転生先が世界最初の株式会社でした。株券が一枚も無いというので、帳簿の一行を売ることにします ~デリバティブトレーダー、最初の一枚を書いて、最初に負ける~
俺は三十五歳、デリバティブトレーダーだった。
最後の三年は、負けを埋めるために働いた。
埋まらないまま、四時十七分に心臓が止まった。
次に目を開けたとき、俺は他人の体の中にいた。
二十二歳、ヤン・メールテンス。両替商ヘンドリク・ブラウの帳場の下働き。読み書きと計算ができるというだけで雇われた男で、給金は日に十三スタイフェル。前の体の一日の稼ぎの、たぶん千分の一もない。
半年かかって、俺は自分がどこにいるかを理解した。
場所は、鐘と水のにおいで見当がついた。年のほうは、帳場に来る書付の日付で分かった。最初に見たときは読み違いだと思った。三度読んで、読み違いではないと分かった。
アムステルダム。一六〇二年の夏。
前の体で、俺は画面を八枚並べて座っていた。数字が一秒に何度も書き換わり、俺はその書き換わり方に金を賭けていた。ここには画面がない。数字は帳面の上にあって、書き換わるのは誰かがペンを持ったときだけだ。
最初のうち、俺はそれを退屈だと思っていた。
「ヤン、袋を持て」
ヘンドリクが階段の下から呼んだ。四十をいくつか過ぎた男で、声が低い。この街の両替商は、まだ誰にも禁じられていない。銀行はない。市が金を預かる場所を作るのは、俺の知るかぎり七年後だ。
「どちらへ」
「ネスだ。ファン・オスさんの家」
俺は袋を担いだ。銀貨で重かった。
◆
ダーク・ファン・オスの家の前に、人が並んでいた。
三十人ほどか。商人が多いが、そうでない者もいる。パン屋の前掛けをつけたままの男がいた。手に握った布包みの大きさで、いくら持ってきたのかがだいたい分かる。
入口の脇に、板が立ててあった。俺はそれを読んだ。
東インドへ向かう会社を作る。金を出した者は、その額に応じて分け前を受ける。
それだけの話だった。
「並べ」
ヘンドリクが言った。俺たちは列の後ろについた。
「旦那も出すんですか」
「六百」
六百ギルダー。未熟練の男の日給が十三スタイフェルだから、二十ギルダーで一月食える。六百は、二年半ぶん働かずに暮らせる額だ。
「戻ってくるのは、いつです」
「十年後だ」
俺は聞き返さなかった。板にそう書いてあったからだ。十年のあいだ、金は会社の中にある。総決算のときにしか引き揚げられない。
列が進んだ。
家の中は、思ったより狭かった。長机が一つあって、その向こうに三人が座っている。真ん中が簿記係で、両脇は取締役だと後で知った。机の上に、大きな帳面が開いてある。
簿記係が羽根ペンを持ち上げた。
「名前」
「ヘンドリク・ブラウ。両替商」
「額」
「六百」
ペンが動いた。ヘンドリクの名前と、六百という数字が、帳面の一行に収まった。
それだけだった。
俺は待った。何か渡されるはずだと思っていた。
渡されなかった。
「次」
ヘンドリクが下がった。俺は動けなかった。
「証書は」
俺は言っていた。
簿記係が顔を上げた。面倒くさそうな顔ではなかった。何を言われたのか分からない、という顔だった。
「何の」
「六百出したという、紙です」
「帳面に書いた」
簿記係はそう言って、開いた頁を指で叩いた。
「これが証だ」
◆
外へ出てから、俺はしばらく黙っていた。
「どうした」
「旦那。今、六百払いましたね」
「払った」
「持っているものは、何ですか」
ヘンドリクは足を止めた。それから、少し考えて答えた。
「あの家の帳面に、俺の名前が書いてある」
「それだけです」
「それだけだ」
俺は空を見た。八月の、白い空だった。
券がない。紙が一枚もない。持っているという証拠は、他人の家にある帳面の一行だけだ。前の世界なら、こんなものは商品にならない。触れないし、運べないし、盗まれても分からない。
なのに、俺の頭の中で、何かが音を立てて回りはじめていた。
その日の夕方、俺は口実を作ってもう一度ネスへ行った。
列はまだ続いていた。俺は机の脇に立って、開かれた帳面を見た。第一頁に、最初の名前より前に、細かい字で一行が書き足されていた。募集が始まってから足されたものらしく、インクの色が違った。
