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転生先が世界最初の株式会社でした。株券が一枚も無いというので、帳簿の一行を売ることにします ~デリバティブトレーダー、最初の一枚を書いて、最初に負ける~

作者: 九十九堂
掲載日:2026/09/08

 俺は三十五歳、デリバティブトレーダーだった。

 最後の三年は、負けを埋めるために働いた。

 埋まらないまま、四時十七分に心臓が止まった。

 次に目を開けたとき、俺は他人の体の中にいた。

 二十二歳、ヤン・メールテンス。両替商ヘンドリク・ブラウの帳場の下働き。読み書きと計算ができるというだけで雇われた男で、給金は日に十三スタイフェル。前の体の一日の稼ぎの、たぶん千分の一もない。


 半年かかって、俺は自分がどこにいるかを理解した。

 場所は、鐘と水のにおいで見当がついた。年のほうは、帳場に来る書付の日付で分かった。最初に見たときは読み違いだと思った。三度読んで、読み違いではないと分かった。

 アムステルダム。一六〇二年の夏。


 前の体で、俺は画面を八枚並べて座っていた。数字が一秒に何度も書き換わり、俺はその書き換わり方に金を賭けていた。ここには画面がない。数字は帳面の上にあって、書き換わるのは誰かがペンを持ったときだけだ。

 最初のうち、俺はそれを退屈だと思っていた。


「ヤン、袋を持て」


 ヘンドリクが階段の下から呼んだ。四十をいくつか過ぎた男で、声が低い。この街の両替商は、まだ誰にも禁じられていない。銀行はない。市が金を預かる場所を作るのは、俺の知るかぎり七年後だ。


「どちらへ」


「ネスだ。ファン・オスさんの家」


 俺は袋を担いだ。銀貨で重かった。


           ◆


 ダーク・ファン・オスの家の前に、人が並んでいた。

 三十人ほどか。商人が多いが、そうでない者もいる。パン屋の前掛けをつけたままの男がいた。手に握った布包みの大きさで、いくら持ってきたのかがだいたい分かる。

 入口の脇に、板が立ててあった。俺はそれを読んだ。

 東インドへ向かう会社を作る。金を出した者は、その額に応じて分け前を受ける。


 それだけの話だった。


「並べ」


 ヘンドリクが言った。俺たちは列の後ろについた。


「旦那も出すんですか」


「六百」


 六百ギルダー。未熟練の男の日給が十三スタイフェルだから、二十ギルダーで一月食える。六百は、二年半ぶん働かずに暮らせる額だ。


「戻ってくるのは、いつです」


「十年後だ」


 俺は聞き返さなかった。板にそう書いてあったからだ。十年のあいだ、金は会社の中にある。総決算のときにしか引き揚げられない。

 列が進んだ。

 家の中は、思ったより狭かった。長机が一つあって、その向こうに三人が座っている。真ん中が簿記係で、両脇は取締役だと後で知った。机の上に、大きな帳面が開いてある。


 簿記係が羽根ペンを持ち上げた。


「名前」


「ヘンドリク・ブラウ。両替商」


「額」


「六百」


 ペンが動いた。ヘンドリクの名前と、六百という数字が、帳面の一行に収まった。

 それだけだった。

 俺は待った。何か渡されるはずだと思っていた。

 渡されなかった。


「次」


 ヘンドリクが下がった。俺は動けなかった。


「証書は」


 俺は言っていた。

 簿記係が顔を上げた。面倒くさそうな顔ではなかった。何を言われたのか分からない、という顔だった。


「何の」


「六百出したという、紙です」


「帳面に書いた」


 簿記係はそう言って、開いた頁を指で叩いた。


「これが証だ」


           ◆


 外へ出てから、俺はしばらく黙っていた。


「どうした」


「旦那。今、六百払いましたね」


「払った」


「持っているものは、何ですか」


 ヘンドリクは足を止めた。それから、少し考えて答えた。


「あの家の帳面に、俺の名前が書いてある」


「それだけです」


「それだけだ」


 俺は空を見た。八月の、白い空だった。

 券がない。紙が一枚もない。持っているという証拠は、他人の家にある帳面の一行だけだ。前の世界なら、こんなものは商品にならない。触れないし、運べないし、盗まれても分からない。

