嘘つきの世界
大好きなんです。
ただそこにいてほしいんです。
笑ってても、泣いてても、怒ってても。
生きていてくれればいいんです。
何があっても生きようね。
表札を見る度に思う。あと何度、これを見られるのだろう。気付かない間に、これを見ない月日が長くなって、やがて記憶の底に埋もれるのか。
<uozaki>
鍵をガチャリと回す魚の背中に、覆いかぶさるように抱きつくと、
「おい、重い。お前なぁ。」
うっとうしそうな声が返ってくる。
「ねぇ、ゲームしようか。」
玄関に入り言うと、魚は片眉だけ上げて煙たい顔をした。またロクな事を言わないと思われているのだろう。
魚の家なのになぜか私が魚の手を引きベッドにダイブする。ちょっと神経質な魚のベッドはいつも、シーツがピンと張られている。
「ゲームならいつもしてるだろ。ほら。こうやって。」
魚はキスもしないうちに私の胸に手を這わせた。それを払いのけると、急に不機嫌な顔になった魚の頬を指でつついた。
「それはゲームじゃなくて、プレイでしょ?大人のプレイ。それはそれでいいんだけど。」
「いいなら早く。」
今夜の魚は飢えた獣のようだ。シャツを脱ぎ、じりじりと私を追い詰める。
「嘘つきゲーム。しよ。」
「何それ。大人のプレイより面白い事?」
お腹に魚の唇が当てられ、くすぐったい。笑いながら魚の髪の毛を手のひらで撫でる。
「わかんない。よくわかんないけど。お互い嘘をつくの。いっぱい。相手にそれを本当だって信じさせたら、勝ち。」
「そんなのいつ勝ったのかわかんないだろ。その前に、そのゲームに何か意味あんの?」
魚は私の顎をがっちり手で捕まえて、真正面から目を見ていた。目を逸らしたら負けのような気がして、じっと見つめ返す。
「意味なんてないでしょ。私と魚のする事全部、意味があった事なんてないでしょ。したいから、するの。嘘ついてよ。」
なんとなく始まった魚との恋人未満の関係。そもそも、恋人になろうとお互い思っていないのだから、そうならなければいつか消滅するしか道がない。
魚には、好きな人がいる事も知っている。私も大好きな女の子だ。小柄で髪の毛がふわふわで、口が悪いと思いきや、弱気な発言をするので憎めないし、可愛い。そう、あの子は可愛い。
魚はそのまま、顔を近づけてくる。鼻の頭が触れた。
「大好きだよ。ずっとそばにいてほしい。俺の事しか考えないでほしい。」
吐息がかかる距離で発された魚の言葉は、私の胸をえぐった。
本当はあの子に言うはずの言葉は、私には辛すぎる。でも、それでいい。
このまま何の意味も目的もなく魚と過ごす事を、やめたかった。やめるには、それ相応の傷が必要だった。
ゆっくりと魚の唇が私の唇を塞ぎ、うまく息ができなくなる。
「お前も何か嘘つけよ。こういう事だろ?」
挑発するような魚は、すっかり私の服を剥ぎ取ると、楽しそうに笑った。
いつも、魚の前では一生懸命武装した女心を裸にされてしまう。洋服や化粧なんて気休めにしかならない。
魚の胸の中に抱きこまれると、背中に腕を回した。
「魚。大好き。私の事しか見ないで。他の誰も見ないで。ひとりにしないで。」
自分で言ってて、泣けてきた。
恋や愛がここになかったとしても、自分を見ていない人と一緒にいるというだけで、さみしさに重く沈むから。
「お前、すぐ泣くのな。可愛いなぁ。俺の前でしか泣くなよ。もっと泣かせてやるから。」
魚は嘘が上手だ。どれもこれも嘘だってわかっているのに、愛されている錯覚を起こす。
自分で始めたゲームは開始五分で惨敗。でも、ゲームは続く。
「魚の前でしか泣かないよ。だって、全部魚にあげたいから。何もかも、全部。」
「愛してるよ。俺だけのものでいて。お前だけのものでいさせて。」
「忘れられないくらい、めちゃくちゃにして。」
