09 : 変わらないこの世界。
フェリトワの城は、城というよりも邸だった。砦の奥に設けられた敷地に、ひっそりと静かに佇む洋館、ノルジスはそんな印象を抱いたが、実際に邸内は静寂が保たれていた。使用人が、家宰だという初老の男と、砦の騎士たちにも食事を提供する料理人、掃除や洗濯を任されている女官ふたり、小さい庭とついでに畑を任されている庭師の、十にも満たない数しかいないのだ。状態と地理的にも、静かなのは当然だった。
ノルジスに与えられた一室はそんな邸の二階奥、時間を持て余すだろうという配慮からか隣の書庫を自由にできる部屋で、日当たりもいい場所だ。随分と優遇されることになるらしい。
「ノルジスさま、お食事はどうなさいますか?」
家宰、つまり執事の男性は、名前をルイン・ローゼンと言って、フェリトワが幼い頃からそばにいるという。なんでもひとりでできてしまうから、ルインがいれば本当は使用人などほかに必要にならない、とフェリトワは言っていた。だから、なにか用があればすべてルインに言うようにと、ノルジスは言われている。
「僕に食事は要らないよ。あと、この見てくれだから、執事さんもあまり僕には近づかないほうがいい。部屋に籠っているから、お風呂のことだけお願いするよ」
「それはいけません。あるじから、ノルジスさまをくれぐれも頼むと、おおせつかっております」
「うん。だから、お風呂だけお願い。二日に一回は湯に浸かりたくてね。無理なら水をここに運んでくれるだけでいい」
「それだけ、というのは……申し訳ございません、わたくしめが納得できません。どうぞ、わたくしにお世話を任せてくださいませんか」
フェリトワはルインにだけ、ノルジスの詳細な説明をしたらしい。だから、ルインはノルジスが忌み子の扱いをされる魔王だと、承知している。それでもこの態度というのは、フェリトワへの忠誠心が本物だということだ。随分といい人である。こんな人と一番に出逢えていたら、もしかしたらノルジスの今は変わっていたかもしれない。
「……僕、人間は嫌いなんだけどなぁ」
「はい?」
「でも、好きだな。人間に絶望したぶん、気楽になったからかな」
ノルジスは基本的に人間が嫌いだ。関わりたくない。けれども、優しくされると簡単に絆される。簡単に懐柔してくる人間がいるから、嫌いなのについ気を許してしまう。だから人間が嫌いなのだ。
ルインみたいな人は嫌いではない。その視界にはフェリトワが絶対的に入っていて、フェリトワの言葉だけがルインの唯一だからだ。
「食事は、本当に要らないよ、執事さん」
「ですが」
「怖くて食べられないんだ」
「なんと……怖い、ですか?」
「以前、毒を盛られたことがあってね。死ぬくらい苦しい思いをしたのに死ねなくて……それ以来、息子たちが作ったものしか食べられなくなったんだよ。だから食事は気にしないでいい。本当に、食べられないから」
ノルジスは苦笑する。
偏食、と言ったほうがまだ聞こえはいいかもしれない。ノルジスの場合、そもそも食べものを認識できなかった。息子たちが持ってきたものを、作ったものを見て、漸く食べるものだという認識ができるのだ。そうなった理由は過去、人間が嫌いになったきっかけでもある。
「随分と、苦労されたのですね」
「ああいや、それは忌み子の意味とか、わかってなかった無知が招いたものだから」
「ノルジスさまは、お姿だけが忌み子であると、伺いました」
「だとしても、人は外見で判断する。誰かが忌み子だと言ったのなら、忌み子になってしまうんだよ」
「そうでしょうか? わたくしはそう思いません」
「執事さんは王子にそっくりだね」
「殿下はわたくしの誇りです。お褒めの言葉、ありがたく頂戴いたします」
律儀に頭を下げるルインは、だからフェリトワが信頼するのだなと、窺うことができる人柄だ。ノルジスにとって「執事とはこうあって欲しい」という理想にも、ルインは当て嵌まる。
だからなおのこと接し易いのかな、と思いながら、ノルジスはにこにこと笑みを浮かべた。
「お風呂、お願いするね」
「承知しました。それから、食事に関しては諦めます。ですが、果物などはいかがでしょう?」
「果物か……手を加えられていない状態でなら、食べられるかもしれないな」
「でしたら、いつでもお召しになれるようご用意させていただきます」
「しばらくお世話になるね」
「はい、お任せくださいませ」
再び律儀に頭をさげたルインは、では沐浴と食事の準備をいたします、と言って部屋を出て行った。
ノルジスはひとりになって、正確にはその肩にまだ銀竜はいたが、ほっと息をついた。
これからどうなるのだろう、なんて久しぶりに思いながら、高く上った太陽に照らされた外を眺める。
あんまり変わってないなぁとつくづく思っていたが、本当にこの世界はあまり変わらない。文明の発達は緩やかで、この数十年で漸く電気が普及し、根づいた。乗りものは竜がいるせいか、未だ馬車が主な移動手段で、たまに竜を移動手段にすることもある。竜騎士以外にも竜を手懐けることができる者がいるから、そういった者たちが竜を移動手段にする商売をしているのだ。だから乗りものの発達は非常に遅い。
