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 ここに一つの鎧がある。正確には鎧の一式が一つ。どの部分も全身を覆うような形のもので、もしこれを人間が着たら、肌の露出はまるでなくなってしまうだろうというくらいのものだ。

 若干光沢のある艷やかで剛健な鋼鉄に、所々青と白の紋様が入り混り、どこか厳かな雰囲気を醸し出している。そういう鎧だ。

 この鎧を誰かが着ているわけではない。その中身は全くの空洞であり、本来なら動くはずもないものだ。主がいなければ、飾り物として鎮座しているようなもののはずだ。

 だが、その鎧は正しく動いている。

 そして本を読んでいる。

 意識を持ち、考え、自分の意思で本を読み進めている。

 無機質な手甲の指で、器用に一枚一枚ゆっくりとページを捲っている。

 

   ・


 鎧、いや、彼が自我を持ったのはいつだったのだろうか。自我を持ったとは、「自分が鎧であると認識をした」ということを指す。

 自分が鎧であり、意識を持って考えられるようになってからは、記憶も出来るようになった。記憶を持つことが出来た日が自我を持った日であると換言してもよいのかもしれない。その明確なきっかけはなぜか思い出せない。何かきっかけがあったような気もするのだが。

 ただ、自我が芽生える前から、朧気ながらずっと何かを考えていたということは覚えていた。

 そう、意識を持って動いていた、ということは間違いがないのだが、それに対する記憶はない。

 だから、それ以前に何を考え、行動していたのかはわからない。それを思い出すのはまったくもって難しいことだと彼は半ば諦めている。記憶が無いのだから、それに煩わしさを持つことは無駄なのだと彼は考えることにしている。

 彼が自我を持ってまず確認したのは、自分の姿形だった。

 普通の人間と同じく、彼も小さく開いた隙間、つまりは兜の目の部分から外の情報を見ることが出来る。光の明暗も知覚することが出来る。視覚野は人間のそれと同じだ。なので、彼の主観から、自身の身体、動いている部分を逐一観察することは出来たが、全体像は捉えられない。

 彼の居た場所。そして今も居る場所は古びた館だった。彼以外に息を潜めているものはいない。主のいない広い館の中、彼は蠢いている。

 二階。一直線に続く長い廊下。そこで、窓に映しだされた自分を見た。

 最初は「動いているものがいる」という認識ではあったのだが、段々と自分の動きと連動していることに気がつく。

 そう気がつけば後はすぐだ。

 動いている何かではない。これが自分。意識をもって動かしている自分。

 特に感慨深いものはない。彼は事実をありのまま受け入れた。

 そして次に気にかけたことと言えば、まず自分のいる場所、この館が一体何なのかということだ。いや、そこまで深い意味を持って館を探索したのではない。単純に今まで自分が居た場所に興味を持っただけだ。

 館は二階建てで、一階には大きな広間があるだけ。広間全体に敷き詰められた一枚の絨毯。模様が入っているが、それが何の模様であるかを汲み取る感受性は、今の彼にない。

 その絨毯の上に家具類。暖炉の前に、寛ぐための柔らかい布生地の椅子。四人がけの食卓。小物入れ。小さな本棚など、それらが一体何の用途で使われるかも、やはり今の彼にはわからないままだ。

 今度は小さく螺旋状になっている階段を上り、再度二階へ上がる。

 上がってすぐの所に一つの部屋がある。そこから外の景色が見れる窓、自分の姿を見出した、一直線の廊下を挟んで、奥にもう二つ同じ扉の部屋があった。その奥は行き止まりだ。部屋は全てで三つ。

 部屋の扉と窓がある方の反対側には、落下してしまわぬよう、木で出来た手すりがある。

 そこから広間を一望出来る造りになっていた。一階から二階まで、吹き抜けの造りになっているのだ。

 大体の全体像を確認すると、今度は部屋の中に入ることにした。

 最初に選び、開けた部屋。一番奥、行き止まり手前の部屋だ。そこを選んだ深い理由はない。

 そこには幾つもの本棚が立ち並んでおり、綺麗に本が所蔵されていた。

 最初、彼は一体それが何であるのかわからなかった。試しに一冊の本を手に取って見る。

 似たようなもの並んでいるということはわかるが、それが何であるかはわからない。規則正しく、模様が描かれている。そういう風にしか捉えることが出来ない。

 ここでも興味というものが彼を突き動かす。

 まずはひたすらに本を眺め続けた。眺めているだけで、当然理解出来ない。だが、理解が出来ないというだけで、そこに意図を持った何かが記載されているということは理解できた。であるならば、どうやってそれを読み取るかという所に行き着く。

 文字を理解するために、具体的に何をしたのかということは覚えていない。多分、意識的に何かを行ったのかもしれないが、曖昧だ。そのほとんどは眺め続けることしかしなかったのだから。

 文字を満足に理解できるようになるまで時間がどれくらい経ったのかは、彼は全く気にしなかった。もしかしたら思っている以上に短かったのかもしれないし、膨大な時間だったのかもしれない。それこそ人間の一生くらい。夢中で、貪欲に、それ以外のことはほとんど考えずに半ば作業地味た学習を続けていった。

 文字が理解できるようになってからは早かった。

 ひたすらに、そこにあった様々な蔵書…………神話、図鑑、娯楽小説、学術本……等々を読み続けて、そこから莫大な知識を身に着けていった。

 鋭い感性と知性。考え方、大多数の世界に存在する知的生物のこと、つまり、人間とは何であるか、生命とは、幸せとは、生きがいとは──

 全ての蔵書を読み終えた所で、ようやく彼はその部屋から出た。

 一歩出た景色は何も変わっていなかったが、部屋に入る前と後で彼自身は全く持って変わっていた。

 彼はもうここにいる必要はないと感じた。ここにいてもよいのだが、今の彼はどうしても何かをするのに「意味」を必要としていた。ここにいる「意味」は何か。そう問うた時に思い浮かぶものは他に本がある部屋を探すくらいのものだった。

自分が何者なのか、という疑問に関して解決出来る何かがこの館に眠っているかもしれないのだが、それ以上に興味が館の外に向いていた。自分に対する内の好奇心より、知的な、外に対する好奇心の方がより勝っている状態だ。つまり、ある種の興奮状態──しかし。

蝋燭の火が消えるように、一瞬でその外に対する求心力は心内で掻き消された。一旦冷静になる。ここにいなければならない理由もやはりあるではないか、と。

 すぐにでも外に出たいとは思ったのだ。だが、それは自制し、夜に出ると決めた。彼のある憶測。本を読み続ける中で得たその憶測が正しければ、夜でないとまずい道理がある。だから、日中は館にいなければならない。その憶測をきっかけに、自分が何者であるかをはっきりとさせなければならないとのだと内にも意識が向いた。同時に館にも。

 夜にまず一旦外に出てみる。そこから段々と行動範囲を広げていけばよい──そういうことにしよう。日中には館の探索をしていればよい。

以前の彼であったら、日時の概念もなく、「何もしない時間」を無駄であるとは考えなかったはずだ。だから、そういった時間の使い方も思いつかなかっただろう。

 まだ今は夕方近くで、日が少しばかり登っている。

彼は今一度館を探索することにした。


 二階の廊下で立ち止まる。一直線の廊下。外の景色を一望出来る窓の前。

 今度は窓に写った自分ではなく、その向こうにある景色を眺めた。

 一本の地平線と、その線にもう少しで落ち込む陽。

 手前には広大な青色、いや、夕焼け色に染まっている水。

 これは海だ。以前も見ていたはずなのに、海なのだと今、認識できる。

 本の知識と眼前のものが合致した。思わず感極まる。

 感極まったと同時に、彼は酷く落胆してしまった。

 海を見て感動が出来る。それに、たった今落胆することも出来た。そういう感情を持っている。興味や好奇心も持ち合わせている。

 それなのに……なぜ……なぜ、人間ではないのか。

 そう、自分の姿形に疑問を持ってしまった。疑問を持ったのは初めてのことではない。自我を抱いてから漠然と持ち続けてはいたし、本を読んでいる中でも何度も思い悩んだことだ。だが、本を読んでいるときはどこかでそれを押し殺すようにして、あまり考えないようにしていたのかもしれない。

 今度はもう一度窓に写った自分の姿を見る。

 無機質な鋼鉄。中には何も入っていない。

 間違いなく、人間ではない。

 ああやって、たくさんの本を書き連ね、知性を持ち合わせた人間ではないのだ、と初めて理解したかのように、再認識をした。

 では一体自分は何者なのだ……

 いくら考えようとも、「ただの動く鎧」。そういう結論しか出て来なかった。

 認めたくなかった。自分が異形のものであると。純粋な生を持っているのではないのだと。

 だから、昼間に外に出ることは躊躇ってしまった。読んだ本の中には、人間として受け入れられないものは迫害の対象と成りうると書いてあったからだ。それに……と、更に悲観的な憶測をしてしまう。だが、その考えは振り払った。考えたくもないことだったのだ。もう一度思考の残滓を取り払って、もう考えないことにする「その」ことについては。

 とにかく、その迫害を受ける対象に自身はなりうる。漠然とした憶測であるし、近くに人間がいるのかを知らない。

 とにかく外に出てみないことには。

 

 それから、海をずっと眺めて、陽が落ちるのを待っていた。

 じわり、じわりと完全に隠れきって、そこから夕焼け空が段々暗くなるのを待った。

 完全な闇に包まれてしまっても、それはそれで不都合だ。何も見えない状態だと困る。

気持ちは昂ぶっていた。彼は初めて今までいた館の外に出るのだ。無理もない。前までだったら、本を読む前だったら、外に出るという意味も理解していなかったはずなのに。

 不安と好奇心が入り交じって恐る恐る館の門を開ける。

 正面には大きな黒い柵があり、所々錆びている。簡易的に施錠されていたので、それを外す。

 柵を出た所で、改めて今まで居た館の外観を眺めてみた。

 やはり大きい。普通の人間が住むような家ではないのかもしれない、と漠然とではあるが理解できる。

 正面に向き直ると、道があった。舗装されている。その道を進む前に、一度館の裏側にまわってみることにした。

館からの景色同様、海が広がっている。当然だ。

 館は崖の上に建っているようで、崖下を見ると随分水面までかなり距離がある。落ちたらひとたまりもないだろう。

 一体何故こんなところに館が建っているのかは彼が知る由もない。

 もう一度正門の方に戻って、先ほどの舗装された道。ゆるやかな坂道を下ってみることにした。

 道は一本道で、両側は深い森だ。森は一度入ってしまったら出られなさそうなくらい、暗澹としている。

 一本道ではあるのだが、途中途中大きく蛇行して直角に近いくらい曲がっていたりする。それとこれでもかとばかり背の高い木々のせいで先々の景色があまり見えない。

 彼はひたすらその坂道を下っていった。それだけでも、見たことのない景色を見ることだけでも、彼の好奇心は十分に満たされていった。

 本で読んだ動物などが、ちらちらと視界に入ったりもする。

 フクロウ、トカゲ、アリ、リス、

 そんな動物たちが挨拶を告げるように現れては森の奥に消えていく。

 ──楽しい。

 純粋に彼はそう思って足を進めていった。


 坂道が終わり、平坦な道にでた。そこから更に進むと、大きな洞窟が待ち構えていた。

 舗装された道はここで終わっている。両側にはやはり森しかない。中は暗すぎて、もはや何も見えなかった。

 彼は全くの疲労知らずであるから、このまま入って中を探るのもいいと考えた、だが、そうしている間に日が登るかもしれない。

 もし、この近くに人間がいるのであれば、やはり見つかりたくはなかった。自分がどういう風に捉えられるかやはり不安なのだ。

 なので、一旦ここは館に戻ることにした。

 そもそも、段々と行動範囲を広げられればいいという考えだったのだから、ことを急く必要はないのだ。また来ればいい。いつでも来れる場所だ。


 

 館に戻って、彼はエントランスの食卓に一人で腰掛けた。

 腰をかけて、本の中で得た知識を思い出す──

 人間は仕事をする。仕事を終えた後は、くつろぎ、食事をとり、明日のことを考えながら眠る──

 彼に知的好奇心は備わっていはいるが、食欲や睡眠欲はやはり無い。だから、せめてもと思い、人間が恐らくそうするであろうように椅子に腰掛けてくつろごうとしているのだ。

 だが、その勝手がいまいちわからない。本に書いてあるように安息を取ることが上手く叶わない。

 やるせない気持ちになり、すぐに彼は椅子から立ち上がった。

 まだ館の探索は終わっていない。

 気持ちを切り替えて、二階へ足を運ぼうとした、その瞬間だった。

 ──物音が聞こえた。

 彼は、音に関しても、人間のそれと同じくしてはっきりと捉えられることが出来る。体のどの部分が、というよりかは殆ど感覚的な問題だ。彼自身どうやって聴覚や視覚、触覚が働いているのかはわからない。

 聞き間違いなどではない。いつもは静寂に包まれていて、その静寂に慣れきっているのだから、物音がすればすぐにわかる。館の天井に何かが当たった音なんかでもない。確かに室内で聞こえた音だ。

 振り返り、二階の方を見据える。慎重な足取りで、ゆっくりと階段を上った。

 上った先の長廊下にその物音の発信源はいた。

 人間だ。

 赤い長髪と目。

本で得た知識を総動員して、女性であり、かつ、成熟していない少女だと認識をする。

 初めて人間を目にしたので、彼は見とれてしまう。警戒心よりも、もっと大きな感動があった。最もその一瞬後に、多大な不安に包まれてしまったのだが。

 一方、その人間は、彼を目の前にすると足と両手を震えさせて、目に涙をうっすらと浮かべた。

 その内、腰が抜けて尻もちをついてしまった。

「──来ないでッ! 化物!」

 甲高い叫び声がこだまする。

 何を言っているのか理解は出来ない。しかし、拒絶されているということはよくわかった。やはり、この姿形で動いていることは、人間にとって脅威だったのだ。不安は的中した。

 どこかで、そんなことはないのかもしれないと可能性を抱いていた彼は心底失望してしまう。

 どうすればいいかはわからない。決して害を加える気などないのだ。

 その意思を伝えようと、ゆっくりと彼女の元に近づく。

「嫌ッ! 来ないで!」

 彼女は尻もちをついたまま後ずさりをして、手に持っていた短刀を彼に投げつけた。

 胸の辺りでそれを受け止めた。金属音がして、短刀は地面に刺さった。胸を見ると、小さな傷がついているだけで、鎧の彼に効果はなかったが、精神的な傷をつけるのには十分だった。

 彼は動きを止めた。近づくことそのものが逆効果なのだとそこでようやく気がつく。彼もまた、彼女と同様混乱をしているのだ。

 そうして、動きを止めた二人は睨み合った。

 彼が動かないことを見て、彼女も幾らか落ち着きを取り戻したようだ。怪訝な表情になり、彼の足元から頭まで注意深く観察している。そして、手をついてその鋭い目を向けて警戒を向けたまま立ち上がった。

 それを見て、微動だにしなかった彼ががゆっくりと右手を差し伸ばそうとした。彼なりに知恵を振り絞ったのだ。

 握手。

 本では、挨拶をした時にする儀式のようなものだと書いてあった気がする。

 ──しかし、これも逆効果だった。

 その右手の初動で、彼女は後退して、また恐怖の表情を浮かべる。恐怖が限界に達したのか、叫び声を発して、二階の手すりから一階へ飛び降りていってしまった。高すぎるという高さではないが、低すぎるという低さでもない。もしかしたら、怪我をしてしまうかもしれない。それくらいの高さだ。

 安否を確かめようと階段を降りたが、早急に彼女は館を出ていってしまっていた。

 彼は自分の右掌をもう一度よく見てみた。穴が開くほどよく見てみても、それはやはり無機質な鋼鉄だった。


 それから彼は階段の上で立ち尽くした。

 何をする気にもならなかった。さっきまでは、あれ程外に興味を抱いていたのに、明日にはあの洞窟を探検してみようと意気込んでいたのに、その考えも今では消し飛んでいた。

 人間とのやり取りが何度も反芻される。

 特に、恐怖に慄いた表情。

 もしかすると、外には出ないほうがいいのかもしれない。人間と相容れることが出来ないのなら、拒絶しかされないのなら。

 考えを巡らせているうちに、気がつくと日が暮れていた。


 結局、彼は再度館を出ることにした。また人間に拒絶されたらと思うと、不安は増しているばかりだったが、館にいるだけではそれがもっと肥大化しそうで怖かったから。

 そして、まだ微々たる希望はあるのだと無理にでも思い込むことにした。本当に解り合えないのだと決まったわけではない。

 どうにかすれば、可能性はある。

 その、「どうにかする方法」は依然全く分からないままだったのだが。

 鈍い足取りで、ゆっくりと扉を開ける。 

 柵を出て、坂道を少し降った所で、すぐに気が付いた。

 先ほどの、あの赤髪の少女が倒れていた。俯せで、こちらに気が付く様子はない。

 恐る恐る近づいていく。

 目を閉じている。この状態は、人間が外的要因で「気を失っている状態」だと認識をする。呼吸はかろうじてしているようだ。

 彼に芽生えたのは罪悪感。こんな事態になったのも、全て自分のせいに違いない。


   ・


 右足の鈍い痛みで目が覚めた。

 重苦しい現実世界。嫌だ。

こんなに辛くなってしまうのなら、目が覚めなければよかった。


 彼女……リオナ・アルページは奥歯を噛み締めながらゆっくりと起き上がった。そこで初めて自分が今いる場所に疑問を持った。

 リオナが持っている、気を失う前の一番最近の記憶は、館から飛び出し、そこで右足の痛みに耐えかねて歩けなくなってしまったということだ。

 そのまま蹲り、雨が容赦なく打ち付けて、どうでもよくなり……そのまま。

 確かそんな件だったはずだ。

 なのにここは屋内。ベッドの上で寝ていたようだ。掛かっていた毛布の触り心地はとてもよい。上質なもののようだ。

 一体なぜ……?

