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心削り師 弥一とノミの神  作者: ナフト


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第0話 最初の揺らぎ

なんとなく、婚約破棄ものが多く過食気味なので、自炊で好きな物語を書き始めました。良かったら感想などよろしくお願いします。江戸ファンタジーなのでツッコミどころあるとは思いますが、生ぬるい目でお目こぼしを。

 江戸の外れ、職人町の一角。

 夕陽が差し込み、木屑が金色に舞っていた。


 若い大工・弥一(やいち)は、太い梁材に向かって(のみ)を振るっていた。

 細身だが無駄のない筋肉が腕に浮かび、黒髪は後ろで軽く結ばれている。

 木屑のついた作務衣の袖をまくり上げ、真っ直ぐな黒い目で木目を読むように材を見つめていた。


 カン……カン……。


 一定のリズムで響く音。弥一の額には汗がにじむ。

 ふと、今日の客のことを思い出し、独り言が漏れた。


「……どうして、あの人はあんなに泣きそうだったんだろうな」


 その瞬間、鑿の角度がわずかに狂う。


 カンッ!


 刃が深く入りすぎ、弥一は「あっ」と声を漏らし、手を離した。鑿は空中で回転しながら落ちていく――が、小さな影がひょいと飛び出し、空中でつかみ取った。

掌ほどの木の小さな存在宙に浮いている。木目が走り、動くたびに「きゅっ」と音がする。


「おっとっと。危ないよ、弥一」

「……誰だ、お前」

「僕はノミの神。心の歪みを削る神様さ」


弥一は呆然としながらも、そのまま肩に乗ってきた小さな神を見つめた。


「今日の客、気になってるんだろ?」

「……まぁな。手許箪笥が壊れたって来たんだが……」


弥一の脳裏に、昼間の光景が蘇る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

工房の戸がそっと開き、若い女が立っていた。

「……あの、箪笥の引き戸が……壊れてしまって……直していただけませんか……?」


弥一は壊れた手許箪笥を受け取り、作業台に置く。


引き戸は外れ、細い桟が途中からぱきりと折れ、角のほぞは斜めに裂けている。

ぶつかった程度では起きない壊れ方。弥一は木目を読み、指先で割れをなぞる。

(……直せる。だが……)


「どうして、こんな壊れ方を……」


思わず漏れた声に、お紺は小さく肩を震わせる。


「……わ、私が……ぶつかって……すみません……」


それ以上は聞かない。弥一は作業台の端から、薄い木札を一枚取り出した。女の肩がほっと落ちる。


縦に「預」「弥」と墨で書き、真ん中でぱきりと割る。

割れ目は、二度と同じ形にはならない。片方をお紺に、片方を自分の腰袋に。


「引替札です。これを持ってきてくだされば、お返しします」

弥一は割った木札の片方を差し出した。


お紺は両手でそれを受け取る。

 その袖口から――うっすらと青い痣がのぞいた。


弥一の目が、ほんの一瞬だけそこに留まる。


お紺は、はっと気づいたように袖を引き、割符を胸の前でぎゅっと握りしめた。


「……ありがとうございます」


その声は、かすかに震えていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「……あの人、泣きそうだったな」

