六話 牢獄に生まれた復讐者(アヴェンジャー)
周囲の空気をかすかに揺らし、ペルシャの精神は肉体へと帰還した。力なく垂れ下がっていた四肢が操られるようにゆっくりと持ち上げられる。
背もたれから体を起こすと、エレナもベッドの中で瞼を開くところだった。
「おはよう、おばさん。気分はどう? 夢魔に憑かれていたんだよ」
「なんだか夢を見ていたような……思い出せないわ」
「いいんだ、それで。無理に思い出す必要はないよ」
ペルシャは数歩分靴音を鳴らし、ドアの鍵を開ける。
部屋の外では、おじさんが祈るような姿勢で座り込んでいた。彼はドアの開く音を耳にすると、ペルシャが呼ぶよりも先に部屋へ駆け込んだ。
おばさんは未だ夢見心地で頬に手をあて首を傾げている。おじさんは引っ張るようにしてその手を取り、両手で包み込んだ。
「エレナ……エレナ、良かった」
包んだ手のぬくもりを確かめるように、額にあて、頬にあて。大切な妻の存在を一生懸命に感じ取ろうとしている。
その必死の形相におばさんは多少面食らったようだが、ふ、と微笑んで、
「いやあね、大げさ」
と、おどけるように言ってみせた。元気なのをアピールする為でもあったろうし、多少の照れ隠しもあったのかもしれない。
「大げさなもんか。下手したら君は死んでしまうところだったんだぞ!」
おじさんは目を真っ赤にして声を震わせる。かろうじて涙は溢れていないが、それも時間の問題のように見える。
「とにかく無事で良かった……。ペルシャ君、本当にありがとう」
「ありがとね。ペルシャちゃん」
二人を眺めながらドア付近でリンゴを齧っていたペルシャに振り返り、二人は礼を言った。
「どういたしまして」
二つの意味を込めて、「ごちそうさま」と返し、食べ終わったリンゴの芯をゴミ箱へ投げ捨てる。
これからも彼らは表面上仲睦まじい夫婦として生きていくのだろう。
夢の世界で見たことは、ペルシャとエリック、二人の記憶の中だけに秘められる。
「女ってのは怖いねえ」
再度エリックの屋敷へ向かう道すがらに、ペルシャは肩をすくめた。
*
精神世界から帰還したエリックがいつも見る光景は、家具の少ない殺風景な部屋。カーテンが引かれ、薄暗く、やや埃っぽい無機質な空間。それが当たり前だった。
しかし、今日彼が目を覚ましたときその視界いっぱいに広がったのは桜色だった。クリスの桜色の瞳が至近距離からエリックを見つめている。真剣な眼差しが潤んで揺らぐ様は、花びらが舞い散るかのようだ。
「でええい!」
その光景を予期していなかった彼は、驚いて情けない声をあげながら椅子ごとひっくり返った。肘と頭と背中を打ち付ける。床を突き破ってしまわなくて良かった、と思うほど強く。
「あわわ、大丈夫ですか!?」
「お前……なぜここにいる! 近づくなと言っただろう!?」
「ごめんなさい。何度呼んでもお返事が無かったから、心配になってしまって」
申し訳なさそうに胸元で強く手を握りしめ俯く少女から視線を外すと、砕け散った南京錠の残骸らしきものが散らばっているのが見えた。事情を知らない人に見せれば、その残骸が元は鍵だった、というのが分からないほどの無残さだ。
「……魔法は使うなと言ったろう。本当に追い出されたいのか君は」
頭にこぶができてないのを確認して責め立てると、小さく、「ごめんなさい」と返ってくる。まっすぐにエリックを見つめる瞳に、やましいところは感じられない。
「まったく……見た目よりも随分とお転婆なようだ」
本当に心配したのだろうと伝わって、怒る気力を削ぎ落とされる。ため息混じりに少しだけ小言を言おうとしていると、玄関ドアを蹴るいつもの音が聞こえ、カツカツという小気味良いリズムがだんだん近づいてくる。
「あれ? 俺、お邪魔?」
「ふざけるな。だいたい察しはついているのだろう」
親しい二人の距離に、ペルシャは茶目っ気たっぷりに舌を出す。エリックはその仕草に苦い顔を投げつけた。
「鍵はまったく無意味だったみたいだな」
ペルシャは足元に散らばる残骸をつま先で突いて、得意のニヤリ顔となる。
「調子、どうだ?」
ペルシャは自分の胸をトントンと指でついて示した。精神世界で核を入れたことを言っているのだろう。
エリックは同じあたりをさすりながら、
「ん、ああ……気分は良くないが……体調に問題はない」
と、ひとまずの感想を述べる。
その言葉は嘘ではないようで、エリックの顔色は悪くない。
うまく馴染みそうだと判断したペルシャは、そのままカソックの裾を翻らせた。
「じゃあ、俺は帰るよ」
「それだけを確認しに来たのか?」
返事は無い。
振り返りもせず、ペルシャは口笛を鳴らしながら歩き去った。
「あいつの考えていることはよく分からん。それで、君はどうして私を呼びに来たんだ?」
口笛の聞き慣れたメロディを耳に残しながら、エリックはそばに立つクリスに顔を向ける。
「あっ、えっと、夕飯はいつもどうしているのかなって」
「ああ。それなら人形が――」
*
外の気温とはうらはらに、ひんやりとした空気が淀んでいる牢獄のベッドで、ペルシャは独り天井を見上げる。
この部屋にいると思い出すことができる。