——持分の譲り渡しは、当分の簿記係を通じてこれを行うべし。
俺は、その一行を三度読んだ。
譲り渡してよい。
つまり、売れる。
券がないのに、売れる。名義を書き換えれば、それで移る。物が動かないのに、所有だけが動く。
俺は帳面の前で、たぶん間の抜けた顔をしていた。簿記係が俺を見て、追い払う仕草をした。
「何か用か」
「いえ」
俺は下がった。
三日後、俺はまた行った。今度は列が短かった。募集が閉じる前の駆け込みが済んで、机の前が空いていた。
「用がないなら来るな」
簿記係が言った。バレントという名だと、この日に知った。
「用があります。持分を人に譲るには、どうしますか」
バレントはペンを置いた。
「ここへ二人で来る。売る者と買う者だ。俺が帳面を書き換える。それだけだ」
「それだけですか」
「取締役が二人、うなずく要る」
「断られることは」
「借金の形に入っている持分なら断る。それ以外で断った例は、まだない」
俺は次を訊いた。
「いくらかかりますか」
「俺に六十スタイフェル。印紙が二ギルダー四スタイフェル。締めて二ギルダー十六スタイフェルだ」
三ギルダーに足りない。未熟練の男の五日ぶんの稼ぎだ。それだけの手数で、六百が人から人へ移る。
「これまでに、何人が移しました」
バレントは帳面を閉じた。
「一人もいない」
俺は礼を言って外へ出た。
道は乾いていた。八月の終わりで、運河の水がにおった。
仕組みはある。誰も使っていない。使い方を知らないのではなく、使う理由をまだ誰も持っていない。
理由なら、作れる。
◆
九月の終わりに、フリーダ・ヤンスが店に来た。
小間物を扱う女で、四十くらいだ。夫が春に死んだ。俺は店の帳面でその名前を知っていた。ヘンドリクが少額を貸していたからだ。
「六百、出したんです」
彼女はそう言った。帳場の板を握っていた。
「主人が、出すと言っていたので。死ぬ前に、そう言っていたので」
「東インドの会社へ」
「はい」
「戻るのは十年後です」
「そう言われました。あのときは、聞いていたつもりだったんです」
彼女は板から手を離した。
「息子を靴屋へ入れます。年明けに、親方に百二十払わなければなりません」
百二十ギルダー。俺は店の帳面を思い出した。彼女の手元にある額を、ヘンドリクは知っている。春の貸付のときに数えているからだ。四十と少しだった。半年で八十増える商いではない。
「店を畳めばいくらになります」
「品を全部で、六十くらいでしょうか」
「それでも足りません」
「はい」
彼女は数えていた。俺が訊く前から、何度も数えていた。数え終わった人間の顔をしている。
「返してもらえないんですか」
「返しません」俺は言った。「十年、動きません。それが、あの会社の作りです」
フリーダは何も言わなかった。泣きもしなかった。ただ、そういうものかと思った顔をした。この街の人間は、そういう顔をするのがうまい。
俺は言った。
「売れます」
ヘンドリクが奥から出てきた。
「何を売るって」
「フリーダさんの六百です」
「あれは金じゃない。会社の中だ」
「持分は譲ってよいと、帳面の第一頁に書いてあります。簿記係を通せば移せます」
ヘンドリクが黙った。この人は勘定が速い。三つ数えるあいだに、話の形が見えたのが分かった。
「移して、どうなる」
「買った人が、十年後に受け取ります。フリーダさんは、今日、金を受け取ります」
「買う奴がいるか」
「探します」
◆
買う奴は、十日で見つかった。
ロデウェイク・デ・フリース。三十半ばの商人で、リスボンから塩と乾物を運んでいる。東インドの会社に出しそこねた口だ。募集が閉じた後で、惜しがっているという噂を聞いた。
新橋の上で捕まえた。
この街では、商人は昼前の一時間、この橋の上に集まる。十一時から十二時まで。夏はもう一度、夕方に半時間ある。雨が降ると聖オロフの礼拝堂に移る。屋根の下で商いをすることに文句を言う牧師もいたが、追い出されはしなかった。
それだけの決まりだ。建物はない。壁も、椅子も、名簿もない。
