12 : さよならまでの物語が始まった。1
なにもかもどうでもよくなって、たぶん、どうにでもなれとすべてを投げ出していたと思う。だから、生きていようが死んでいようが、それすらもどうでもよかった。
最後の記憶は、立っている気力もなく、ああもういいやと瞼を閉じたその瞬間だ。
『のう、おんし、われの力を継いでみぬか?』
それが始まりの言葉だった。
目覚めたら、今までに見たことのない紅の髪と双眸があったのだ。
『……。どなた?』
『われは魔女だ』
『……、魔女さん?』
コスプレでもして、その役になりきっているのだろうかと、最初は思った。
けれど違った。
それはあまりにも、非現実的な事象だった。
魔女は、その場から自身が動くことなく、さっと手を振りかざしただけで料理をしてみせたのだ。美味しい食事だった。
『魔女っていうのはわかった。で、名前だよ、あんたの名前』
『名前? 皆われのことは魔女と呼ぶぞ』
『ねぇの?』
『……。いや、ある』
『魔女さんはなんてぇの?』
『フランシェドールだ。久しぶりに名乗ったのぅ』
『ふら……んん? ごめん、もう一回』
『フランシェドールだ』
繰り返してもらったが、どうも噛みそうな名前だったから、フランシェドールと名乗った彼女をじっと見つめて、その印象が人形っぽいというだけで、ドールでいいかと思ってそう呼んだ。
フランシェドールは少し驚いていた。
『ふむ……ドール、か。よいよい。愛称をつけられるのは嬉しいものだな』
『おれは十織。神条十織』
『のぉーる? じんす?』
『違う違う。とおる。しんじょう、とおる。ああもしかして、トオル・シンジョウ、とかのほうがわかるのか?』
『発音が難しいのぅ』
フランシェドールと同じくらい噛みそうな名前であるつもりはなかったのだが、どうにもフランシェドールには発音ができなかった。同じ言葉を話しているのに不思議だなと思いながら、聞き取れた名前でいいよと言ったら、ではわれも愛称をつけようと彼女は言った。
『ノルジスだ』
『は? どこをどうやって、そうなった?』
『ノぉール・ジンスぅ、と聞こえるのだ。ノルジスでよかろう』
『……。まあ、いいけど。べつに拘りはねぇし』
黒眼黒髪で完全にアジア圏内にいる顔なのに、フランシェドールによってなぜか異国の人になった。いや、フランシェドールの紅色を見れば、確かに己れは異国の人ではあった。
どうせだから、このまま改名してしまおうか。新しい名前で生きるのもいい。名前には拘りもない。
そう思って、ノルジスという名を受け入れた。
そこから、魔女フランシェドールとノルジスの、さよならまでの物語が始まった。
この世界のことも、魔女と呼ばれているフランシェドールのことも、アルファンデスの創成記のことも、魔という存在のことも、ノルジスはすべてをフランシェドールから教えられた。
だから、魔王と呼ばれるようになるまで、いくらもかからなかった。
「きみはひどいね、ドール……僕にいろんな問題を突きつけるなんて」
はあ、と深々とため息をつきながら、ノルジスは光りを求めて瞼を開ける。眩しさに目を細めた。焦がれた太陽なのに、ひどく目に染みる。
「僕より先にいなくならないという約束も、きみは護らなかった……」
帰りたい、と思うようになったのは、フランシェドールが約束を破った日からのことになる。
ノルジスが魔王になることを受け入れたのは、フランシェドールが家族をくれると言ったからだった。ノルジスに息子たちを与えてくれたフランシェドールは、しかしノルジスを置いて先に死んだ。フランシェドールもノルジスの家族になったのに、ノルジスのその手で、殺させた。
「いつ思い出しても、きみは僕にとって、ひどいひとだね」
家族をくれたフランシェドールが、自分より先にいなくなった。そのことがひどく悲しくて、ひどく寂しくて、ひどく虚しくて、この世界から消えてしまいたくなった。帰れるものなら、故郷に帰りたいと思うほどに、フランシェドールの死を受け入れられなかった。