 また右足が痛んだ。見ると大きく腫れ上がっている。少しでも動かすとかなり痛むので、立ち上がって部屋の外に出ることも叶わないくらいだ。飛び降りた際に捻り、何かものに打ち付けてしまったようだ。打痕のようなものもうっすらと残っている。

 室内をもう一度よく見回してみる。少々狭いが、きちんと整頓されており、居心地はよさそうだ。小洒落た雑貨を中心に部屋を構成している。牧歌的な雰囲気。

 後ろを振り返ると、窓があった。海が見える。

 そこで彼女は気が付いた。どこかで見たことがある景色。

 この景色は。

 事実と記憶を合致させたその瞬間に、扉がゆっくりと開いた。

「悪夢だわ……」

 思わずそう呟く。

 あの、動く鎧がそこに立っていたのだ。

 鎧はゆっくりとこちらに近づいてくる。その鈍さが一層不気味さを出していた。リオナは慌てて周囲に何か武器となるものがないかを探す……だが、何も見当たらない。

 躙り寄る鎧。リオナは一気に混乱してしまう。

 目が覚めても、こんなことになるなんて。

「来ないでッ!」

 近くにあった一冊の古びた本を投げつけた。鎧には当たるが、当然何も効いていない。

 だが、その動きは止めた。

 そういえば、前もそうだった。短刀を投げて命中させた時も、この鎧は動きを止めた。

 もしかしたら何か効果があるのかもしれない。

 ならば、と、引き続き部屋にあるものを片っ端から投げつけた。無我夢中で、どこか狂気も入り交じっていたのかもしれない。自身の中にあった鬱憤を吐き出すように。必死で。

 気がつけばうっすらと涙を零していた。それは、鎧に恐怖をしたものではなく、彼女の身に起きたことに対してだったが、リオナは気が付いていない。

 もはや、鎧を退かせるという目的でものを投げてはいなかった。どうしようもない、やり場のない気持ちをぶつけているに過ぎない。

 部屋は既に見違える程散らかっている。リオナも肩で息をして、これ以上物を投げることに疲れてしまっていた。

 思いつく限りの罵詈雑言を鎧に浴びせる。

 遂にそれも言えなくらい疲労して何も出来なくなると、鎧はまた動き出した。身構えるリオナ。

 しかし、攻撃はしてこなかった。踵を返して、入ってきた扉から出ていった。頭を打ち付けそうになっていたので、器用に屈んで。

 よくわからないが、攻撃はしてこなかった。物を投げつけたのが本当に効果があったのかもしれない。

 痛みのある足をもう一度見る。やはり移動は困難だ。

 もう一度ベッドに横たわる。疲れた。全く畏怖しきっていた鎧のことなどもはやどうでもよくなるくらいに。ただ疲れた。肉体的にも、精神的にも。

 毛布の暖かさ、その心地よさがもたらす安穏により、落ち着きを取り戻させることによって、逆にリオナの心をどうしようもなく掻き乱してしまったのかもしれない。だから、毛布に丸まった後、静かなうめき声を出してまた泣いた。脳裏にはやはり、彼女をこんな状態へとせしめた事実が押し寄せてくる。それは嫌でも突きつけられる。

 どうしてこうなったのだ……?

 自分の意識とは裏腹に、その疑問から発作的に否が応でも記憶をたどっていく事になった。
































「あくまばらいってなに?」

 リオナがまだというクーデシュカという名の村で生活をしていた頃のこと。

初めてその悪魔祓いという儀式があるのを知ったのはまだ幼い頃。歯が生え変わるかという年頃。祖父のギヴィンそう尋ねてみると、こう返答された。

「悪い子がいないか、っていう簡単な試験のようなものだよ」

 祖父は淡々とそう語った。語る目がどこか儚げで、幼いリオナにも印象的な記憶を残すのに十分なくらいだった。

 そもそも、悪魔祓いをリオナが知ったのは、それまで仲良くしていた同年代の友人が突然姿を消したからだ。

 村の誰に聞いても、「悪魔祓いをするために、遠くに出かけた」という類の返事しか返って来なかった。幼いリオナには意味がわからず、ただ大切な友人が消えた事実のみがそこに残った。最初こそ悲しかったが、時間の経過と共に、友人はどこか遠いところに行ってしまったということで折り合いをつけることが出来たし、リオナが大人になりさえすれば、いずれ会えるものだと思い込んでいた為、そこまで尾を引くようなものではなかった。


 悪魔祓いは、クーデシュカ村の暦で毎年一回、決められた日に行う。

 といっても、行われるのは深夜で、まだ成人していない子供を対象にしたものだ。何かどこかに人を集めて行うのではなく、子供たちが眠っているときに悪魔が憑いているかどうかを村の長であり占い師でもあるゴドフに診てもらう。そういうことらしい。リオナがもうそろそろ胸も膨らんでくる時分にはそこまで詳細を知ることが出来ていた。

 最も、幼少のあの時以来、「悪魔祓い」が漠然と怖いものであるとは感じていたが、その頃からはずっと村から突然去る人間なんていなかったし、何よりリオナ含む子供たちは、いつ悪魔祓いがあるのかを知らされていない。

 明日かもしれないし、昨日だったかもしれない。いずれにせよ、寝ている間にその儀式は終わるのだから、意識すらする必要がない。

 毎日を精一杯暮らし、よく働き、よく学び、よく食べて、それで熟睡すれば幸せだったので、「悪魔祓い」に関してはいつからだったか、リオナの頭の中では次第に存在を薄めていった。


 そうして、リオナは平穏無事にすくすくと成長していった。

 村の外にも、色々な世界が広がっていることをリオナは知っており、そちらに好奇心がなかったといえば嘘になるが、それ以上に村が大好きだった。

だから、村で穏便に過ごす幸せを手に入れよう、とそう思い、村での生活を営み続けていた。

 村の人達には活発な少女として愛され、育みを受けてきた。友だちも多くいる。幼い頃に両親を亡くしたが、それはまだリオナが赤子のころの話だし、悲しみはとうに乗り越えた。その代わりに祖父が同様に愛を注いでくれている。

 この村で生まれたのだという誇りが確かにある。

 たまに赴く、村を一望できる丘から、景色を見渡す。決して絶景ではないが、リオナにとってはかけがいのない、この世で大好きな景色の一つであった。

 この景色を見る度に、ここで生まれ、今まで生きてきてよかった、とそう感慨深い気持ちになるのだ。


 クーデシュカ村では、成人を迎えるにあたって、自分がどういう職に付き、何のために生きるのかということを話合う会合があった。多分に漏れず、成人前のリオナもそれに参加した。半ば強制的なもので、それに参加しなければ、後に行われる成人の儀に参加が出来ず、成人が出来なかったものは一人前と認められないまま翌年まで待たなければならない。

 仕事とは何か、村とは、共同体とは。家族とは。人生とは。愛を持つこと、命を創りだすこと。

 中々に堅苦しい話が享受され、どの成人者もあくびを噛み殺して話を聞いていたことをリオナは覚えている。

 リオナは至って真面目に聞いていた。どれも為になる話だったし、成人を迎えるに当たって、今後の人生をどのように生きていくかということを考えることは非常に建設的で有意義なことだった。

「では、リオナはどう思う?」

 真面目に頷きながら話を聞いていたリオナは、会合の議長であるゴフドに名指しで意見を仰がれる。

 題目は確かえらく具体的で、

「愛せる人間の為に、全てを投げ出せるか」

 というものだった。

 脈絡関係なくそういった議題を投げかけられたものだったから、リオナも答えに困った。今まで大人の保護下にあった身の上だ。そんな判断をする場面に出くわしたことがなかったから、即答が難しかった。多分、時間をかけて考えても、漠然とした答えしか出てこないだろうとも思った。

 何と答えたか忘れてしまったが、結局しどろもどろになって、ろくなことは言ってなかったのだということは思い出せる。

 その後、その題目から今後、成人を迎えた一人一人の生き様、働きがこの世の全てのものに影響を与え、帰結するのだということをゴドフは淡々と語っていった。ゴフドにとっては、何度も何度も語り尽くしたことなのかもしれない。その語り様がえらく流暢だったものだから。

 まとめると、そういうことだから、今後の人生も他人に役立つように生きよう、という話だった。

 その話にリオナは少しだけ感銘を受けたような気がした。少しだけ、というのはどうもゴフドのことをいつも胡散臭い人間だと思っているからそういうことになってしまうのだ。

 会合の後、問われた題目の正解についてゴドフに聞いてみると、

「正解など無い。自分の考えた通りの答えが答えだ。これから見つけていくのもよい」

 といった旨のことを言っていた。


 ──成人して、これから。

 確かに、話の通り誰かの為に生きようという気持ちは持っていた方が、きっと胸を張って、前を向いて生きていける。なにより、そういう生き方をしてれば、いざ死ぬ時という時に笑顔で死んでいくことができるはずだから──

 

 そして、その夜。

 明日が遂に成人の儀を執り行う日なので、リオナはいつもより早く寝て準備をする。

 あまり寝付けなかったのは、これから先のことをどうにも考え過ぎてしまっていたからだ。大人になってからの自分について、思いを馳せていた。

 深く考えすぎても、それはそれで毎日生きることが重くなってしまう。

 だから、今まで通り生きよう。

 今までが楽しかったし、これからもきっと楽しい。

 その楽しさの中で、何をしていくかを少しずつ見出していけばいい。

 リオナはそう思い床に就いた。

 瞬間、部屋に誰かが入ってくるのを感じた。

 最初は祖父かと思ったけども、そうではなかった。

 見知った顔。今日会合を開いていた大人たちだ。

 ゴドフを中心に、両脇に二人、その後ろにもまだ人影が見える。

「まだ、起きていたのか」

 人の家に平然と上がり込んでいるこの事態こそがおかしく、その異常を突き詰める権利は自分にあると思っていたが、ゴドフが平然とそう言ったものだから、何だかまだ寝ていない自分の方こそが悪いのかと思ってしまう。

「ゴドフさん。一体こんな夜中に何なのかしら。ギヴィンさんは?」

「ギヴィンなら下で寝ていたよ」

「勝手に上がり込んだっていうの? 仮にも私、女の子なんだけど」

「知っておる。わかっておる。起きているのならば、しょうがない。これが最後の悪魔払いじゃ。心して受けよ」

「悪魔祓い?」

 すっかりと忘れていた村のしきたり。成人の儀が明日なのだから、これが最後になるのか。

 ぼんやりと、悪魔祓いが本当にあったのだと身にしみて、眠気をこすりながら、なすがまま現場を眺めていた。

 そこから先は記憶が曖昧だった。なぜだか、思い出したくても正確に思い出せない。

 大人たちが悪魔祓いの為の道具を取り出して、儀式を行なっている最中。ゴドフが突然何かを叫んだ。この時何を言われたのか。

 そして、突然目付きが変わったように、大人たちはリオナのことを見ていた。そう、あれは間違いなく畏怖の感情があったように見える。同時にわずかな怒りも。

 事態が飲み込めないまま、大人達の誰かに殴られた。平手で叩かれたとか、そういう生易しい次元ではない。拳で顎を殴られ、そこで気を失ったのだ。

 

 次に目が覚めた時は、村の広場にいた。既に夜が明けて昼間だった。

 両手が前で縛られていた。体の全身が痛む。

 どこかから石が投げつけられ、肩にあたった。

 事態をなおも飲み込めないまま、ゴドフが現れた。

 そして、何かを言っていた。何と言っていたのか、ここもまた思い出せない。ただ、決定的な最後の台詞だけは今も思い出せる。


「だから、リオナ=アルページは悪魔の子なのだ」


 そう、確かにそう言った。


 馬鹿げてる。おかしい。一体何だこれは。

 村の人間がリオナを囲い込み、道中の死体を見るようなけがわらしい目でこちらを見下ろす。

 やめろ、やめて。

 有り得ない。どうして。仲良しのヴィナちゃん、お隣のゴヨダさん、いたずら好きのフィテディ、シハット。ひっそりと思いを寄せていたノブコルド君。


「追放しろ」


 どこかからそんな声が挙がった。それが火種となって、ありとあらゆる罵声が浴びせられたと思う。

 目の前の人々は、本当に自分が知っている村人達なのか。違う何かに彼らこそ取り憑かれているのではないか。

 違う。

 皆一様に自分が何らかの「悪」だと喚き立てている。

 自分の一体何がおかしいのか、何をしでかしたのか問おうと叫ぼうとしたが、喧騒にかき消される。

 何かを訴えても無駄なのだ……だから、思考を停止した。

 自分だ……自分が……

 夢ではない、現実なのだと体の痛みが教えてくれた。

 


 たったひとつの、村のしきたりという不文律によって、リオナは村を迫害された。「悪魔の子」だと認定されて。

 自分が一番愛していた、故郷の人間により。それが耐えがたい苦痛だった。


 なぜ、自分は悪魔なのか。

 悪魔として見られたのか。

 その事実は依然暗闇に閉ざされたままだ。


   ・


  暗転


   ・













 うなされながら、リオナは目を覚ました。

 あのまま眠ってしまっていたことに気が付く。

 体が熱い。思わず毛布を払いのける。汗を大量にかいており、服の上から汗が滲み出ている。

 異常に腹が空いた。喉もからからで、体の奥底から食べ物と水分を欲していた。

 だが……と足を見る。やはり、腫れは引いていない。少し寝たくらいで回復しないことはわかりきっていたことだったが、心なしか腫れがまた膨れ上がっているような気がして、リオナは更に落ち込んでしまった。

 気が滅入る。滅入り過ぎた。

 好転しない現実が、辛辣にぶら下がっている。寝ても覚めても同じだ。悪夢でうなされていたのだから。

 これ以上生にしがみつく必要はあるのか、と自分に問いかける。

 今まで自分が生きてきた全ての人間に否定されて、放逐され、なおも得体の知れない化物がこの館のどこかに潜んで、今にも襲いかかってくる気配だ。

 リオナは若い。短い人生の更に短い一部分の期間だということはまだリオナの主観ではわからない。割り切ることは到底出来ない。幼い彼女にとってそんな考えが及ぶわけもない。

 今までの全て、存在が村の中にあったのだから、それを否定された今──

 絶望しかない。その先にあるはずだった幸福も今では霞んで見える──いや、霞んですらいない、全くない。何もない。無。

 このまま何もせず死を待てばいいのではないか、そんな考えが脳裏によぎる。

 だが、リオナはそこまでの勇気を持っていなかった。生を突き放し、全てを放棄する勇気を持っていなかった。

 そもそも、死を真面目に考えたことはなかったので、いざ死んでもいいのではないかと考えると途端に恐怖が押し寄せてきた。

 死んだら──本当に、無だ。何もなくなる。

 そう思うと同時に彼女の本能がぎりぎりの所で呼び覚まされる。

 まだ、生きたい。

 いや、絶望を見て生きたくない。死にたくない……?

