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赤が視界を封じた。
白と光の世界を覆い尽くす闇が、足元から這いずり出で、赤い世界を飲み込んで行く。
ひんやりと冷たい肌に触れ、鋭い爪先で皮膚をえぐれば、赤い液体が身を襲い、凍えた。
白い肉と赤い繊維の向こう側に、ドクドクと波打つ器官が覗いて見える。
何のためらいもなく掴み出した手は、強張って動かなくなってしまったコウヤのものではなく、アード自身のものだった。
嫌な音をさせ、体から抜き取られた心臓は、依り代を無くしても脈打ち、アードの手の中で動き続けている。
心臓を抜き取られた本体であるアードもまた、痛みなど感じないというように、頬を引き上げ、捕え続けているコウヤを冷めた視線で見つめていた。
心臓の抜けた穴で繊維が蠢き、穴を埋めるように肉となり、皮膚となって行く。
未だアードの手の中で鼓動を打つものを、時間が止まってしまったように動けないコウヤの手を持ち上げ、その手の中に握らせる。
コウヤの体がわずかに動き、握らされ、脈を振動で伝えてくる“もの”を、離してしまいたいという衝動に突き動かされ、アードにとって分身とも呼べる“もの”から手を引いた。
しかし、アードがそれを許さない。
「さあ、どうしました。あなたには私を無きものとしなくてはならぬ理由がある。大切なものを守る為、正統なる理由を用意してやったのだ、私の些細な願いくらい叶えてくれても良かろう? それとも、私がおまえを消し去れば良いのか? おまえの大切なものを道連れとし、闇に沈んで行く未来を、おまえは選ぼうと言うのか……」
「……あなたは勝手すぎます。なぜあなたと共に、全ての幸せを手にできないのですか? 幸せの中で眠る道を選ぶことはできないのですか?」
声が震えた。
赤に染まった世界の中で、脈打つ“もの”の生を感じながら、全てを終えようとするアードの感情に訴えた。
「死も、眠りも大差ない。俺には死を選ぶ理由がわからない」
涙で世界が歪んでいる。
アードの中の失望がコウヤを襲い、頑なに無を思うその心のうちさえも、コウヤの心には響いて来ない。
「私とおまえとでは魂が違う。私は自らが名乗りを上げ、探究という欲に塗れてこの存在となった。……おまえとは違う。欲はわが身を滅ぼす。そうでなくてはならないのだ。でなければ、理の上に成り立たぬ。神に見捨てられた種族では、人の世を正す力などありはしない」
アードの手がコウヤの手を引き寄せ、アードの掌に包まれながら、脈打つ“もの”に圧力を掛ける。
手のひらの中で変形し、潰されて行く“もの”の行方を凝視しながら、俯いたアードの表情を見た。
無、だった。
自身の生の終わりを感じさせない静かな表情。それが当然であるとした堂々たる態度。
それらがコウヤの意思を奪っていたが、コウヤは、ただ、アードの内側を見つめていた。
「おまえは、さらなる人の欲が生み出したものだ。しかし、魂は穢れておらぬ。何も知らず、何も知らされず、ただ温かなものを求め続けるその魂は、きっと理の内にあるもの。おまえだから託す。おまえだからこそ、我が道の先を綴ってくれるのだと信じていられる」
ググッと力を込めれば、涙を流すように赤い液体が溢れ、組織が膨らんで弾けた。
「アード!」
心臓を抜き取り、その心臓を潰してしまった先にあるものは……。
“死”ではない。
心臓を無くした体が再生を始め、再生されるまでの永い間、眠り続けるだけだ。
「……おまえを信じている……」
「嫌だ、アード!」
コウヤに倒れ掛かったアードの体を受け止めたコウヤは、胸に掻き抱き、泣いた。
それが何に対する涙なのか、悲しみなのか、わからない。
アードは敵だった。
いつも遥か高みに存在し、怯えるばかりの存在で、近づくことさえ躊躇うほどの威厳に満ちていて……。
一族全てを管理する主だった筈だ。
簡単に心臓を奪われ、鼓動を止められる相手ではなかった筈だ。
「嫌な役回りだ、アード。おまえを殺し、立つ高みなんて、全てを敵に回しただけじゃないか。……一人が嫌だって知ってるくせに……」
白いシーツの上にアードの体を横たえ、髪を直し、目を閉じさせる。そうすれば、このまま永く眠りにつき、いつかは目覚めの時を迎えるのだろう。
……それで良いのではないか。
いつか目覚めの時を迎え、その時、幸せを傍らに。
約束の地を、アードの未来に。
コウヤは、美しく眠るアードの顔を眺めながら、嗚咽を漏らし、涙を流した。




