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君と暮らす退屈な日々  作者: サクラギ
≪第三章≫
52/53

>8

 赤が視界を封じた。

 白と光の世界を覆い尽くす闇が、足元から這いずり出で、赤い世界を飲み込んで行く。


 ひんやりと冷たい肌に触れ、鋭い爪先で皮膚をえぐれば、赤い液体が身を襲い、凍えた。

 白い肉と赤い繊維の向こう側に、ドクドクと波打つ器官が覗いて見える。

 何のためらいもなく掴み出した手は、強張って動かなくなってしまったコウヤのものではなく、アード自身のものだった。


 嫌な音をさせ、体から抜き取られた心臓は、依り代を無くしても脈打ち、アードの手の中で動き続けている。


 心臓を抜き取られた本体であるアードもまた、痛みなど感じないというように、頬を引き上げ、捕え続けているコウヤを冷めた視線で見つめていた。


 心臓の抜けた穴で繊維が蠢き、穴を埋めるように肉となり、皮膚となって行く。


 未だアードの手の中で鼓動を打つものを、時間が止まってしまったように動けないコウヤの手を持ち上げ、その手の中に握らせる。


 コウヤの体がわずかに動き、握らされ、脈を振動で伝えてくる“もの”を、離してしまいたいという衝動に突き動かされ、アードにとって分身とも呼べる“もの”から手を引いた。

 しかし、アードがそれを許さない。


「さあ、どうしました。あなたには私を無きものとしなくてはならぬ理由がある。大切なものを守る為、正統なる理由を用意してやったのだ、私の些細な願いくらい叶えてくれても良かろう? それとも、私がおまえを消し去れば良いのか? おまえの大切なものを道連れとし、闇に沈んで行く未来を、おまえは選ぼうと言うのか……」


「……あなたは勝手すぎます。なぜあなたと共に、全ての幸せを手にできないのですか? 幸せの中で眠る道を選ぶことはできないのですか?」


 声が震えた。

 赤に染まった世界の中で、脈打つ“もの”の生を感じながら、全てを終えようとするアードの感情に訴えた。


「死も、眠りも大差ない。俺には死を選ぶ理由がわからない」


 涙で世界が歪んでいる。

 アードの中の失望がコウヤを襲い、頑なに無を思うその心のうちさえも、コウヤの心には響いて来ない。


「私とおまえとでは魂が違う。私は自らが名乗りを上げ、探究という欲に塗れてこの存在となった。……おまえとは違う。欲はわが身を滅ぼす。そうでなくてはならないのだ。でなければ、ことわりの上に成り立たぬ。神に見捨てられた種族では、人の世を正す力などありはしない」


 アードの手がコウヤの手を引き寄せ、アードの掌に包まれながら、脈打つ“もの”に圧力を掛ける。


 手のひらの中で変形し、潰されて行く“もの”の行方を凝視しながら、俯いたアードの表情を見た。

 無、だった。

 自身の生の終わりを感じさせない静かな表情。それが当然であるとした堂々たる態度。

 それらがコウヤの意思を奪っていたが、コウヤは、ただ、アードの内側を見つめていた。


「おまえは、さらなる人の欲が生み出したものだ。しかし、魂は穢れておらぬ。何も知らず、何も知らされず、ただ温かなものを求め続けるその魂は、きっとことわりの内にあるもの。おまえだから託す。おまえだからこそ、我が道の先を綴ってくれるのだと信じていられる」


 ググッと力を込めれば、涙を流すように赤い液体が溢れ、組織が膨らんで弾けた。


「アード!」


 心臓を抜き取り、その心臓を潰してしまった先にあるものは……。

 “死”ではない。

 心臓を無くした体が再生を始め、再生されるまでの永い間、眠り続けるだけだ。


「……おまえを信じている……」


「嫌だ、アード!」


 コウヤに倒れ掛かったアードの体を受け止めたコウヤは、胸に掻き抱き、泣いた。

 それが何に対する涙なのか、悲しみなのか、わからない。

 アードは敵だった。

 いつも遥か高みに存在し、怯えるばかりの存在で、近づくことさえ躊躇うほどの威厳に満ちていて……。


 一族全てを管理する主だった筈だ。

 簡単に心臓を奪われ、鼓動を止められる相手ではなかった筈だ。


「嫌な役回りだ、アード。おまえを殺し、立つ高みなんて、全てを敵に回しただけじゃないか。……一人が嫌だって知ってるくせに……」


 白いシーツの上にアードの体を横たえ、髪を直し、目を閉じさせる。そうすれば、このまま永く眠りにつき、いつかは目覚めの時を迎えるのだろう。


 ……それで良いのではないか。


 いつか目覚めの時を迎え、その時、幸せを傍らに。

 約束の地を、アードの未来に。


 コウヤは、美しく眠るアードの顔を眺めながら、嗚咽を漏らし、涙を流した。


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