 ──死にたくはないが、今動きたくはない

 動かなければ死ぬ。でも、でも。

 そんな矛盾した思考がぐるぐると頭を駆け巡り続ける。

 少しして、リオナはベッドからようやく動く気になった。何か理由があったわけじゃない。もはや人間の、いや、動物的な本能で体を動かしていた。そこに過去の記憶は付随していない。思考を停止して、ただ今の生にしがみつこうとした。それ以上でもそれ以下でもない。それがきっとリオナの最後の生命線。か細い命綱。

 ベッドから立ち上がる。痛みが針を刺すように右足から駆け巡る。

 何か支え棒になるようなものはないかと探すが、めぼしいものは何もない。そのまま床に這いつくばって、移動を開始した。とにかくこの部屋を出よう。ただそれだけ考えて両腕で前進する。右足が何かに触れただけで痛い。痛い。何が? 身体が。身体だけが。痛い。

 歯をくいしばって、必死に前に進む。距離は遠い。普通に歩けばすぐそこにあるのに。

 扉の前までなんとか辿り着く。しかし、今のリオナからでは、扉を開ける為の取っ手の位置が高すぎた。もはやその位置まで腰を上げる気力もない。

 這いつくばったままで、手を差し伸べてみる。届かない。わかりきっていたことだったのに落胆してしまう。そのままぐったりと手を落とす。もう一度このまま寝て、また起きたら今度はここから出てみよう、それでいいじゃないか、と胡乱な頭で考える。次に果たして起きれるかどうかはわからないけども。

 疲労、空腹、乾き、痛み。混合して襲ってくる。視界が霞む。気を失う寸前を体感している、と何となく感動する。いや、今は感動するその体力すら惜しい。

 生にしがみつくことも諦めようとした。一瞬、また記憶が脳裏をよぎってしまったから。一度決壊してしまったら終わりだ。記憶の濁流がリオナを崩壊させる。

 その寸前。決壊の一歩手前。

 匂いがした。

 何の匂いだろう。焦げ臭い。焦げ臭いが、火事やそういった類のものではない気がする。いつか、自分も嗅いだことがある。どことなく懐かしい匂い。

 おもむろに、扉の方を見てみた。必要最低限に、爬虫類か何かのように、目だけを動かして。


 ──いつかの鎧が立っていた。昨日会ったばかりなのに、久しぶりに会ったような、そんな感覚。

 リオナには既に鎧に対する恐怖はなかった。鎧に、というよりは死への恐怖ということかもしれない。危害を加えるのなら、いっそ一思いに捻り潰して、楽にして欲しかった。

 分厚い鉄鋼の掌には何かが載せられている。匂いの発生源はあそこだ。湯気が立っている。

 鎧はしゃがんだ。目があるのかはわからなかったが、丁度リオナの顔を覗き見るようにして顔を近づけた。すぐそこに、目の前に鎧の兜がある。鋼鉄の仮面。目があるべき所は空洞で、その中には誰もいないはずなのに、リオナを見据える鎧のその仕草は、考えていた化物としての鎧がするような行動ではなかった。

 意外な気持ちになったまま、リオナも鎧を見据える。

 少しそうして睨み合った後、鎧は手にしていたそれを床に置いた。

 見ると、焦げた何かが乗っている。何か動物の肉であったろうことは推測が出来るが、表面ほとんどが真っ黒で、何の肉なのかはわからない。

 その横には容器一杯の水があった。

 何も考えず、まずは水を一気飲みする。両方の口元から水が零れ出ているのも構いなしに、喉を鳴らして盛大に水を飲み込んだ。あまりに勢い良く飲み過ぎたため、胃から戻しそうになってしまった。咳き込み、むせる。

 今のリオナにその水の量で充足は出来なかったが、空腹でもある。目の前の焦げた塊も口に入れることにした。

 まずは一切れを手で掴み、口に入れる。想像と違わず、焦げの味しかしなかった。何らかの味付けがしてあるようではあったが、焦げに負けてしまって、どういった類の味付けなのか不明瞭だ。だが、食べれるものは食べれるし、味の咀嚼などどうでもよくなった。それから、その焦げ肉も一気に平らげた。

 ふと、顔を上げる。鎧が見下ろしていた。

「何見てるのよ」

 嘲笑うようにして言ってみた。

 リオナの問いかけに鎧は身動き一つしなかった。意図的にその動きを静止させたかのようにも見える。

「喋れないの? どうなの?」

 返答無し。動き無し。

「……あなたは、一体何なの?」

 口をついて出た、実直な疑問。

 人に危害を加えるような化物でなければ、一体何であるというのだろうか。そして、なぜ自分に水と食べ物を与えてくれたのか。

「助けてくれた……なんて思わないわ」

 リオナはまるで素直じゃなかった。もしかしたら、こんな得体の知れない先ほどまで化物としてしか捉えられなかった鉄塊が命の恩人となる……そんな事実を受け入れたくはなかったのかもしれない。

 胃に物を入れて先ほどまでよりはいくらか気分が落ち着いているのだが、依然、頭が混乱していることには変わりはない。落ち着いて、思考を巡らすことが出来るからこそ、より一層混乱してしまった。

 鎧はやはり動かないままだ。

「私は水が欲しいわ。もっと、水を」

 無音。

 堪りかねたリオナが、容器を持って這いつくばったまま、鎧の右足に押し付けた。

 意を解したのかは不明だが、鎧はその容器をもって部屋を出ていった。

 リオナは心底今の状況を笑ってやりたくなった。みじめな自分に手を差し伸べたのは人間ではなく化物。

 化物として化物と共に過ごせということか。

 おあつらえ向きだ、と自嘲する。

 

 すぐに鎧は戻ってきた。

 その手には並々と水が注がれた先ほどの容器。屈んで、リオナに手渡し、また一気に飲む。そうして、もう一度鎧に容器を渡した。

 その往復作業をもう二度程繰り返した後、リオナはようやく乾きから解放された。と同時に、今度は生理的な催しをしてしまう。尿意だ。

 こればっかりは自分でどうにかしなければならない。

「ここから出たいの。私を出してくれない」

 何も返って来ないのはわかったが、どうやら意図は酌めるらしいのでとりあえず聞いてみる。やはり反応はない。言葉はやはり理解していないのだろうか。

 立ち上がって、部屋から出るしか無いのだが、依然痛みは引いていない。

「ねぇ、お願い」

 手を差し伸ばしてみる。

 鎧はそれを見てはいるが、見ているだけだ。

 必死にその意図を考えているようにも見えるが、真意はわからない。気のせいかもしれない。

 わからないから、手を伸ばし続けた。手を取ってくれるまで。肩の力が持つまで。

 どれくらい待ったかわからないが、ようやく鎧はその手を支えた。待っていればそうしてくれるだろうと何となくリオナは思っていた。

 冷たくて、生気がなく、決して温もりのある手ではなかったが、得体の知れない鎧とでも通じ合えたことは今のリオナにとっては喜ばしく、絶望の中に一つの隙間を開けられたような気がした。


   ・


 鎧が危害を加えない存在だとわかり、そのまま奇妙な共同生活が始まった。

 リオナはほとんどベッドの上で寝ていた。一度は生と決別しかけたのたが、極度の飢えと疲労という困窮状態からある程度回復を図ったことにより、頭の奥底ではなおも生に絶望をしているものの、自ら退廃的な行動を取ることはなかった。生にしがみついたといってもいい。差し伸べばされた手がそこにあったのも理由の一つかもしれない。

 ただ、自分から何かをしようとは思わなかった。

 何も考えないように、毎日頭を思考停止させて、日がな動かず、寝よう寝ようとして一日一

日を過ごしていった。

 鎧は何も言わないでも、食事と水を用意してくれた。ベッドの上でそれを食べているのを鎧は毎回じっと見ていたように思える。そして食べ終えると、すぐに食器類を片付けて部屋から出ていった。

 何故そこまで自分の世話をしてくれるのかは疑問ではあったが、段々と毎日毎日当たり前の光景になってきて、特に疑問を抱かないようになっていた。

 遠い目をして鎧の存在も気にせず、食べて、寝て、食べて、寝て、食べて、寝て。催したくなったら偶に外に出るくらいだ。極力動きたくなかったし、外に出るのも億劫だったから可能な限り我慢はして、なるべく日が沈んだ後にまとめて用を足していた。

 そうしてその日暮らしを続けていたのだが、時間の経過と共に足の方は順調に回復していった。腫れが引いて、軽く触って見ても痛みを感じない。リオナは少しばかりそれを見て安堵した。

 

 ある日の夜、便意を解消するために部屋の外へ出た。夜風が涼しく、虫の音も聞こえる。

 以前程移動が困難な状態ではない。覚束ない足取りで広間に降りていくと、鎧が食卓に座っていた。光もなかったので、少々リオナにとっては薄気味悪い光景ではあった。

 近づいて何をしているのかと見てみると、鎧がよく運んでくれている食草の泥や汚れを取っていた。

 食事は勝手にどこかから現れるのではない。鎧がこうして準備をし、蓄えて用意してくれているからリオナの口に入るのだ。当たり前過ぎる事実をその光景を見て再認識した。

 鎧は手を止めて頭を動かしリオナを一瞥すると、何事もなかったかのように、もう一度視線を手に戻して作業を再開した。

「人間と同じく、目があるの? 全く無いように見えるけど」

 今までの挙動から、どうやら視線があるように思えたから、そう質問してみた。こちらを向いただけで、当然返答はない。その動作が答えだとでもいうのか。

 鎧の様子を伺いながら食卓に座ってそれを食べてみた。鎧はいつも通り、リオナの食べるその様を眺めているように見える。

「あなたって寝ないの?」

 理解しているにせよ、していないにせよ、構わず質問をぶつける。

 単純に気になった。

 もし、寝ないのだとしたら、自分がそうであったら、とても寂しくなってしまいそうだと思ったから。

 しかし、案の定返事はない。虚しくなったので、もう何かを問いかけることはやめた。

 意思疎通は出来なかったが、平穏なその時間を共有したことによって、鎧に対する警戒心が更に薄れていった。

「それじゃぁ、おやすみ」

 館の外に出て用を果たし、部屋に戻る。


 鎧は化物や恐怖の対象ではもはやなく、善意を持って自分に接してくれる相手と認識することが出来た。その存在が全くもって不可解なことには変わりはなかったのだが。


 その翌朝。リオナは部屋に篭り切ることを止めた。はっきりとそうしようと決心した理由があったわけではない。突き詰めていくと、鎧の様子をまた見たくなったから、という所に帰結するのかもしれないが。

 広間に降りて、暖炉の前のゆったりとした長椅子に腰を落ち着ける。

 鎧は昨日見たままの姿勢でそこに座っていた。ずっとそこにいたのかと思う程、光景が同じだ。

 昨日と違う点と言えば、食卓に丁寧に食事が配膳されているということ。偶然かもしれないが、まるでリオナが降りてくることを予めわかっていたかのように。

 そして無言で食卓につき、無言でありつく。昨夜、鎧が仕込んでおいてくれたものだろう。

 あのベッドの上ではなく、広間で腰を落ち着けて、久々に誰かと食事をとった。リオナにとっては、奇妙な団欒であったが安らかな気持ちになった。当然鎧は何も食べてはいないが。

 そして、鎧に再度尋ねた。 

「あなた、一体何者なの?」

 以前も言った疑問をもう一度口にする。

 呆けた毎日から、昨日を堺に鎧のことが気になって気になって仕方がなかった。だから、リオナはそう尋ねた。

「私を助けてくれたってことは、あなたは物事をちゃんと考えて行動しているということよね? 人間が何を必要か理解している。水と、食料と、安息。食料に関しては調理方法まで理解している……あなたは全く食べないにも関わらず。そして、あなたは私が怪我をしているということもわかっている。少しおかしな話だわ。それにしてはあまり言葉を理解しているようには見えないから。それとも、聞こえていないのかしら? 耳は見当たらないし」

 リオナは頭の回転が早く、落ち着きさえすれば冴えた考え方することが出来る人間だった。論理的に、鋭く。村にいた時も常に勉学は優秀な成績を取り続けていた。母数が少ないとはいえ、同年代では常に成績上位を取り続けていたくらいだ。鎧に対しても冷静な分析を下してみる。実際に言葉にして発した方が考えをまとめやすい為、鎧の理解問わず、独り言のように言ってみせた。

 人間と同じ水準で物事を思考できていることは間違いがないはずだった。

「うーん……身振り手振りで何か意思を表してくれたら嬉しいんだけど」

 いくら問いかけても、反応がない鎧に困ってしまう。単純な好奇心として、何を考えているのかも知りたい。

意思疎通が出来たら──

 そこで、リオナは一つ閃いた。

「ちょっとそこで待ってて」

 鎧に掌を見せて、先程まで寝ていた二階の部屋に戻った。確か、と記憶を遡る。

 

 再度広間に戻ったリオナの手には、羊皮紙と頑丈そうな黒い羽毛一本、更に黒色の小さな瓶が握られていた。

「この羽はただの羽じゃないわ。しっかりと整えられた筆記具なの。これをこうして……と」

 リオナは手に持った羽の先端を黒い瓶の中に浸した。中には塗料が入っているのだ。

 そのまま取り出し、羊皮紙に文字を書き連ねる。

『この文字が あなたに読める?』

 筆談。文字を理解していれば、これで意思疎通が出来る。最も、そうだという確信もなければ可能性も少ないとは思っていた──だが。

 鎧はそれを見るや、今までにない反応の速さで、立ち上がった。おや、と思ったリオナは手にしていた羽と羊皮紙を鎧の両手に滑りこませるようにして渡した。鎧はそれを持ち、ソファの向かいにある食卓に身を構えた。

 机に向かい文字を書くその様は、奇妙ではあるがまるで人間のようだ。

『ありがとう』

 拙く、汚い字ではあったが、確かにそう書いてある。胸の中から湧き出る感情……これは、感動だったろうが、感動の根拠はよくわからない。未知に対する発見から来たというべきか。「やはり、字が……字が読めるのね。それはありがたいし、これから意思疎通が出来るわけだけど、増々理解し難くなってきたわ……ああ、そうだ」

 リオナは鎧の隣に座り、羊皮紙に書き込む。


『私の声は聞こえている?』


『聞こえる 理解は 出来ない』


『どうして?』


『音を 聞いたことがなかったから』


『音は聞こえているんでしょ?』


『言葉の 音』 


『話したことがない?』


『はい』


 そんな調子で、筆談を続けていった。たまに読み取れない程の誤字や脱字があったが、適宜修正して教えていくことによって、少しずつではあるが、流暢に筆談が出来るようになっていった。

 リオナが鎧から得た情報は、結局概ね「鎧も自分自身何者であるかわからない」ということだった。何冊もの本を読んで思考を上手く巡らせることが可能になったということは理解が出来た。人間に対する知識も本の中で身につけたという。

 リオナも自分のことをある程度紹介した。忘れたい過去はほとんど伏せて……ではあったが。

 

「あら、もう日が暮れてる」

 時間も忘れて筆談に没頭していたことに気がついた。ほとんどが、鎧のための文字書き講座ではあったがリオナも教えることは好きではあったため、全く苦ではなかった。むしろ、その没頭出来た時間は実のあるもので、久々に充実した時間を過ごせたとも思えた。

『今日はもうこれくらいにしましょう 私はもう何だか眠いわ』

 鎧はおもむろに立ち上がって、出口の方へ行った。恐らくまた食事を採ってきてくれるのだろう。任せきりも少し悪いような気がしたが、今は甘えることにした。

 

 鎧が採ってきてくれた食草をまた食べて、リオナは部屋に戻って眠った。久々によく眠れた夜だった。泥のように。特に何も考えず、意識もせず。頭をよぎったのは筆を持つ鎧の無骨な右腕くらいだ。


   ・

 

 朝起きて、広間に降りると鎧がやはりそこにいた。もはや定位置。

「おはよう、そういえばあなた何やってたの?」

 昨夜最後に見た姿がそうであったように、鎧は依然机に向かって何かを書き連ねていた。

 同じ文字がずらずらと並んでいる。

「あぁ! ちょっと、羊皮紙だって無限にあるわけじゃないんだから、練習ならどこか適当な所に書いたほうがいいよ」

 部屋にはまだ大量に備蓄はあったが、これからのことを考えるのなら節約をした方がいい。

「うーん。といっても適当な所何て思いつかないわね……床に書いちゃいましょうか」

 広間の隅の方まで歩き、鎧を手招いた。

「ま、後で消せばいいでしょ」

 館は木造だ。試しに、と筆を動かしてみるとなめらかに文字を書けた。

「私も筆談するのは面倒だからね。私が教えてあげるわ。いつもいつも、食事の恩は感じているから、そのお返しだと思って」

 リオナは自然に鎧に話しかけていた。人間に話しかけるのと同じように。言ってから瞬時に理解が出来ないのだと思い返して、筆談で『言葉を教えてあげる』とだけ書いた。

 鎧もすぐに、『ありがとう』と返す。

 そして、二人は床に寝そべって文字を書き綴り始めた。筆を代わる代わる手で渡し合いながら。


『学校って知ってる?』

『本で 見ました』

『私が先生で あなたが生徒ね』

『はい』

『暇だし、本当の学校みたいにしてみよっか』

『はい』

 そこで肝心なことを聞き忘れていたことにリオナは気が付いた。


『そうだ 名前は何? 出席を取らないと』

『ない』

 当初は鎧は動く鎧でしかなかったが、既にリオナの中ではそうではない。鎧と呼ぶのは侘しすぎると思ってしまっていた。


『じゃぁ 自分で名前付けてみたらどうかしら』 

『私は 知っています 名前は 自分で決定するものではない』

『私につけて欲しい?』

『はい』

 考え倦ねてしまう。

 リオナは今まで何かに命名をしたことはなかった。動物も飼育したことはない。

『ちょっと立って』

 外見から由来するのも手かもしれないと考えた。

 だが、見ればみるほど鎧だ。安直過ぎる名前もあまり本人の為にはならないだろうし、何より自分の才覚で問われる場面だ。後悔したくないし、させたくない。

「うーん……」

 唸ってみても何も出てこない。やはり外見から名前をつけるのは難しい。

 もう一度鎧の全体を眺める。

「むーん……」

 鎧だと特別に認識してしまうから上手くいかないのかもしれない。

 

「──ルゥド」


 何も考えないまま、すっと口から出た言葉だった。

「ルゥド……」

 もう一度呟き、その語感と印象を確かめる。

「ルゥドなんていいじゃない。ルゥド……うん、ルゥドよあなたは。聞こえてる? ル、ゥ、ド」

 わかりやすいように鎧に何度も言ってみる。文字にしても書いてみた。折角の命名なので、大胆に羊皮紙一枚全体に大きく名前を書いてみた。

『ありがとう 私は 感動 やった』

 率直な気持ちを返答された。

 鎧……いや、ルゥドは両手で名前の書かれた羊皮紙を天にかざした。ルゥドなりの喜びの表現方法なのかもしれない。本当に嬉しく思っているのがわかった。薄々勘付いてはいたが、ルゥドもやはり人間と同じく、喜怒哀楽の感情を持っているようだ。人間のそれとまるっきり同じなのかはわからないが。


『では ルゥド君 早速授業を始めるよ』

『はい リオナ』

『ちゃんとリオナ先生と呼びなさい』

『リオナ先生』

『よろしい』

『まずは発音からよ』


 一字ずつしっかりと発音して、その一文字を羊皮紙に書いてみせる。

 一通り終えて、何回か復習をさせた後、今度は何も教えず、一文字を発音し、その言葉をルゥドに書かせる。それを反復させることによって一先ず基礎の基礎の聞き取りを可能にすることが出来るだろうと考えていた。