フランシェドールを愛していた。いや、今も愛している。
だから、フランシェドールがいない世界なら、初めからいなかった世界に帰りたい。
今さら帰っても、居場所なんてないことは、わかりきっているけれども。
それでも、初めからフランシェドールという妻はいなかったのだと、苦笑して諦めることができる世界であることは確かだ。
「また暴走するようなら殴るつもりでいたけれど……だいじょうぶ?」
かけられた声に、ふと視線を移した。
レヴンとセヴンが、足許に白い陣を敷いて待機していた。
「……。きみたち、お父さんをどうするつもりですか」
殴るとかの前に、封印されそうな代物を用意されては、ノルジスも警戒してしまう。
なんて可愛くない息子たちだろう。少しくらい感傷に浸らせてくれてもいいのに。
「だいじょうぶそうだね」
ふっと、危険な陣が消失する。
ほっとした。本気で封じられるかと思った。
「いや久しぶりにドールを思い出してドキッとしたけどね? 心構えがあればなんともないからね? 暴れたり、そんなに若くないんだから、しませんよ?」
「そう言って、思い出すたび、レヴンに殴られてると思うけど?」
「ああそうだレヴン! きみね、お父さんひ弱なのよ、きみほど怪力じゃないのよ、その馬鹿力いい加減自覚してくれるかなっ?」
腹部に痛みを思い出して、ノルジスは寝台から身体を起こした。身体中が軋んでいる。腹が痛いと、全身が訴えてくる。腹が立つことに治療されていて、とりあえず数日もしないで治りそうなのは喜ばしい。
「ノルジスが暴れたら本気でかからないと、おれたちが死ぬ」
「僕はそこまで非情じゃないよ!」
ひどい誤解だ、と文句を言ったら、息子たちは半眼した。
「ノルジスの無意識的な攻撃って、ほんと地味に痛いんだよ。地味過ぎて気づかないこともあるんだよ。甘く見てたらいつか絶対死ぬ」
「可愛いわが子に怪我なんてさせませんよっ」
「だから攻撃が地味なんだよね……」
「そもそもわが子に攻撃なんてしません!」
少し息を切らせながら訴えた。
はあ、と息子たちは揃ってため息をついた。
「夢でドールに逢えた?」
「ほ? ああうん、久しぶりに。出逢った頃のドールだったよ。全身真っ赤で、自分のこと魔女だって、最初はコスプレでもしてんのかと思ったなぁ……」
話題を変えられたが、フランシェドールのことを話すときはいつもこんな感じだ。
息子たちはいきなりフランシェドールの話を振ってくる。もちろんそんなときはノルジスが思い出しているときだから、フェリトワのときのように動揺して暴走しかけることはない。だが、たまにその制止がきかないこともある。
フランシェドールのことは、それくらいノルジスにとって接し方が不安定な思い出だった。
「ノルジスって、その名前、ドールがつけたんだよね?」
「そうだよ。ドールもそうだったけど、きみたちにも発音できないらしい名前だからね」
「なんて言ったっけ」
「なんだっけ……ああ、十織だ。神条十織」
「やっぱりノぉールに聞こえる……ノぉールじゃないの?」
「とおる、だよ。同じ言葉を喋ってるはずなのに、なんで発音できないかな?」
息子たちは声を揃えて、ノルジスの昔の名前を繰り返す。それでもやはり「とおる」とは発音できなくて、「ノぉール」と口にしている。フランシェドールも、暇さえあればノルジスの昔の名前を口にする練習をしていたが、けっきょく最後まで発音できなかった。そんなに難しい名前ではないのになぁと、いつも思ったものだ。だから、昔の名前を今でも憶えている。
「ノルジスでいいよ。というか、ノぉールはほんとにやめなさい。神条十織は、もう随分と前に死んだからね」
「え? なにそれ、どういうこと?」
「え? って、え? あれ? 言わなかった?」
おや、と思う。
昔の名前を捨てたことを、息子たちに話して聞かせたことがなかっただろうか。
「その話、知らない」
セヴンだけでなく、レヴンも「どういうこと?」と首を傾げていた。