 なのに、俺の頭の中で、何かが音を立てて回りはじめていた。


 その日の夕方、俺は口実を作ってもう一度ネスへ行った。

 列はまだ続いていた。俺は机の脇に立って、開かれた帳面を見た。第一頁に、最初の名前より前に、細かい字で一行が書き足されていた。募集が始まってから足されたものらしく、インクの色が違った。


  ——持分の譲り渡しは、当分の簿記係を通じてこれを行うべし。


 俺は、その一行を三度読んだ。

 譲り渡してよい。

 つまり、売れる。

 券がないのに、売れる。名義を書き換えれば、それで移る。物が動かないのに、所有だけが動く。

 俺は帳面の前で、たぶん間の抜けた顔をしていた。簿記係が俺を見て、追い払う仕草をした。


「何か用か」


「いえ」


 俺は下がった。

 三日後、俺はまた行った。今度は列が短かった。募集が閉じる前の駆け込みが済んで、机の前が空いていた。


「用がないなら来るな」


 簿記係が言った。バレントという名だと、この日に知った。


「用があります。持分を人に譲るには、どうしますか」


 バレントはペンを置いた。


「ここへ二人で来る。売る者と買う者だ。俺が帳面を書き換える。それだけだ」


「それだけですか」


「取締役が二人、うなずく要る」


「断られることは」


「借金の形に入っている持分なら断る。それ以外で断った例は、まだない」


 俺は次を訊いた。


「いくらかかりますか」


「俺に六十スタイフェル。印紙が二ギルダー四スタイフェル。締めて二ギルダー十六スタイフェルだ」


 三ギルダーに足りない。未熟練の男の五日ぶんの稼ぎだ。それだけの手数で、六百が人から人へ移る。


「これまでに、何人が移しました」


 バレントは帳面を閉じた。


「一人もいない」


 俺は礼を言って外へ出た。

 道は乾いていた。八月の終わりで、運河の水がにおった。

 仕組みはある。誰も使っていない。使い方を知らないのではなく、使う理由をまだ誰も持っていない。

 理由なら、作れる。


           ◆


 九月の終わりに、フリーダ・ヤンスが店に来た。

 小間物を扱う女で、四十くらいだ。夫が春に死んだ。俺は店の帳面でその名前を知っていた。ヘンドリクが少額を貸していたからだ。


「六百、出したんです」


 彼女はそう言った。帳場の板を握っていた。


「主人が、出すと言っていたので。死ぬ前に、そう言っていたので」


「東インドの会社へ」


「はい」


「戻るのは十年後です」


「そう言われました。あのときは、聞いていたつもりだったんです」


 彼女は板から手を離した。


「息子を靴屋へ入れます。年明けに、親方に百二十払わなければなりません」


 百二十ギルダー。俺は店の帳面を思い出した。彼女の手元にある額を、ヘンドリクは知っている。春の貸付のときに数えているからだ。四十と少しだった。半年で八十増える商いではない。


「店を畳めばいくらになります」


「品を全部で、六十くらいでしょうか」


「それでも足りません」


「はい」


 彼女は数えていた。俺が訊く前から、何度も数えていた。数え終わった人間の顔をしている。


「返してもらえないんですか」


「返しません」俺は言った。「十年、動きません。それが、あの会社の作りです」


 フリーダは何も言わなかった。泣きもしなかった。ただ、そういうものかと思った顔をした。この街の人間は、そういう顔をするのがうまい。

 俺は言った。


「売れます」


 ヘンドリクが奥から出てきた。


「何を売るって」


「フリーダさんの六百です」


「あれは金じゃない。会社の中だ」


「持分は譲ってよいと、帳面の第一頁に書いてあります。簿記係を通せば移せます」


 ヘンドリクが黙った。この人は勘定が速い。三つ数えるあいだに、話の形が見えたのが分かった。


「移して、どうなる」


「買った人が、十年後に受け取ります。フリーダさんは、今日、金を受け取ります」


「買う奴がいるか」


「探します」


           ◆


 買う奴は、十日で見つかった。

 ロデウェイク・デ・フリース。三十半ばの商人で、リスボンから塩と乾物を運んでいる。東インドの会社に出しそこねた口だ。募集が閉じた後で、惜しがっているという噂を聞いた。

 新橋の上で捕まえた。


 この街では、商人は昼前の一時間、この橋の上に集まる。十一時から十二時まで。夏はもう一度、夕方に半時間ある。雨が降ると聖オロフの礼拝堂に移る。屋根の下で商いをすることに文句を言う牧師もいたが、追い出されはしなかった。

