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一族の領地と有印種が暮らす地との間にある砂地は、両地の境界としてある。
一族の領地を出て砂地を30分ほど歩くと有印種の街が見えて来る。その向こう側は海岸線となり、未だ毒に侵されている海原が広がっていた。
大陸にあるすべてのものが毒に侵されている為、人は長く大陸にいると病に侵され、死に至る。その為、アード当主は、連れて来た人に薔薇の刻印を施した。施す理由は、毒に侵されない体を与える為と、アード当主が直々に許可を与えたと一族に知らしめる為であった。
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有印種が暮らす街は、海から吹く強い風と、舞い上がる砂の中にある。
その為、風景は黄土色に霞んでおり、視界が明りょうではない。
建物は四角い土壁で造られており、風を避ける為、入口は最小限のもので、扉は造られておらず、一つ目の部屋は物置か、空洞となっていて、中は風に運ばれた砂が壁際を覆っていた。
ここで暮らす有印種は、様々な職種の技術者である。
海を渡った遠い、大小様々な島から連れて来られた人は、一族が暮らす為に必要な物を造らせる為に呼び寄せられ、定住させられている。
乗船工場、建設工場、縫製工場、細工職人など、壮年の男たちが集うこの地区には、アードの温情もあり、酒場や賭博場、商館も造られているのだが、彼らは、家族を人質にされているといっても過言ではなく、自らが進んで大陸に渡って来た訳ではない。したがって、温情で与えられた娯楽施設も、暇つぶしの役には立っているが、内心では鬱としたものが溜まっている。
それはコウヤ同様、心の中に眠らせた憤りだ。しかし、コウヤよりも長い間この地に捕らえられている為か、諦めの方が勝っている。人ではなく、けれど正統な一族でもない、不確かな存在としてある己に辟易している。そうとも取れる。
その地区の中に、配給品として配られている、パンを製造する店があった。
一族は血肉を好み、穀類を原料とするパンを好む者はいない。それなのにこの地にパン職人を派遣させているのは、アード当主が、コウヤとユズナの主食とするパンを、焼き立てで食べさせようとする思惑があった為だ。
地区の海側にあるパン屋は、他の建物と同様、土壁で覆われた四角い建物の中にある。
主人の名はゲンゾウ。繊細に思えるパン職人であるが、ゲンゾウは体格の良い、髭面の男で、成長の遅いコウヤよりも2倍に見える程大きく、手も厚く、指も太い。
コウヤたち兄妹がアードに拾われて来た時とほとんど変わらない時期に店を構えたゲンゾウは、有印種の中でもっとも若く、この地の者との馴染が薄い。
ゲンゾウにもまた家族がおり、その家族が暮らす島は、アードの薔薇紋を刻んだ旗を掲げ、アードに守られている。その加護を得る為、自身の存在を賭けて取引をした。ゲンゾウにはゲンゾウの連れられて来た理由があったが、それでもコウヤは引け目を感じている。パン屋が必要となったのは、コウヤが血肉を口にできず、パンを主食とした為だったからだ。
おいしいパンを食べる時、その意味を噛みしめ、泣きたくなる。
コウヤを手放しで受け入れてくれたゲンゾウに対し、恨んでくれた方が数倍マシだと思う程に。
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パン屋の店の前に立つと、店内からゲンゾウの声が聞こえて来る。
「いらっしゃい」
ゲンゾウは、コウヤの顔を見て、満面の笑みを浮かべた。
まるで近所に住む子どもを迎え入れるような、そんな温かな空気を感じる。
店の中は、壁際に設えられた釜戸と道具棚、中央に置かれた形成の為のテーブルがあるだけで、焼いたパンは、配給品と注文品とに分けられ、焼き立てのまま出荷されるシステムになっており、商品が棚に並べられることはない。
すでに昼を回る時刻である。店内にはパンを焼いた香ばしい匂いさえなく、ゲンゾウ自身が食べる為だろう、数個のパンが箱に入れられた状態で、形成用のテーブルの上に乗せられているだけだった。
ゲンゾウは丁度、奥の部屋から出て来た所らしく、手には休憩をしようとしていたのだろう、煙草と火をつける為の小さな石入れがある。
「今日のパンの出来はどうだった? おまえさんは肉入りも甘いのも好まんからな。張り合いがない」
「……甘いのはユズナが好きだ、……たぶん」
入口で立ったままのコウヤを、奥の部屋へ案内するように、ゲンゾウは手にしていた煙草らを黄ばんだ前掛けのポケットの中にしまい、奥の部屋へ通じる扉を開いて、コウヤが来るのを待っている。
「たぶん、とは何だ。妹の好みも知らんのか」
ゲンゾウは豪快に笑う。
コウヤは口ごもりながらも、ゲンゾウの案内に従い、ゲンゾウの開けている扉を潜り、奥の部屋に入った。
ゲンゾウがその後をついて入って来て、扉を閉め、立ち止まっているコウヤを越して奥へ歩いた。
次の部屋の中には、生活用の炊事場があり、木製の戸棚の中には食器が並んでいる。その横に置かれた箱の中には、酒瓶が並んで入っており、隣には水入りの樽が3つ並んでいた。
中央に置かれたテーブルには、4脚の椅子が、2脚ずつ向かい合わせで置いてあり、ゲンゾウは、その一つをコウヤに勧めた。
「城への注文は近頃受けていないぞ。妹は元気でやっているのか?」
勧められた椅子に座りながら、コウヤは唖然としてゲンゾウを見た。
ゲンゾウはコウヤの表情を見て、大きくため息を吐き出し、首を振る。
「なんだ、その様子じゃ妹に会いにも行っていないのか」
テーブルの上には、すでに飲み終わっているカップがある。ゲンゾウがお客に使用するカップは、大陸では珍しい、白い素焼きの片手持ちのもので、下には皿も置かれている。ほんの少し底に残っている液体は、薄い紅色で、ゲンゾウの暮らしていた島で紅茶と呼ばれていた飲み物だとわかった。
紅茶は輸入されていない。ゲンゾウがこの島に来る時に持ち込んだ物が全てだと聞いており、こうしてコウヤが会いに来ても、最初の1度だけ出してくれただけで、あとは勿体ないと言って出してはくれなかった。
そういった経緯もあり、コウヤが来る前に誰か客があり、それも特別な相手だったのかと推測できた。
ゲンゾウはコウヤの視線を読んだのか、静かにカップを皿ごと引き、炊事場の方へ運んで行った。
コウヤもまた口を噤む。
新参者のゲンゾウは、長く有印種として暮らしているこの地区の者たちと打ち解けてはいない。有印種もまた、印を消されなければ、死という概念から切り離される。ただ飢えはある。食料を口にするのは、己の欲を満たす為だ。そういった欲を満たす為の道具として、パンはあまり好まれない。ただ食堂や酒場からは注文がある為、全てから見放されている訳でもなく、ゲンゾウはあえて静かに暮らしている、そういった印象をコウヤは持っていた。
それなのに特別な客がある。
有印種の中に特別親しい誰かが出来たのかと思いもするが、新しく有印種が連れて来られたという話は聞かないし、今更、ゲンゾウと関係を持とうとする有印種がいるとも思いにくかった。