五話 領域の王
ロブスターとは言い得て妙で、鎧、と言っても、無機質さは無く。表面に小さなイボが無数に生えた甲殻類特有の殻のようなものを有していた。生きた鎧という表現がピッタリで、異様な存在感を放っている。
「オオオオオオ」
転がるボールのようだったエレナのものとはまったく違う、低い、エコーのかかった声を絶え間なく発している。声というよりは【音】に近いかもしれない。自然に漏れ出しているもののように思える。
ペルシャとの距離は数メートル。
亀裂が閉じると、周囲を黒く染めていた霧は収束し、鎧に吸い込まれていく。
霧がはれたとき、のどかな街道の景色は消え去り、周囲一帯には、赤黒い空と濁った荒野が広がっていた。
エリックは二人から離れた場所に移動し、腰を下ろした。持ち込んだトランクケースを開き、中で機巧を組み立てはじめる。
彼が離れたのを察し、ペルシャは構えた剣に魔力を込める。
「ここがお前の領域か? 行くぞ、ロブスター!」
剣を振り下ろすと、その先から質量を持った斬撃が飛んだ。
空を切り裂く一撃は鎧の片腕に当たり、弾けた。
――傷一つつけることが出来ずに。
「ハア!? エリック! 剣が直ってない!」
ペルシャは振り返って叫んだ。
斬撃は敵の鎧を砕き、中身を切り裂き……一瞬で終了。そう思っていたのに!
「宝石が濁って魔力伝導率が下がっているんだ。だから普段から磨いておけとあれほど言ったろう」
「クソ野郎!」
「自業自得だ」
忙しいだのなんだのと言って整備を怠ったペルシャが悪い。それに魚なんか焼いたりするからだ……ざまあみろ。と、魚を焼かれたことを未だ根に持っているエリックは、内心少し面白がりながらも表情を変えずに返した。
「オオオアアア!」
衝撃を与えられたことで怒りを増した鎧が、ペルシャに向かって突進する。
ペルシャは体を捻ってそれを躱すと、鎧の脇腹に横合いから蹴りを叩き込んだ。思い通りにいかないイライラを魔力に込めて。
八つ当たりされた鎧は地面をえぐりながら吹き飛んでいく。
「回路は直ってるから、宝石を変えればいつも通りの威力が出せるぞー」
安全な場所から他人事のように告げるエリック。癇癪の矛先が自分に向かない世界で吸う空気はおいしい。空は赤黒く、地は廃れていたとしても。
「風の魔法が一番かっこいいのに!」
ペルシャは剣の持ち手から緑の宝石を取り外し、胸にかかる大きな十字架を掴む。
そこに嵌めこまれているいくつかの宝石のなかから、透明の石を選択し、剣に装着した。
体勢を立て直した鎧が再び小石を蹴散らし一直線にペルシャへ迫る。
「芸が無いんだよお前は!」
ペルシャは正面に腕を伸ばし、剣先で鎧を受け止めた。剣の刃は一切のたわみを見せずまっすぐに伸びたまま。
走る勢いがそのまま反動として一点に集中され、鎧の胸に亀裂が走る。
「中身、引きずりだしてやる」
蜘蛛の巣状に割れ目の入った鎧を睨め上げ、ペルシャは意地悪く口角を歪ませた。
「エリック! すぐ終わる、準備しとけ!」
すでに機巧を組み立て終わったエリックは、退屈そうに片手を上げて応じた。
魔力こそが全てと言っても過言ではない精神世界で、彼は戦闘においては蟻以下の役立たずでしかない。
逆に言えば、魔力回路が多いペルシャは、掛け値なしに強い。
リサーバーを不要とするほどの自己魔力生成率と、通常のダイバーでは到底かなわない最大値。
その二つを併せ持つ彼に心配は不要、とばかりに、エリックは膝に片肘をついて戦闘を眺める。
ガチンと、硬いもの同士がぶつかり合う音が響く。
魔術で硬化した剣は鉄より硬い。細身のハンマーとなった剣に魔力を込めてペルシャは鎧を打ち付ける。
一撃、二撃。打つ度にヒビが入り、少しづつ鎧が剥がれ落ちていく。
「アア……アアア」
鎧は呻きながら、砕かれた欠片を散らし下がっていく。
ペルシャは涼しい顔をして一歩ずつ距離を詰めながら、魔力たる殻を削がされて小さくなっていく鎧を見下す。
二人の移動した跡には赤い魔力痕が道標のように点々と落ちている。それはさながら血痕にも見えた。
「お前が創りだした領域だろうと、そこが夢の世界である限り俺には勝てない。覚えとけ、雑魚野郎。お楽しみにもならなかったぜ」
反撃の隙が無いままに鎧はすべて剥がれ、半透明のぶよぶよとした中身が完全に露出している。人の頭くらいの大きさにまで縮んだそれに、ペルシャは舌なめずりをして剣を突き刺した。
「あばよ。暴虐・狂射!」
魔力を込めると、差し込んだ剣の先から光が迸る。
キィ、という耳が痛くなるような高音が一瞬鳴って。
食べられないロブスターは、内側から破裂した。
物体は細かな破片となって周囲に拡散し、煙を立てながら地に溶けていく。
ペルシャは付着した鎧の残骸を払って剣を収めると、目の前に一つ残った淡く光るイチゴほどのサイズの球体を拾い上げた。
「エリック、魔術箱は」
「いつでも」