橋の上に、その日いる者が全部だった。
俺は毎日そこへ通って、顔と名前を覚えた。塩を扱う者、木材を扱う者、金を貸す者。この街で金を動かすことを仕事にしている人間は、全部で五十人くらいしかいない。二万人が働く街で、五十人だ。全員が全員の顔を知っている。
だから、逃げられない。
俺はそのとき、そう思っていた。
「六百の持分がある。譲れる」
ロデウェイクは俺の顔を見た。それから、俺の服を見た。下働きの服だ。
「主人は」
「ブラウの帳場の者です。話は主人が受けます」
「いくらだ」
「六百二十」
「高い」
「募集はもう閉じています。あなたはもう出せません」
ロデウェイクは橋の欄干に肘をついた。下を、荷を積んだ船が通っていった。
「六百二十で買う」
俺は息を吐きかけた。
「ただし、三ヶ月後だ」
止まった。
「金が海の上にある。ポルトガルからの荷が着くのが、早くて十二月の末だ。それまで、俺の手元には二百もない」
「三ヶ月後には、値が変わっています」
「変わるだろうな」
ロデウェイクは笑った。
「変わるから、待つんだ。安くなるかもしれん」
俺はそこで、しばらく黙った。
フリーダは年明けに百二十払う。ロデウェイクは十二月末まで払えない。二人とも正しくて、二人とも動けない。
この形を、俺は知っていた。前の体で、毎日これを見ていた。
「では、こうしましょう」
俺は言った。
「今日、値を決めます。六百二十。受け渡しは三ヶ月後の、十二月の末日。あなたはその日に六百二十払い、その日に名義が移ります」
「今日は何も動かんのか」
「紙を一枚書きます」
ロデウェイクは、心底わけが分からないという顔をした。
「なぜ今日でないのだ」
俺は答えた。
「三ヶ月後の値は、誰にも分かりません。あなたにも、私にも」
「だろうな」
「分からないものを、今日、分かることにします。それが、この紙です」
橋の上の音が、少し遠くなった。
ロデウェイクは長いこと動かなかった。それから、欄干から肘を離した。
「もう一度言え」
「三ヶ月後にいくらで買うかを、今日、決めてしまいます。安くなってもあなたは六百二十払う。高くなってもあなたは六百二十で買えます」
「損をするかもしれん」
「得をするかもしれません」
「そんなものを、書いていいのか」
「禁じている決まりを、私は知りません」
これは本当だった。俺は半年かけてこの街の決まりを調べた。穀物とニシンでは、先の受け渡しを約束する取引が五十年前からある。会社の持分でそれをやってはいけないとは、どこにも書かれていない。
ただ、誰もやっていなかった。
ロデウェイクは、俺を初めてまともに見た。
「お前、いくつだ」
「二十二です」
「変な二十二だな」
◆
紙は、公証人のところで書いた。
ピーテルという男で、ダム広場の裏に事務所がある。俺が言うことを聞いて、二度、書く手を止めた。
「今、渡さないのだな」
「はい」
「金も、今は動かんのだな」
「はい」
「では何を書けばいい」
「約束を書いてください」
ピーテルはペンを置いた。
「約束は、渡すもののことを書くから約束になる。渡すものが今ないなら、それは何だ」
俺は、その問いに答えられなかった。
答えは知っていた。前の世界には名前がついていた。だがその名前を口にしても、この人には何も伝わらない。
「渡すものは、あります」俺は言った。「会社の帳面の、ブラウの名前の下に六百と書いてある行です。それが三ヶ月後にデ・フリースさんの名前に変わる。変えると、今日、約束します」
ピーテルは、しばらく俺を見ていた。それから書きはじめた。
書き上がった紙には、四つのことが書いてあった。
誰と誰が約束したか。何を渡すか。いくらで渡すか。いつ渡すか。
それだけだ。俺は前の世界で、同じ四つが百頁になった書類を読んだことがある。残りの九十九頁は、払わなかったときにどうするかが書いてある。誰が間に立ち、いくら先に預け、何日で締めるか。
この紙には、それがない。
払わなかったときにどうするかは、四行のどこにも書いていない。
