10 : この嘆きのもとへ。
ルインに世話をされる日々が三日を過ぎると、空の騒がしさに気が取られるようになった。
「いかがなされました?」
ルインに誘われてお茶を、やはり誰かにやってもらうのはどうも身体が受けつけないので、それをルインに納得してもらうために自分で一から淹れて飲んでいたときだった。空を見上げてじっとして動かなくなったノルジスに、ノルジスのお茶の淹れ方が興味深いと観察していたルインが、きょとんと首を傾げる。
「……執事さん」
「はい」
ノルジスは視線を、空からルインへと移動させた。
「あなたに、この声は聞こえる?」
「声……で、ございますか?」
耳を澄ませばほら、聞こえてくる。
瞼を閉じるとほら、聞こえてくる。
「たくさんの嘆きの声……喜びの声……入り混じったたくさんの声が」
森を出たからか、遮るものがなくて、ノルジスの耳にはたくさんの声が届く。昨日くらいからその声は聞こえ始め、今では意識しなくても大音量で脳に響いてくる。
ルインには聞こえないようだ。
「ラダさん、お願いできるかな」
本当は、ただ黙っていることなんて、できないとわかっていた。
「ノルジスさま? どちらへ」
「ちょっと、行ってくるね」
ノルジスは窓を開けると、銀竜を外に促した。身体の大きさを自由に操れる銀竜は、外に解放されたとたんに巨大化し、ルインを硬直させる。
「この嘆きのもとへ」
窓から躍り出る。
「の…っ…ノルジスさま!」
われに返ったルインに呼ばれたが、そのときにはもう銀竜が飛び出したノルジスを背に受け止めている。
「もうすぐ王子が帰ってくるよ。準備しておいたほうがいい。きっと、傷だらけだから」
「そ……そんなまさか」
「心が、ね」
窓から身を乗り出しているルインに手を振って、ノルジスは銀竜とともに空へと舞い上がる。雨が降り出しそうだ。いや、もう降り始めているかもしれない。
「ラダさん、遠慮なくどうぞ」
銀竜に、魔術を施す。速度を調整できる魔術だ。ぐんと速度が上がり、あっというまにフェリトワの城も騎士の砦も小さくなり遠くなる。
そこへ辿り着くのに、時間はかからなかった。
「昔、世界に絶望したひとりの魔女がいた」
「! の、ノルジス?」
「魔女は言った。この世界に復讐してやる。この世界を滅ぼしてやる。この世界を、魔に溢れた摩界に変えてやる……魔女がなにに絶望したかはわからない。けれども魔女が復讐を誓ったその日から、世界は魔で溢れるようになった」
「創成記、か?」
「やあ王子サマ」
「……今さらか」
ノルジスは、緑竜の背にいるフェリトワに、暢気に声をかける。状況を見ず、空気を読まず、また唐突に現われたノルジスに、フェリトワは半ば呆れている様子だ。
「創成記の序説を詠唱とは……なんの魔術だ」
「違うよ。ただ口ずさんでいただけ。なんとなく語りたくなって」
「……。いったいどういう理屈でここに現われた。行かない、と言ったのはあなたのほうだが?」
フェリトワは剣を片手に、随分と薄汚れた恰好で、そばには近衛騎士も置いていなかった。
「きみを助けに来たんだよ、王子サマ」
「わたしを?」
「近衛とか竜騎士とか、どうしちゃったの?」
なぜひとりなのだ、とわざと問う。フェリトワの眉間に皺ができた。
「この状況で、よくそんなことを口にできるな」
見えていないのか、と言われ、ノルジスは笑いながら肩を竦めた。
「見えているよ。だから僕が来たでしょ」
「なにしに来た」
「きみを助けに」
「わたしに助けなど要らない」
強気なフェリトワは、しかしその顔色が悪い。
ノルジスは視線をあちこちに流して、息子たちの姿を探した。黒い竜と、白い竜、それぞれあるじを乗せているだろうなと、半ば睨むような見方だったが、さして時間をかけることもなく姿を確認する。
「手古摺るわけだよ」
「なんだと?」
「なんであの子たちを一緒にしないの?」
「彼らの希望だ」
「なるほど……ね」
レヴンとセヴンは、どうやら別々に行動している。それならこの状況もわかる。
あの子たちは遊んでいるのだろうか。
首を傾げながら、ノルジスはあちらとそちらにいる息子たちを見やり、どうしようもないね、と苦笑した。
「憂さ晴らしがしたかったのかい、セヴン、レヴン」
傷つく彼らを見て、この気持ちがわかるかと、言いたかったのかもしれない。
「彼らの力があっても、この状況を覆すことができない……なぜだ。あのふたりほどの魔術師は、わたしでも見たことがないというのに」