 言葉の意味そのものは理解しているはずなのだから、それさえ覚えてしまえば後は楽なはずだ。


 来る日も来る日も、二人は床に文字を書きながら、勉強に勤しんだ。

 楽しみながら、没頭して、かつ効率的に。

 リオナはどうすればわかりやすく教えられるかをひたすら追求して実施していった。

 ルゥドはリオナが寝ている間もひたすら教わったことを復習して、確実にものにしていった。

 習熟の進捗は相当なもので、リオナの教え方とルゥドの努力が相まってか、一日ごとに吸収し続け、変革していく。

 何か目的があるということは良いことだ。無心でそれに打ち込むことができる。

 惨たらしい記憶を思い出すこともなくただひたすらに。それが、リオナにとっては心地よい時間だった。

 何も考えず、ルゥドと喋る時間。教えるという目的もあり、意図を組みながら、考えながら。

 現実逃避なのかもしれないが、傷ついた心を癒やすには十分な時間だった。

 

 大方教えられるであろう全てのことを教え、ルゥドもリオナの言っていることをほとんど理解できるようになった頃合いになって、一先ず床に文字を書き続ける生活は終わった。というより、終わらせた。

 夢中になりすぎていた。

 突如、現実が思い出された。自分の今の境遇も。それを見てみぬ振りをするのは容易いが、そうしてはいけない気がする。まだ真正面から向き合える覚悟はない──が、隣に座っているルゥドを見る。一人じゃないから、精神的な心構えを強固にして、考えはまとまっていないながらも話を切り出すことが出来た。

「これからどうするのよ……いや、どうしたいんだろう」

 自分に問いかけるようにリオナは呟いた。

『私は もっと知りたい 色々なこと 教えて欲しい 外に興味あります』

「そう。あなたは結構貪欲ね。顔に似合わず」

 言いながらルゥドの顔を見て、何だか可笑しくなって笑ってしまった。

 ルゥドも『ふふ はは』と返してきた。

「気持ち悪い笑い方しないでよ」

 羊皮紙を突きつけてきたルゥドを見て、もっと可笑しくなって声を出して笑ってしまう。

 ひとしきり笑った後、その反動が巡ってきたかのようにリオナは笑いをぴたりと止め、下を向いて言った。

「私は……あまり外に出たくないわ」

 それが素直な気持ちだった。いかに時間が経過し、こうやって館で安穏としていても、まだそういう気持ちにはなれなかった。

 しかし、「外に出たくない」という気持ちを言い表せたことは、篭りきっていたリオナにとって大きな前進であったはずだ。

 理由を聞いてこないルゥドはその意図を慮ったのか、あるいは何かを考えているのか。それとも、小声過ぎて聞き取れなかったのか。わからなかったが有難かった。

 だが、いずれ外に出なければならない日は来るだろう。そう思うと少しばかり憂鬱になる。

 そう──いずれ。

 そこまで考えが行き着くと、それ以上落ち込むより先に急な疑問が湧き出てきた。

「──そういえばこの館って一体何なの?」

 話題を変える為に言ってはみたが、言ってみて本当に一体何なのかよくわからなくなってしまう。逆に、なぜ今まで気にかけなかったのか。ルゥドという更に異常性の付与されたものが目の前にあるから、恐らく感覚が麻痺していたのだろう。

「館だから人が住んでいたのよね、きっと」

 全く気にせず過ごしてはいたが、本来誰かの持ち家であったことは間違い無いだろう。勝手に上がり込んで生活をしていいのかという気にもなってくる。

「ルゥドはなぜ自分が館にいるかは知らないんだったよね?」

『そうです』

「うーん」

『もしかしたら この館から 自分が何かわかるかもしれない』

「ルゥドは自分のことをもっと知りたいのね」

『それも はい』

「だったら手伝ってあげてもいいわ。私も何だか薄気味悪くなってきたし」

 一度館の存在意義を考えると、頭の中で釈然としないことが幾つもあるように思えた。その釈然としないものが何であるかがわからない状況であるのが歯がゆい。

「とりあえず、私はあの寝室以外の部屋を見ていないから一度部屋を全て見てみようかしら」

 と言っても部屋は全てで三つしかない。

 まずは二階最奥の部屋。

「ここがあなたの言っていた書室ね」

 本棚が等間隔に並んでいる。その蔵書量はかなりのものだ。

「それにしても、あなたはこんなにもの沢山の本を読んだっていうの?」

『それしか やることがなかったから』

「だからって、やり過ぎよやり過ぎ。読んだ本は全部覚えているの? 何か変わったものは?」

『どれも 印象的だったから』

「ここにいた人は本好きで……更に大金持ちってことはわかったわね。うん。誰でもわかることよね」

『大金持ち?』

「当たり前じゃない。まずこのおっきな館。加えてこの本の数よ。あれ、いやそっか。あなたは本が高価なものだなんてこと知らないわよね。本はお金持ちしか持っていないのよ」

 リオナにとって、本とは富豪層にしか持つことを許されないという認識だ。

「本の傾向性もないみたいだし」

『問題は 誰が どのような人が住んでいたか?』

「誰が住んでいたかはあまり問題じゃない気がするけど……何が問題なのかしら。わけわかんなくなってきちゃったわ。隣の部屋に行きましょう」

 すぐ隣の手前側の

「ここは……何かしら。くつろぎ空間?」

 殺風景な部屋だった。正面に窓があり、その手前に小さな机と椅子。それだけの空間だった。

 一通り部屋をざっと見渡してみるが、特に何も変わったものはない。

「何だか期待はずれね……というか、これで全部よね、部屋。後は私が使っている寝室だけだし」

 手がかりになるようなものが見つかるとよいと思っていたのだが。

「読んだ本の中で手がかりになりそうなものはなかった?」

『なかったと思います』

 蔵書に何か手がかりがあったかもしれないが、直ちに一冊ずつ精査していくのは億劫だ。ここは全ての本を読んだルゥドの言葉を信じる。

 後で気晴らしに読むくらいに取っておこう。リオナはそう思い、とりあえずは再度広間に降りることにした。

「あなたはどう思う? この館について」

 食卓につき、意見を出し合う。

『私に閃きはありません』

「そうよね。何よりずっとこの館にいて、外に出たことがないの……」

 そこまで言って、頭の中に渦巻いていた疑問点の一つの輪郭が見えてきたような気がする。

「いや、あなたは外に出てるわよね。食べ物とか取ってきてくれるんだし。私もたまに外には出ている。そう、外に出たのよね」

『外』

「そう、外よ。少し館の中に目を向けすぎていたけど。やっぱり一度外に出てみましょう」

 気分が乗っていた。先ほどまで、外に出たくないと言っていたのに。今は日が暮れている。少し出て探索するくらいなら問題ないと割りきることが出来ていた。周辺だけなら人間が住んでいるような気がしなかったから。

 出かける前に、ルゥドの腰のあたりに、羊皮紙と筆をくくりつけた。固定するのにはいささか手間取ったが、これで外でもいつでもどこでも、意思疎通が図れる。心なしか、少しルゥドは嬉しそうにしていた。


 まずは外観を確認した。既に何度か見ていたが、再確認の意味で。

 大きな館ではあるが、決して豪奢な作りではない。側面はほとんど黒で、屋根の色だけが素朴な茶がかかったような色をしている。

「ここの周囲がどうなっていたか、あなたは知っている?」

 陽が落ちているため、ルゥドの書き綴った文字が少々読み辛い。リオナは必死に顔を近づけて、目をこらして読む。

『ある程度なら 以前伝えたように この坂道を下るとあとは一本道で その先に大きな洞窟のようなものがありました 後は横の森 浅く入って 偶に食料をとります 奥に行ったらすぐに迷いそう』

「ふーん……背後は海。背が高い木々が森林を作って囲んで、一本道があり、舗装されている」

 状況をまとめることによって、何か見えてきそうだった。 

「なんていうか、変な立地よね。普通こんな所に大きな家を建てるかしら──ん、家を建てる……?」

 リオナは目を瞑って考える。

『どうしました?』

 目を開けるとその文字が目の前にあった。

「家を……家を建てるなら誰かが建てるわよね。それも、これくらい大きな館なら誰かの力を借りて。これも当然のことだけど」

「そして、家の主は別に一人でここに住んでいたわけじゃないでしょう。多分。だって、道は舗装されているし、それにあの調度品や本の数々。こんな立地だけど、間違いなく誰かと……」

 急にリオナは悪寒を感じた。正確にいえば、悪寒そのものは前から感じていた。先ほど館の存在意義を考えていた時から。

 鳥肌が全身に粟立ったような気がして、思わず二の腕を見てみる。暗くてよく見えなかった。そして考えを更に膨らませる。いや、考えというよりは一つの着想、閃き、記憶の想起。

「誰かとやり取りをしていた。誰と? 決まっているじゃない……村の、クーデシュカ村の……」

 嫌な汗をかきながら、リオナの悪寒は最高潮に達する。呼吸が荒くなり、目に見えて様子がおかしくなっていく。

「あれ、だって……私……私は……」

 そうしてなだれ込んだ、記憶の濁流。

 館に来てから、そして館に来る前の記憶が夢の中で見たまどろんだものでなく、突然蘇ってきた。決して明確にではないのだが、夢中のそれと比べれば、はっきりとしている。どこかで無理やりせき止めていたものが渦を巻いてうねり押し寄せてきた。

『どうしました』

 ルゥドもリオナの様子、異変に気が付いたようだった。目の前に立ち羊皮紙を掲げるが、リオナの目には入っていない。視界に入ってはいるはずだが、遠くを見ている。うつろな目で。

「……い……って……じゃない」

 小さくぶつぶつと呟く。

 今のリオナには必要なことだ。声に出して、確認する。順を追い、思い出したくないことも含めて筋道を立てて考える。

 そして、一つの大きなとっかかりが見えた。今まで釈然としなかったもの。一気にそれをたぐり寄せる。

 同時に跪き、両腕で頭を抱えて呻くように言った。


「そうよ……私は一体どうやってここに来たの?」


   ・


 リオナは意外にも早急に混乱から立ち直った。厳密にはまだ頭は混乱しているが、「何が気になっていたのか」ということが以前よりはよほど明確になっていた為、その不可解な点を解消することが混乱の回避に直結すると気が付けたからだ。考えろ、考えろ、と自分に念じる。

 広間に戻った二人。

 リオナは少しの間、眉間に指先を当てて、目を瞑り思考していた。

 そして、言った。

「話を整理しましょう」

 ほとんど自分に問いかけるように。

『話?』

 そのリオナにルゥドはほとんどついて行けていない様子だ。突如様子がおかしくなった時点から、ルゥドの頭では疑問符しか付きまとわなかっただろう。察したリオナが言葉の意味を説明する。

「まず、最初にあなたに会った時のことを覚えている?」

『覚えている 明確に』

「そうよね、はっきりと私も思い出せる。混乱して短刀を投げつけたわよね。今更だけど、あの時はごめんね」

 ルゥドの胸もとの傷をちらりと見やる。

『仕方がない』

「うん。ありがとう。それで、ルゥドと初めて会ったその記憶が館に来て初めての記憶。だけど……その直前私はどうなっていたのかしら? 何をしていた? 具体的に言うと、私は『いつこの館に入ったのかを思い出せない』……のよ。これっておかしいわよね」


 しばらくの間、沈黙が訪れた。


 ルゥドはその言葉の意味を吟味していることに違いない。

『どういうことでしょう?』

 しかし、結局よくわからなかったようだ。

「まず、私は……」


 それからリオナは今までのことをルゥドに打ち明けた。生い立ちから、迫害の経緯から、村を出るようになったこと──

 

「……それが私の思い出せる記憶よ」

 全てを話し終えた後、辛辣な気持ちになってはいたが、ルゥドという聞き手に吐露した分、少しばかり溜飲が下がっていた。

「まず、不可解なところ。いつこの館に入ったのかを思い出せない、ではなく、どうやってここまで来たのか、というふうに言い換えてもいいかもしれない」

『村から 館までの間を?』

「そう、そうよ、そうなの。村から出た、館まで来た。この事実は間違いないと思う。だって現実そうなわけだし──だけど、その間の過程と道程が全く思い出せない。こんなことってあるの?」

 村人全員に罵声を浴びせられた……その後。その後が全くもって思い出せなかった。迫害された、という事実は頭の中に残ってはいたが、それはひどく漠然としたもので、村を出てこの館に至るまでの記憶が全くない。

「ルゥドにもこの感覚はわかるんじゃないかしら。記憶と記憶の間がすっぽりと抜け落ちちゃってる。そんなのってすごく不思議で、もう頭がどうにかなっちゃいそうじゃない?」

 ルゥドは人間ではなかったが、少なくとも意識を持ってからは記憶を持ち続けているはずだ。であれば理解してもらえるはずだ。

 記憶の欠落。そんなことを今まで体感したことはない。そんなものが起こりうるのかもわからない。

 しかし、今リオナの前にその事実がありのままぶら下がっている。

 それが自身を混乱せしめた一つだと整理がつく。依然まだ胸にわだかまりは残ったままだが。

「思い出したくないことはある。その記憶と決別することは出来ないけど、思い出せないことがあるって、癪でしかないわ。気になる」

 自身を自身足らしめ、完結させるものは記憶でしかない。

『リオナの気持ちを私は理解できます』

 ルゥドも自分の過去を上手く表せないのだ。その言葉は決してただの同情から出たものではないとわかる。

「そうと来たら、私は思い出さないと気が済まないわ。きっと、一時的に忘れているだけなのよ。きっかけが何かあれば思い出せるんじゃないかしら」

 確証はない。だがそうと思わないとやりきれないのだ。前に進めない。

『そういえば』

 いつものどっしりとした立ち振舞いのまま話を聞いていたルゥドが慌てて書く姿を見せた。どうやら気になる部分が同様にあるらしい。

 リオナは息を飲みそれを見守る。かなりの長文のようだ。

『私が室内の本を読み部屋を出た時 初めて外に出ようという気持ちになりました 清々しい気持ちになっていてもたってもいられなくなったことを覚えています

 そして館の外に出たのです

 その時 私は館の中はあまり気にしなかった

 だけど 誰も館にいなかったように思います

 それから夕暮れの時から日が落ちきる位の間まで 坂を降り続けて 先程も伝えた通り 大きな洞窟を発見しました

 そこで私は館に戻ることを選択しました

 少しずつ外を探索していようと思っていましたから 今回はこれまでだ と

 それで戻ってきたら リオナがいました』

 事実を書き連ねたものではあったが、リオナはこれを見てルゥドが言わんとしていることをすぐに理解できた。

「なぜ、すれ違わなかったのかしら」

 背後は海。舗装された狭い一本道、両際には深い森林。暗くて見えなかったとは言え、あの狭さなら気が付くだろう。

「すれ違ってないと必ずしもおかしいということはないとは思うけど館への道のりを考えるのならば、そうならないと不自然よね」

『だから リオナは森の方から来たんじゃないかと思います

 それが忘れてしまっている手がかりになるのでは』

「森の方から……確かにそういうことになるわよね」

 リオナはあまり納得がいかなかった。生い茂った森林をもう一度思い返してみる。

「ちょっと、今から少しだけ坂道を下ってみましょう。今日は既に何か疲れちゃったから、少しだけね」

 リオナは不本意ながらも自身が無くした記憶のおかげで前向きになれていることに気が付いていない。

 ベッドで骸のような生活を続けていた時より、目に輝きが戻ってきていた。元々好奇心旺盛で、自分の知らない、知らなかったことは気が済まない性質だったことがそれを手助けている。


   ・


 リオナとルゥドは並んで夜の坂道を闊歩する。

「ほんと、静かよね」

 あれから更に陽が沈んだ。辺りは暗闇に包まれているので、もうルゥドの書いた文字は読めない。

 だが、ルゥド自身は何か思いついたことを羊皮紙に書き込んでいる。暗くて見えないということは認識しているのか、見せては来ない。

 ルゥドは既にかなり筆談が上達している。こんな暗闇で歩きながらだというのに、流暢に文字を書いているように見えるからだ。

 ひんやりとした風がそよいでいる。外に出て歩くのは久々だった。もう足も回復していて、久々の地面の感触が心地良くもある。


 少し歩いた所で、リオナは立ち止まった。

「ねぇ、ルゥドに嗅覚はあるの?」

 ぎこちない動作で右手を仰ぐように振るルゥド。ない、ということだろう。

「ならこの匂い、わからないわよね」

 普通に呼吸するだけで鼻につくほどの匂いだった。その源は……

「これ、匂うのよね。独特な匂い。あまり嗅いだことがないわ。一瞬甘い匂いのような気もするんだけど、その甘い匂いのあとに何ともいえない匂いが連鎖的にくるの」

 深黒い青、という表現が適切なのだろうか。そういう色をした中央の花弁から葉が大体五枚ほどまとっている。そんな植物だった。

 道の両横どちらを見てもほとんど等間隔といってよい位生えている。

 リオナはそれに近づいて、一通り匂いを嗅いだ後、一片もぎ取って、腕に擦り付けてみた。ルゥドに振り返って、腕を嗅いでみせる。

「匂うわね。割と。何が言いたいかは後で説明するわ」

 ルゥドにもある程度は見当がついてはいるだろう。

「他になにかないかしら……でも暗くて何も見えないわね。明日にしましょう。何だか疲れてしまったわ」


 というわけで、日を改めてもう一度坂道を下っていった。今度は朝方間もない。

『匂いがついていなかったということは 森から来ていないということになる?』

 昨日の続きからルゥドが問うてくる。

「ええ、そうよ。勿論、あの花がどこでも咲いているという確証はないけど──あれ」

 違う植物を見つけてリオナが座り込んだ。

 棘と綿のようなもので構成された種子が先端から細長い茎を覆うようにして生っている。

 その種子をもぎ取り、自身の衣服に付けてみる。

「粘着性があるわね。簡単には落ちない。歩いて森を通過したらこれもまず、ひっついてくるんじゃないかしら」

 その植物も同様に、かなり多く散見される。

「私達がやることは、ルゥドの言う洞窟に辿り着く前に、何か森以外に抜け道がないかどうかということよ。ルゥドは右側を見ていて。私は左側を見ているから」

『わかりました』

「あと、この二つの植物ね。今までのところはこれでもかってくらい生い茂ってるけど、もしかしたら段々なくなっていくのかもしれない。それも確認しましょう」

 それをすることにより、必然的にリオナがどこから来たのかということが順を追って狭まっていく。


 そのまま進んでいくと、ルゥドの言った通り、確かに洞窟があった。

 