俺はそのとき、書かなくていいと思っていた。証人が二人いる。公証人の控えが残る。この街の商人は五十人しかいない。約束を破った者は、次から誰とも商売ができない。
それで足りると思っていた。
ロデウェイクが手付として三十ギルダー置いた。ピーテルが証人二人を呼んで署名させた。手数料は締めて四ギルダーと少しだった。
ヘンドリクは、その紙を持って帳場に戻り、フリーダに五百八十払った。
「三ヶ月後に六百二十入る。俺は今日五百八十出す。差の四十が、待った分の値だ」
彼はそう言って、金庫を閉めた。
「ヤン」
「はい」
「これは、何をしたことになる」
俺は少し考えた。
「動かない金を、動かしました」
「そうか」
ヘンドリクは、あまり嬉しそうではなかった。
◆
十二月の半ばに、噂が来た。
喜望峰で船が二隻沈んだという。どこから出た話かは分からない。分からないまま、新橋の上を三日で回った。四日目には、東インドの会社の持分を売りたいという者が四人出た。買う者は一人もいなかった。
俺は数字を聞いて回った。
六百の持分に五百二十しか出ないという話が二つ。五百と言った者が一人。残りの一人は値をつけなかった。つけないというのは、買わないという意味だ。
俺は帳場に戻って、炭で書いた。
ヘンドリクはフリーダに五百八十出している。ロデウェイクからは六百二十入る予定だ。入れば四十の儲け。入らなければ、持分は誰の手にも渡らないまま、彼女の名前で残る。それを今日売れば五百二十。六十の損になる。
四十の儲けと、六十の損。そのあいだに、ロデウェイクの気持ちが一つあるだけだ。
俺は炭を置いた。
前の体では、この線の引き方を毎日やっていた。相手の気持ちを線の中に入れないやり方があった。ここにはない。
俺は橋へ行った。ロデウェイクは、いた。俺を見て、目をそらさなかった。そらさない男だとは思っていた。
「知っているな」
「はい」
「百出る」
「はい」
彼は指を三本立てた。
「荷は着いた。手元に金はある。だが、百損して払うくらいなら、俺はあの紙を破る」
「破れません。証人が二人います」
「破ると言っているんじゃない。払わんと言っている」
俺は言葉に詰まった。
「訴えろ。裁判所は俺に払えと言うだろうな。半年か、一年かかる。そのあいだ、お前の主人は五百八十を回収できん」
彼は俺の肩を叩いた。悪意のある叩き方ではなかった。それが、いちばんこたえた。
「悪く思うな。俺は約束したときの俺と、同じ人間じゃない。あの日の俺は、値が上がると思っていた」
俺は橋の上に立ったまま、下を見ていた。
俺の紙は、正しく書けていた。四つのことが全部書いてあった。証人もいた。公証人もいた。
足りなかったのは、書き方ではない。
◆
その晩、俺はヘンドリクの前に紙を広げた。
「取り返す方法があります」
「あるのか」
「今回のは、たぶん取り返せません。次からの話です」
俺は炭で線を引いた。
「約束した日から、渡す日まで、毎日、値を見ます。約束の値より下がったら、下がった分だけ、買い手に金を預けさせます。上がったら、返します」
「毎日か」
「毎日です」
「百損する男は、百まとめて払うのは嫌がります。ですが、一日に三ずつなら払います。三十三日かけて、気づかないうちに百払っている。渡す日が来たときには、もう払い終わっているんです」
ヘンドリクは腕を組んだ。俺は続けた。
「これは思いつきではありません。牛市場でやっています」
彼が顔を上げた。
「牛だと」
「百年前からです。市が帳面役を置いています。売り買いを書き取って、買い手から金を受け取って、売り手に立て替えて、その日のうちに勘定を締める。持ち越しません。だから逃げられません」
「牛は逃げるだろうがな」
「牛は逃げます。約束は逃げません。逃げるのは人です」
ヘンドリクは長いこと黙っていた。
俺は、通ると思っていた。理屈は通っている。前例もある。同じ街の、歩いて行ける場所にある。
「ヤン」
「はい」
「三つ言う」
彼は指を折った。
「一つ。毎日金を預けさせると、お前は誰と商売する」
「……買う気のある者と」