魚は私の体に噛み付くように、そこかしこを舐めていった。
嘘だらけの関係。嘘だらけの言葉。嘘だらけの存在。
私に重なった魚は、頬や額に何度もキスをした。私も自然と同じように魚にキスをする。
「ゲーム、終了?」
魚が冷めた目で言ったので、無言で頷いた。
何度か髪の毛を撫でられたが、すぐに体が離れ、魚はバスルームへ消えた。
まだ温もりが残ったシーツを指でなぞり、ゲーム終了、と呟く。
バッグからケイタイを取り出し、あの子の連絡先を表示させて、指が止まる。
いつも私はあの子に臆病だった。あの子の事を好きな魚にぶつかって砕ける事は怖くないのに、あの子に近づく事すら臆病だった。
「髭剃り取ってくんない?」
魚の声がして、ケイタイをベッドに置き、洗面台に置かれたカミソリを手にした。すりガラス越しに私の姿が見えたのか、魚がバスルームのドアを開け、甘い香りの蒸気がふわりと流れてきた。
「ありがとう。お前も入れば?」
カミソリを差し出したはずの手を引かれ、そのままバスルームに踏み入れる事になってしまった。
出しっぱなしのシャワーに打たれながら、魚は器用に髭を剃る。その横で体を泡まみれにして、魚のお尻を爪先でつつく。
「お前うざいよ。」
「知ってる。もう、嘘はついてくれないんだね。」
「好きな女にも嘘つけない俺つかまえて、よく言うよ。」
ねぇ、好きな女ってあの子の事?嘘つけないなんて嘘でしょ。大好きって言うかわりに悪態ついちゃう事、知ってるんだから。
あの子に悪態つくのも嘘、私に優しくするのも嘘、魚は嘘だらけ。
「じゃあさ、魚の好きな子の話してよ。」
体の泡を流しながら、皮肉っぽく言ってみる。きっと魚の事だから、無視かいないと否定されるか、どちらかだと思った。
「お前、性格悪いの?頭おかしい骨せんべいみたいな女の話なんか」
顎を突き出した状態でカミソリを頬に当てている魚の言葉は、途切れた。
私が後ろから思い切り突き飛ばして、鏡に顔をぶつけたからだ。切れた頬から鮮血が流れ出し、タイルを赤く染める。
「いってぇ。お前何す」
シャワーヘッドを力任せに魚の体に投げつけ、また言葉が途切れた。シャワーヘッドがタイルにぶつかりゴンッという派手な音がバスルームに響いた。
「二度と、そんな酷い事言わないで。あの子を悪く言う人は魚だって許さない。許さないんだから。私の事はうざいでもブスでも何でも言えばいいよ。でも大事な人の事、そんな風に言われたくない。」
魚を指差す手が小刻みに震え、声はわんわん反響していた。
驚く程、冷静な魚は、めんどくせぇと小さく呟いて、シャワーヘッドを拾い上げた。
「大事な人って言う程、お前とあいつって仲良かったっけ?」
平然と質問してくる魚は、間違ってないけど酷い男に違いなかった。
「わかんない。でも、私が大事と思うのは勝手でしょ。帰る。」
そうだ。たいして遊んでもいないのに、私にはあの子は大事だった。
バスルームを飛び出し乱暴に体を拭いて、髪の毛も乾かさず洋服を着た。玄関で靴を履いていると、魚が腰にタオルを巻いて出てきた。すぐに腕を捕まえられる。
「離して。」
「お前、馬鹿なの?今、朝の四時だよ?どうやっても帰れないでしょ?」
「駅で始発待つもん。」
「濡れたままだし、子供じゃないんだから、癇癪起こすなよ。」
「だって、魚が悪いんじゃん。魚が悪いんじゃんか。」
魚の腕にすがるように、ずるずると体が崩れた。あまりに悔しくて、涙が出る。ぽろぽろぽろぽろ、私の心が零れていく。
大好きな人なら、守りたい。どんなに子供じみた守り方しかできなくても、それを自分しか知らなくても、守りたい。大好きな人の悪口は、自分しか言ってはいけない。
あの子は、私には可愛すぎる人で、私には支えられない弱い人で、私には手に余る滅茶苦茶な人。
だから、魚が自分のものみたいにあの子を悪く言った時、魚が羨ましかったし、許せなかった。
