え→演奏
「ナカジマさん」
もう、いい加減なれたものだった。この声は何かを尋ねるときのレンさんのもの。
「はい? 今日はなんでしょうか」
慣れ切ってしまった俺の受け答えに、レンさんは笑顔で尋ねる。
「じかん、だいじょうぶ?」
明らかに俺が休憩をとっていることをわかっていながら聞いてくるところは相変わらずである。
「ええ。大丈夫ですよ」
「ナカジマさん。このカンジ、かいてみて」
レンさんが差し出してきた紙に書かれていたのは、『奏』という漢字だった。
(この文字を書けばいいのか?)
俺はレンさんの意図をよく吟味せずに、いつも通りに漢字を書いていく。
「stop! ナカジマさん、はやいよ! もっとゆっくり」
レンさんの言葉でようやく意図が分かる。そうか、書き順を知りたいのか。
「オーケー。今度はゆっくり書くよ。まずは横の棒を書いて……」
俺が俺の記憶している書き順通りに『奏』を書いて見せると、レンさんはふんふんとうなずき、何度か白紙に『奏』の文字を書く練習をしていた。
「ナカジマさん。このカンジ、どういういみ?」
「えっと、この漢字の意味かぁ……。奏でるっていうのは楽器を弾くって感じかな。楽器……って言ってわかるかな」
俺の問いかけにレンさんは首をかしげる。ああ、楽器じゃ伝わらないか。
「えっと、ギターとかピアノとか」
「ああ、Instrumentね」
レンさんのネイティブな発音に一瞬ついていくことができない。しかしかろうじて、『インストロメント』と言っていることが分かった。
「そうそう、そのインストロメントをプレイすることだよ」
俺の発する英単語はひどく日本語的で、まったくもってかっこよくない。
インストロメントをプレイ。ルーなんとかさんもびっくりのグダグダっぷりである。
それにしても日本語では『奏でる』なんて言い方をするのに、英語では、サッカーも音楽も何もかも『プレイ』だ。そういうのはなんだか変な感じがするな。
「あー。OK。それはわかった。ありがとう。それじゃあナカジマさん。このじのまえにかいてある、このじはなに?」
レンさんが差し出してきたのは、一枚のチケットだった。そこには、「オーケストラ部 定期演奏会」と書かれていた。
「このじとこのじ(定期)で、『Regular』なのはわかる。このじ(奏)でplaying instrument。それもOK。じゃあ、このじ(演)は?」
『演』の説明か、これは難しい。俺は少しの間考える。
「この字は、プレイ、それかアクトですね。アクターとかアクトレスがステージでアクトすること。これがこの漢字の意味です」
俺の言葉にレンさんは驚いた顔をする。
「それじゃあ、にほんのMusicianは、おんがくをplayするときには、Musicianなのにacterになるのか。それ、すごくおもしろいね! おもしろい!」
レンさんはそう言って何度もうなずいている。
「ところでレンさん。そのチケットどうしたんですか?」
レンさんが先ほど差し出してきた紙はオーケストラ部のチケットだった。ということはレンさんがオーケストラ部のチケットを買ったということだろうか?
俺の問いかけに、なぜかレンさんは緊張したように一瞬固まり、ぼそぼそと話し始める。その雰囲気は……どことなく彼女らしくない。
「ああ、もらった。ともだちに」
「そうですか。オーケストラ部に友達いたんですね」
「うん。それで……」
レンさんはそこで言い淀む様子を見せる。彼女がこんなふうに戸惑う様子を見せるなんて珍しい。
「はい?」
「ちけっと、2まいもらった、から、ナカジマさん、いっしょにいかない?」
「……はいっ?」
不意打ちのようなお誘いに、二度目の「はい」は少し裏返る。
「つぎのにちようび、5じから、じかんがあったら」
俺はしばらく驚いた顔で彼女を見ていた。彼女にも留学生の友達なり同性の友達なりいるだろう。なのになぜよりにもよって俺なのか。
「イヤ?」
「いや、OKです。喜んでご一緒させてもらいますよ」
ひどく不安そうな声でそんなふうに言われて断ることができはしなかった。
何がどうなってそうなったのかよくわからないが、ともかくどうやら俺は次の日曜に、このちっこい異国の彼女と出かけることになったらしい。