 到着する頃には既にリオナは不安で気持ち悪くなっていた。理由は明確ではない。またこの感覚だ。以前の悪寒に酷似している。今の安住の地である館から離れすぎていることに起因しているのかもしれない。

 心臓を脈打つ速度が徐々に上がっていくのを感じた。

 だが確かめなければならなかった。自分がどこからやって来たのか。途中途中で何度か引き返そうと考えもしたが、初志貫徹。リオナは挫けなかった。

 洞窟の前に立ち尽くし、お互い確認をし合う。

「私の方。左側はずぅっと背の高い木々と例の、あの二つの植物が生い茂っていたわ。抜け道なんて全くなさそうってくらいね」

 かなり注意深く見ていたつもりだった。洞窟の前にたどり着くまでお互い何も喋らなかったくらいだ。

『私の方も 全く同様です』

「となると……やっぱここから来たのかしら。全く覚えがないんだけどね」

 外に出て道を歩いて、景色を見ていけば、もしかしたら思い出すことがあるかもしれないと考えていたが、そんなことはなかった。

 依然仮定的ではあるが、リオナの失われた記憶に一筋の小さな結論を出すことは出来た。それが果たして良いことなのか悪いことなのか、リオナはわからないままではあるが。

「そう考えると、やっぱりこの洞窟から私は来たのね……」

 かなり深そうだ。もし入るなら何か照明になるものを探してから入らなければならないだろう。

「今日は帰りましょう。お腹すいたし。久々に歩いたから疲れてしまったわ」

 何の気なしに言ってみせたが、本心ではここから立ち去りたくて仕方がなかった。

 ルゥドにあまり心配もされたくない。短い付き合いではあるが、人間味があり、思慮深い性質を持っているから。そして、唯一の話し相手であるリオナに対しては敏感だから。


   ・


 洞窟から引き返して以来、リオナは外に出ることをやめた。

 言葉数も少なくなり、何も言ってこない。また部屋に閉じこもるような生活を続けている。

 ルゥドが食事を作り、部屋に運ぶ。広間にもほとんど顔を出さない。

 なぜまたこういう風になってしまったのか、ルゥドにはその理由がいまいちよく分からないままだった。

「本を読みたいの。結構な贅沢だし、いいでしょう。あなたももう一度読んだら?」

 リオナはそう言っていたが、どうも本心のようには思えなかった。最近は笑顔がないし、本を読んでいる姿をみても、何か別のことを考えているように見える。

 言葉を教えてくれている時はあんな顔をしていなかった。

 失った記憶を探すためにと意気込んでいたはずだったのに。

 そして、ルゥドもその手助けをしてリオナの役に立ちたかった。

 初めて出会った人間。触れ合い、自分のことを全てではないが、理解を示してくれる。最初こそ恐怖をしていたのに、今では側にいることを許してくれている。

 ──自分でも人間と仲良くなれるのだ。そう思えるようになったのはリオナのお陰だ。

 文字を教えてくれた、笑顔を見せてくれた、人間の身振り手振り、感情とは何か。リオナと出会ってから、楽しいことしかない。新しい発見はルゥドの生きがいだ。

 だが……

 そんな温情を感じているリオナに、自分は何もしてあげられない。こうやって食事を用意する程度しか。

 わからないことずくめなのは、自分が人間じゃないからだろうか。リオナが何か憂いているのであれば、それを手助けしてやりたい。だけど、自分は人間ではない。人間のように思考はできるが、根本的に人間ではないから、リオナの悩みを同情して慮ることが出来ないかもしれない。そこが不安だった。

 それに、リオナの過去は重いもののようだ。

 そこに気安く踏み込んでよいものなのか、ルゥドはわからない。

 初めて人間と接して、どういう距離感で接してよいのか。

 自分の表現方法は筆談と、的を得ていない身振り手振り。

 声を出せるということは羨ましいことだった。自分の考えを素直に吐き出せるのだから。

 もし、自分が声を出して喋れたのなら、もっとリオナに寄り添って手を貸せるのかもしれないのに。

 ──叶わない希望をいくら考えても仕方がなかった。

 とにかく今は様子を見よう。ルゥドは結局そういう考えに落ち着いた。

 消極的かもしれないが、リオナにも何か考えているところがあるに違いないと思っていた。それに整理が付けば、きっとリオナの方からまた声をかけてくれるに違いない。


 しかし、ただ一人で広間にじっとしていてもつまらない。

 リオナとの会話がルゥドにとって一番の楽しみだったから、それがない今は退屈でどうしても暇を持て余す。だが、顔を出してくれない。広間に降りてきてくれない。でも、様子を見ると決めたのだ。ルゥドに歯はないが、歯がゆいとはこのことだろうと妙な所でまた一つ学習する。

 最近ではリオナに喜んでもらえるように、食事に工夫を図っている。それが少しの楽しみではあったのだが、結局自分では食べられないし、おいしいものなのかおいしくないものなのか判断がつかない。

 リオナは用意した食べ物をほとんど全て平らげてくれてはいたが、それが美味からくるものか空腹からくるものか、はたまたルゥドに気を遣っているからなのかもわからない。だから最近はその食事の用意に関してもあまり意欲が沸かなかった。

 といっても自分の役割として、「仕事」として意義のある取り組みを行なっているということを意識できることの一つではあったので、決してルゥドにとって苦ではない。

 食事を運ぶ時、リオナは大抵本を読んでいる。夢中になっていて、ルゥドが部屋に入ってきたことすら気が付いていない時もある。

「ああ、ありがとう」

 思い出したように遅れてそう言うだけで、意識は本の世界だ。

 ルゥドにもその気持ちはわかった。

 初めて本と触れ合い、文字を少しずつ、少しずつ学んでいく内にすぐにその面白さに没頭していった。無心で次の本……次の本とただ読み進めていったことを思い出せる。

 リオナは「あなたも読んだら?」と言っていた。退屈を持て余すにはそれしかないとルゥドは思い至った。

 本は全て一度読んだ。気に入った本は何回も繰り返し読んでいた。もう一度あの本棚の部屋へ足を踏み入れる。

 手に取ったのは、ルゥドのお気に入りの本、『弱虫ピケルの冒険』だ。

 ルゥドが初めて物語を理解して、最後まで読み通した娯楽小説。

 内容は単純だ。不思議な力をもった主人公ピケルが世界を旅して巨万の富を手に入れ、一国の統領となるまでを描いた物語。要約してしまえばそういうことになるのだが、丁寧過ぎるともいえる重ねに重ねた写実的な描写が本の分厚さを生み出していた。

 わからない字を調べつつも、熱中して読みきったことを今でも覚えている。

 この本の一場面で、ルゥドは印象に残っていた場面があった。

 物語の終盤。

 既に弱虫ではなくなったピケル。富を手に入れて、全ての人々を見返す事が出来た。逆らう人間もいない。だが、彼の中には達成感よりも空虚な気持ちしか残っていなかった。壮絶な孤独感。

 何かが足りない。そう思った彼は、国を捨てて故郷に戻ることを決意する。

 変わらず佇んでいた自らの家。両親は既に他界していたので、家の中には誰もいないはずだった。

 だが、その中に人がいた。弱虫の頃、優しさで支えてきてくれた幼馴染のアリーン。ほとんど変わらない姿でそこにいた。アリーンは「おかえり」とだけ言って、ピケルを包み込むように抱きしめた。

 ──この場面が堪らなく好きだった。

そしてその後、二人が何をしたのか……その場面をもう一度確認しに来たのだ──


   ・


 本は空想を広げて世界を築いている。

 気分転換のつもりにと一冊手にとってみたのだが、中々どうして、今のリオナにとってはとても有用なものだった。

 既に気分転換というよりは、ほとんど現実逃避をしているといってもよい。本に熱中することによって、それ以外のことは考えないようにしていた。

 

 今日もルゥドが食事を用意して持ってきてくれた。

 最初の頃と比べて、日に日に食事の種類や組み合わせや味付け何かが多彩になってきて、毎日食べるものに飽きなかった。一体どうやって勉強しているのかとも思ったが、ルゥドの知識はほとんど本から得ているのだ。そういう本がどこかにあるのだろうと勝手に解釈していた。

「ありがとう」

 食事を運んでくれたルゥドを一瞥して言った。

 そこにほとんど感情はない。義務的に口走っているものだとリオナは自覚している。

 本来ならばもっと感謝するべきだ。リオナの精神状態がもし普通のものであったら、ここまで図々しいような生活はしていないし、態度もまた違ったものになっているはずだった。

 自分の身の回りのことは自分でやるべきだと考えているし、他人に頼りきったらいざというときに困るということも知っている。

 ただ、ルゥドがあまりにもその食事の配膳を怠らないものだから、日常化して、感覚が鈍磨しているのだ。

 

 ──だが。


 最近、ルゥドの様子がおかしい。同様にルゥドも自分の様子がおかしいと思っていたのだろうが。

 気が付いたのはつい最近。本をだだ読むこの生活に慣れきってからだ。

 いつもはリオナの食事が終わるまでどっしりとその場でただ待って食器を持ち帰るのを待つルゥド。

 ──なのだが、本当に注意深く見ないとわからない程度ではあるが、微妙に足踏みをしたり、体を揺すらせているように見えるのだ。

 もしかしたら、以前からそうだったかもしれない。だけど、思いつく限りの記憶ではそんなことはなかった。いつもはどっしりと立ち尽くしていたはずだ。

 一度意識してからは、そのルゥドの微妙な所作が気になり続けてしまう。もともと表情がないルゥドではあるから、そういったことに対してより敏感に察知をすることが出来るともいえる。

 それが果たしてルゥドのどのような気持ちを現しているのかは本人に聞いてみないことにはわからない。

 何度かこうして部屋に入ってきた時に何か変わったことなどがあったか聞いてみようとは思っていたが、中々言い出せなかった。前まではルゥドから筆談で話しかけてきていたのに、今はそれもほとんどなかったから。

 リオナは不安を覚えた。ルゥドに愛想を尽かされてしまったら、と考えると。

「ねぇ、ルゥド」

 部屋を出ていこうとする大きな背中に声をかけた。

 一瞬動きを止めたように見えたが、すぐに部屋を出ていってしまった。

 リオナの不安は更に増していった。

 冷静に考えれば、ここ最近の自分の生活は異常なものだと改めて思った。

 髪も肌も洗っていないから随分と汚い見てくれになっているかもしれない。ルゥドにとって醜い存在になっているのかもしれない。

 だが、今のリオナにとって、近くにいてくれるのはルゥドだけだ。

 一度話をしよう。

 ──そう思ったが、足が動かなかった。

 まるで部屋の床から自分の足に、太い大きな根っこが張っているみたいに足が動かない。

 ルゥドと話したとして、その先は……と思い直す。

 リオナが憂慮している事実が頭をもたげてくる。それがどうしても否応なく部屋から出ることを妨げた。たった広間に降りてすぐそこに行くだけなのに。そんなことも出来ない今の自分に嫌悪感が押し寄せてきた。

 こんなにも自分は薄情な人間だったのかと。

 こんなにも自分は勇気のない人間だったのかと。

 こんなにも自分は意気地のない人間だったのかと。

 人間。いや、悪魔の子なのか? 確かめようがないけど、そう断定されたのだった。

 思考を停止していた分、急に感情の振れ幅が上がり、リオナは泣いた。館に来てから何回目だろう、と頭のどこかでは冷静になって考えた。

 初めてルゥドに会ったあの時の涙はただ怖いから泣いただけだった。

 今の涙は一体どんな涙だろう。

 それを分析するための落ち着きは、もう取り戻せないくらいに嗚咽を出して泣いてしまっていた。


 翌日、リオナは泣き疲れて寝てしまっていたことに気がつく。

 どれだけ泣いていたのか。目が腫れぼったい気がしてなんだか気持ちが悪かった。きっと赤くなってしまっているに違いない。

 いつもなら何も考えずこのまま本を読んでルゥドの食事を待つだけではあったが、もう本を読む気にはなれなかった。

 そして、ひとしきり泣いたリオナは決心した。

 うじうじしていても仕方がないのだ。

 ルゥドにはちゃんと謝るし、話をする。そう決めた。


 すぐにルゥドは部屋に入ってきた。食事を携えて。

 しかし、様子がいつも以上におかしいことに気が付いた。

 いつもは部屋にゆっくりと入ってくるのだが、今日は入ってくるなり早足でこちらまでやってきて、そそくさと食事をベッドに置いた。

 そして、すぐに踵を返して部屋から出ようとしたのだ。

「ちょっと待って!」

 たまらず声をかけた。

 ルゥドは確かに足を止めたが、昨日みたいにこちらを見ることはなかった。

「どうしたの? 何だか最近おかしいよ」

 どの口がそんなことを言えるのだと内心思ってはいたが、口に出さずにはいられなかった。

 ルゥドはなおも動かなかった。よく見ると、いつも持っているはずの筆記用具一式を持っていなかった。これでは会話すら出来ない。

 少しの間があった後、ルゥドはこちらに掌を向けた。

 リオナにはそれが何を意味しているのかを理解出来なかった。

「どういうこと?」

 問いただすより前に、ルゥドは既に部屋から出ていこうとしていた。

 慌てて追いかけるリオナ。

 ちょうど扉の目の前に来た所で、ルゥドは扉を閉めて行ってしまった。

 どうやら、本当に拒絶されたようだ。

 いてもたってもいられなくなり、反射的に扉を開けようとした。

 だが、なぜか開かない。

 施錠されたかのように取ってがまるで動かない。固い。懸命にどれだけ力を込めてもびくともしない。

「ルゥド? ルゥドがやったの? 開けてよ」

 不測の事態。全く予期しなかったことだ。

 拳の横っ面で扉を打ち付けるが、その奥から返答はない。

「どうしてこんなこと」

 ひとしきり扉を開ける努力をした後、諦めてまたベッドに倒れこんで呟いた。

 確かに自分も悪かったかもしれないが、それにしてもこの仕打ちはひどすぎるのではないか。

 もうルゥドはどこかに行ってしまったのかもしれない。広間に降りたら、いつものあの場所にルゥドが座っていないかもしれない。

 焦燥感が時間と共に押し寄せてきたので、何度か立ち上がり、扉を開けてみようとするがやはり開かない。

 恐らく何かを使って固定しているのだろう。

 このまま放って置かれたらどうすればいいのか。窓から脱出する? 多分間違いなく死ぬ。崖から飛び降りることと同義だから。


 結局そのままベッドに転がって。目を瞑った。

 眠れない。目は冴えている。起きたばかりだから当然だ。

 だけど、起き上がって何をしようにも出来なかった。


 どれくらい目を瞑っていたか。

 やはり、本でももう一度読んでみようかと毛布を退けて上半身を起こした。

 すると、目の前にルゥドが立っていた。

『ごめん』

 そう大きく書いた羊皮紙を片手に。

 安堵とともに、なぜこんなことをしたのかという疑念がよぎり、そして苛立ちに変わった。自分のことは棚に上げて。

 何を言おうかと考えていると、それを遮るようにして、即座にルゥドが違う羊皮紙を取り出した。

『何も言わず 広間に来て欲しい お願い』

 手を差し出された。掴んで、ルゥドの力を借りてベッドから立ち上がった。

 扉へと誘導されて、外を出る。

 そこに広がっていた光景。

 緑。

 植物が二階廊下の手すりに括りつけられている。結構な量だ。

 手すりだけではない。道すがら、色々な所にそういった植物が括りつけられていたり、置かれていたりする。

「何……これ」

 思わず口を開いてあっけにとられてしまう。

 植物が散らかっているのだと思ったが、そうではない。

 草が形をもって、意図的に結ばれているのを見て、ようやくそれが飾り付けなのだと気が付く。

 ルゥドはこちらを見るだけだ。何も説明はしてこない。

 リオナは促されるがまま広間に降りた。その装飾を見回しながら。

 食卓には、いつも以上に様々な種類の食事が載っており、更に外見も丁寧な調理が施されてあるように見える。

 二人は黙って席についた。予め文面を用意していたのか、ルゥドが机の下あたりからすっと羊皮紙を取り出した。

『人間は こうして祝い事をするらしいと本で読みました

 辛い時や 悲しい時

 そうやって乗り越えるみたいです

 だから 勝手ながらそういう祝い事を私もしたいと思いました』

「祝い事って……」

 何事かと思い、その内容に拍子抜けしてしまう。

 しかし、この料理や飾り付けを見ると、一生懸命準備したのだということがわかる。誰のために……そう、自分の為にだ。胸にこみ上げてくる何か。

「一体何を祝うの」

『それは きっと今生きていること』

「生きていること?」

『ここからの私の台詞は 少し気恥ずかしいもので 俗にいうくさい台詞かもしれないけど 聞いて欲しい

 私は今こうして この瞬間をリオナと共に過ごせていることが本当に幸せだと思う

 私はなぜこうして動いていて 何者かを知らない

 だけど今この瞬間をこうして幸せに送ることができていれば

 きっと何があったかなんて 何でこの世にいるかなんて

 そんなこと瑣末なことなんじゃないかと思います』

 素朴な筆跡。その文には確実に今のリオナに訴える力があった。

 自分のことを書いているように見えるが、本当はリオナを励ましてくれている。

『私はリオナに感謝している リオナの力になりたいと考えている

 困ったことや思い悩んでいることがあったら 出来る限り協力したい』

 机の上の食事や飾りをもう一度見る。ルゥドがせっせとこしらえて、自分の為に準備をしてくれたことを想像して、目頭が熱くなる。

 そして、もう一度ルゥドが書いたその文を読んでリオナはまた泣いた。今度の涙ははっきりと分析できる。感謝と感動の気持ちで泣くことは今まで生きてきた中であまりなかったものだから。