「勘違いしてたかも。」
魚に半ば引きずられるようにベッドに連れてこられた私の膝に、ドライヤーが置かれた。
「お前、俺の事好きだって思ってたけど。」
泣きながらドライヤーをかける私に目もくれず、魚はスウェットを身につけ、キッチンに立った。
「嫌いだよ。魚なんて大嫌い。」
「俺だってお前の事、大嫌いだよ。」
「じゃあなんで抱くのよ。」
テーブルにマグカップを置いた魚が手招きをした。促されるままに、そこへ行き、ホットミルクを飲んだ。湯気が熱くて、鼻の奥がつんと痛くなる。
「じゃあなんで抱かれるんだよ。」
魚は少し笑って、まだじわりと血が滲む頬にタオルを当てた。
「きっとお前は、あいつの事が好きなんだよ。だから俺を好きなんじゃなくて、あいつを好きな俺が好きなんだよ。どっちみち、お前は俺なんか見てないし、お前の言う通りこの関係に意味なんてない。」
魚の言っている事は、正しい。
「何がしたいわけ?理解に苦しむ。」
自分でもわからない。ただ、可愛い女の子は、世の中のあらゆる汚いものや醜いものやその存在を脅かす全てから守られるべきだと思っているだけ。もしも私がそれをしてあげられなくても、魚の言葉を遮ったように、言葉を止める事はできる。そっとあの子を離れた場所から見守る事もできる。
全ては自己満足で、あの子には必要のない事かもしれない。だけど、私は必要とされる事より、あの子を必要としていたい。一方的でも構わない。
初めてあの子を見た時、お人形みたいに可愛くて、だけどあまり笑わなくて、触れるとさらさらと砂のように崩れてしまいそうに、危ういと思った。
だから、私は決めた。
あの子がどんな辛い事や苦しい事があっても、あともう一日、生きてみようかなって思えるように、あの子を大事にしていようって。
私がそう思うのは、あの子じゃなくちゃ駄目で、代わりなんていない。
そうしたところで、あの子がもう一日生きてみようって思うのかはわからないけれど。
でも、あの子の口の悪い言葉を沢山聞いていたい。弱音もお腹いっぱいになるまで聞いていたい。できれば、私の前でなくてもずっとずっと笑顔になれていればいい。
「きっと、私には、できないから。あの子みたいに、わがままでも弱くても気持ちを言葉にはできないから。魚が一番年上、私はその次に大人、あの子はまだ子供。だんだん、自分はこうなんだって、言えなくなるよね。でもまだあの子は言える。言えるうちに、沢山の人から守られるべきだと思ってるの。だから、さっき、私は魚のひどい言葉からあの子を守った。あの子が知らなくてもいい。私がそうしたいから、した。」
ぐすぐす鼻をすする私の頭を、魚が撫でた。
「年取るって、厄介だよな。こっちきて。」
飲みかけのホットミルクをテーブルに残して、ベッドに寝転んだ。
魚は柔らかく私を包み、まるで傷を舐めあうように寄り添う。
魚の言う通り、年を取るって、厄介だ。素直な気持ちを素直な言葉にはできなくなるから。屈折した凶器のような言葉に変えてでしか、気持ちを吐き出せなくなるから。
みんな、自分の気持ちはここに確かにあるのに、それをどうやって外に発信したらいいのかわからなくて、迷子になっている。
魚だってそうだ。私もあの子も、きっとそうだ。
なんで生きてるのか、目の前にいる人は本当に自分を必要としてくれているのか、不確かなものばかりで、自分の存在さえ見失う。
「お前みたいなめんどくさい女なんて嫌いだよ。でも、お前は俺がかっこ悪くても冷たくても、笑ってくれる。だから、抱くのかもな。何か、こんな自分でも許されてるような気がするから。」
やけに真面目なトーンで話す魚は、ずっと私の背中を撫でていた。