ノルジスの視線と、その問いから、フェリトワは状況の不利に対する疑問を言ってくる。僕に言われてもなぁ、と思いながらも、とりあえず「仕方ないよ」とだけ言っておく。
「仕方ない、だと?」
「あの子たちは、ふたりでひとりだ。ひとりずつでは砦で見せたような力はない。そうだね……まあこのままでも、おそらくはちゃんと最後に片をつけるかな」
「手を抜いているというのか」
「いいや。状況を見てどう動くべきかきちんと判断しているよ。だってほら、死者が出ていない」
「それは……だが、もはや怪我人だらけで、いつこちらが押し負けるか」
「それはないよ。ただ……きみ、あの子たちを怒らせるようなことしなかったかい?」
ノルジスは唇を歪め、この状況に苦戦している様子のフェリトワに首を傾げる。フェリトワは問いにしばらく悩んでいたが、心当たりがあるのか、小さな声で「まさか」と呟く。
「まさか? なんだ、怒らせたのかい」
「いや、だが……相手にしていなかったぞ?」
「誰がなにを言ったのかな」
「クルスゾアが……ああ、魔術師のひとりだが、そのクルスゾアがやけに絡んでいた。声はわたしにまで届かなかったが、相手にもせずクルスゾアがひとりで喚いているように見えたから、放っておいたのだ」
「ふぅん……まあ、十中八九それだろうね」
「本当は怒っていたと?」
「言われたことにもよる。そのとき相手にしてなかったなら、かなりムカついてたんじゃないかな」
「言い返しもしなかったのに、か?」
そんなものだ、と思う。本人を目の前に、絡まれたからといって仕返しをするほど、息子たちは優しくない。だから、やられたらやり返す。返し方は、息子たち独特の方法だ。
「あれが仕返しだよ」
ノルジスは眼下を指差す。怪我人を多く輩出しているが、死者は出していない、魔との攻防戦だ。
「……どういうことだ」
意味がわからない、とフェリトワは眉間の皺を増やした。
「あの子たちの戦い方を、きちんと見てみなさい。どうやって魔の相手をしているかな?」
ちゃんと見ろ、と促す。
レヴンもセヴンも、魔獣だけを、相手にしている。それはつまり、魔術師を頼っている騎士たち、強い力を持つレヴンとセヴンにさまざまな思惑をぶつけている魔術師や霊術師たちを、一切無視した行動である。自分勝手に行動している、と言ったほうが早い。
「なんだ、あの戦い方……なぜ連携を取らないのだ」
「怒っているからだよ」
「クルスゾアの言葉に、か?」
「どちらかというと、人間に、かな。あの子たちに、魔術師だとか騎士だとか、そういう人間に対しての区別はないからね。その魔術師が人間なら、人間、という一つの括りにする。あの子たちの見方はそう」
「……あまりにも大き過ぎる区切りだ」
「僕が人間を嫌っているからね」
「嫌い?」
「基本的に僕は人間が嫌い」
「……まるで己れが人間ではないような言い方だ」
「だって僕は、きみたちが言うところの魔王だからね」
フェリトワが複雑そうな顔をした。もう聞きたくもないフレーズなのかもしれない。だが、だからこそ言う。ノルジスは魔王だ。
「……この状況、どうすればいい」
予想していなかったわけではないが、フェリトワから意外にも早い白旗が揚がった。それくらい息子たちに期待し、頼っていたのだろう。機嫌を取るとは、この王子も魔術師にはかなり苦労させられているようだ。この国の王が魔術師に興味がないのも、なんだか頷ける。
「きみ、随分と人材に恵まれてないみたいね」
「わたしも嫌われているからな」
「おや」
これまた意外な発言が出た。いやしかし、王子という身分にありながらこんな最前線で、それも己れも剣を握って戦いに身を投じているくらいだから、王子としてのその待遇は少し考えるところがある。おまけに今は、王子の身辺を護る者すらいない。いるにはいるが、魔の相手をすることで手いっぱいで、王子のところに辿りつけない状態だ。
「……なんだかきみが哀れに思えてきたよ」
「哀れ? わたしにはこれが当たり前だ。哀れと思うなら、この状況をどうにかして欲しいな」
恨めしそうな視線をもらった。
まあ確かに、息子たちが腹いせに力を抜いているせいで、この戦況がある。わが子のフォローはせねばならないだろう。
「あの執事さんは『いい人』だったからね……まあ王子も『いい人』だというのは、あの竜騎士さんを見ていてわかったし、本人からも感じられた」
