第1話 お紺の魔窟
夜の長屋は、いつもより静かだった。
お紺は膳を並べ、火の落ちかけた行灯の前で膝を揃えて座っていた。
戸ががらりと開く。
「……帰ったぞ」
「お帰りなさい……」
「飯は?」
「……はい、すぐに」
「遅い。何度言わせるんだ」
お紺は小さくうなずき、膳を差し出した。
旦那は無言で箸を取り、しばらくして、ふと部屋の隅へ目を向けた。
そこには、手許箪笥の“空いた場所” がある。
「……で、あれ。いつ直るんだ?」
「今日……大工さんに預けてきました……」
旦那は舌打ちし、空いた場所を足で乱暴に蹴った。
「預けてきましたじゃねぇよ。
お前がぶつかって壊したんだろうが。」
お紺の肩がびくりと震えた。
「……はい……すみません。」
胸の奥で、何かが静かに積もり、重く沈んでいく。
(違う…… 壊したのは……あなたなのに……
でも言えない……言ったら怒られる……
嫌われる……捨てられる……
だから……言えない……
言えない……言えない……)
その瞬間。
バキンッ
世界のどこかで、“心の板”が折れるような音がした。
お紺の背後の闇が、ゆらりと揺れた。
揺れた闇は、まるでそこだけ世界が抜け落ちたように沈み込み――
ふっ と行灯の光が吸い込まれるように消えた。
「あ? なんだ、油の入れ忘れか。まったく、お前はいつも――」
旦那は立ち上がり、“いつものように”お紺を叱りつけようと手を伸ばした。
その手が――黒い穴に触れた。
「う……あ……? 抜けねぇ……!? おい……お紺! どこ……」
声は途中で途切れた。
旦那の姿は、闇に吸い込まれるように消えた。
音も、痕跡もない。
ただ、
お紺のいたところに黒い穴がひとつ、
行灯の火を遮りながら、呼吸するように脈動していた。
投稿ペースは遅めです。