「ありがとう。ありがとう」

 素直に気持ちを言った。

 愛想をつかされたなどと思っていた自分が馬鹿らしく思えてた。

 自分にもいるではないか。今、よりそって信頼出来る大切な仲間が。

 改めて認識することで、一人で身悶えなくてもいいのだという安堵が体の底から湧き出てくる。

 今までうじうじとしていた自分は何だったのか。相談すればよかったのだ、ルゥドに。わかってもらえないわけがない。こんな外見をしているが、とても優しい心を持っているということは自身が一番わかっているではないか。


 ひとしきり泣いて、心を落ち着けてからリオナは口を開いた。

「よしっ! じゃぁもう盛大に祝っちゃいましょう」

 満面の笑顔。多分、館に来てから一番の。

「こういう時はね、皆、踊ったり、芸をしたりして楽しむものなのよ。といっても、ルゥドにそれを望むのは酷だから、私が手本を見せてあげるわ」

 立ち上がり、広間の左側。絨毯以外に何も無い空間へ移動する。わざとらしく咳払いをしてみて、上目遣いでルゥドを見やる。

「えぇっと……ちょっと恥ずかしいけどね──私、歌います!」


 静寂から────歌い始める。


 ──普段の喋り声とは違う、張り詰めた声。別人かと思う程だ。

 だがよく聞いていくと、澄んだその声の中にしゃがれたような、枯れた声が混じっている。精一杯喉を張って出しているのだとわかる。その成分が、ただ綺麗な歌声というわけではなく、何とも言えない個性的な歌声を演出していた。

 歌詞の内容は、村に伝わるお伽話だ。英雄が現れ、村を救うというそういった類の伝承歌。今の状況に適した歌かといえば、そうではないが、生憎リオナはこれしか歌詞を満足に覚えていなかった。曲調が好きで、何度も何度も飽きずに一人で口ずさんでいた。

 一番と二番、曲の構成が同じ物を繰り返すのだが、上手く抑揚を付けて、違いを付ける。

 終演に至るころには、歌い出しの物静かな調子と比べると、二転三転して、壮大で幻想的な、それでいて勢いのある調子に変わっていた。

歌を終え、余韻が残る。

「……どうだった?」

 精一杯の歌声を振り絞ったせいと、微妙な恥ずかしさのせいで顔は紅潮していた。

 ルゥドが立ち上がり、拍手をした。

 その音は決して人間の肌の音が出す拍手の音ではない。鋼鉄同士がぶつかり合う、その音。

 ささやか過ぎる礼賛だったが、嬉しかった。

 誰かの前で歌を披露するのは久々だった。元々歌うことは好きだったのだが、人前で、となると気恥ずかしさが先行してしまうのだ。個性的な歌声ではあったので、それをどう思われるかを気にしてしまう。

『歌というもの 初めて聞きましたが素晴らしい リオナが歌ってくれたから ずっとずっと素晴らしいものだと感じました』

「もう、それだけ褒めても何もでないんだから」

 更に赤面してしまう。

『私も 私も何か出来れば』

 そのまま立ち尽くし、思案しているようだ。

「踊りましょうよ。私、もう一つ歌を知っているの。陽気で楽しい歌よ。手拍子と一緒に歌うから、踊ってみたら?」

 ルゥドにとってみたら、結構な難題だが、平然と言ってみる。

『踊りですか どんなことか知ってはいますが はっきり言って全く自信がないです』

「習うより慣れろよ。ほら、行くわよ。こっち来て」

 小気味よい手拍子を刻む。先ほどの歌とは毛色の違う歌。早口を捲し立てるように軽快に歌っていく。それに合わせて両足を伸縮させ、揺すらせながら体で拍を取っていく。

 一方のルゥドもこちらへ来て、体を動かし始めた……だが。

 もはや、それは踊りでもなんでもなかった。リオナの手拍子を全く無視するように、体を前後左右にゆすったり、地団駄踏んでみたり、ひょこひょことしゃがんだり立ったり。めちゃくちゃだった。

 それがほとほと滑稽だった為に、歌うのが困難なくらい笑いをこぼしてしまった。

「……ごめんごめん。いいわよっ。その調子。踊りに形なんて無いわ」

 引き続き、歌い続け、踊り続ける。

 時間が無限にあるように。

夢中で、今この瞬間を楽しむためだけに、

 終わりがない、二人だけの舞踏会。

 楽しい時間が、いつまでも続けばいい。こんな楽しい時間があるからこそ、きっと生きていけるのかもしれない。


 汗を流すだけ流し、体が言うことを効かなくなるまで、それを続けた。

ルゥドの方は、放っておけば延々と踊っていそうな勢いだ。自分なりのこつを得たのか、最初の踊りよりいくらかましになっていた。

 とうとう、リオナが地面にべったりと倒れこんだところで、舞踏会は幕を閉じた。

そしてつぶやくように言った。思い出す、自分が何から逃避しているか。

「私ね、気が付いちゃったの」

 あの日。

 ルゥドと外に出て洞窟まで行ったあの日。

 リオナは簡単な事実に気が付いてしまい、どうしても自分を塞ぎこみたくなる気持ちに駆られてしまったのだ。それが本を読み、現実逃避をするという行動に結び付いた。

「村……私が来た村は絶対にここから近くにあるってこと」

 館の断崖絶壁の立地と、周囲の見慣れない景色と失われた記憶。

 そこから、リオナはこの館が遥か遠くの異質な場所にあるのだと考えていた。無意識に村から遠のいた場所にあるのだと。

 だが、普通に考えればそれは有り得ない。

「私は村から歩いて出たはず。その憶測の根拠となるものは全くないけど、特に移動手段になるものなんて、自分の頭の中では思い浮かばない。そういう前提から話をすると」

 一呼吸置いた。

「村を出てから、そこまで時間は経っていないと思うの。なぜなら、私の髪と爪。そこまで伸びてないもの。最後の記憶にある時からね。そこから、遥か遠くに村があるという推測は否定されるわ。であれば、村は必ず近くにある……そういうことになるわよね。それは私にとって……」

『この館で住むのが嫌なのですか?』

「そういうわけじゃない。居心地がいいし、何よりこんな広い所に住めるなんて贅沢よね。だけど、村が近くにあるという事実が私をどうしようもない気持ちにさせるの」

 あの洞窟の先には、もしかしたら見慣れた景色が広がっていて、村があり、村の人間がそこにいて、発見されるかもしれない。発見されたら……? それ以上のことは考えたくない、そういう思いがどうしても強まっていた。

『では この際』

 ルゥドはそこまで書き綴って筆をぴたりと止めた。

 一瞬不思議に思ったが、リオナも気が付いてしまう。

 自分も一度は考えたことだったが、口には出さなかったことだ。

「この際何?」

 あえて気が付かない、何のことだかわからないといったふりをする。もしかしたらわざとらしすぎたかもしれないし、気が付かれたかもしれないが、その場はなんとか取り繕いたかった。

 水に流したい、話題を変えようと思ったが、ルゥドが続けて文字を書いていった。

『外にでて 遠くに出かけようと そう思いましたが そうなるとリオナ一人で行かなければならない』

「どうしてよ」

 なおもとぼけたふりをする。

『それは寂しい』

 ルゥドは理由を書かなかった。既にリオナが理解しているのだということを見透かされている。

「そんな寂しいこと言わないでよ」

 現実問題、ルゥドがその姿のまま遠出をしてどのように受け入れられるかはわかったものではない。そして一緒にいるリオナも既に迫害を受けているのだ。悪魔の子として。

 共に行動して、果たして受け入れてくれる場所はあるのか。甚だ疑問であるし、不安が付きまとうのは目に見えている。

「大丈夫よ。なんて私から無理やり言わないけど。それでも、私一人でどこかに行くなんてことはないわ。私ってそこまで薄情な女に見える? この館を出るときは絶対一緒よ」

 その気持ちは確かなものだ。決してルゥドを見捨てたりなどはしない。ルゥドがいなかったらと考えると、最悪リオナはこの館で野垂れ死んでいたかもしれないのだ。恩義だけじゃない。紡がれた信頼関係というものも確かにあるのだ。

「折角だから。話しましょう。これからのこととか、色々」

 立ち上がり、まだ手を付けていない食事が配膳されている食卓についた。

「今はゆとりをもってこれからどうするか考えればいいと思うわ。それに、村が近くにあるとは言ってみたものの、どうしてもこの館ってまるで世界の端っこというか、隔絶された場所にあるから誰も来ないんじゃないかっていう風にも思えるわね」

 それはリオナが自分に向けて言った励ましの言葉でもあった。そういう風に捉えて不安を打ち消すより他ない。

『家主の人が来たらどうしましょう?』

「その時はその時。笑顔で事情を話すしかないわ。わかってくれるかは別としてね。そういえば、ルゥドは今までこの近くで人を見なかったの? だって、ずっとここにいるんでしょ。もしかしたら、その間にこの館の主が戻ってきていた、なんてことはない?」

 ルゥドは少し間を置いて、文字を書き始めた。

『人間と会ったことはありません リオナが初めてです』

「うーん……何かおかしい気がするのよね」

 今までルゥドから伝え聞いたことを思い出していく。

 なぜルゥドがここまで知的になれたのだろうか……

 ある懐疑にたどり着き、リオナは言った。

「そうだ、ルゥドは本を読んでいたんでしょ?」

『はい』

「あれだけの所蔵よね。全て読むのには相当の時間がかかったんじゃない?」

 リオナも手当たり次第、面白そうな本を読んではいたが、まだまだ一握りの本を読んだ程度だ。

『私は本に夢中になりすぎていて 一体どれだけの時間を要したのかは覚えていません

 一日一日を意識することもしませんでした

 それが?』

「いい? 私でも一日に一冊から二冊程度しか本を読めないわ。あそこにあった本の数は大なり小なり百冊を超える。そうなると、ルゥドは単純計算で少なく見積もって百日以上ここにいたことになる……でも、ルゥドは寝なくていいから、一日で何冊も読めるのかしら?」

『私はそもそも字を理解するところから学習を始めました

 それには本当に膨大な時間を要した気がします 時間はあの時本当に気にしていなかったので その感覚すら朧気ではありますが

 だから 恐らくその百日以上 いや、倍の時間は要していたのかもしれません 正確にはわかりませんが』

「じゃぁ簡単に二百日とするわ。そんな長期間……ルゥドは館にいたのよね」

『私の中では 本を読んでいる時間というのはあっという間なものですが

 客観的に分析されて初めて膨大な消費していたということに気がつきました』

「その間。館には誰も来なかったの?」

『館にはもしかしたら 誰か来たかもしれません  確認する方法は今となってはありませんが

 だけど  少なくとも書庫には誰も来なかったし

 妙な物音なんかも聞きませんでした』

 段々と浮かび上がってきた一つの事実。

「そんな長いこと家を空ける人なんているのかしら?」

『私には わかりません もしかしたら そういう事情があったのかも』

「それだけの事情って一体何かしら。私にはあまり検討もつかないわ」

『もう この世にいないということでしょうか』

「こんな立派な館を長期間開けてどこかに行っているなんてことも考えにくいし、そういう可能性も十分にあるわね」

『そうだとしたら 残念です

 もし生きているのであれば 私のことについて知っているのかもしれないのに』

「事情があって戻ってこれないって可能性もあるから、そう決めつけるのは尚早よ」

 ルゥドも性質は違うが自分の過去が気になっているのだと改めて気が付いた。いつもリオナにばかり気を遣ってくれているし、自己主張もあまりしないものだったから、その思いについては意識していなかった。

「何かないのかしら、手がかりになるようなものは。ルゥドの過去は私も気になるわ」

 ルゥドの過去、館の謎、リオナの記憶。

これらがもしかしたら何かつながりがあるかもしれない。漠然とではあるがリオナはそう考えた。

最終的に繋がりがなくてもそれはそれでいい。単純に気になることなのだから。

『私も自分なりに考えて探してはみましたが

 正直言って 手がかりとなるようなものはないです

 ただ 気が付いた点といえば

 私は間違いなくこの館に不釣合いな存在だということです』

「不釣合い?」

『はい そもそも私は鎧です

 鎧とは人の攻撃から身を守る為のもので戦いの際に着用します と本で読みました

 ですが 私はこの館の主が鎧を必要とするような戦いをしていたとは考えにくいと思います

 それに鎧に似た何か物騒なものはこの館の中にはない』

「言われてみれば確かに……」

 ルゥドも自分なりに考えを巡らせているようだ。

『それを考えると 私は館に元からいたのではなく 外からやって来た

 考えにくいけども その可能性が五分以上にあるのではないかと考えています』

 ルゥドは白昼堂々と歩ける格好ではない。はっきりと言えば異形の姿だ。

 であるから、この館に最初から閉じこもっていたものだとばかりリオナは思っていた。もっと言えば、置物が勝手に動いて、意思を持ったというお伽話によくあるような妄想を勝手に描いてルゥドに当てがっていた。

 閉ざされた空間にいた動く鎧。無意識にそれで整理がついていた。

しかし、外から来たとなると……一体どこから来たというのか。

『結局のところ どちらであったかを指し示す根拠がないからどちらとも言えないのですけども』

「そうかもしれないけど、可能性が広がったのはいいことなんじゃない?」

『そうでしょうか?』

 言って、何がよいことなのかは説明ができないことに気が付く。

「今新しく発見したことは、一つ、館には長い間誰も来なかった。二つ、ルゥドは外から来たかもしれない」

『その二つはあまり関連性がないかもしれない』

「わかっているわよ。ごめん。ルゥドが外から来たかもしれないという点は後でもう一度整理させて。その前にちょっとおかしいと思ったことがあったの、また」

 こうして話しをすればするほど、可能性である事実とそれに対する疑問が泉のように湧き出てくる。その疑問が解消されるか、あるいは一定の事実に行き着くかは別としてではあるが。今の段階ではまだまだ仮定的な事実しか積み上がっていない。

 もしその仮定が事実と足りえる根拠があればそれは事実となる。あるいは更にそれを覆すものがあればまたそれに対する根拠を探す。その繰り返しでいずれかは何かわかるのかもしれない。

「私は村が近くにあるかもしれないといったけど、そうじゃないかも。だってそれだけ長期間の間誰も関知、関与しないなんておかしいもの。特に村が隣接していれば絶対誰かがここまで来て存在を確認するはずよ。そこまで村の人間は閉鎖的ではなかった」

 独特のしきたりや風潮はあるが、それが外部を遮断するということではなかった。交流はしていたし、こちらから出向いていたりもした。

「だとすれば、この館はもっと遠いところにあるのかしら? でも……」

 あちらが立てば、こちらが立たずといった様相になってきた。

「ええぇっと。あれ、でも私は歩いて来た……と思う。だから、そこから考えれば」

『村は近くにある だけど何らかの理由でこちら側に来れない』

 先読みするようにルゥドが既に書いていた文を見せてきた。

「そういうことになるのかしら。肝心なのはなぜ来れないか、よね。ルゥドがこの館で本を呼んでいた時、私はまだ村にいた。村で生活をしていた時、外に繰り出して遠くの方まで足を運んだことは結構あった。だけど、館の存在は知らなかったわ。村で誰かが話しているのを聞いたこともない。ルゥドが言った前提で話を進めるのなら、多分物理的にここには足を運べないんじゃないかしら。ここに来るにはあの大きな洞窟に足を踏み入れるか、森の中を横断する必要がある。洞窟は例えば……土砂崩れとかで先に進めなくなったとか」

『それなら辻褄が合いますね 完全に隔離されていて 誰とも交流していなかった』

「いや、誰とも交流しなかった、なんてことはないはずよ」

 即座に否定する。

「あの舗装された道とこの館の規模から考えれば、以前言った通り、この館と別の近くの人間が干渉しあっていたということは間違いないでしょう?