「違う。金を毎日出せる者とだ。デ・フリースは荷が海の上でも約束できた。それができなくなる。約束を守れる者が減って、残るのは金を寝かせている者だけになる」
俺は反論しようとした。できなかった。
「もう一つ。預けた金は、預けた者のものか、お前のものか」
「預かりです。返します」
「返すと言ってお前が使わん保証がどこにある。俺は使うぞ。手元に百あって、使い道があれば使う。使って戻せなくなったとき、困るのは預けた奴だ。お前は、逃げる男の代わりに、逃げる帳場を作っただけだ」
俺は口を開いた。何も出なかった。
「三つ目」
ヘンドリクは指を一本残した。
「そもそも、なぜ預からせる」
「払わないからです」
「払わせる道は他にある。あの持分は、会社の帳面に名前が書いてあるだけだ。だから、名前を先に書き換えてしまえばいい。金を貸すときに持分ごと預かって、返したら名義を戻す。取り立ては要らん。もう俺の名前になっているんだからな」
「……フリーダさんのときに」
「そうしておけばよかった」
ヘンドリクは、そこで初めて苦い顔をした。
「俺の落ち度だ。お前の落ち度じゃない。だが、直し方はお前のより安い。手数が二ギルダー十六スタイフェル。それで済む話に、お前は毎日の帳面役を一人雇えと言っている」
俺は、その場に立っていた。
それは、俺の知っている仕組みだった。前の世界にもあった。名前も知っている。この人は、それを今、俺の目の前で、自分の頭から出した。
「旦那」
「なんだ」
「それは、うまくいきますか」
「うまくいく。券がないからだ」
ヘンドリクは炭を置いた。
「お前は券がないのを不便だと思っている。逆だ。券がないから、名前を書き換えるだけで全部が移る。券があったら、券を探して、盗まれていないか調べて、本物か確かめる。この街は、その手間がない」
俺は椅子に座った。座ってから、座っていいとは言われていないと気づいた。
「毎日締めるのは、いい考えだと思ったんです」
「いい考えだ」
「なら」
「いい考えと、要る考えは違う」
ヘンドリクは金庫の鍵を掛けた。
「牛市場が毎日締めるのはな、ヤン。牛が一日で腐るからだ。うちの持分は腐らん。腐らんものに、毎日の手当ては要らん」
その晩、俺は屋根裏で寝つけなかった。
三つとも、返せなかった。返せなかったのは、三つとも正しかったからだ。俺は正しくない理屈で負けたのではない。俺のほうが浅かった。
前の体で、俺は毎日の手当てを当たり前のものとして扱っていた。当たり前だと思っていたから、なぜそれがあるのかを考えたことがなかった。ある日それが締まって、相場が止まったときも、止めたやつが悪いと思っただけだった。
この街には、それを置かない理由が三つある。
置く理由は、まだ一つもない。
理由ができるのは、腐らないものを大勢が持ち、その大勢が同じ日に同じ方を向いたときだ。この街の商いは、まだ五十人でできている。五十人なら、顔で足りる。
顔で足りなくなったとき、俺の言ったものが要る。
そのときには、俺は死んでいる。
◆
結局、ヘンドリクは訴えなかった。
春先に、ロデウェイクが五百七十を持ってきた。六百二十のうち、五十を値切った形になる。ヘンドリクは受け取って、帳面に線を引いた。差し引き、十の損だった。手付の三十が効いた。俺が三十置かせたのは偶然だった。偶然だったと、ヘンドリクには言わなかった。
名義を移すのに、四人でネスへ行った。フリーダも来た。持分はまだ彼女の名前のままだったからだ。
バレントが帳面を出した。取締役が二人、机の向こうに座った。片方は俺たちを見もしなかった。もう片方が、ロデウェイクの顔を確かめてうなずいた。
「ヤンス、六百。デ・フリースへ全部か」
「全部だ」
バレントが線を引いた。ヤンスの名前の下の、六百という数字に、細い線が一本引かれた。それから、少し下の空いている行に、デ・フリースの名前を書いて、その下に六百と書いた。
二十秒ほどだった。
俺はそれを見ていた。
物は一つも動いていない。船はまだ帰っていない。胡椒は一粒も届いていない。動いたのは、この家の帳面の上の、線一本と、数字一つだけだ。それで六百が人から人へ渡った。
「手数だ」