つまらないショーを見たあとのような気だるい返事をしたエリックの横に、ペルシャがしゃがみ込む。戦闘を終えたばかりだなどとは一切感じさせない涼しい顔で。
エリックが広げたトランクケースの中には、いくつかの宝石が嵌った四角い魔術機が鎮座していた。彼らが【パンドラ】と呼ぶこれは、ペルシャの剣のように美術的装飾はなく、いかにも無骨な、ただの四角い箱のようなもの。
その箱からはこれまた飾り気のない数本の金属製の管が伸びて、地面に差し込まれている。
ペルシャが魔術箱に手を当てて、
「お前はかっこいい呪文とか言わないの?」
と聞くと、
「アレをかっこいいと思っているのはお前だけだと思うぞ」
と答えて、エリックは複雑な構造で並ぶスイッチを手慣れた順序で操作した。
静電気ほどの痺れがペルシャの手を襲い、箱へ魔力が吸い上げられる。
複数の宝石が虹を描き共鳴しあってその力を増幅させ、属性を絡ませあい、管を通して大地へ。
パズルのピースが崩れていくように、赤黒い世界が小さな欠片となり消えていく。
地から剥がれたものは浮き上がって宙を舞い、やがて塵となり見えなくなって。空から落ちたものは雨のように降りかけて、しかし地に落ちることなく大気に溶ける。光り差す風景が徐々に広がっていく。
ほんの数分で、周囲の景色は最初に降り立った街道へと戻っていた。
「領域書き換え完了っと。いやー、楽だわ、魔術箱。これみんな手作業でやってんのかな?」
「さあな。他の祓魔師のやり方など知らん」
さして興味もなさそうに、「まあそうだな」と相槌を打って、ペルシャはさきほど拾ったイチゴ大の球体を手のひらに乗せる。
「ところでエリック、こいつを見てくれ」
「夢魔の核だな」
「ああ、核だ」
エリックは不審そうに顔を上げた。
「それがどうした? 特に変わったところがあるようには見受けられないが。早くいつものように踏み潰すなり投げて砕くなり好きにすればいいだろう」
エリックの眉間の皺を見て、ペルシャの金の瞳が楽しそうに揺れる。子どもに新しいおもちゃを買い与えたときの輝きによく似ている。
エリックは嫌な予感がした。この表情をするときのペルシャは、ろくなことを言わない。
「お前は本当に馬鹿だな! いいか? よく聞けよ? ここに一つの魔核があります。目の前には核を持たない男がいて、現の世界には回路を持て余した女がいます。回路の移植には核が必要です。さて、ここで問題です。この後の俺が取るべき行動は?」
鈍感なエリックも、流石にペルシャの言わんとすることを察する。
「いや、待て。さすがに体内に夢魔の核を入れるのは……拒絶反応や副作用があるかもしれないし、はばかられるというか……」
両手を振って後ずさるエリックに、ペルシャは問答無用と飛びかかった。獲物を狩る鷹よりも素早い。
「ぶっぶー! 時間切れ! 正解は……こうだ!狂射!」
走って逃げようと背を向けたエリックに覆いかぶさり地面に押さえつけて、核を握った手を突き入れる。精神世界においてエリックは質量すら希薄。悪意をもって傷つけようとしない限りは痛みを感じることは無い。
「おっ、おえっ……気持ちが悪い」
体内をかき回され、エリックは四肢を振り乱し砂埃を撒き散らす。
ペルシャは適当な場所に核を配置し腕を引き抜いた。その感覚に、エリックはひときわ不快そうな表情を見せた。もよおした吐き気を必死に堪えているような。
「本当に大丈夫なんだろうなあ……」
「安心しろ、俺の右目と同じだ。核の表面に魔力で薄い膜を張った。中で中和しながら定着させる」
「あ、ああ……」
エリックは負い目を感じて、気まずく目を逸らした。ペルシャの金の瞳はうまれもった物ではない。エリックの右腕が無くなった日、同じくペルシャも右目を失った。
エリックは失くしたものを機巧で補い、ペルシャは魔核で補った。
「今日も外れだったな」
「続けてりゃあいつか当たるさ」
ペルシャは口笛を吹きながら背を向けた。まっすぐに伸びた背筋からは、表情は読み取れない。
「それより、あれを早くなんとかしないと」
あれ、と言ってペルシャが指差したのは、元の、赤いくせ毛が渦巻き皺とそばかすを持つ、現実の姿を取り戻したエレナだった。街道の真ん中にぽつんと倒れている。
「おばさん、起きて。おばさん」
「うーん……あら? ペルシャちゃん?」
肩を揺り動かすと、エレナはすぐに目を覚ました。
起き上がり、周囲の景色を瞳に映す。
「懐かしいわ。ここは私の故郷なのよ」
「そうみたいだね」
何も知らないふりをして、ペルシャは微笑みかける。
「そろそろ帰ろうよ。おじさんも心配してるよ。おばさんが死んじゃわないかって、僕に襲いかかってきたんだから」
「あらやだ、あの人ったら」
おばさんはリンゴみたいに頬を染め、ごまかすように笑った。
「じゃあ行くよ。叛逆・絶界」
指を鳴らすと、三人の精神は再び真っ白な世界へと放り出され、そして――