話していなかったらしい。いや、訊かれることがなかったから、もしかしたら話して聞かせたことがない。フランシェドールには訊かれたので答えたが、一度その説明をしているからか、息子たちにも話して聞かせた気でいたかもしれない。
「正確には、死んだかどうかもわからないんだけどね?」
「ノルジスはドールに呼ばれて、別の世界からこの世界に来たんでしょ?」
「ドールが言うには、そうだね。ただ僕は、最後の記憶が曖昧なんだよ。力尽きて倒れたところまでは憶えてるんだけどね」
「気がついたらこっちにいたってこと?」
そう、とセヴンの問いに頷く。
「こちらの世界にはドールの魔力を受け継げる者がいなくて、それで遠くにドールは呼びかけて、僕を見つけたらしいよ」
「それはドールから聞いた」
「あ、きみたちの僕情報はドールからなのね」
「ドールはおれたちの母親だよ?」
当たり前なことを言わせるな、という顔をするセヴンに、苦笑する。
「そうだね、ドールはきみたちの母親だ」
「ノルジスが最初、ものすごく口が悪かったっていうのも聞いた」
「あー、若かったからねぇ……すごく荒れていたというか、なんというか、うん、人生がテキトーだったかな」
「ドールがやめろって言ったの?」
「いや、自分から。生まれ変わってみようかな、と思って。ドールに名前つけられたときにそう思ったから、どうせだから丸ごと変わってみようかなぁと」
「なんかそれ……ノルジスらしいね」
「だから、今の僕は神条十織ではなく、ノルジスなんだよ」
くす、と笑うと、息子たちも笑う。
「死んだって、そういうこと?」
「そういうこと。あちらの世界にいたときの最後の記憶は曖昧だし、テキトーな人生を歩んで損してたから、わからないならいっそそれまでの自分を捨ててしまおうと思ってね。新しく生まれ直したと思うことにしたわけ。おかげで順応は早かったと思うよ」
「ドールが言ってた。魔術を憶えるのだけは早かったって」
「言葉は話せたからね。魔術のおかげで文字も読めたし、困ることがまず少なかった……いや、ドールの手料理は最悪だったけどね?」
「ああそうか、ドールは魔術で料理してたね。手ずから作らせると最悪なのは、おれたちも思ったな。ねえ、レヴン」
あれだけはなによりも恐ろしい、とレヴンがげっそりした。
息子たちにも恐れられたフランシェドールの手料理は、ノルジスの舌にも拒絶反応を起こさせるものだ。だから息子たちは料理が上手い。もちろんノルジスも、フランシェドールに手ずから作らせないために、必死に憶えたものだ。今では息子たちに作ってもらうから、自分でやるのはお茶を淹れることくらいだが。
「ドールは僕にとって、いろいろと規格外な女性だったなぁ……」
「規格外?」
「口調もそうだし、態度もそうだし、なにより……あんなに優しくて温かなドールが、なぜこの世界を魔で溢れさせるほど、世界に絶望したのか……僕は今でもわからないな」
「……。おれたちは、なんとなく、わかるけど」
「わかるのっ?」
少し驚いた。
妻でもあったフランシェドールが、魔女と呼ばれていたこの世界について、ノルジスはフランシェドールの人柄から理解できない点がある。フランシェドールはノルジスと共に生きながら、最期のときまで、この世界に絶望したままだった。魔の数を制御してはいたが、魔の活動に否やを言うことはなかった。
そのフランシェドールの気持ちが、息子たちにはわかるという。
「正確に言えば、おれたちが絶望を感じたのは、人間だけどね」
と、セブンが顔を歪める。レヴンも、その無表情に僅かな不快の感情を浮かべた。
「人間はノルジスを殺そうとした。今も、殺そうとする」
それは、と思う。
あの毒殺されかけたときの、あのことだ。ノルジスが魔王と、呼ばれるようになった頃のことだ。
「ドールも同じだ……世界というより、人間に、ドールは絶望していたのだと思うよ」
苦々しく言うレヴンに、ノルジスはなんとも言えなくて、謝る言葉くらいしか思い浮かばなくて、肩を落とした。