のどかな日常に浸っていると薄れそうになるあの感情。
たくさんの物を失った日の、燃えるような怒りと憎しみ。
疼く右目を押さえて、寝返りをうつ。
眠ってしまおう。そうすれば明日が来る。
明日でなければ、明後日に期待すればいい。その次も。さらに次でも。
淡々と日を送り続ければ、いつか必ず、再び巡り会うだろう。その時まで、焦らず、腕を磨く。
自分の魔力と相棒の機巧なら、負けることは無いのだから。
必ず。
そう信じ込むことで、足元から侵蝕する不安と孤独から身を守り、ペルシャは瞳を閉じた。
*
「……ぬな……死ぬな……! 絶対に、殺させやしない……」
視界が悪く、薄い靄がかかるどこかの街道で。
誰かが、血まみれの誰かを抱きかかえて必死で何かを叫んでいる。
「あれは……エリック?」
見知った顔のような気がして、ペルシャはよく目を凝らす。
オレンジ髪の精悍な顔つきは間違いなくエリック……だったはずが。
抱えた誰かを死に物狂いで揺り動かす姿はだんだんと、ノイズが入るようにぼやけてゆき、白く切りそろえられた美しい髪に変わる。
泣き叫びながら、意識のない誰かに向けて叫んでいるのは――
「母さん! エリック!」
「私はもうダメ……助からない。だけどエリックは、まだ大丈夫。片腕を失っただけ」
意識のない青年を抱えているのは、ペルシャだった。腕の中のエリックは今よりいくぶんか若い。
「あなたの魔力を分けてあげれば、生命維持魔法が発動するはずよ……」
「だけど! だけどエリックには核が無い! どうやって分けてやるの!? 母さん! 母さん!」
答えは返ってこない。
母さんと呼ばれた女性の下腹部には、両手でも覆えないほどの大きな穴が開いていた。意識を失い発動された魔法が出血を押しとどめてはいるが、内蔵の破損が大きく、あと数分と持たないだろうというのは素人目でも分かる。
ステンドグラスを通して差し込む月明かりが、磨かれた天使の像にとりどりの模様を映し出す礼拝堂。
普段なら厳かな雰囲気を醸し出すこの場所は、今は戦場と化していた。
「エリックを連れて逃げろペルシャ! 地下へ! 結界が張ってある!」
襲い来る黒い球体状の強大な魔の塊をギリギリで受け止め、男が言う。
「父さん! 母さんが……母さんが!」
「分かってる! いいからお前達は早く、地下へ!」
「……分かったよ!」
自分よりも少し大きなエリックを背負いあげ、ペルシャは言われた通りに地下へと急ぐ。魔力と魔力がぶつかり合う爆風に背後から襲われ、短い階段を転がり落ちた。
夢魔に憑かれ暴れる人を落ち着くまで閉じ込めておく為にあると教えられた牢獄。実際に使われたところは見たことがない。
不気味な冷たい空気が苦手で、ペルシャはあまり足を踏み入れたことが無かった。
その牢獄に、片腕を失い血を流し続けているエリックと二人。
静かだった。
地上で繰り広げられている戦闘の音が聞こえないのは、結界の力か、それとも……。
最悪の考えが脳裏をよぎり、振り払おうとペルシャは頭を振った。
「エリック! エリック!」
何度名前を呼んでも、反応がない。
みるみるうちに顔色が青白くなっていく。死へのカウントダウンは確実に進んでいる。
魔力を分けろ、と母は言った。
リサーバーと治療師を兼ねて父とコンビを組んでいる母に習い、治療魔法の心得は多少ある。
相手の核に魔力を注ぎ込むだけでも生存率は跳ね上がる。だがそれは、相手が一般人だった場合の話。
核を持たないエリックを救う手立ては、一つしか思い浮かばなかった。
「くそっ、他に方法は無いのか!? もっと勉強しておけばよかった!」
これまでの人生を悔いながら、ペルシャは意を決して一本のナイフを手に取った。
鉛色に輝く刃は、呪いであり命綱でもあった。
それを一思いに自分の右眼窩へと突き立てる。
「うぅ……ううう……」
先端を奥深くまで差し込み、テコの原理で刃の腹を使い眼球を押し出す。飛び出した球体を引き抜き、魔力で痛みを中和しながら視神経を切断。
数分後に、赤く美しい眼球は白く細い手の中に収まった。
陶器のような顔に残ったのは、手の中と同じ色を宿す宝石のような瞳と、深く、どこまでも続きそうな暗い穴。
自らの眼球を抉り取ったと同じナイフで、今度は横たわる青年の胸を切る。
急がないと、眼球に込めて取り出した核が現の空気に溶けてしまう。
皮膚を裂き、骨を分け、弱く、ほとんど止まってしまいそうな心臓のすぐ傍へ。
一番魂に近い箇所を探し当て、隻眼となった青年は繊細なガラス細工のような球体からそっと手を離した――。
そこでペルシャは目を覚ました。
相当にうなされていたのが自分でも分かる。
喉はカラカラに乾いて、呼吸するたびに隙間風のような音をたてている。
いつもは自慢の美しい髪も、今ばかりは額に貼り付いて鬱陶しい。
「けど、これでいい」
つぶやくと、ベッドから降りて水道の蛇口をひねる。欠けたグラスから激しい感情と一緒に一気に水を飲み下す。
天井付近の明かり取りの窓からは、鉄格子越しに淡い月明かりが差し込んでいる。
薄闇の中、鏡に顔を映す。
向こうから見返してくるのは、双眸にそれぞれ違う色の光を宿した、復讐者の姿だった。