 じゃぁ誰と干渉していたのか……村の人間とでしょう。だって、私が歩いてこれる距離にあるということが、館と村が隣接していて、互いに干渉出来る位置にあるいうことを証明している」

『つまり 話をまとめると

 以前は村と館で干渉していた

 だけど 原因はわからないままなぜか干渉を出来なくなった

 そういうことですね? でもそれなら特におかしくないじゃないんですか?』

「腑に落ちないのは、なぜ私が館の存在を知ることが出来なかったのかよ。今までずっと暮らしていたのよ? 私が村にいた期間。ずっと昔から、私が生まれる前から、ここに立ち入り出来なくなったのかもしれないけど、そうだとしても館の情報は村で共有していておかしくない。何か変わった情報があればすぐに共有するのが村の不文律みたいになっていたもの。村の外に出歩こうものなら、そういう情報は必ず教えてくれる。なぜ? なぜ私は館の存在を知らなかったのかしら」

 全て仮定のもとで話を進めてはいたのだが、リオナはもはや全て暫定的な事実だとまとめあげて頭で回答を練りだそうとしていた。

 ルゥドがそれを見計らったように文字を書く。

『どれか一つでも仮定がずれていて事実と違ったら

 村が館と関わっていた事実は覆ると思う

 だから 今は可能性の話として物事を考えるべきだと私は思います』

「……そうね。そうなんだけど。可能性の話としてじゃぁなぜ私が館の存在を知らなかったのか……」

 思い当たることは特にない。

『よく考えれば 物理的に館に足を運べないということはないんじゃないでしょうか?』

「なんで? いや……あ、そうか」

『リオナがここに来たことがそれを指し示している』

 確かにその事実がある以上、どこかから村へと足を運べる道が通じているはずだった。

「そうなるわよね……つまり、ルゥドが本を読んでいた二百日以上の間も道はずっと通じていたということになるのかしら?」

『可能性としては その間、あるいはそれ以前から道が閉じていて リオナが来る時に初めて往来が出来るようになったということも考えられるのでは?』

「それはかなり薄い線だと思うわ。簡単に行き来が出来ない程の物理的な制限が二百日以上もかかっていたとして、私一人の力でどうやって、それを解きほぐしたのかしら。一朝一夕ではきっと何も出来ないと思うわ。他の誰かが通ずるようにした、というのであれば、その当人が館に姿を現すんじゃないかしら。でも、そんな気配はないし、なかったとルゥドは言っていた」

『では 道は通じていたのでしょうか』

「そっちの方が可能性が高いんじゃないかしら……でも、通じているのなら一体何で誰も姿を現さないのかしら……」

 これ以上考えても、どんどん深みにはまっていってしまうような気がした。

 結局のところ、館から出て、色々と探索してみなければ答えは出てこないのだろう。

その勇気が二人してないから、そうしようとか、そうしなければ、といったことは言わず、こうやって話を積み重ねている状況ではあるのだが。

「もう一度整理しましょう。『道は通じていて』、『村と館の距離は近い、干渉をしていた』、『私は館の存在を知らなかった』、『二百日近く誰も尋ねて来なかった』ここから考えられることって何かしら?」

 リオナの方はあまりぱっと思いつくものがない。

全てが仮定であるため、正確な解が前提として出せないかもしれないと無自覚に頭の片隅で考えてしまっていた。その無自覚の料簡が思考を阻害している。

『何だか 私はまだ整理が追いついていません』

 ルゥドもどうやら同じみたいだ。

 大きく息を吐いて、笑みをこぼした。

「今日はもうこれくらいにしましょうか。でも、こうして考えていけば、確実に前に進める。私の失われた記憶も、ルゥドの過去もいずれわかるようになるんじゃないかしら」

 そして、それらにたどり着いたらその先何をして生きていくのだろう。不安が一瞬よぎったが、慌ててそれを打ち消す。

 とりあえずは目の前のこと、と自分を落ち着かせる。

「ご飯、頂くわね。一歩前進出来た私達を祝って」

 胃袋の中にすぅと入っていく食事。

 いつもよりおいしいのはルゥドが凝ったからという理由だけじゃない。

 少しだけ前に進めたから。生と戦えたからだ。


   ・


ルゥドは夜の静寂の中、佇んでいた。

 リオナが寝ている間、夜は大抵こうしてじっと座っていることが多い。文字を教えてもらっていた時は、ずっとひたすらに文字の練習をしていたものだが。

 別段暇を持て余しているわけではない。

 表情がないが、ルゥドはこうして一日に起きたことを振り返り考えているのだ。

 何が楽しかったか、明日は何をしようか。大体がそんなこと。

 宴の後の静けさ。

 楽しかった……と思い返す。

 同時に、思い煩っていたことがあった。

 今日話した内容について。

 リオナには整理が付かないと言っておいたが、自分の正体についての核心に、もう少しで触れられるような、手の届く所にあるような、そんなところまで近づいたとルゥドは考えていた。

 そして、当初の自分の予想通りの事実がこの先に待ち構えているような気がして、たまらなく不安になっていた。

 まだ、決定的になる何かがそこにあったわけではない。

 だが、このまま進んでいけば……

 嫌だ。リオナと過ごせなくなることだけは。それだけは、何があっても嫌だ。


 今夜は長く感じた。一人で館にいた頃のように。


   ・


 歌い明かしたあの日を堺に、リオナは部屋から徐々に出て、自分の食べ物を作ったり、掃除をしたり。生活の為に必要なことを行なって、今までの生活を変えていった。

 館の外に出て、食糧を探しに行く事も出来ていた。夕方以降、近場で、という制限の中で、ではあるが。

 ルゥドの様子がまたおかしいと気が付いたのは、そうして段々と前向きな気持ちになって毎日を過ごせるようになってからだ。

 具体的にはどのように様子がおかしいのかといえば──

 自ら今後のことについて話題を振っても、すぐに逸らされる。

「話の続きなんだけど。あれから、何か閃くものはあった?」

 自分たちの現状を進捗させるためにそういう風に言ってみても、ルゥドは乗ってこない。話の腰を折って、別のことを言ってくる。全く関係のないこと。例えば、読んだ本のどこが面白かったとか、リオナが好きな食べ物についてだとか、痛みとはどのような感覚なのか……等など。ルゥドの知的欲求は当然高いものだから、最初は適宜それに応答して、教えたり、話題に花を咲かせていたけど、露骨過ぎるその話の逸らし方が最近では目に余っていた。

 リオナはそれをよしとは考えなかった。

もう自分の中では向き合わなければならないものと折り合いがついている。今更なかったことにして、忘れようなどという努力はしたくない。

一方で当然、未だに不安と恐怖は付きまとっている。

もう少し話をしていって、その外に対する恐怖心を二人で払拭したかった。

その願望を退けられる格好になっているから、リオナも頭を抱えてしまう。

 しかし、ルゥドは待っていてくれたのだ。以前のリオナに対して。。それを忘れて問い正すことは出来ない。

 だから、自分も待たなければならない。そういう信頼が芽生えていたから、いつかルゥドが何か言ってくれると思っていた。

 たまにそれも忘れて、話の腰を折り返したくなる気持ちもあった。堪えて我慢する。

 

 その我慢が瓦解したのはそれから十日程経過してから。

 最大の原因は、やはり不信感。

 自分が信頼に足る人間ではないのか、わかりあえていなかったのか、という気持ちがどんどん強まって、膨張し過ぎた。

 踊り明かしたあの日から、共に歩んでいこうと思った自分の気概が馬鹿馬鹿しくなり、その点でも腹が立つ。

「ねぇ。何かおかしいよ。以前の私みたいに、ふさぎこんでいるような、そんな気がする。最近のルゥド」

 柔らかな言い方ではあったが、そこに全ての悩みを載せて言った。

 その問いに、ルゥドは身を固まらせた。何も返答しない。

 見かねたリオナ。一気に苛立ちが募る。

「私がこんなことを言うのはおかしいかもしれない。だって、あんな風に部屋に閉じ込もっていたからね。でも、それでも自分を変えられた。ルゥドと共に変えられた。これからのことも考えようとしている。何も言わなきゃわからないよ。ねぇ、本当にどうしたの?」

 更なる沈黙。表情がないから、余計に何を考えているかわからない。声を荒げて、詰め寄ろうとした瞬間、ルゥドはゆっくりと筆を走らせた。

『ごめんなさい ごめんなさい』

 それだけ。

「謝るだけじゃ、わからないよ」

 呆れたという感情が入り混じり、怒りを通り超す一歩手前。

『私は怖い ただ ただ怖い

 今が幸せ過ぎたから その先に何かがあって それが壊されたら堪らなく嫌だから

 外に目を向けるのが怖かったから』

「以前言っていたじゃない、何があろうと、瑣末なことだって。あれは嘘だったっていうの?」

『瑣末ではないことだってある 自分の言葉に責任を持てないで 申し訳ない』

「もう謝らないで!」

 声を荒げる。一体ルゥドに何が起こったのか。ここまで悲観的になった理由とは、それがさっぱりわからない。

「じゃぁ、どうしたいの? ルゥドは。これからここでずっと今みたいに暮らして、目を背けながら生き続けるの? 本当にそれでいいの? 自分と向き合って、初めて胸を張って、生きて、幸せになれるんじゃないの?」

『そうかもしれないし そうじゃないかもしれない』

「……もう……いい」 

 怒りのやり場がどこにもない。ぶつけても、反響してこない。ただ虚しくなった。

「もういいわ」

 リオナは部屋へ戻っていった。きょとんと見上げるルゥドを置いて。何で怒っているのかわからないはずがないのに。

 結局、この館から一人で出る勇気はなかったから、また明日から似たような生活が始まるのだろう。

 信頼されていないということが悔しく堪らなかった。

 

   ・


 二人の不和の間隙を突くように、一つの物が忽然と現れた。

 リオナが予想した通り、結局いつも通りの毎日が始まって朝食を取っている最中。

 どこかに行っていたルゥドが二階から慌てて降りてきた。実際慌ててるかどうかはわからないが、とにかく駆けて降りてきたことは事実だった。

 今まで全くそんな光景をみたことがなかったから、慌てているものだと思ってしまう。

 その手には、一冊の本のようなものを抱えていた。

「どうしたの?」

 怪訝な表情で問う。

『こんなものを 発見しました』

 表題などは何もない。見ても、一体それが何であるか、あるいはなにか重要なものなのかどうかは判別が付かなかった。

「これは……?」

『あの殺風景な部屋で発見したのです ちょっと付いてきて』

 言われるがままついていき、もう一度あの部屋に入っていく。

「ここって、初めに来た時は何も無いと思っていたけど」

 隈なく注意して何か異常が無いかは確認したつもりだった。その結果、机と椅子しかないという結論に行き着いて、そのまま足を運ばなくなったのだ。

『実は 机の影に隠れていました この本が』

「そうなの?」

 あの時は、部屋全体を探したと思ったのだが、そうではなかったのか。まぁ、この際どこにあったかなどはあまり大したことではない。

「……で、それは一体何なの?」

 ルゥドが慌てふためき、持ってくるもの。その正体を確認することのほうが急務だ。

『読めばわかります

 私も途中までしか読んでいないので もう一度一緒に読みましょう』

 それほどまでに何か重要なものが書いてあるのか。とりあえず、言われた通り、そのまま読み進めることにする。


























   ピジェット邸 一日目


 今日から私は日記を付け始めることにした。

 一体何故かというのは当然、我が愛すべき生涯の財産が遂に長きを経て完成をしたからだ。

 まさに記念日。

 私も心を一新して居を構えるのだから、その区切りとして日記を付けるのは悪くない。

 年老いてからもう一度見返して、今の熱狂と感動をありのまま再体験をしたいというのもある。日記とは須らくそういうものの為にあるのだろう。

 愛おしすぎて名前を付けようとは考えていたが、結局悩みに悩んだ末、ぴったりとしたものが思いつかなかったものだからもう単純にそのまま『ピジェット邸』だ。日記の題も単純明快にピジェット邸とのみ記載をすることにする。うむ、その名の通り、私の家だ。我が家だ。素晴らしい。

 私の家なのだよ! 私の家だ! ああ。今一字一字書いて、言葉に出している。もう一度書こう。

 私の家だ……ああ。恍惚とするとはこのことだ。

 流石に少々しつこすぎるかな。

 だが、未来の私の為だ。しつこすぎるくらいが当時の熱狂を思い出しやすくなるというものだろう。


 さておき。

 私は今、二階の寝室でこの日記を書いている。

 書きながらちらりちらりと、燦然と夕日に煌めく海を眺めている。

 この景色は素晴らしい。共に生涯を添い遂げたい、そんな景色だ。

 心が洗われ、私に落ち着きを取り戻させてくれる。

 興奮と情熱に埋もれている私を綺麗に冷ましてくれる。余熱は体にあるがね。

 

 今日はこれくらいにしよう。

 また明日も素晴らしい日になりますように。


   ピジェット邸 二日目


 静かな朝を迎え、今日も生を享受して生きながらえることができた。幸福ここに至り。

 やはり、ここは私の作った館だった。夢なんかじゃない。いつもと違う天井で目を覚まし、それを見て時間差でここがピジェット邸なのだと気が付く幸せ。

 長らく住めばもうそんなことは思わないかもしれないが、この日記に書き連ねておくことによって初志に戻ることが出来るだろう。

 優雅に朝食を取った後、私は早速書斎に篭ってひたすら本を読み続けた。

 本はいい。この世界で唯一最高の知的な娯楽である。これを楽しめないで死んでいく人間を私は嘲笑うだろう。

 そして、この芸術と素晴らしさを理解出来ない人間などこの世には不要だ。

 本を読んでいたらあっという間に時間が過ぎていた。

 また海を見ながら私の情緒を育て、一日が終わる。


   ピジェット邸 三日目


 俗世から離れて一人で隠居暮らし。

 一抹の不安がなかったと言えば嘘になる。ほとんど外部との接触を断ち切って自活するわけだから。

 しかしそれ以上の余りある希望を持ってここで生活することを選んだわけであるから、不安は持ちつつも心ではきっと大丈夫だろうと思い続けていた。

 事実、もう大丈夫だ。

 まだ三日目だから板についてきたとは言えないが、私の選択はやはり間違っていなかった。人生をより幸福なものへと導くために必要不可欠だったと言える。


 元々人が好きじゃないと気が付いたのは大分昔か。

 自分のことを理解しているのは自分だけであるし、それを他人に理解される必要はない。そうだ。その考えに間違いはない。

 考え方や主張も異なるわけだから、私が奴らと決別したのはもはや寸分の違いない運命だったと言えよう。自身が狂気に包まれてるとも知らずのうのうと飼われている犬どもめが。

 駄目だ。落ち着け。私。

 憎しみは何ももたらさないと学習をしたじゃないか。

 だから、奴らから、他人から離れることを選んだのではないか。

私はまだ決別しきれていないのだろうか。凡百の住む通俗的な世界と。


   ピジェット邸 十日目


 久しぶりに日記を書く。十日目だったのかはうろ覚えだが、まあいいだろう。

 日記の存在すら忘れるくらいに最近私は充実して忙しいのだ。決して飽き性ということではないぞ、未来の私。

 今は裏庭の畑の栽培にほとんどの時間を費やしている。作業そのもので躓くことはないが、やはり一人での作業となると腰が折れ、くたびれる。まずは開墾の作業からやらなくてはならないし、肥料や土選びも大事だ。

 私は小食だからそこまで広範囲に量を植え付けるということは必要がないのだが、やはり野菜の種類は豊富であったほうがいいだろう。

 似通った時期に栽培が可能なものを同時に植えれば同じ畑でも特に問題はないだろうと、少しばかり広めの畑を開墾中だ。このために種と苗は既に館に備蓄がある。失敗しても大丈夫なくらい。

 生活の環境を整えることは非常に楽しい。畑仕事も以前と比べてかなり楽しく出来た。なぜだろう。やはりそこに他人がいないからだと思う。


 肝心の私といえば、すこぶる元気だ。身体も、心も。

 この調子でまずは畑を開墾していく。

 

   ピジェット邸 十三日目


 今日はラモが訪ねてきてくれた。

 親愛なる我が同胞。この世で唯一の理解者。

 我が身を心配してくれていたのだ。

 つつがない近況を話し、私が何も憂いておらず楽しく生活をしていると告げるとラモは安堵していたようだった。

 部屋なら余っているから一緒に住まないかと誘おうかとも思ったが、ラモにはラモの生活がある。無理強いは出来ないし、私が誘ってしまったら尾を引いて気にしてしまうのがラモの性格だ。

 それから二人でお茶を楽しみ、夕暮れになって海の景色を紹介してからラモは帰路についた。

 必要なものがあれば何でも持ってくる言ってくれてはいたが、私は私で自活出来る自信がある。

 それに、私と会っていると奴らに知れたらラモの立場が危うくなってしまうだろう。ラモにそう頼るわけにはいかない。


   ピジェット邸 二十日目


 遂に畑の開墾作業と植え付け作業が完了した。

 毎日の手入れはしなければいけないが、後は期が熟すのを待つだけだ。

 食料の方はそれ以外にも十分な備蓄が出来た。

 近辺の森には思いの外様々な動植物達が息を潜めており、今は捕縛しやすい動物達を中心に狩りを始めている。

 いずれは図鑑でも作るように森の全ての生き物達を網羅してみようか。


 実は、いつか私は弱音を吐くかもしれないと思い続けていた。

 結局一人で生きていくことなんて叶わないのかもしれないとあれ程強がりながら、頭の隅にはそんなことがちらついていた。

 私はそう思うことがあるのかもしれないと今の生活に踏み切った。


 だがどうだろう。

 以前心は晴れ晴れしいままだ。

 このまま。このままの調子だ。

 

  ピジェット邸 三七日目


 日記を書くのは久々だ。

 変わった事は何もないから実は書くことがなかったのだ。

 今日も変わった事はなかったが、とりあえず近況なんかを書いていこうと思う。


 生活は早くも安定期に入った。

 畑は十分に良好な状態を維持し続けてくれているし、狩れる動物達もかなり増えた。野生の食草についても見分けがつくようになってきた。


 変わらない生活でも、私は本当に毎日が楽しい。

 自然を愛し、同化し、めぐりめぐるようにそれらに順応して生きていく程幸せが体の中から湧き出てくる。

 誰に煩わされることもない。

 私こそが真で。真が私だ。

 

 ただ、問題が一つあるとすれば、この調子で本を読んでいったら、近い将来必ず読む本がなくなるということだ。

 当初はこれで十分だとも思ったのだが、生活の中で読書時間はかなりを占める。私の予測がはっきり言って甘すぎた。

 本だけを求めに外に行きたくはなかった。

 もう私はこの館と周囲の森で生活を完結させている。

 世界がまるで私一人のようなのだ。いや、既に私一人なのだ。

 そんな気持ちだからこそ幸せが享受できているというのに、外に出てしまったら興ざめ、いや、とてつもない喪失感に見舞われることはほぼ間違いがないことだ。

 

 愛すべき親友は再度必ず訪ねてきてくれるに違いがない。恐らく近い内に。

 その際に頼むしかないだろうか。あまりにも不躾だし、虫がよすぎる話かもしれない。

 

 しかしまぁそんなことを悩んでいる必要はない。

 逆に言えばそんな些細なことで悩める今こそがやはり幸せの時だといえる。

 明日も生きることに生を出すとしよう。


   ピジェット邸 四五日目


 やはり、ラモは訪ねてきてくれた。来るといったら必ず来る律儀な奴だ。勿論我が身を心配してくれて来てくれたというのもある。互いが無事であったことがなによりよかった。


 私はラモに近況を話し、今自分がどれだけ幸せなのかどうかということを話した。

 もしかしたら、ラモにとってはあまり信じられない、共感の出来ない感性を話したかもしれないし、事実そう思っていたかもしれないが、そんなことはおくびにも出さず、ただ笑顔で頷いていて話しを聞いてくれていた。

 久々に他人との接触だった為、築きあげてきた世界が壊れてしまうという危惧はあった。それが例えラモであれども。

 しかしそれも杞憂だった。

 楽しく時は過ぎ、何も私の中で消えていくものはなかった。


 ラモは言った。

「楽しそうでなによりだった。君はやっぱり一人が好きみたいだし、またこれくらい間隔を空けて来るよ」と。


 私は甘んじて受け入れた。

 ラモなら世界は失われないと気が付けたから。


   ピジェット邸 四十八日目


 ラモは意外にも早くにまた訪れた。しかし、いつもの笑顔がなかった。

 そして口から出たその言葉達は私の楽園を崩壊させるような出来事だった。

 あまり思い出したくもないことなので、詳細はこの日記には書かないでおこう。


 私には関係のないことだ。


 とここまで昼までに書いたのだが、駄目だ。そう割り切れたらどれだけよかっただろう。

 時間が経って思い出したくもないことを色々と思い出してしまう。

 奴らの狂気沙汰に付き合うのはもううんざりなんだ。畜生。何度言ってもラモを奴らから引き離せない自分にうんざりしてしまう。それだけラモにとっては私などどうでもいいものなのか? 信じるに値しないものなのか?