バレントが言った。ロデウェイクが銀を数えて置いた。二ギルダー十六スタイフェル。フリーダは自分の名前が消えるのを見て、それから外へ出た。俺は追わなかった。
外へ出てから、ロデウェイクが言った。
「五十値切って悪かったな」
「取り返せると思っていました」
「取り返す気がなかったから、俺は払ったんだ」
彼は手袋をはめた。
「訴えられていたら、俺は一年粘って、それから払わなかった。お前の主人はそれを分かっていた。分かっている相手には、払うんだ」
俺はうなずいた。
紙は、破られなかったのではない。破らないほうが得だと相手が判断しただけだ。俺の書いた四行は、その判断を助けもしなかったし、邪魔もしなかった。
フリーダの息子は、二月に靴屋へ入った。
俺はときどき、その店の前を通る。
俺の書いた紙は、破られなかった。ピーテルの事務所に控えが残っている。この街で、会社の持分を先の日に受け渡すと約束した紙は、たぶんそれが最初の一枚だった。
同じことをする者が出はじめたのは、五年後だ。一六〇七年になると、公証人のところに同じ形の紙が積まれるようになった。
その年に、俺はネスへ用があって行った。バレントはまだ帳面の前にいた。頭が白くなっていた。
「移すのは、今年で何件になりました」
バレントは顔を上げずに答えた。
「数えとらん。多い日は一日で四件だ」
「五年前は、一人もいませんでした」
「そんな年もあったな」
彼は覚えていなかった。
俺は礼を言って外へ出た。
誰も俺の名前を知らない。俺が最初だったと、誰にも言っていない。言っても得がない。
◆
一六一一年の八月一日に、取引所が開いた。
ダム広場の南、運河をまたぐ形で建った。四角い建物で、中庭を柱廊が囲んでいる。雨の日に礼拝堂へ逃げなくてよくなった。それだけのことで、皆が喜んでいた。
俺は中に入らなかった。
外の石段に座って、人が入っていくのを見ていた。三十一になっていた。前の体で死んだ歳まで、あと四年だ。
この九年で、街は変わった。
二年前に市が金を預かる場所を作った。ヘンドリクの商売は、そのあおりで細くなった。去年、この街の持分を空で売る者を止める布告が出た。先の日に受け渡す約束そのものは止められていない。俺の書いたやり方は、生き残っている。
橋の上に五十人しかいなかった商いは、この建物の中に入りきらないほどになった。柱廊の下は、番号で場所が決まっているという。塩はここ、木材はそこ、東インドの持分はあの角だ。
場所に名前がついた。人ではなく、場所のほうに。
顔で足りなくなる日が、近づいている。
証拠を毎日預けさせる仕組みは、この街には来なかった。俺が持ち込んで、断られて、それきりになった。断った理屈は正しかった。腐らないものに毎日の手当ては要らない。ヘンドリクは去年、寝床で死んだ。
いつか誰かが、腐らないものにも手当てが要ると気づく日が来る。そのとき何が起きるかも、俺は知っている。だが俺はもうそれを言わない。言う相手がいないからではない。言えば通ると思っていた自分が、間違っていたからだ。
制度には、理由がある。
俺はそれを、四百年後から来て、この街で教わった。
石段から立ち上がったとき、中から男が二人出てきた。二十を出たくらいだ。片方が紙を持っていて、もう片方に見せていた。俺が九年前に公証人に書かせたのと、同じ形の紙だった。今では、あらかじめ刷ってあるものが売られている。
「三ヶ月後だ。値は今日で決める」
「なぜ今日でない」
俺は足を止めた。
「知らん。そういう書き方だ」
俺は口を開きかけた。
教えることは、いくらでもあった。なぜ今日でないのか。その紙が何を運んでいるのか。どこで壊れるのか。壊れる前に、何を先に預けさせておくべきなのか。
言わなかった。
言っても、通らない。九年前に一度通らなかったし、今日も通らない。この二人が困る日まで、あと何十年かある。困ってから、この街は自分で考えるだろう。ヘンドリクがそうしたように、自分の頭から出したものしか、人は使わない。
二人は笑いながら、橋のほうへ歩いていった。
俺はその後ろ姿を、見えなくなるまで見ていた。