 それだけの決まりだ。建物はない。壁も、椅子も、名簿もない。

 橋の上に、その日いる者が全部だった。


 俺は毎日そこへ通って、顔と名前を覚えた。塩を扱う者、木材を扱う者、金を貸す者。この街で金を動かすことを仕事にしている人間は、全部で五十人くらいしかいない。二万人が働く街で、五十人だ。全員が全員の顔を知っている。

 だから、逃げられない。

 俺はそのとき、そう思っていた。


「六百の持分がある。譲れる」


 ロデウェイクは俺の顔を見た。それから、俺の服を見た。下働きの服だ。


「主人は」


「ブラウの帳場の者です。話は主人が受けます」


「いくらだ」


「六百二十」


「高い」


「募集はもう閉じています。あなたはもう出せません」


 ロデウェイクは橋の欄干に肘をついた。下を、荷を積んだ船が通っていった。


「六百二十で買う」


 俺は息を吐きかけた。


「ただし、三ヶ月後だ」


 止まった。


「金が海の上にある。ポルトガルからの荷が着くのが、早くて十二月の末だ。それまで、俺の手元には二百もない」


「三ヶ月後には、値が変わっています」


「変わるだろうな」


 ロデウェイクは笑った。


「変わるから、待つんだ。安くなるかもしれん」


 俺はそこで、しばらく黙った。

 フリーダは年明けに百二十払う。ロデウェイクは十二月末まで払えない。二人とも正しくて、二人とも動けない。

 この形を、俺は知っていた。前の体で、毎日これを見ていた。


「では、こうしましょう」


 俺は言った。


「今日、値を決めます。六百二十。受け渡しは三ヶ月後の、十二月の末日。あなたはその日に六百二十払い、その日に名義が移ります」


「今日は何も動かんのか」


「紙を一枚書きます」


 ロデウェイクは、心底わけが分からないという顔をした。


「なぜ今日でないのだ」


 俺は答えた。


「三ヶ月後の値は、誰にも分かりません。あなたにも、私にも」


「だろうな」


「分からないものを、今日、分かることにします。それが、この紙です」


 橋の上の音が、少し遠くなった。

 ロデウェイクは長いこと動かなかった。それから、欄干から肘を離した。


「もう一度言え」


「三ヶ月後にいくらで買うかを、今日、決めてしまいます。安くなってもあなたは六百二十払う。高くなってもあなたは六百二十で買えます」


「損をするかもしれん」


「得をするかもしれません」


「そんなものを、書いていいのか」


「禁じている決まりを、私は知りません」


 これは本当だった。俺は半年かけてこの街の決まりを調べた。穀物とニシンでは、先の受け渡しを約束する取引が五十年前からある。会社の持分でそれをやってはいけないとは、どこにも書かれていない。

 ただ、誰もやっていなかった。

 ロデウェイクは、俺を初めてまともに見た。


「お前、いくつだ」


「二十二です」


「変な二十二だな」


           ◆


 紙は、公証人のところで書いた。

 ピーテルという男で、ダム広場の裏に事務所がある。俺が言うことを聞いて、二度、書く手を止めた。


「今、渡さないのだな」


「はい」


「金も、今は動かんのだな」


「はい」


「では何を書けばいい」


「約束を書いてください」


 ピーテルはペンを置いた。


「約束は、渡すもののことを書くから約束になる。渡すものが今ないなら、それは何だ」


 俺は、その問いに答えられなかった。

 答えは知っていた。前の世界には名前がついていた。だがその名前を口にしても、この人には何も伝わらない。


「渡すものは、あります」俺は言った。「会社の帳面の、ブラウの名前の下に六百と書いてある行です。それが三ヶ月後にデ・フリースさんの名前に変わる。変えると、今日、約束します」


 ピーテルは、しばらく俺を見ていた。それから書きはじめた。

 書き上がった紙には、四つのことが書いてあった。

 誰と誰が約束したか。何を渡すか。いくらで渡すか。いつ渡すか。


 それだけだ。俺は前の世界で、同じ四つが百頁になった書類を読んだことがある。残りの九十九頁は、払わなかったときにどうするかが書いてある。誰が間に立ち、いくら先に預け、何日で締めるか。

