってから、またトラックの中央に戻り腰を下ろした。どうせこの後、領域の書き換えまで彼の出る幕は無いのだ。そう思い、魔術箱の組み立てをはじめる。
「あのー、すみません」
男と並んで走りながら、ペルシャは再び声をかけた。流石は元スポーツ選手と言うべきか、そのスピードはなかなかに速い。ここがもし現の世界であれば、ペルシャが肉体強化の魔法を使ってやっと出せる速度だろうか。
「えっ!? あなたは一体誰です!?」
男はやっとペルシャの存在を認識し、まともに返事をした。……かのように見えたが、
「なぜ私の走りについてこれるんです!? そんな馬鹿な! 私は誰よりも速い! 速いはずだ!」
そうして、一段速度を上げた。
「ちょっとお話伺いたいんですが」
ペルシャもそれについていく。
男は驚いたように目を見開いて、
「なぜ! なぜついてこれる!? もっと! もっとだ! 速さが……速さが足りない!」
男はさらに、さらに、さらに、もっともっと、と言いながらどんどん速度を上げる。
ペルシャも一歩も遅れを取らずに並走する。残像が見えそうな速度でトラックを回る二人を見て、エリックは、
「あいつらバターになるんじゃないか」
と呑気にひとりごとを漏らした。
「あの、走ったままでいいんで話きいてもらえます?」
速さが、速さが、とうわ言のように漏らす男にペルシャが根気よく話しかけつづけていると、ついに男は観念したのか、突然に立ち止まり、顔を向けた。
「あ、やっと止まってくれまし」
「なんなんだお前は! 私の速さについてこれるなど……許さん! 絶対に許さん! 私は世界一速いんだ! 私についてこれる者など存在して良いわけが無いんだ! 消してやる! 消してやる! 消えろ消えろ消えろオオーー!!」
「ゲエッ、突然かよ!」
止まった男の周辺の空間が歪み始め、黒い霧が溢れだす。霧は空と大地を覆う。観客席も飲み込まれ、歓声は次第に小さく消えていく。飲み込まれていくときに少し濁る観客の声は、無機質なはずなのにどこか断末魔を連想させた。
そして、男の目や口からはドロドロとした物質が流れ出す。物質は男の足へ向かって流動、両足を包み込んで先をとがらせ、針か、はたまた杭のような形で固まった。
男の変形が完了し、霧が晴れたとき、そこはまた荒れ果てた空間となりかわっていた。男の足だった部分、鉛色の鋭い先端に、地の赤黒さが反射する。
「うーん、君のあだ名は……コンパス君……かな?」
ペルシャがそう言い終わると同時に、男の鋭い蹴りが放たれた。
ギリギリで見切り、間一髪で避けたペルシャの頬から薄く血が滲む。
「うわっ、速っ、危ねー。もうちょっとで俺、メザシになるところだった!」
冗談を言う暇も与えないという風に、男、もといコンパス君から次々と蹴りが放たれる。右足、左足、右足。本当にコンパスのようにくるくると回りながら、無駄のない動きで一歩分ずつ距離をつめる。上段、中段、下段とそれぞれ混ぜながら連続で繰り出される蹴り。
その全てをギリギリで見切って避けながら、ペルシャはジリジリと後退を続ける。剣には手をかけつつ、抜く気配は見せない。瞬きすら難しいほど素早く襲いかかる攻撃を受け、ペルシャの顔にいつもの余裕の表情は無い。
一分にも満たない時間。
その間に数十メートルは移動したであろう目まぐるしい二人の攻防に、突然変化が訪れた。
蹴りを繰り出す体を支えている男の軸足。その軸足が揺らぎ、男が急にバランスを崩す。
それに合わせてペルシャは後ろへ跳躍、距離を取ってから、斬撃を飛ばす。
「そいっ!」
斬撃は男の強化されていない部分、脇腹に命中し、肉を切り裂いた。切れた箇所から黒い液体状の魔力が漏れる。黒い血液ともとれるそれは地に落ちると煙を上げながら蒸発していく。
「俺の美貌に見とれるのは構わないけど、足元にも注意だぜ?」
得意顔でペルシャが剣で指し示す先、男がバランスを崩した場所。そこにはさきほど男を止めるためにペルシャが掘った穴があった。
おされて後退しているように見えたのは、そこへ誘導するためのフェイク!