「私は、どうしてかな。性的な意味で魚に惹かれたのは事実だけど、きっと魚があの子を好きじゃなかったら、ここまで踏み込もうと思わなかったかも。魚にあの子を取られちゃう気がしたの。本当は、取られるどころか、あの子は私のものでも何でもないのに。女の子をしてる、そういう言葉がぴったりな、わがままなのに弱気なあの子を、好きになったから。魚があの子のところに行かないようにひき止めておきたかったんだよ。不可能だって、わかっているのに。」
私は男性ではない。だから、男性としてあの子の支えになれる人の前では、あまりに非力で嫉妬と羨望を向けるしかなかった。
魚は肩まで布団を引き上げると、
「レズビアン宣言をするなら、あいつにしてやれよ。」
と笑った。
「違うよ。そうじゃない。私はあの子にとって流れて行く景色のひとつでも構わなくて、だけど、あの子をずっとずっとどんな形でも大事に思っている事が私にできる唯一の事だから。そうしているだけ。でも、ごめん。傷になったね。乱暴してごめん。」
震える指で魚の頬に触れると、そっと唇が重なった。
「傷ならすぐ治る。」
魚はそう言って眠ったけれど、目に見える傷は治っても、目に見えない傷が治る事はないのだと思った。
体の傷なら治す方法を私達は知っている。だけど、心の傷を治す方法を知らない。だからこんなにも滑稽で必死に生きるしかできないのだ。
魚の隣で見た夢は、あの子にとっての何者にもなれないまま、さみしいと泣いているあの子の姿をただ遠くから見ている悲しいものだった。
魚はマイペースだった。あんな諍いの後でも、連絡が来たし、繋がらない時もあった。
「魚にとって信じられるものって何?」
テレビを見ながらポテトチップスとペプシを交互に口に運ぶ私の横で、魚はずっとケイタイを触っていた。
「自分かな。あとお金。」
「寂しい男。」
「じゃあお前は何だよ。」
魚を非難したけど、逆に聞かれると口ごもる。テレビを消した。
信じられるものなんて、ないような気がしたから。時間と共に急速に何もかもが変化していく。自分だけが変われなくて、取り残される。
だったら、何を信じればいいのかわからない。
魚の言うように、自分だとかもわからない。その自分が不確かなまま変われないのだから。
お金だって、使えばなくなる。稼いでも稼いでも終わりは見えない。
変化していく世界にいると、ここにいるのは自分じゃなくてよかったんじゃないかと思ってしまう。だって、疎遠になって消えてく人間関係の先には、新しいそれが待っているから。いくら自分がずっといたいと思っても、相手はそうじゃなかったから、消えていく。
みんなみんな私を何かの代用品にしているだけで、きっと私は最初からいなくても大丈夫だった。
魚だって、私を寂しい夜の相手の代用品にしてるだけ。
私は魚だから、一緒にいたいけど、魚にとってはそうじゃない。
噛み合わない自分とまわりに、時々、追い詰められる。
「わからない。だから、偶然でも出会った人を信じたいと思うのかもしれない。だから、どんな形でも、自分の心の中にその人じゃなきゃ駄目だっていう気持ちを持つのかもしれない。」
「人間だって所詮、消耗品だ。」
ケイタイから目を離さない魚は、とても冷たくて、自分本位な人間なのだと思った。
「そういう風に人を見てるの?」
「お前だって、俺を消耗品だと思うだろ。どうせ、いつかいなくなる。どうせ、いつか代わりができる。」
「そんな事ないよ。」
強く否定した自分の言葉が空回っている事は、わかっていた。
いつかお互いが目の前からいなくなり、思い出せる範囲の記憶からも消えてしまう存在だとわかっていたから。
「わかんないな。友達も恋人も、家族でさえいつどうなるかわからない。それを信じる方が、難しいと思うけど。」
「違うよ。私が信じるのは、誰かとの関係性じゃない。もしも、いなくなっても永遠に大事に思ってるって事を信じたいの。その人が自分には必要だったって。」