 この紙には、それがない。

 払わなかったときにどうするかは、四行のどこにも書いていない。


 俺はそのとき、書かなくていいと思っていた。証人が二人いる。公証人の控えが残る。この街の商人は五十人しかいない。約束を破った者は、次から誰とも商売ができない。

 それで足りると思っていた。

 ロデウェイクが手付として三十ギルダー置いた。ピーテルが証人二人を呼んで署名させた。手数料は締めて四ギルダーと少しだった。


 ヘンドリクは、その紙を持って帳場に戻り、フリーダに五百八十払った。


「三ヶ月後に六百二十入る。俺は今日五百八十出す。差の四十が、待った分の値だ」


 彼はそう言って、金庫を閉めた。


「ヤン」


「はい」


「これは、何をしたことになる」


 俺は少し考えた。


「動かない金を、動かしました」


「そうか」


 ヘンドリクは、あまり嬉しそうではなかった。


           ◆


 十二月の半ばに、噂が来た。

 喜望峰で船が二隻沈んだという。どこから出た話かは分からない。分からないまま、新橋の上を三日で回った。四日目には、東インドの会社の持分を売りたいという者が四人出た。買う者は一人もいなかった。

 俺は数字を聞いて回った。


 六百の持分に五百二十しか出ないという話が二つ。五百と言った者が一人。残りの一人は値をつけなかった。つけないというのは、買わないという意味だ。

 俺は帳場に戻って、炭で書いた。


 ヘンドリクはフリーダに五百八十出している。ロデウェイクからは六百二十入る予定だ。入れば四十の儲け。入らなければ、持分は誰の手にも渡らないまま、彼女の名前で残る。それを今日売れば五百二十。六十の損になる。

 四十の儲けと、六十の損。そのあいだに、ロデウェイクの気持ちが一つあるだけだ。

 俺は炭を置いた。


 前の体では、この線の引き方を毎日やっていた。相手の気持ちを線の中に入れないやり方があった。ここにはない。

 俺は橋へ行った。ロデウェイクは、いた。俺を見て、目をそらさなかった。そらさない男だとは思っていた。


「知っているな」


「はい」


「百出る」


「はい」


 彼は指を三本立てた。


「荷は着いた。手元に金はある。だが、百損して払うくらいなら、俺はあの紙を破る」


「破れません。証人が二人います」


「破ると言っているんじゃない。払わんと言っている」


 俺は言葉に詰まった。


「訴えろ。裁判所は俺に払えと言うだろうな。半年か、一年かかる。そのあいだ、お前の主人は五百八十を回収できん」


 彼は俺の肩を叩いた。悪意のある叩き方ではなかった。それが、いちばんこたえた。


「悪く思うな。俺は約束したときの俺と、同じ人間じゃない。あの日の俺は、値が上がると思っていた」


 俺は橋の上に立ったまま、下を見ていた。

 俺の紙は、正しく書けていた。四つのことが全部書いてあった。証人もいた。公証人もいた。

 足りなかったのは、書き方ではない。


           ◆


 その晩、俺はヘンドリクの前に紙を広げた。


「取り返す方法があります」


「あるのか」


「今回のは、たぶん取り返せません。次からの話です」


 俺は炭で線を引いた。


「約束した日から、渡す日まで、毎日、値を見ます。約束の値より下がったら、下がった分だけ、買い手に金を預けさせます。上がったら、返します」


「毎日か」


「毎日です」


「百損する男は、百まとめて払うのは嫌がります。ですが、一日に三ずつなら払います。三十三日かけて、気づかないうちに百払っている。渡す日が来たときには、もう払い終わっているんです」


 ヘンドリクは腕を組んだ。俺は続けた。


「これは思いつきではありません。牛市場でやっています」


 彼が顔を上げた。


「牛だと」


「百年前からです。市が帳面役を置いています。売り買いを書き取って、買い手から金を受け取って、売り手に立て替えて、その日のうちに勘定を締める。持ち越しません。だから逃げられません」