「あとは……ガスは危険物扱いだったか。使えるのに勿体ない。まあ、活用方法がある、ということを知っているだけで、その方法自体は知らないからね……無くても困らないけど、あったら便利だろうなぁ」
ひとり言に、銀竜が「ふんふん」と頷いてくれているが、ノルジスはその艶やかな鱗を撫でるだけで頷きは聞いていない。完全にひとりで呟いている。
「石油とかあるのかな……いや、あったか。石炭はあったな。魔術が使えると便利だから、気にしたことなかったなぁ……はは、僕ってばすっかりこの世界の住人、いや魔王か。まさか自分が物語の役を得ることになるなんて……考えて生きてなかったなぁ」
それはもう遠い過去、遠い記憶、遠い昔だ。忘れてしまったこともあれば、憶えていることもある。久しぶりに思い出しているのは、きっと十数年ぶりにあの森を出たからだろう。そして、またあの森にノルジスはきっと戻る。あの、始まりの場所へ。
「随分と長く、生きてるなぁ……」
ふう、と力を抜いて椅子にもたれる。体勢が変わると銀竜も肩の座り心地が悪くなったようで、ノルジスの膝に降りてきた。
「ラダさん、僕、久しぶりに森を出たよ」
ノルジスの語りかけに、そうね、と返事がくる。
「世界は変わらないね。ラダさんはどう思う?」
変わらないわ。わたしが生まれてから、ずっと、この世界はこの世界のままよ。
銀竜が苦笑した。ノルジスも一緒に苦笑する。
「そっか……魔術とか霊術があるから、そんなに発達しないのかもね」
ノルジスが生まれた世界は、違ったのかしら。
「そうだよ。僕らはただの人だった。非力な人間だと思う。けれど、力はあった。戦争する力があった。たくさんの人を殺す力だった」
それは魔術かしら、霊術かしら。
「そういう力はないんだ。この世界は魔術とか霊術とかあって、便利だよね。だから僕らはいろいろなものを手ずから作っていたよ。とはいえ、僕は町工場で部品を作っていただけだけどね」
竜との会話は、ノルジスは声に出すが、竜の声は直接脳に響いてくるような音だ。聞こえるというよりも、感じるといったほうが正しいのかもしれない。銀竜の声は、ノルジスの耳には、心には、とても優しく穏やかに入ってきた。
銀竜との会話をしばらく楽しんでから、隣の書庫を覗いてみる。読んだことのある本もあったが、ほとんどは目にしたこともない内容の本ばかりで、どうやらしばらく楽しめそうだ。ただ、フェリトワの書庫であるから、大半が専門書みたいな本である。趣味で集められたのだろう創作小説は、天上まで届く全面の棚のうち極僅かで、これはすぐに読み終わってしまいそうだ。
「まあでも、これだけあれば、レヴンとセヴンが帰ってくるまでは楽しめるかな」
ノルジスは棚から一冊取りだすと、窓際にある椅子に腰かけ、膝に丸くなった銀竜を撫でながら本の世界に入り込んだ。それは僅かな時間のつもりだったが、銀竜に呼ばれてハッと顔を上げたときにはいつのまにか部屋に明かり灯されていたから、どんなときでも本に没頭できる便利な自分に少し笑った。
「果物を用意させていただきました。あちらに置いておきましたので、どうぞお召し上がりください。それから沐浴ですが、向かいにございます部屋が浴室にございます。毎日この時間に用意させていただきますので、ご承知くださいませ」
「ありがとう、執事さん」
「いいえ。では、わたくしはこれで下がらせていただきます。なにかございましたら、そこにあります鈴でお呼びください」
ルインが用意してくれた果物は、林檎や葡萄といった、ノルジスがわりと食べられるものだった。だが、それでもやはりノルジスの目は食べものという認識をせず、ただ美しい置きものと捉える。
「ラダさん、あれ食べていいからね」
ルインには悪いが食べる気になれなくて、銀竜に食べてと差し出した。今日一日そうであったように、銀竜はノルジスのそばを離れる気がないようなので、遠慮なく小さな身体で卓に座り、両手で果物を持って食べ始めた。
小さな身体に果物が大きく見えて、なんだか愛らしいなと笑いながら、ノルジスはお風呂をいただく。二日に一度でいいと言ったのだが、ルインは毎日用意してくれると言っていたから、明日も風呂には入れるらしい。毎日お風呂に入れるなんて、かなり久しぶりだ。贅沢なことだと思うが、好意は素直に受け取ることにする。お風呂は好きだ。ただ、眠気が増すから身体的には少しつらい。長湯はせず、ノルジスはお風呂を上がった。
「あれ、服が……」
水気を取っているときに気づいたが、今まで身につけていた衣類が消えていた。代わりに見たことのない衣類が籠の中に収められている。おそらくルインの仕業だろう。たぶん洗濯してくれるのだ。
「なんか、申し訳ないなぁ」
至れり尽くせりなんて、初めてだ。ちょっと困ってしまう。こういうときはどうしたらいいのだろう。しかもルインが用意してくれたらしい衣類は寝間着で、ゆったりとした上下に、ガウンのような上着、どちらも質がいい。いったいいつのまに用意したのか、サイズまでちょうどいい。
「ここまでしてもらわなくてもいいんだけどね」
どちらかというと放置でかまわないのだが、そこはルインの許せるところではないのかもしれない。さすが王子の邸を護る執事だ。
「とりあえず、頼んでおこうかな」
せっかく客人として扱われるのだ。ルインには客人の扱いをしてもらおう。そう決めて、その日は終わった。