「言ってる事、支離滅裂すぎて話にならない。」
魚はテーブルにケイタイを置くと、ベッドに倒れ込んだ。
「しかも、いい年した大人が永遠なんて、耳が腐りそうになる。」
魚の隣にそっと座ると、腰に腕が絡められた。
「この前、あの子と私、そんなに仲良くないって魚は言ったよね。」
「んー?そうだったっけ。まぁ、よく遊んでるって話は耳にしないから、そう言ったのかもな。」
「そうなの。私、あの子とそんなに遊んだ事ないの。でもね、あの子は人を悪く言うよりずっと、自分の事を悪く言う事を知っているし、自分と同じで誰かに必要とされたいとか、さみしいとか、そう思うくせにわがままに人を傷つけたりとか、わかるから。私が勝手に大事に思っていたいの。ずっと、幸せを願っていたいの。」
魚に引っ張られてベッドに倒れると、後ろから抱きしめられた。
「要は誰かを信じられなくても、出会った人を大事にはできるって事が言いたいわけ?」
「そうかも。自分自身で心から追い出さない限り、ずっといる。」
「例えば俺とかあいつも?」
「そうだね。まぁ、魚の事は忘れちゃうと思うけど。だって、魚は誰の事も必要じゃないでしょ?」
意地悪く言うと、唇を塞がれた。
あと何度、こうしていられるだろう。あとどれくらい、記憶の中にいられるだろう。
でも、それよりもっと不安な事は、自分の中から誰かを大切に思う気持ちが消えてしまう事だ。自分が誰かを消耗する側になってしまう事だ。沢山の人が目の前を通り過ぎる度に、自分が感じたさみしさを、誰かに与えてしまう事だ。
窓の外が白んできた頃、私のケイタイが鳴った。
魚は無言で私を腕から離すと、背を向けた。
ベッドにケイタイを持って戻ると、魚は鼻の頭を私の腕にこすり付けるように寄り添ってきた。
「もしも、私に彼氏ができたらどうする?」
「さぁ、浮気相手になるかな。いや、そいつの方が後からきたんだから、そいつが浮気相手なんじゃないの?」
眠そうな声とは裏腹に、魚は腕をよじ登り私の首に噛み付いた。
でも私達、付き合ってないよね?問わなくてもわかる事。
「今、ケイタイ鳴ったの男友達からで、付き合ってほしいって言われたんだけど。」
魚はすっと身を引くと、あからさまに嫌な顔をした。
どんな反応をするか試すつもりじゃなかった。魚と終わるために大きなきっかけなんていらないと思っていたから。
「そういう報告いらないんだけど。それとも、その男にアドバイスしてほしいわけ?こんな女やめとけって。」
鼻で笑った魚は私のケイタイを取り上げようと手を伸ばした。反射的に避けようと体を捻ると、絡まってぐちゃぐちゃになった。
「魚にとって私が消耗品なら、私は魚の中から、いつ、なくなるの?」
重なり合った体が、いつかずれ始めて、いつかなくなる。そんな事はわかっている。
だけど、いつ、それが訪れるのかわからないと、不安でたまらなくなる。
魚はケイタイを持つ私の手を捕まえて、真っ暗な画面を見つめた。
「ゲームしようか。」
真っ暗な画面に映った魚は、笑っていなかった。
「嘘つきゲーム。お互い沢山嘘をついて、相手にそれを本当だって信じさせたら、勝ち。」
魚の気持ちも、どんな嘘を望まれているのかも、わからなかった。
ケイタイがするりと手のひらからベッドに落ちた。
魚は体を起こして、目を閉じて何かを考えているように首を傾げた。
「俺は本当はあいつに、微塵も相手にされていない事を知ってる。だから、あいつと友達のお前と関係を持って、そのせいであいつと上手くいかないって言い訳をしてる。だけど、お前の事を大嫌いと言いながらも今は少し怖い。お前がいなくなる事が。」
ねぇ、それ、本当に嘘なの?ゲームだって言われても、本音にしか聞こえない魚の言葉は、私が自分の気持ちをミックスさせて、都合よく解釈したから?