「牛は逃げるだろうがな」


「牛は逃げます。約束は逃げません。逃げるのは人です」


 ヘンドリクは長いこと黙っていた。

 俺は、通ると思っていた。理屈は通っている。前例もある。同じ街の、歩いて行ける場所にある。


「ヤン」


「はい」


「三つ言う」


 彼は指を折った。


「一つ。毎日金を預けさせると、お前は誰と商売する」


「……買う気のある者と」


「違う。金を毎日出せる者とだ。デ・フリースは荷が海の上でも約束できた。それができなくなる。約束を守れる者が減って、残るのは金を寝かせている者だけになる」


 俺は反論しようとした。できなかった。


「もう一つ。預けた金は、預けた者のものか、お前のものか」


「預かりです。返します」


「返すと言ってお前が使わん保証がどこにある。俺は使うぞ。手元に百あって、使い道があれば使う。使って戻せなくなったとき、困るのは預けた奴だ。お前は、逃げる男の代わりに、逃げる帳場を作っただけだ」


 俺は口を開いた。何も出なかった。


「三つ目」


 ヘンドリクは指を一本残した。


「そもそも、なぜ預からせる」


「払わないからです」


「払わせる道は他にある。あの持分は、会社の帳面に名前が書いてあるだけだ。だから、名前を先に書き換えてしまえばいい。金を貸すときに持分ごと預かって、返したら名義を戻す。取り立ては要らん。もう俺の名前になっているんだからな」


「……フリーダさんのときに」


「そうしておけばよかった」


 ヘンドリクは、そこで初めて苦い顔をした。


「俺の落ち度だ。お前の落ち度じゃない。だが、直し方はお前のより安い。手数が二ギルダー十六スタイフェル。それで済む話に、お前は毎日の帳面役を一人雇えと言っている」


 俺は、その場に立っていた。

 それは、俺の知っている仕組みだった。前の世界にもあった。名前も知っている。この人は、それを今、俺の目の前で、自分の頭から出した。


「旦那」


「なんだ」


「それは、うまくいきますか」


「うまくいく。券がないからだ」


 ヘンドリクは炭を置いた。


「お前は券がないのを不便だと思っている。逆だ。券がないから、名前を書き換えるだけで全部が移る。券があったら、券を探して、盗まれていないか調べて、本物か確かめる。この街は、その手間がない」


 俺は椅子に座った。座ってから、座っていいとは言われていないと気づいた。


「毎日締めるのは、いい考えだと思ったんです」


「いい考えだ」


「なら」


「いい考えと、要る考えは違う」


 ヘンドリクは金庫の鍵を掛けた。


「牛市場が毎日締めるのはな、ヤン。牛が一日で腐るからだ。うちの持分は腐らん。腐らんものに、毎日の手当ては要らん」


 その晩、俺は屋根裏で寝つけなかった。

 三つとも、返せなかった。返せなかったのは、三つとも正しかったからだ。俺は正しくない理屈で負けたのではない。俺のほうが浅かった。


 前の体で、俺は毎日の手当てを当たり前のものとして扱っていた。当たり前だと思っていたから、なぜそれがあるのかを考えたことがなかった。ある日それが締まって、相場が止まったときも、止めたやつが悪いと思っただけだった。

 この街には、それを置かない理由が三つある。

 置く理由は、まだ一つもない。


 理由ができるのは、腐らないものを大勢が持ち、その大勢が同じ日に同じ方を向いたときだ。この街の商いは、まだ五十人でできている。五十人なら、顔で足りる。

 顔で足りなくなったとき、俺の言ったものが要る。

 そのときには、俺は死んでいる。


           ◆


 結局、ヘンドリクは訴えなかった。

 春先に、ロデウェイクが五百七十を持ってきた。六百二十のうち、五十を値切った形になる。ヘンドリクは受け取って、帳面に線を引いた。差し引き、十の損だった。手付の三十が効いた。俺が三十置かせたのは偶然だった。偶然だったと、ヘンドリクには言わなかった。


 名義を移すのに、四人でネスへ行った。フリーダも来た。持分はまだ彼女の名前のままだったからだ。

 バレントが帳面を出した。取締役が二人、机の向こうに座った。片方は俺たちを見もしなかった。もう片方が、ロデウェイクの顔を確かめてうなずいた。


「ヤンス、六百。デ・フリースへ全部か」


「全部だ」


 バレントが線を引いた。ヤンスの名前の下の、六百という数字に、細い線が一本引かれた。それから、少し下の空いている行に、デ・フリースの名前を書いて、その下に六百と書いた。

