4:修二の一言と能力の提示
荒れ狂う黒い渦を前に、馨が自身の無力さを噛み締め、絶望に近い呟きを漏らした、その時だった。
「……払えばいいのか、それ」
背後から響いたのは、低く、どこか投げやりで、それでいて場違いなほどに落ち着いた声だった。
馨が驚きに目を見開き、弾かれたように振り返ると、そこには先ほどから霊の猛攻を紙一重で回避し続けていた男――修二が悠然と立っていた。
彼は相変わらず、目の前で蠢くどす黒い怪異の姿を、その肉眼では一切視界に捉えていないはずだった。しかし、わずかに傾けられた顔は、まるで顎で黒い塊の心臓部を指し示すかのような、正確極まりない動きを見せる。
その無意識の仕草は、彼がそれの正確な位置を、視覚以外の――魂の深層に響く何かで、完璧に捕捉していることを物語っていた。
「……君に、それができるのか? これはもう、対話でどうにかなる代物じゃないんだ。ただの呪いの塊、純粋な悪意の集積体だ。
君に、これを根こそぎ払う術があるというのか?」
馨の切迫した問いに対し、修二は面倒そうに肩をすくめてみせた。
その表情には、死を目前にした恐怖も、世界を救うといった英雄的な気負いも、微塵も存在しない。ただ、日常のありふれた雑務――例えば、道を塞いでいる無骨な瓦礫を横に退けようとする時のような、極めて淡々とした、平熱の温度感があるだけだった。
そのあまりに自然な佇まいが、逆に馨には非現実的なほどの強固な自信として映る。
「姿は見えねえよ。だがな、声は聞こえるんだ。
……ああ、耳障り極まりねえな。この世の終わりみたいな喚き声が、脳みそに直接響いてやがる。反吐が出るぜ」
修二はそう言うと、わずかに目を細め、不快そうに左耳の裏を無造作に掻いた。
馨は、抗いようのない磁力に吸い寄せられるように、初めて修二を正面から凝視した。
確かに、彼には見えないのだ。
馨の目に映っている、あの墨をぶちまけたようなおぞましい闇の輪郭も、憎悪に歪み、絶叫を上げる無数の顔も、修二という器には一切届いていない。
だが、この廃屋の隅々にまで、血管の脈動のように満ち溢れる悪意の音を、あるいはその存在自体が放つ固有の不吉な、そして暴力的な振動を、彼は魂の鼓膜で、鋭敏すぎるほどに聞き取っている。
それは馨が持つ視る能力とは決定的に異なる、闇の中での冷徹な索敵能力だった。
「位置さえはっきりわかりゃ、やれると思う。
……ただ、俺の聞き方じゃあ、どうしても最後の一押しで焦点がボケるんだ。霧の中に突っ立ってるみたいでよ、正確な芯がどこにあるのか、あと一歩で見えねえんだよ。掠らせることはできても、仕留めきれねえ」
修二は右手を無造作に、だが獲物の息の根を止める瞬間の鷹のように、しなやかに、かつ力強く持ち上げた。そして、親指と中指で軽く指を鳴らす。
その指先が空を鋭く切り裂く際、わずかに大気を爆ぜさせるような、鋭く硬質な風の音が馨の耳にも届いた。それは、この男が肉体の奥深くに秘めた暴力的とも言えるほどに純粋な断ち切る力が、溢れ出そうとしている片鱗だった。
その瞬間、馨の脳裏に電撃のような閃きが走った。
自分には、霊の姿がはっきりと見える。その異形の背景にある強固な未練も、攻撃へと転じる際の予兆となる影の揺らぎも、力の分布がどの瞬間にどこへ偏っているのかも、すべてが鮮明な視覚情報として認識できる。
対して修二には、それらを一撃で叩き伏せる、凄まじい破壊と払いの力が備わっている。しかし、その強大な力を解き放つべき標的をミリ単位で絞り込むための目が、彼には決定的に足りていなかった。
二人の能力は、まるで何十年も前から、この運命的な出会いによって合一することが決まっていたかのように、欠けたパズルのピースとして、あまりにも完璧に噛み合っている。
「……わかった。君が、その力を振るうというのなら。僕が君の目になる」
馨の瞳が、いっそう深く、極北の湖の底のように澄み渡った。
彼はこれまでに培ってきた、霊的な感覚を含む全感覚を動員し、眼前の黒い渦の蠢きを冷徹に、かつ精密に分析し始めた。
蠢く影の波形を読み取り、巨大な害意が物理的な質量を伴って一点に凝縮される、その致命的な一瞬の隙を見定めていく。その瞬間、二人の間にある種の回路が繋がったのを、馨は確かに感じた。
「……来るよ。三秒後に、左から回り込んで――今! 右後ろ。そこにある影の根元に、すべての力が偏ってる。そこが、その怪異の唯一の核だ!」
馨の声は、廃屋を激しく揺らす霊の絶叫や、床の耳障りな軋みの中でも、驚くほど明瞭に、そして迷いなく修二の鼓膜へと突き刺さった。
それは迷える魂を慈しむための優しさではなく、混沌とした戦場において、勝利のみを確信させる指揮官のような、鋭く研ぎ澄まされた導きの声だった。
「――そこか! 捉えたぜ、あんたの導き……!」
馨の合図が終わるか終わらないかのうちに、修二の身体が爆発的な瞬発力で地を蹴った。
獣のようなしなやかさと、研ぎ澄まされた冷たい刃のような鋭さを併せ持ったその跳躍。
修二は迷いの一切を捨て、馨が指し示した一点――怪異の心臓部へと、その強大な断ち切る意思を拳に宿して突き進んだ。