「? ルインとツヴァイがどうかしたか?」
「僕は『いい人』に絆され易いんだ。もともと人間だからね」
「さっぱり意味が……人間は嫌いなのだろう?」
「嫌いだよ。でも好き。一度でも人間に絶望すればわかる」
「絶望……?」
「その言葉の通り、人間に対して望みを絶つ。だいぶ楽になるよ」
にこ、と笑って、ノルジスは銀竜の上に立つ。バランスは悪くなるが、銀竜がそれくらいで不安定になることはない。
「気になったときのまま出てきちゃったから、今の僕すごく目立つなぁ……ラダさん、どうしようか」
身を隠せる便利な外套はない。きらきらしている息子たち、とくにレヴンには怒るけれども、自分は常に着用している真っ黒の衣服が、真っ黒の髪と瞳とで相乗効果を得、曇り空にポツンと黒い影を作っている。
銀竜は、かっこいいわよ、と言ってくれた。
「執事さんが洗濯してくれたから、身綺麗だしねぇ」
薄汚れているわけではないから、なおさらノルジスの姿は異様に目立つことだろう。
けれども、まあいいか、と思う。
「王子サマ」
「……、なんだ」
「今の僕、魔王っぽい?」
「は?」
予想外な問いだったのだろう。フェリトワは間抜けた顔をしていた。
「せっかくの美形が台無しだよ、王子。こういうときは、嫌そうな顔をしないと」
「……いや、だが」
「魔王っぽいことしてあげるから、とりあえず、嫌そうな顔したら?」
魔王であっても魔術師だとノルジスのことを言うなら、そういう態度を取ってもらわなければ困る。
というのは建前で、フェリトワの反応は新鮮というか心地いい。なにを当たり前なことを言っているのだ、という顔をされるのは、なぜか安心する。
「いいかい王子、僕は今からあの中に行ってくるから、治まったら僕を回収するんだよ?」
「回収?」
「僕はずっと眠ることを抑えている。つまり寝不足だ。力を使ったら倒れること間違いなし」
フェリトワが変な顔を取り戻した。
「本当に魔王なのか?」
「きみたち人間がそうだという力を見せてあげる。まあ僕としては、なんでこの力が魔王と結びつくのか不思議だけれど……あの力が魔王だというなら、人間の目は随分と歪んでいるなぁと思うよ」
「……人間の目が、歪んでいる?」
「解釈はきみに任せる。じゃあ、僕はおそらく倒れるから、回収よろしくね」
「は……あ、おい、ノルジス!」
ノルジスは微妙なバランスを保って、銀竜に魔獣の群れの中心まで運んでもらう。フェリトワが追いかけようとしていたが、それよりも前に軍勢に突っ込んだ。
そうして、銀竜が躊躇いもなく、その背からノルジスを落とした。
「ノルジスっ!」
フェリトワの叫ぶ声が聞こえた。銀竜から真っ逆さまに落ちたのだから、驚くのは当然だろう。
だがしかし、落ちたノルジスの身体は重力を無視する。
真っ直ぐと地面を見つめた。
「楽しそうだね、悲しそうだね、きみたち……今度はなぜ暴れているのかな」
にこり、と微笑みを浮かべ、力を、解放する。
「ああそう、レヴンとセヴンが遠慮なく相手をしているからか。消されちゃうのに、暢気だね……ああでも、きみたちは消されたいんだね」
両腕を広げると、魔獣たちがノルジスの存在に気づいた。多くの視線を感じたとき、それぞれの感情が一気に流れ込んできて、一瞬だがパニックを起こしそうになる。
「うーん……この瞬間がいつもキツイね」
流れ込んでくる感情を、こぼしてしまわないように、胸に抱き込む。苦しいが仕方ない。これが魔の痛みで、苦しみで、悲しみで、喜びだ。
おいで、おいで、と誘う。
「僕のところへおいで」
呟いた瞬間、ノルジスの双眸は銀色に輝く。とたんに、魔獣たち一匹一匹の足許に、黒くて丸い陣が浮かんだ。
「おいで」
黒い陣が、魔獣たちを呑みこんでいく。
緩やかに、急速に、魔獣は黒い陣に呑み込まれていく。
「……おかえり」
黒い陣が魔獣たちを完全に呑み込むと、黒い陣は砂のごとくちりちりと消えて行った。
同時にノルジスのほうは、急速に襲ってくる強い眠気に耐えきれず、瞼をきつく閉じた。眩暈が激しい。身体が重い。胸が苦しい。手足の感覚が遠のいて行く。
どさりと、重力を無視して降下していた身体が、地面についたとたんに横たわった。
「ノぉールっ!」
「ノルジス!」
セヴンとレヴンの重なった声、それからフェリトワの声を聞いた。
「ばか息子…っ…きみたちのせいだ」
最後に恨み言を息子たちにぶつけてから、深い闇の底へとノルジスの意識は奪われた。