「オノレ、おのレェ……」
憎々しげに睨んでくる男に向けて、ペルシャは容赦なく追撃の刃を撃つ。
男は数メートル飛び上がってそれを避け、鋭い杭で敵を串刺しにすべく両足を揃えて急降下する。尖った足先は風の抵抗をすり抜けて、ペルシャがコンマ数秒前に立っていた地面に突き刺さる。
間一髪飛び退いたペルシャは、ヒュウと一息、男に賛辞の口笛を送る。挑発に対して苛立ちを隠そうともせず、男はもう一度跳躍。その滞空中にペルシャは剣の宝石を透明の石に付け替え、硬化した剣で降下する男を受け止める。
「重っ」
地面に沈むかと思うほどの衝撃。腰を落としてなんとか持ちこたえ、剣に乗った男をかろうじて弾く。男の全体重が乗った降下攻撃は、剣を伝ってペルシャの両腕を痺れさせた。
「これは……あんまり受けるのは得策じゃないね」
弾かれた男は空中で体勢を立て直し、着地後すぐに今度は飛び蹴りを放つ。上空からの点の攻撃と、横からの線の攻撃。それぞれが瞬間移動のような速さでペルシャを襲う。
空間内を縦横無尽に飛び回る男。ペルシャはそれを避ける、避ける、ときどき弾く。
激しい攻防が続くなか、ふい男が口を開いた。
「ナゼ全て避けなイ? オマエ、何ヲかばっていル? もう一人、いるンだな……?」
「はて? なんのことかな?」
ポーカーフェイスを保ちながら、ペルシャは内心で冷や汗を流した。男が飛び回るこの空間内に安全な場所は無い。ペルシャが、不利になると分かりながらも敵の攻撃をときどき弾くのは、敵の攻撃軌道上にエリックが居るときだ。希薄な存在といえど、攻撃が当たれば彼は怪我を負う。
『エリック、ヤバイ。お前の存在がバレてる』
二人の会話が聞こえていないのか、トラックの真ん中でボーッと観戦していたエリックに、ペルシャは反響で話しかけた。
『何!? なぜだ!?』
明らかに焦った声が返ってくる。
『流石は中級夢魔だけあって、魔力感知が鋭い。それと、この前核を入れたことで、お前の存在強度が少し増加したせいもあるかもしれない』
『私はどうすればいい!?』
『どうもしないでいいけど、とりあえず伏せとけ!』
そのやり取りの間も、男は燕か隼のようにびゅんびゅんと飛び回る。気を抜けば土手っ腹に穴が開く。エリックが慌てて地に伏せるのを、ペルシャは気配だけで感じ取った。
しかし、時すでに遅し。
「そうか、アッチか! 変な感じがスル。そこに居ル!!」
「エリック! 逃げろ!」
叫んだペルシャの声が届くよりも速く、跳躍した男の両足が突き刺さる。――地に伏せたエリックをそのまま縫い付けるように。
彼の背中を貫通して、薄い存在ごと、その下にある地面を深くえぐる。
「かはっ……」
貫かれたエリックは、魔力のこもっていない空っぽの空気を吐き出して、そのまま意識を失った。
「やっタ、手応えアりだ」
してやったり、と振り返った男の目にうつったのは、
――白髪の鬼だった。
男の見間違いか? 鬼そのものが一瞬見えたような気がしたが、すぐに立ち消える。変わりに、全身から炎のような魔力を溢れさせ、怒りに震えるペルシャが鬼のような形相で立っている。
「お前、俺を怒らせたな? クソがッ! もう核も残さねえ、粉々にしてやる!」
叫んで、恐怖で男が怯んだ一瞬の隙に、ペルシャは剣の宝石を琥珀色のものに付け替える。その剣を地に刺し、
「狂射!!」
思い切り魔力を込める。
放たれた魔力は地面を伝い、男のほうへ向かっていく。地中を生きた魔力が掘り進むように土を盛り上がらせながら進み、男とエリックを囲むように移動して停止。そこから今度は噴火で溢れるマグマのように土がせり上がり、二人の四方に高い土の壁を形作っていく。壁は徐々に分厚く強度を増し、閉じ込められた二人との隙間を埋めていく。
ペルシャは地から剣を引き抜き、走った。煌めく白髪が稲妻のようになびく。
「手加減してやったら調子に乗りやがって。うぜーんだよ! これで、終わりだァーー!!」
壁の直前で飛び上がり、上空から急降下。男の脳天めがけて剣を振り下ろす!
「アアアAAA!」
断末魔を残し、真っ二つになった男は頭から砂のように散って消えた。
土の壁もどろりと溶ける。
「エリック! しっかりしろ、エリック!」
剣を収め、ペルシャは急いでエリックを抱きかかえた。
呼びかけに返事は無い。腕の中のエリックの存在はいつもより薄く、透け始めている。それもそのはず。腹に空いた穴は人一人がくぐり抜けられそうなほどの大怪我だ。
現にある肉体に外傷は持ち越されないが、精神体の損傷は肉体の腐敗に繋がる。今、エリックの肉体は、内臓が全て破壊されているのと同義と考えて良い。
「クソッ。死ぬなよ、こんなところで! 俺たちの復讐はまだ終わってねーぞ!」
エリックの体内にある僅かな、たった二つの核に、ペルシャは魔力を注ぎ込むが、精神体の損傷が大きすぎてあくまで延命にしかならないことは見るに明らか。
精神体が宿主にのまれないように核を保護し、なおかつ魔力を注ぎこみながら、魔術箱無しで領域を書き換え、治療魔法を行使する。
そんな神業は流石のペルシャにも至難の業。優先順位をつけねばならない。
そして、ペルシャが選ぶのはもちろん――
「絶界!」
現の世界に戻り、治療に専念することだ。
*
肉体に戻ったペルシャは、すぐさまエリックの屋敷へ向けて駆け出した。目の前の牢でぐったりと横たわる男は放っておく。後で領域の書き換えをすませば目覚めるだろう。
現の世界で使用すると疲れるからあまり使いたくない肉体強化の魔法と、追い風の魔法を使用して、飛ぶように走る。
街を突っ切り、森の奥、少し開けたその場所で――
ペルシャは、不思議なものを見た。
「なん……だ……この光は……」
エリックの屋敷の二階。西日が眩しいと文句を言っていた彼の私室から、七色の光が漏れ出している。
しばらく呆然と立ち尽くしていると光の勢いは徐々に衰え、またいつもの陰鬱な雰囲気の屋敷へと戻っていった。
光に魅入られていたペルシャはハッとして意識を取り戻し、
「エリック! 生きてるか、エリック!」
玄関扉を破る勢いで蹴り開けて、問題の部屋まで疾駆する。
部屋のドアも蹴り開けると、そこに居たのは、
「おい。一体、何が起こった? 私は死んだのではなかったか?」
ピンピンしているエリックと、その足元で青い顔をして倒れているクリスだった。