魚はカーテンを開けると、目を細めて窓の外を見た。
「俺だって好きな人から好きだって思われたい。必要としている人に必要とされたい。だけど、それはただのエゴでしかなくて、思えば思う程、自分と相手の気持ちが噛み合わなくてどっちも傷つくだけなんだ。俺にはできないよ。背を向けた人の分も心の中に大事に思うスペースを空けておくなんて。だから、少しお前が羨ましい。」
ねぇ、魚。私達は嘘を好んだから、ここにいる。恋愛から目を背けたから、ここにいる。そんな事言ったら、全部が間違っていたみたいじゃない。
「俺はきっとあいつの矛盾した弱さとか、思い通りにならないあいつの主観とか、自分の枠にはめようとしてしまうから。お前みたいに訳わかんなくても、声を荒げる程、あいつを大事だって言う人がいるってわかっただけで、もういいかなって思った。」
弱々しい微笑みを浮かべた魚は、大きく息を吐き、私の手を握った。
「何が、もういいの?」
魚の本心がただ吐露されていく嘘つきゲーム。私はどんな嘘をつけばいいのだろう。
「俺がお前を消耗品にしたように、俺もあいつの消耗品になってもいいかなっていう、もう、いい。」
両手を重ねた魚は、それをひとつに束ねて、額にくっつけて祈るようなポーズになった。
もう、よくないでしょ。って言いたいのに、声が出ない。
誰だって傷つかずに生きる方法を模索して、嘘をついて、また傷ついて、嘘を本当って信じ込むために自分にさえ嘘をつく、脆くて間抜けな人でしかない。
魚だってそのひとりで、私だって、きっとあの子だってそのひとりで、誰かの唯一無二になりたくて馬鹿みたいに自分をすり減らしていく。そうなっている事にも気付かないくらい、がむしゃらに進むしかなくて、いつの間にか今の自分が嘘か本当かもわからなくなって。
「魚が去っていく人の分まで心の中にスペースを空けておけないって言うなら、私がそうするよ。いつか魚がいなくなっても、あの子もいなくなっても、私の中には大事に思うスペースを空けておく。だから、私は誰の消耗品にもならないよ。いつまでも、ちゃんといるから。私の中には確かに大事に思う人がいるから。」
いつか私が魚の事もあの子の事も忘れた時、この言葉は嘘になるのかもしれない。だけど今は、これを嘘だと思っていない。
私は必要とはされなかったけど、必要とする事はできたし、大事に思われる事はなかったかもしれないけど、大事に思う事はできたし、それを幸せに思える。
「お前は、どうして人に望まないの。俺みたいに自分のものさしで人をはからないの。もしかしたら、本当に優しいってそういう事なのかなとか、思わなくもないけど、嘘っぽいよ。」
魚の言う事は、よくわかった。大抵の人は自分と同じ、を望むけれど、それをしない私は綺麗事で生きているように見えるのだろう。
魚の手をぎゅっと握り返し、そこに唇をくっつける。
「きっと、好きって言って傷つけてしまった方が、嫌いって言って傷つけてしまうより、いくらか救われた気持ちになるからだよ。」
「俺の事は嫌いって言うくせに。」
「それは大人のプレイの一環だと思ってたけど?」
「まぁ、そうかもな。嫌いって言う度に、好きって言いたい気持ちが大きくなって、今はもうどっちが本当かわからない。」
魚は大きく伸びをすると、腹減った、と言った。
私は布団に潜り込み、寝たい、と言った。
「ほんとお前はぐうたらしてんな。そのうち腐るぞ。」
お腹を鳴らしながら布団に入った魚は、私の頬をそっと撫でた。
目を閉じたまま笑うと、空気が揺れて、魚も笑った事がわかった。
夜まで寝て起きてを繰り返した私達は、はたから見ると仲良しで、自分達にとってはただの馴れ合いでしかない時間を過ごし、いい加減空腹が限界に達して部屋を出た。
「化粧しないの?」
魚は玄関の鍵を閉めながら言った。
「だって、魚が化粧してもブスだって言うから。」
拗ねたように唇を尖らせると、ヘッドロックをかけられるように抱き込まれ、
「ブスにブスって言うわけないだろ。お前頭悪いの?」
と、声を上げて笑われた。
人は嘘を本当の事のように言う。本当の事を嘘のように言う。嘘を嘘として言う。本当を本当として言う。感情なんかがあるばかりに、右往左往振り回されて、すり減って、ひとりぼっちに感じる。
「それ、褒めてるの?」
笑いながら魚に抱きつくと、露骨に眉間に皺を寄せられた。
「嘘つきゲーム、まだ終了してないんだったよな?」
「ほんと魚、大嫌い。」
車に乗り込んで、窓を全開にする。
走り出し窓から夜の匂いが勢いよく流れ込み、心地いい。