 いや、それは違う。

 何が悪いか、単純明快だ。奴らに決まっている。


   ピジェット邸 五十五日目


 少しは心に落ち着きを見出すことができていた。

 奴らのことを思い出すことで私は完成していた世界を崩しかけていたのだが、習慣というものは大事だ。

 いつもの一通りの流れ。朝起きてから寝るまでの習慣を何も考えずに行うことによって、自分だけの世界の再構築に成功してきている。

 私はこの世に一人なのだ。奴らのことなど知ったことではない。

 可哀想なラモ。

ラモはまた来るだろうか。拒むことは出来ないが、またこの前のようなことを言われるのであれば、私はどうすればいいのだ。正直言って、同じようなことを言われてしまったら、さすがの親友でも、それを拒絶してしまいたくなるだろう。

何とかしてこの館に一緒に住んでくれるように説得をするしかないのか。

そうだ。保護するのだ。自分の手で。何としてでも。何があっても。すがりついて、体裁考えずに頼み込むしかない。幾度もそんなことはしてきたのだが今回ばかりは身を投げる思いでやるしかない。

 説得のための文言は予め用意しておこうとしている。いかに私の論理が正しく、奴らが間違っているか。筋道立てて、情熱をもって改めて説明すれば、以前はあれだけ拒んだラモでも考えが変わるかもしれない。変わらないかもしれないが、このまま何もしないで拒むのは嫌だ。絶対に。


   ピジェット邸 六十六日目


 一体いつくるのだ? ラモよ。

 いつラモを救えるのかということを考えてはいるものの、来てくれなければどうしようも出来ない。 頭の片隅でいつ来るかいつ来るかということを常に考えて、落ち着かない毎日だ。

 どうすればいいのだ。私から足を運べと?

 駄目だ。それだけは絶対に許せない。することも出来ない。

 今はただ待つしか無い。

 来い。来い。来てくれ。来てくれ。ラモよ。


 

   ピジェット邸 

 

 なんてことだ。

 間違っていたのは私で。ラモは正しかった。

 そして同時に奴らも正しかった。

 滑稽だ。こんなことが許されるのだろうか。何もかもが馬鹿らしくなってきた。

 館での日々が決して嘘ではないとはわかっている。

 危機は目の前に迫っている。日記を書けるのはこれで最後かもしれない。こんなことになってしまった以上、もはや未来の自分の為に日記を書くなんてことは馬鹿げている。

 今こうやって日記を書いているのはなぜだろうか。わからない。きっと自分の気持ちを整理するためかもしれないが、そんなことで収まり切らない。どう書けばいいかもわからない。

 日記は持って行くことにしよう。

 とにかく今は備えなければならない。



   ・


 リオナは一気に、夢中でその日記を読んだ。一字一句、自分に関係のあるかもしれないことを逃さずに。

「まさか、こんな形で、館の主に出会うとはね……ルゥドは読み終えた感想は何かある?」

 考える所はいくつもあったのだが、それらの点が頭でまとまりきっていなかった為、とりあえずルゥドに話を振る。

『謎だらけとしか 何かわかりそうで何もわからないです』

 ルゥドに話を拒絶するような素振りはない。

 どうやら、この日記の内容に関しては、意見を出してくれそうだ。昨日までのことを思い出すと、嬉しくなる。考えを改めてくれたのかと。

「その通りよね。確かに謎だらけ。でも考えていけばわかることもあるんじゃないかと私は思うわ。なので、まず日記に書かれていた事実を挙げていきましょう」

 二人は座り込んだ。

 この日記には明らかに過去のことが記載されている。今はまだリオナの失われた記憶が想起されるということはなかったが、それが自分の記憶と結びつく可能性はあるとリオナは考えていた。

「まず、このピジェットは多分変人よね」

『なぜ?』

「変人といっても、軽度な変人だわ。間違いがない……なぜって」

 言わなくてもルゥドならわかるかとは思ったが、やはり対人経験はまるでないのだ。仕方がない。

「そもそもこんな館を建てて一人で住もうってことがおかしいわよね。一人を望んで自分だけの世界がどうとか。普通の人間ならあんまりそんなこと思わないんじゃないかしら。でも、軽度って言ったのは、そこに至るまでに背景がいくらかあったみたいだし、そこから考えると、元から変人だったわけじゃないみたいだったから」

『やはり 気になるのは<奴ら>が誰であるかだということですね そして一体何をしていたんでしょうか』

「ピジェットが憎む連中のことでしょう。そしてラモとピジェットは旧知の仲」

『もしかして、この二人 ピジェットとラモは リオナの住んでいた村に住んでいたのでは? 覚えは?』

 急に話が飛躍するが、リオナもそこには行き着いていた。

「十分有りうるわよね。でも私が村にいてそんな名前は聞いたことがなかったわ。知らなかっただけかもしれないし、私の生前の話かもしれない。この二人は私と同じ時間を生きていたのか、それは疑問だわ」

『一ついい考えがあります それは本を見ることです 本の最後らへんに日付が書かれたものが僅かですがありました それを見れば』

「名案ね。だけどそこから推測は難しいかも」

『一体どうして これ以上ないと思ったのですが』

「そもそも、村で本は一つも作られたことがない。作る環境がないし、そんな歴史と文化は村にないと教わってきた。本っていうのは大陸を練歩いてきた商人達曰く、『高級な物資であり富豪の娯楽。訪れたどこの地域でもそう。大陸を横断しても。書く人も少なければそれを手に出来る人も少ない』と。これは商人から直に聞いた話だからその商人が嘘を付いていない限り間違いない話だわ。

 そして、暦は方方によって様々だとも。私も幾つか、というか結構あった本を読んでみたけど、知らない暦ばかりしかなかったわ。そして、村の暦は間違いなく独自のものよ。だから、本に記載はないはずだし、この日記にもそれは書いていない」

『そんな』

「でも見てみないとわからない。もしかしたら村の暦が書かれた本があるかもしれない。そうと決まれば、移動しましょう」


「日付が書かれたものはこれだけ?」

 書庫に移動し、それらを眺める。たったの四冊しかなかった。

『私の記憶ではこれらです この数字は何を意味するのだろう と疑問に思って日付が書かれたものに関しては意識して記憶していましたから 自信を持って言えます 間違い無いです』

「そう。ルゥドがそういうなら信じるわ」

 早速確かめる。

 四冊ともやはり、それぞれが全く違った暦で日付を記載していた。村の暦とも全く違うから、時間の前後関係はわからない。

「私にもっと暦の知識があればよかったわ。村でずっと暮らしていたから、必要がないと思っていた」

『やはり ここからピジェットとラモの生きた時間を見出すのは難しそうですね』

「残念だけどそうみたい。他に何かなかったかしら? 感想でも気になるところでもなんでも」

『後は日記の最後ですよね』

「ルゥドは最後のどこが気になった?」

『私はまずこの破れた箇所です 一体何が記載されていたのか 

 そして破れた箇所に何か核心に触れるものがあった気がするのです』

 最後のページの手前に、確かに破れた箇所があった。そのせいで、随分内容が飛び飛びになってしまっている。

「肝心な所は曖昧なのよね、この日記。ルゥドの言う通りこの間に何かあったのかも。だけどもう無い以上どうしようもないわ」

『それは言う通り』

「私が気になったのは一番最後よ。何かに備えるためにどこかに出向くような記述があるのに、一体何でここに日記があるのかしら」

『日記は持って行こう 今は備えなければならない

 その部分ですね 言われてみれば確かに』

「<危機は迫っている>とも書いているんだから、館から出てどこかに退避しようと思ったんじゃないかしら。でも不思議よね。危機が迫っているという割には何か宛てがありそうな感じしない? ずっと、一人で暮らしているというのに」

『そもそも 日記で言う危機が一体何のことだかさっぱりわからないから その辺りも想像が出来ないですね』

「ま、その通りなんだけどね」

 そこまで話を終えて、二人は沈黙した。

 結局、この日記から実のあるものを得られたとは言い難い。何となく館の主の存在を近くに感じることができただけだった。

 もっと状況が転じるかと思い、読み進めていったので、少し気落ちしてしまう。


『ごめんなさい』

 そんな中、ルゥドが突然筆を走らせた。

「どうしたのよ」

『この前は ごめんなさい』

 昨日そうだったように、ルゥドはただ謝り続けている。

 それが考えあっての謝罪だとわかるので、昨日のように怒ったりはしなかった。

 きっと、昨日は色々考えてくれたのだろうと思う。

「逃げるだけじゃ駄目って、ルゥドが教えてくれたんじゃない。だから、前を向こうよ」

『そうだ 言う通り 私は間違えていた』

「もう。わかればいいのよ。わかれば」

 昨日の鬱憤が嘘みたいに晴れていく。

 ルゥドが自分を待ってくれていたように、リオナもルゥドを待つことが出来た。

 何も無理に説得する必要はなかった。待って、時がルゥドを後押ししてくれた。

 もう一度、信頼関係が取り戻せた気がする。そんな気持ちになったので、嬉しかった。

「覚悟は出来た?」

『ばっちり なんて言えないけど それでもリオナと前に進みたい その覚悟はある』

「それで十分。そうと決まれば……外に行きましょう」

 この日記が手がかりになることは確かだったが、これ単体でどうにかなるものではなかった。それと組み合わさるものが外にあるかもしれない。そういうものが発見できれば、更に新しい発見へと繋がる。

「どうする?」

『行くしか無い やっぱりそれしかないんだなって思います』

「外に何があろうとも、ルゥドと一緒なら、乗り越えられると思う。言い過ぎじゃなく、本音よ。だから、ルゥドもそう思って。もっと、私を頼っていいよ」

 無言で頷くルゥド。それを見つめ返す。

 二人の間で、一つの決心が生まれた瞬間だった。


   ・


 洞窟へ向かう準備は迅速に行われた。

 寝室で発見した大きな布の袋に必要なものをどんどん詰めていった。

 保存の効く食糧はルゥドが既に用意していたため、可能なだけ入れていく。ルゥドはこうなることを、外に出ることになるということを予め理解していたのかもしれない。だから、これだけの保存食を用意していてくれた。それなのに、少しだけ駄々をこねて、目を逸らしたかったということだろう。

 真意に関しては今更聞かなかった。大事なのはこれからだ。館の外に意識が向いている。リオナもここまで来たら、肝を据えて行くしかないと覚悟を決めている。

 食糧が積載のほとんどを占めたが、他には短刀や薬草や衣類等、生活必需品もまばらに入れ込んだ。

 後はリオナが急造で作り上げた、光源とする木の棒を袋の隙間に差し込んだ。持ちやすい手頃な棒の先端に、引火性のある油を浸した布を括りつけただけのもの。

 洞窟では必ず必要となるものだ。替えの布と油も十分なくらい用意している。

 何度か袋の中身を点検し、準備を終えた二人は無言で頷きあった。


 館を出た。

 朝霧が立ち込めており、曇りで陽もあまり出ていない。視界があまり良くないが、今日出発すると決めたのだから、この程度で今更引き下がることはない。

 鼓舞する発言等もせず、無言で足を進めた。

不明瞭な視界の中ただただ歩き続けた。一度は行ったことがある場所だ。一本道だし、迷うことはない。

 不安な所があるとすれば、それはやはり──人間との遭遇。

 リオナが危惧している村の人間だったり、あるいはその他この近辺に人間がもしかしたらいるのかもしれない。

 出発前は実際に会うことはないだろうと多寡を括っていたが、やはり外は広大だ。どこに何がいてもおかしくない。辺りを警戒しながら道を進む。


 しかし、それは杞憂に終わった。今のところ、ではあるが。

 二人は難なく洞窟の入り口まで辿り着いたのだ。

「問題はここからよね」

 道中初めてリオナが口を開いた。声を出すことによって張り詰めていた緊張感が少し緩和されたような気がした。

「ルゥド、あの木の棒を出してくれない?」

 袋はルゥドが背負っていた。荷物を全て持たせることは多少気が咎めたが、

『自分は疲れ知らずの体です』

 と率先して荷物を持ってくれたのだ。そこに甘んじたという次第である。

「……ルゥド?」

 まるでリオナの声が聞こえなかったかのように、じっと洞窟の入り口の方を向いて見ていた。

「ねぇ」

 幾度かの問いかけにも応じなかった。

「もう、何しているのよ」

 仕方がないから自分で取り出そうと背後に回り、ぶら下げている袋に手を伸ばした。

 木の棒に手をかけるその瞬間に、ルゥドはこちらを向き直した。

「な、なに?」

 その機敏さがいつもの鈍重な動きとは不自然なくらい釣り合わなかったので身を引いて驚く。

 すぐさまルゥドは腰の筆記用具一式を取り出し、書き始めた。手の中で、すらすらと筆を進めていく。

 そして、書き終えるとその羊皮紙を両手でつまんでリオナの眼前に押しやった。


『この先何があるかはわからないけど

 何が起きても リオナは今まで通り私に接してくれますか?』


 そう書かれていた。

 言葉をよく咀嚼する。

 覚悟をして館を出たとは思ったが、やはり、これから遭遇するかもしれない未知の人間に対して怯えてしまっているのだろう。不安を引きずっている。

 そして、きっと自分が足手まといになってしまうとまで考えているに違いない。

 それはやはり仕方がない。

 道中でもきっと、その不安を抱き続けていたのだろう。

「何をそんなに不安がる必要があるのよ。大丈夫。言ったでしょ。私はいつもルゥドの味方よ……館での日々はかけがいのないものだったじゃない」

 本心だった。間違いなくリオナにとっては必要不可欠な日々。ルゥドと寄り添い、共にした毎日。それらがなかったら、今ここにこうして二人で立っていられない。

「もし受け入れてくれない人がいたり、危害を加えてくる人がいたら、やっつけちゃえばいいじゃない。私が許す。でも殺しちゃ駄目よ。逃げるのに必要なくらい」

 快活に笑顔を飛ばして言った。

「しかも、私だってもし村がこの先にあったらまた何をされるかわかったものじゃない。だからおあいこよ」

 こういう風に自虐をしても、精神的に何も覚えない状態までになっていた。村で迫害された過去と決別は知らない間に出来ていたのかもしれない。それもやはり館での日々があったからだ。

「だから笑いましょ。笑って先に進みましょう。それは私だって不安よ」

 じっと立って話を聞いていたルゥドがゆっくりと頷いた。

 それでも、完全に不安を拭い去るのは難しい。

「もう出たとこ勝負よ! 行きましょう。おっー!」

 思い切り右拳を天に突き上げる。

「ほらっ、ルゥドも……おっー!」

 促され、ルゥドも不器用に天に突き上げる……突き上げるというよりは手を天にかざした。


「おっー!」


「おっー!」


「おっー!」

 

 周囲を気にすることもせず、大きな声を出して天に拳を突き上げた。自分の不安。ルゥドの不安。まとめて吹き飛ばすように。

 ルゥドもリオナの声が大きくなるにつれて、段々と大きな動きをしてそれに呼応してくれるようになった。


 何十回か掛け声を続けて、疲れて地面に座り込み、思った。


 ──前を向いて生きよう。


 息が整って、立ち上がる。服についた砂を払って言った。

「さぁ、行きましょう」










 






 




 


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