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「なぜ会いに行かない。久しく会わず、会いに行きにくいと言うのか? だったら甘いパンでも焼いて持たせてやるぞ」
ゲンゾウは、棚からコウヤ用に置いてくれているカップを取り出し、紅い液体を注ぎ、コウヤの前に置いた。
湯気が立ち上るカップの中から、甘い香りがコウヤの鼻をくすぐった。
「……2度目だ」
甘い香りは記憶のふちをくすぐった。
花の香りもお茶の香りも、すでに遠い記憶の中にしかない。大陸には緑すらないのだ。花が咲くはずもなく、飲み物は水ばかり。水であっても輸入しなければ飲めるものはない。大陸にあるのは、一族と一族に変えられた有印種だけで、時折、見かける鳥もまた、有印種に変え、伝書を運ぶための道具でしかない。
「これで最後だ。最後はコウヤと飲みたいと思っていたんだ」
ゲンゾウは、自分のカップにも紅茶を注ぎ、コウヤの座っている席の斜になる位置に座った。そこがゲンゾウの定位置だった。
「甘いパンを持って行くか? それとも時間はかかるが、良いジャムを手に入れたんだ。皮肉にも薔薇ジャムだけどな。……それでパイを焼いてやろうか?」
「いらない。妹に会う気はないんだ。……どんな顔をして会ったら良いのか、わからなくなった」
紅茶をすすったゲンゾウは、飽きれた顔で笑った。
「おいおい、妹だろ。どんな顔って、普通の顔で良いだろう」
「そんなことより」
コウヤは言葉を区切り、ゲンゾウの顔を真剣に見つめた。
「ここで働かせてくれないか? ……それで、ここに住まわせて欲しい」
ゲンゾウは唖然としてコウヤを見つめ、それから深いため息を吐き出した。
「確かバジルと言う名の男と暮らしていたのだろう? どうした。喧嘩でもしたのか?」
「……違う。けど、何も聞かず、ここに置いてくれないか?」
コウヤが身を乗り出すと、テーブルのお茶がカタンと揺れた。
「……しかしな……おまえは特別なんだろう? その首にある印もそうだが、アードとの関わり合いも俺らとは違う。勝手なことをして当主に睨まれるのは御免なんだがな。……それに、妹がひとりで寂しい思いをしているのではないか? 傍にいてあげた方が良いと俺は思うが……」
「妹は……もう良いんだ。あいつは俺とは違う」
コウヤは想いの丈を言葉に込め、しまったとばかりに言葉を噤んだ。
「違うとはどういうことだ?」
ゲンゾウは紅茶を飲み、俯いてしまったコウヤを見つめた。
そうしてまた深いため息を吐く。
「ここには俺とおまえしかいない。俺は幸い、ここの誰とも繋がりがない。どうだ、全部吐き出してしまわないか」
コウヤは顔を上げ、親身になってくれているゲンゾウの表情を伺った。
しかし、心の中には蟠りがある。飲み終わったカップの存在がそれだった。
コウヤは指先を流しの方へ向ける。
「あれの意味は? 繋がりが無いとは言えない筈だ。教えてくれ。今の言葉は俺を欺く為の嘘か?」
「違う、そうではない。あれは……そうだな。どのみちおまえにも関わる話だ。良いだろう。教えよう」
ゲンゾウはガタンと椅子を引き、踵を返した。
その先には、もうひとつの扉がある。そこは倉庫になっていて、パンの原料が置いてある暗い部屋だ。その端に地下へ下りる階段もあり、床に二枚開きの扉があり、その上にラグが掛かっている。
地下に位置する部屋には、ゲンゾウの生活する場があり、地下から外へ出る為の別の通路があることもコウヤは知っていた。
ゲンゾウは地下へ下りる扉を開け、先に梯子を下り出すと、コウヤに続けと視線を送った。
コウヤもまた、ゲンゾウに続き、梯子を下りる。
地下の部屋からは、薄い明かりが漏れていた。