四話 独裁・侵域(アブソリュート・ダイブ)!
「すぐに行きます。おじさんは先に戻って」
「あ、ああ。分かった、頼むよ!」
この世の終わりのような顔をしたおじさんの背を見送って、ペルシャは相棒に向き直った。
おじさんが自分に向けた嫌悪の視線。それを見逃さなかったエリックは神妙な面持ちをしている。
「私の屋敷なんだから私が居るのは当たり前なのにな」
強がって皮肉を漏らすが、丸めた体のなかで機巧の右手が微かに震えている。
ペルシャは座り込んだまま俯く相棒のアゴを指ですくって上向かせ、わざと挑発的な態度で見下した。
「ヘイベイビー、震えてるぜ。怖気づいてションベン漏らしたか?」
不器用に鼓舞してくれているのか、はたまた本当にからかって楽しんでいるだけなのか。真意は不明だが、少なくともペルシャだけは、エリックという存在を否定しない。
エリックはアゴにかかる手を払い、諦めとも安堵とも取れるような、もしくはそのどちらもを含んでいそうな笑みを浮かべた。
「フン、私がそんなに弱く見えるなら、お前の目はただのガラス玉だな。怖気づいたのはお前のほうじゃないのか? 『濡れた床拭き人形』が要りようになったらいつでも言ってくれ」
表面上だけでもいつもの調子を取り戻した相棒に、ペルシャは大きく頷いた。
「生意気だけど良い返事だ、相棒。俺達の目的を忘れるな。あとで"繋ぐ"。いつもの準備して待ってろ」
「言われなくとも」
それじゃあ仕事に取り掛かろう、と、ペルシャはカソックの裾を翻す。
開けっぱなしの扉から一歩踏み出して、口笛を鳴らす。その音色が届かなくなるより前に、エリックは大股で屋敷の奥へと引っ込んだ。
*
カントリー調のあたたかみのある寝室で、すやすやと心地よさそうに眠る果物屋の婦人。表情には微笑みすら浮かんでいる。
ベッドの脇に置かれた椅子の上で、ペルシャは【幻視】を発動した。
「どうだい? 突然倒れてから、どんなに声をかけても揺すっても何の反応も示さないんだ」
「ああ、これは……典型的な下級の夢魔の仕業ですね。医者じゃあ治せない。祓魔師の領分です」
果物屋の主人は落ち着きなくペルシャの隣に立ち、眠る妻の顔を覗き見る。
その安らかな寝顔からは、悪いものに憑かれているなど想像も出来ない。
「こんなに気持ちよさそうなのに」
「下級の夢魔は宿主の願望を増幅して、幸せな夢を見せるんです。目覚めたくないと思わせて、夢の世界に閉じ込める。眠っている姿は気持ちよさそうに見えるけど、そのあいだにも少しづつ魔力を喰われているんですよ。放っておくと数日から数週間で宿主は死に至る」
死、という言葉を聞いて、おじさんは狼狽した。膝が震え、今にも腰を抜かしそうになっている。
「つ、妻は……妻は死んでしまうのか!?」
おじさんは勢いづいてペルシャの両肩を掴み、前後に揺すった。あまりにも激しく揺するので、あわや椅子から引きずり落とされるのではないかと思うほど。
「安心してください、この手の夢魔なら何度も相手にしてきていますから」
ペルシャは苦笑いしておじさんをたしなめる。
普段と寸分違わない余裕の態度に、おじさんもつられていくらか冷静さを取り戻したよう。ハッとして手を離した。
「すまない。夢魔に憑かれた人を見るのは初めてで……しかもそれが妻だとは。気が動転して……。ペルシャ君の評判は近隣の村からも漏れ聞こえて来るよ。たった一人で夢魔を祓う凄腕の祓魔師だと」
「そうですね。通常は、夢に潜る『ダイバー』と、ダイバーに魔力を補給する『リサーバー』で複数人のチームを組んで行なうでしょうから」
褒められて、特に謙遜するでも無く、ペルシャは頷いた。
祓魔師は、患者の精神世界に、魔力を通して自分の精神を繋ぐことができる。そして、そこに巣食う夢魔を祓う。
魔力の少ない者が行えば、患者と精神が交じり合い自我の崩壊を起こすか、そのまま飲み込まれて消えてしまう。
ゆえに、祓魔師になるための第一条件は、「人より魔力が多いこと」。
他人の魔力の奔流を押し返すだけの魔力が必要となってくる。
「魔力の多さにかけては自信があります。二つの役割を一人でこなせるのは、世界中探しても、僕と、あと数人程度でしょう。下級の夢魔ごとき、天地がひっくり返っても負ける気がしませんよ」
そう言って、不敵に笑って見せる。その笑顔は、いつものように美しいながらも、やや狂気を含んでいるようにも見えた。
果物屋の主人は一瞬背筋に冷たいものを感じ、しかしそれが何なのかは分からないままに頷きを返した。
「そろそろ魔祓いをはじめます。退室してください」
ペルシャが告げると、おじさんは不安そうに何度も振り返りながら部屋を出る。
内側から鍵をかけて、ペルシャは椅子に戻り指を鳴らす。
「離想・反響」
精神を集中すると、ペルシャの魔力の一部が目には見えない一本の管となり、ある場所へと光の速さで伸びていく。
エリックの体内、彼が【借り物】と称した、心臓付近にあるたった一つの核へ。
光よりもはやい速度でたどり着いた管は、元は一つの物体であったかのようにエリックの核へぴたりとくっついた。