弥一がつぶやくと、肩の上の―ノミの神―が小さく鳴いた。


「弥一。あの人の“歪み”は深いよ。放っておくと……割れる。割符よりも簡単にね」


「割れる?」


 ―ノミの神―は答えず、肩の上でぴたりと静止した。

 木目がぴんと張り、黒い目が一点を見つめている。


 弥一は困ったように肩の上の存在を見る。


「まあいいさ……ノミの神って呼ぶの、なんか言いづらいな」


 神は「きゅっ」と跳ね、木目が柔らかく波打った。


「じゃあ、まさでいいよ。昔はそう呼ばれていたこともあったからね」


「正……か。まぁ、そっちのほうが呼びやすいな」


 正は満足げに胸を張り、「きゅっ」と軽い音を鳴らした。


 そのとき、工房の戸が静かに開く。夕陽の逆光の中、師匠が立っていた。


 五十前後の痩せた男。

 白髪まじりの髪を後ろでひとつに結び、色褪せた作務衣の袖口は擦り切れている。

 細い目は木目を見るように静かで鋭く、節くれ立った手には刃物の傷がいくつも刻まれていた。


 弥一は姿勢を正す。


 師匠は無言で歩み寄り、弥一の手から鑿を取る。

 刃先を光にかざし、角度を変えながらじっと見つめる。


「……刃が甘いな」


「師匠。来てたんですか」


 師匠は鑿を指で軽く弾く。澄んだ金属音が響いた。


「木は嘘をつかん。刃が迷えば、木も迷う」

「……すみません」


 師匠は鑿を返しながら、ふっと目を細める。


「謝るな。迷った理由を探せ、人の心も木と同じだ。

 迷い歪んだところを削れば、まっすぐになる」


「……師匠は、どうやって“歪み”を見つけるんです?」


師匠は少しだけ黙り、工房の外を見た。


「……見つけるんじゃない。聞こえてくるんだよ。木の声も人の声もな」

「俺には、まだ聞こえません」


師匠は弥一の肩を軽く叩く。


「焦るな。お前は“削る手”がある。それだけで十分だ」

「師匠は……どうなんです?自分の心の歪みは、削れるんですか?」


師匠は一瞬だけ表情を曇らせた。


「……人は、自分の心は削れん」

「え?」

「だからこそ、弟子が必要なんだ」


その言葉は、どこか寂しげだった。


正は肩の上で、音を立てずに静止して思う。

(……師匠の心は、もう限界に近い。でも弥一には、まだ言えない)


弥一は気づかない。師匠は背を向け、工房を出ていく。

そこに工房の外から、職人たちの世間話が聞こえてきた。


「そういや神守の家んとこ、最近また相談が増えてるらしいぜ」

「神守? あの“神様を守る家”か。昔っから祟りだの神隠しだの扱ってるっていう」


「そうそう。ほら、雨を呼ぶ“水引き様”とか、夜道を照らす“灯籠の童子”とかよ。

 名を呼ぶだけで木がまっすぐになる“斫様”とか、そういう話を一番知ってるって噂だ」


「へぇ……? なら裏の宮大工んとこに教えてやれよ。柱が曲がって泣いてたらしいぜ」

「ばか言え、そんなべんりな神様、今どきゃ出てこねぇよ」


「だよな。今じゃもう誰も頼んだことねぇんだし」

「そもそもよ、神様なんて見えねぇんだ。見えねぇもんは信じられねぇよ」

「ははっ、言えてる!」


弥一は苦笑しながら聞き流し、誰にも聞こえないほど小さくつぶやいた。

「……俺は、見えるけどな」

肩の上で、正が「きゅっ」と小さく鳴いた。


 その日の夕方。弥一が材木を担いで歩いていると――


 空気がわずかに沈み、光が一瞬だけ揺らいだ。

 正は肩の上で、ぴたりと動きを止めた。木目が細く締まり、黒い目が左右に揺れる。

 弥一は正の様子がいつもと違うことに気づき歩きながら声をかける。


「正、どうかしたか?」

「なんでもないよ。ただの風だよ、風」

「風……? 吹いてたか?」


 正は「きゅっ」と軽く音を鳴らし、胸を張って強がるように見せた。


 その夜、長屋では妙な噂が流れていた。

「裏手の路地で、黒い穴を見たってよ」

「影みてぇな、でも影じゃねぇ……近づいたら吸い込まれそうだったって」


 弥一は笑い飛ばす。

「そんな馬鹿な話があるかよ」


 正は表情を変えず、ただ静かに弥一の枕元に座った。

 木目がわずかに締まり、音が完全に消えている。


「正、今日はなんか静かだな」

「弥一、明日も早いんだろ? もう寝なよ」

「……あぁ」


 正は夜空を見上げたまま、動かなかった。

 木の体は静かに沈黙し、ただ、世界だけが静かに軋み始めていた。

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