「お前、いなくなるなよ。」
風の音と音楽に掻き消されそうな程、小さい魚の声は、ちゃんと耳に届いていた。
「んー?何食べる?」
「ほんと、お前って嫌な女だな。」
魚は音楽のボリュームを上げ、ため息をついた。
私は体ごと魚に向き直り、横顔に言った。
「大丈夫。私の心の中には魚がいるためのスペースも空けてるから。」
「ああ、もう、嘘つきゲーム終了な。ほんと調子狂うわ。」
まだゲームが続いていた事にしておいた方が、お互いのためにはいいようで、クスクス笑いが止まらない車内は、快適だった。
その後、しばらく魚と連絡さえ取らなかった。きっと、あれで終わりだったのかも、なんて思う。お互いが嘘つきゲームに乗せて吐いた本当の気持ちはどれだったのか、知る術もなく、自分が傷つかない解釈で全てを受け取るしかできない。
パソコンに入れている画像フォルダを見返して、あの子の写真で指が止まった。
ケイタイではやり取りしていたが、会わなくなってからは、あの子の方が断然長い。
ケイタイを握って、少し戸惑って、ドキドキしながら通話ボタンを押した。
まるで恋する中学生だ。好きな女の子に電話ひとつするにも消極的になる。
もしも出なかったらどうしよう、出てもどうしよう、迷惑だったらどうしよう、何かしてる最中だったらどうしよう、果てしなくどうしようが出てくる。
あの子はすぐに電話に出て、嬉しそうな声で私の名前を呼んだ。
それだけで胸がいっぱいになって、足をじたばたしてしまう。
すぐに会う約束を取り付け、駅に向かう。
「久しぶり。」
駅の改札から出てきたあの子に、両手を広げる。すると、あの子は嬉しそうな笑顔で飛びついてきた。そして、私の心はじんとするのだ。
嬉しくて楽しくて幸せな気持ちでいっぱいになるのだ。
会うのは約一年ぶりなのに、違和感がない。
ああ、可愛いなぁ。そう思うと自然と笑顔になる。
毛先がくるんとカールしたロングヘアに、ぱっちりした目、白い肌、相変わらず口は悪いのに独特の間の抜けたしゃべり方。
そんな全ては私にとって大好き以外の言葉が見つからなくなる程。
あのね、あのね、と沢山の話を聞かせてくれるあの子は、お決まりの、
「私デブだから。ブスだから。頭悪いから。」
という言葉を挟みながら笑っていた。
それを聞く度に、私の大事な人の事、悪く言わないでよって本人に突っ込みたくなる。
だって、私にとってあなたはすごく可愛くて、口は悪くても人が簡単に傷ついてしまう事を知っている優しい心を持っていて、だからこそ手と手を取り合う事に臆病になっているだけのさみしがり屋の女の子だから。
そろそろ、こうしなくちゃ、こうでなければ、って頑張ってるあの子に、もう頑張らなくていいよってあの子自身が言ってあげられたらいいのになって思うけど。
あの子はまだ言えないみたいだから、その分、私が言うよ。
私にとって、とてもとても大事な人です。あなたのような可愛い女の子は、思い悩むより、いつも笑っていられるようになればいい。その手助けができるなんて思い上がりはないけれど、私の心の中にはいつでも、あなたを大事に思うスペースは空けてます。だから、いつでもここに帰ってきてください。
ビールを飲み干したあの子は、沢山笑って、そのどれくらいが無理して作った嘘なのか、私にはわからなかったけれど、ただ目の前にあの子がいて生きているという事実が幸せすぎた。
きっと私は、魚に声を荒げた如く、あの子を悪く言う人全てを許さない。勝手に、そうしたい。いつも味方でありたい。
目まぐるしく移り変わりゆく嘘つきの世界で、ここにだけは本当を持っていようって思うの。
人間なんか所詮、消耗品だって言った魚。
誰にも必要とされないと言ったあの子。
それでも、私は必要とするし、どんな形でも大事に思っているよ。
あの子は小さなミラーを出しマツエクを整えると、
「カラオケ行きたい。行こうよー。」
と、ごね出した。
しょうがないなって顔をしたけど、内心すごく嬉しいんだから。
「あ、嘘つきゲームしようか。」
「何それ?どんなゲーム?」
「お互い沢山嘘をついて、相手にそれを本当だって信じさせたら、勝ち。」
「なになにくだらなくて楽しそう。」
夜の街を肩を寄り添い歩き始めた。
あの子のふわふわの髪の毛が揺れる度に頬がくすぐったくて、世界は残酷だからこそ美しいのかもしれないと思った。
ただそこにいてほしいんです。
笑ってても、泣いてても、怒ってても。
生きていてくれればいいんです。
何があっても生きようね。
百合の花が似合う、可愛い女の子に捧ぐ。