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ヒイラギの散る廃屋で  作者: 都桜ゆう


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5:修二の除霊

 馨の指し示した右後ろという、短くも、この場に引かれた唯一の境界線のような鋭い言葉に、修二の身体が過敏なまでの反応を見せた。


 修二は肺の奥深くまで、淀んだ大気を浄化するかのように一度深く息を吸い込む。そして、それまでどこか遠くを彷徨っていた焦点の合わない瞳を、極北の氷河を切り裂く刃のように鋭く細めた。

 その瞬間、彼が纏う空気そのものが、音を立てて変質した。


 それまでの、どこか世捨て人のようなぶっきらぼうな青年の佇まいは一瞬で霧散した。代わりに、古の荒ぶる神をその身に宿したかのような、圧倒的な威圧感が、軋む廃屋のホール全体を支配していく。馨の肌を刺すのは、霊の冷気ではなく、修二から放たれる純粋な意志の圧力だった。


 修二はもはや迷わなかった。

 どす黒い霧が最も濃く渦巻き、馨がこの怪異の核であると断じた空間へと、獲物を狙う猛禽のごとき速さで踏み込んだ。そして、物理的な重さすら感じさせる右手を、形なき闇を直接掴みかかるように力強く突き出した。


「……もう、そこに居るんだな。隠れても無駄だぜ。終わらせに来た」


 修二が低く、一切の情状を排した断罪の響きを帯びた声で呟いたその瞬間、廃屋を満たしていた空気が爆発的な勢いで一変した。

 窓の外、錆びついた門扉の前に無惨に散乱していたはずのヒイラギの葉が、風もないのに突如として命を吹き込まれたかのように一斉に舞い上がったのだ。


 緑の旋風となった無数の葉は、蜘蛛の巣の張った割れた窓の隙間をすり抜け、猛烈な勢いで室内へと流れ込む。

 それらは磁石に引き寄せられる鉄屑のように修二の右腕の周りへと集い、まるで主を護る神聖な結界か、あるいは標的を微塵に切り刻むために研ぎ澄まされた刃の渦のように、激しく、かつ美しく旋回し始めた。


 馨の目には、修二の指先から、現実の空間を物理的に歪ませるほどの透明な衝撃波のようなものが放たれるのがはっきりと見えた。


 それは、これまで馨が孤独に研鑽を積んできた浄霊とは、根源からして全く異なる質の力だった。

 馨の力は、解けない心の糸を一本ずつ解き、泥で濁った水を静かに澄ませるような融和と癒しの力だ。しかし、いま修二が放つそれは、問答無用で因果を断ち、存在そのものを抹消する断絶の力だった。


 この世への執着が腐り落ち、肥大化した害意という底なしの泥に全身を浸かりきった存在を、慈悲の欠片もなく、強制的にこの次元から切り離し、無へと帰す。それは、聖なる輝きというよりは、むしろ圧倒的な破壊の暴力性を(はら)んだ、正義という名の一閃(いっせん)だった。


 ヒイラギの鋭い棘を持つ葉が、修二の腕の動きに連動して黒い渦の心臓部を真っ向から切り裂いていく。

 直後、この世のものとは思えない、聴覚を物理的に破壊するかのような凄まじい金切り声が廃屋全体を、そして二人の足元さえも激しく震わせた。


 それは、馨の対話を拒絶し続け、ただ生者を呪い続けた怪異が、最期に上げた断末魔の叫びだったのかもしれない。

 だが、その叫びも長くは続かなかった。修二の指先が虚空を貫き、核を捉えると同時に、どす黒い塊は内側から光が弾けるように霧散した。


 次の瞬間――それまでの喧騒が幻であったかのように、唐突な、耳が痛くなるほどの完全な静寂が訪れた。


「…………っ」


 あまりの落差に、馨は思わず手で両耳を塞ぎ、その場に崩れ落ちそうになった。

 先ほどまで執拗に肌を焼き、まともな呼吸さえ困難にさせていたあの粘着質な殺意が、嘘のように完全に消え失せている。


 鼻孔から肺の奥底へと流れ込む空気には、もはや古いカビの臭いも、死を予感させる腐敗の臭いも含まれていなかった。

 淀んでいた空気は、まるで激しい夕立がすべてを洗い流した後の森のように清々しく、透明なものへと入れ替わっていた。


「……本当に、払ったのか。あんなに、巨大だった悪意を。一瞬で……」


 馨は、信じがたい神業(かみわざ)を目撃したという表情で呆然と呟き、ゆっくりと周囲を見渡した。


 絶え間なく続いていた建物の軋みも、神経を逆撫でするような鉄錆の臭いも、あの一切を拒絶し、馨という存在を絶望の淵に追いやった黒い塊も、もはや何一つ残っていない。文字通り、跡形もなく消え去っている。


 馨がどれほど心を砕き、慈悲の言葉を尽くそうとしても、決して道を開こうとはしなかったあの分厚く硬い絶望の壁を、目の前の男は、たった一撃の、迷いのない拳で粉々に打ち砕いてみせたのだ。


 修二は突き出していた右手をゆっくりと下ろし、緊張から解放されたように少しだけ肩の力を抜いて息を吐いた。

 その瞬間に魔法が解けたかのように、空中に舞い上がっていた数百枚のヒイラギの葉が、その役目を終えたかのように重力に従い、パラパラと乾いた硬い音を立てて床に落ちた。その無機質な音だけが、いま起きた光景が白昼夢ではなかったことを証明していた。


「……ああ。あんたの声が、迷いなくそこだと導いてくれたからな。外さずに済んだ」


 修二は、背後で立ち尽くしていた馨の方を、ゆっくりと振り返った。馨と視線を合わせようとするが、やはりそのピントはわずかに、数センチほど横へとズレている。

 彼は自分の視力の不確かさを思い出したのか、少しだけ決まり悪そうに短く刈り込んだ頭を掻くと、照れ隠しのように唇の端をわずかに上げた。


「あんたが核の位置を、あのタイミングで正確に教えてくれたおかげだ。俺一人じゃ、ただ闇雲に力を振り回して、空振りした挙句にこのボロ屋を基礎からブッ壊して、自分も下敷きになってたかもしれねえよ」


 修二はそこで一度言葉を切り、床に転がっていたヒイラギの葉を無造作に踏み越えて、馨の方へと一歩近づいた。


「助かったぜ、馨さん。

 ……そういや、名乗ってなかったな。俺は修二だ。名字は――まあ、今はいい。好きに呼んでくれ」


 不器用に差し出された名乗りに、馨は一瞬だけ虚を突かれた。

 その笑顔には、先ほどまで怪異を圧倒していたあの冷徹で荒々しい気配は微塵も残っていなかった。そこにあるのは、どこにでもいる、少し口の悪い年相応の青年の、不器用で素朴な温度だけだった。


 馨は、その払う力の鮮烈さと、直後に見せた修二という青年の人間味溢れる表情のギャップに眩暈(めまい)すら覚えながらも、自分の中に芽生えた、言葉にできないほどに強烈な確信に胸を震わせていた。


 自分には、誰にも見えない真実を見通すことができる。

 そして修二には、その真実を(はば)む闇を撃ち抜く力がある。

 これまでたった独りで迷える魂の道を探し続けてきた馨にとって、それは初めて手にした、暗闇を照らすための最強の対となる、相棒という名の光の予感だった。


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