「エリック、繋いだぞ。聞こえるか?」
意識のないおばさんと自分だけしかいない空間。本来返ってくるはずのない返事が、ペルシャの脳内に直接響く。
『ああ、聞こえている。準備はできている』
「あの女は? 潜っている間、肉体が無防備になるぞ」
『問題ない。しばらく近づかないように言って、部屋には鍵をかけた』
「オーケー。それじゃあ」
大きく息を吸って、
「行くぜ、狩りの時間だ――独裁・侵域!」
ペルシャの全身から力が抜け、糸の切れた操り人形のごとくぐったりと椅子の上に四肢が投げ出された。
視界が途切れ、精神が真っ白な世界に放り出される。
高いところから落ちるときのように、ぎゅっと絞った緊張感に襲われる。それから強い逆風をうけたときみたいな反発力。そこを越えると今度は水中にいると錯覚してしまいそうな浮力とかすかな抵抗感。最後に目がまわるような感覚がして――
彼の精神は、おばさんの夢の世界に具現化した。
空気中に瞬時にして現れ、軽快に地に降りる。
その横で、同じように現れたエリックが手にしたトランクケースを地面に打ち鳴らし、こめかみを押さえてしゃがみこんだ。
「また酔ったのか」
「こればっかりは……何度やっても慣れない……」
顔を青くしているエリックを放って、ペルシャは周囲を見回す。
二人が降り立ったのは、石畳が敷き詰められ綺麗に整備された広い道。少し先には街が見える。フィオルラよりはもう少し栄えていそうな、それでも充分にのどかそうな街。
海が近いのか、時折吹くひんやりとした風には潮の香りが微かに混じっている。散歩日和といった快晴具合だが、人通りは無い。
「見たことない景色だ。ここはどこだ?」
腕を組み立ち尽くしていると、ふいに、後ろから声がかかった。
「あら!? ペルシャちゃん! ペルシャちゃんじゃない?」
振り向くと、カールした赤髪が小ざっぱりと頭を飾り、ひまわりのような笑顔にそばかすを貼り付けた、可愛らしい少女が立っていた。
つい今見回したときには誰も居なかったはずなのに。
「こんにちは、お嬢さん。失礼だけど、僕達どこかで会ったことある?」
ペルシャが営業スマイルでたずねると、少女はさも面白い冗談を聞いたように声をあげる。
「やだ、何言ってるの。今朝会ったばかりじゃない。私よ、エレナよ」
「今朝……?」
首をかしげて記憶を辿る。今朝……といえば、出会ったのは――
「あ!? 果物屋のおばさ……んじゃないな、えーっと、看板娘ちゃん!」
そう呼ぶと、エレナは嬉しそうに頬に手をあて飛び跳ねた。
「やだあ、看板娘だなんて! ペルシャちゃんったらお上手ね! また今度、サービスしちゃう!」
ペルシャは隣に立つエリックに向けて、小声で話しかける。
「どう思う?」
「普段の彼女がこうしているのを想像すると、気持ち悪いな」
「まったく同感だ。願望はおそらく、若さとかそういうもんだろう。このぶんだと戦わずに済みそうだ。説得する」
「一体誰と話してるの?」
はしゃぎ疲れたエレナは、ふたたびペルシャに意識を向けていた。
彼女の目に、エリックはうつらない。
肉体の無い精神世界では、魔力が人の形を判断する。魔力の無いエリックは、この世界では透明人間に等しい。
唯一の核は、ペルシャが自らの魔力で包み込んで保護している。
「いや、ひとりごとだよ。それより、そろそろ帰ろう。おじさんが心配してるよ」
エレナはきょとんと、目を丸くした。
「おじさんって、誰のこと?」
「果物屋のおじさんだよ。君の夫だろ?」
そう言って彼女を連れ戻そうとペルシャが差し出した手は、音をたてて勢い良く弾かれ所在なく宙を彷徨った。
「そんな人、知らない!」
夫、という単語にエレナは過剰な反応を見せた。「知らない。知らない」と繰り返しその場で頭を抱え喚く。
「私はこの街から出ない! 知らない! どこかの田舎の果物屋となんて結婚しない! 漁師の彼がいるの! 彼と結婚するの! 親が決めたことなんて知らない! 私は果物屋なんかじゃない!」
息もつかず声を枯らして気が触れたように叫び続け、大きく見開かれた瞳はゆらゆらと視線をさまよわせる。
「やべーな。記憶が混濁してる。思っていた以上に根が深そうだ」
ペルシャは姿勢を低くして数歩さがり、腰の剣に手をあてた。
「私は……私は、ずっとここで幸せに暮らすのおおーー!!」
エレナは絶叫し、地面に膝をついた。
彼女の周りの空間が歪み、亀裂がはしる。ひび割れた穴から黒い霧のようなものが溢れはじめた。
その霧は周りの景色を覆い、かき消し、空を、大地を、徐々に黒く染め上げていく。
風景が変わっていくと同時に、エレナ本人にも異変が起きていた。
彼女の目や口から、ドロドロとしたスライム状の透明な流動体が漏れだす。それはエレナの体を包み込むように吸着し、鎧のような形状に変化していく。体の表面を全て包むと、流動体は動きを止めた。そして、足のほうから赤く色を変え、硬質化しはじめる。
「明日からあだ名はロブスター女に決定」
ペルシャは剣を引き抜き、正面を見据える。
向く先、天と地の区別がつかないほど暗くなった世界に、一領の真っ赤な鎧が立っていた。