 二十秒ほどだった。

 俺はそれを見ていた。


 物は一つも動いていない。船はまだ帰っていない。胡椒は一粒も届いていない。動いたのは、この家の帳面の上の、線一本と、数字一つだけだ。それで六百が人から人へ渡った。


「手数だ」


 バレントが言った。ロデウェイクが銀を数えて置いた。二ギルダー十六スタイフェル。フリーダは自分の名前が消えるのを見て、それから外へ出た。俺は追わなかった。

 外へ出てから、ロデウェイクが言った。


「五十値切って悪かったな」


「取り返せると思っていました」


「取り返す気がなかったから、俺は払ったんだ」


 彼は手袋をはめた。


「訴えられていたら、俺は一年粘って、それから払わなかった。お前の主人はそれを分かっていた。分かっている相手には、払うんだ」


 俺はうなずいた。

 紙は、破られなかったのではない。破らないほうが得だと相手が判断しただけだ。俺の書いた四行は、その判断を助けもしなかったし、邪魔もしなかった。

 フリーダの息子は、二月に靴屋へ入った。

 俺はときどき、その店の前を通る。


 俺の書いた紙は、破られなかった。ピーテルの事務所に控えが残っている。この街で、会社の持分を先の日に受け渡すと約束した紙は、たぶんそれが最初の一枚だった。

 同じことをする者が出はじめたのは、五年後だ。一六〇七年になると、公証人のところに同じ形の紙が積まれるようになった。


 その年に、俺はネスへ用があって行った。バレントはまだ帳面の前にいた。頭が白くなっていた。


「移すのは、今年で何件になりました」


 バレントは顔を上げずに答えた。


「数えとらん。多い日は一日で四件だ」


「五年前は、一人もいませんでした」


「そんな年もあったな」


 彼は覚えていなかった。

 俺は礼を言って外へ出た。

 誰も俺の名前を知らない。俺が最初だったと、誰にも言っていない。言っても得がない。


           ◆


 一六一一年の八月一日に、取引所が開いた。

 ダム広場の南、運河をまたぐ形で建った。四角い建物で、中庭を柱廊が囲んでいる。雨の日に礼拝堂へ逃げなくてよくなった。それだけのことで、皆が喜んでいた。

 俺は中に入らなかった。


 外の石段に座って、人が入っていくのを見ていた。三十一になっていた。前の体で死んだ歳まで、あと四年だ。

 この九年で、街は変わった。


 二年前に市が金を預かる場所を作った。ヘンドリクの商売は、そのあおりで細くなった。去年、この街の持分を空で売る者を止める布告が出た。先の日に受け渡す約束そのものは止められていない。俺の書いたやり方は、生き残っている。


 橋の上に五十人しかいなかった商いは、この建物の中に入りきらないほどになった。柱廊の下は、番号で場所が決まっているという。塩はここ、木材はそこ、東インドの持分はあの角だ。

 場所に名前がついた。人ではなく、場所のほうに。

 顔で足りなくなる日が、近づいている。


 証拠を毎日預けさせる仕組みは、この街には来なかった。俺が持ち込んで、断られて、それきりになった。断った理屈は正しかった。腐らないものに毎日の手当ては要らない。ヘンドリクは去年、寝床で死んだ。


 いつか誰かが、腐らないものにも手当てが要ると気づく日が来る。そのとき何が起きるかも、俺は知っている。だが俺はもうそれを言わない。言う相手がいないからではない。言えば通ると思っていた自分が、間違っていたからだ。

 制度には、理由がある。

 俺はそれを、四百年後から来て、この街で教わった。


 石段から立ち上がったとき、中から男が二人出てきた。二十を出たくらいだ。片方が紙を持っていて、もう片方に見せていた。俺が九年前に公証人に書かせたのと、同じ形の紙だった。今では、あらかじめ刷ってあるものが売られている。


「三ヶ月後だ。値は今日で決める」


「なぜ今日でない」


 俺は足を止めた。


「知らん。そういう書き方だ」


 俺は口を開きかけた。

 教えることは、いくらでもあった。なぜ今日でないのか。その紙が何を運んでいるのか。どこで壊れるのか。壊れる前に、何を先に預けさせておくべきなのか。

 言わなかった。


 言っても、通らない。九年前に一度通らなかったし、今日も通らない。この二人が困る日まで、あと何十年かある。困ってから、この街は自分で考えるだろう。ヘンドリクがそうしたように、自分の頭から出したものしか、人は使わない。

 二人は笑いながら、橋のほうへ歩いていった。

 俺はその後ろ姿を、見えなくなるまで見ていた。


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