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ヒイラギの散る廃屋で  作者: 都桜ゆう


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3/5

3:馨の浄霊の試みと“通じない”判断

 馨は、自らの内に激しく流れる本能的な恐怖を、冷徹な理性を以て静かに抑え込んだ。そして、修二とそれが対峙する、死の境界線へと割り込むようにゆっくりと歩を進めた。


 足元から這い上がってくる冷気は、単なる物理的な気温の低下では断じてない。それは生あるものの温もりを憎み、生者の体温を奪い尽くすためだけに存在しているような、鋭く凍てついた純粋な殺意に満ちていた。


 一歩、また一歩と床板を踏みしめるたび、足の裏から吸い込まれるような感覚に襲われ、まるで底なしの泥沼の上を危うい足取りで歩いているような、薄ら寒い錯覚に陥る。

 馨は、深く、そして長く息を吐いた。肺の隅々にまで溜まった淀みをすべて吐き出し、鏡のように滑らかな意識を研ぎ澄ませていく。


 彼の役目は、迷える魂が遺した透明な言葉を拾い上げ、その奥底に(おり)のように沈殿した重い後悔を解き放つことだ。


 どれほど深い闇を抱え、人間とはかけ離れたおぞましい姿に変貌してしまっていても、その存在の核には、かつて人間であった確かな証である心が、消え残った残り火のように、あるいは微かな火種のように残っているはずだと彼は信じていた。


 たとえそれがどれほど小さく、今にも絶望の風に吹き消されそうなものであったとしても、彼はそれを見捨てることができなかった。


「……僕の声が聞こえますか? 君が抱えているその苦しみを、話してはくれませんか?」


 馨の声は、荒れ狂う廃屋の喧騒(けんそう)の中でも、不思議なほど真っ直ぐに、透き通った鈴の音のように響いた。

 彼は、中心で猛り狂う黒い渦の深淵(しんえん)、その暗闇の最深部に向かって、慈しみを込めて静かに問いかけた。


 もし、この幾重(いくえ)にも重なった悪意の層のさらに奥底に、わずかでも悲しみや寂しさ、あるいは誰かを狂おしいほどに求めていた愛といった、かつての人間らしい感情の断片が残っているのなら、馨はそれを見つけ出すことができる。


 その小さな糸口さえ掴み取ることができれば、彼はその思いを丁寧に、壊れないように汲み取り、暗闇の先にある光り輝く一本の救いの道へと繋ぐことができるのだ。


 だが、期待した答えは返ってこなかった。

 返ってきたのは、馨の慈悲を冷笑し、踏みにじるような、絶対的な対話の拒絶だった。


「――ッ!!」


 鼓膜を直接突き破り、脳漿(のうしょう)を揺さぶるような狂気混じりの絶叫が、頭の中に爆発的な衝撃を伴って響き渡る。


 それは言葉としての形も、意味も成さない。

 ただの暴力的な振動、破壊を目的とした波動だ。

 渦巻く黒い影は、馨の差し出した救いの手を嘲笑うかのように、一層どす黒く激しく膨れ上がり、部屋中の壁を、天井を、激しく叩きつけた。


 剥がれ落ちた古い壁紙が風に舞う雪のように空を舞い、窓ガラスがその狂った波長に共鳴して、耳障りな悲鳴を上げながら震えている。

 馨の意識の奥底に流れ込んできたのは、涙を誘うような悲劇の記憶でも、同情を引くための孤独な独白でもなかった。


 伝わってくるのは、自分を愛してくれなかった残酷な世界への呪詛(じゅそ)、自分を無視して通り過ぎていった幸福な人々への憎悪、そして今、目の前に生きている無垢な生者への、底なしの嫉妬と害意だけ。


 そこには、誰かを想って幸せを願う心も、誰かと分かち合ったはずの温かな日々の記憶も、守りたかった大切な誇りも、もはや何一つとして存在しなかった。

 かつては確かに人間だったのかもしれない。だが、あまりにも長い時間、自らが作り出した負の感情の檻に閉じ込められ、浸かりすぎた結果、心は修復不可能なまでに摩耗しきっていた。


 今やそれは、ただ他者を不幸のどん底に陥れることだけを唯一の目的とする、自動的な呪いの機構へと成り果てている。


「……駄目だ。話を聞く気なんて、最初から一欠片も持ち合わせていない。それどころか、心そのものが……もう、木っ端微塵に砕けてしまっている」


 馨は苦渋に満ちた表情を浮かべ、圧倒されるように数歩退いた。額には大粒の冷や汗が滲み、組んだ指先が微かに震える。

 彼ができるのは、あくまで道を探そうとする意志を持つ者の手を引き、正しい出口へと導くことだけだ。しかし、この霊は出口など最初から求めていない。


 自ら泥沼(どろぬま)の底に沈み続け、周囲にいるあらゆる生者を、その同じ暗闇へと、冷たい死へと道連れにすること。それだけを唯一の快楽とし、存在の証明にしているような化け物だ。

 そんな相手を前にして、対話を主とする馨の浄霊は、あまりに無力だった。それを調伏するための術を、彼は何一つ持ち合わせていないのだ。


浄霊(じょうれい)じゃ、どうにもならないタイプだ……。救いたいというこちらの願いさえ、これにとっては甘美な餌にしかならない」


 馨は、荒れ狂う影を、射抜くような悲しみと落胆を湛えた瞳で見据えたまま、ぽつりと呟いた。

 この存在は、宥めることも、癒すことも、語り合うこともできない。魂を鎮める静かな祈りなど、この純粋な悪意の濁流(だくりゅう)の前では、あまりにも無力で虚しい抵抗に等しい。


 それはもはや、力をもって強引に断ち切り、この穏やかな世界から完全に排除し、消滅させなければならない、異質な毒そのものだった。


「……払える人が、いればいいんだけど。この呪縛の鎖を、完膚なきまでに断ち切れる、強い力が……」


 その言葉は、自身の能力の限界と無力さを噛み締める、絶望に近い独り言だった。

 馨は、目の前で膨張を続ける害意を消し去る術を持たない自分に、もどかしさと、どうしようもない悔しさを感じる。


 しかしその時、彼の背後で、ずっと影の動きを音だけで冷静に追い続けていた男の眉が、ピクリと動いた。

 修二の鋭敏な耳には、馨の絶望に満ちた微かな呟きと、怪異が発する醜悪な咆哮が、同時に届いていた。


 修二は馨の細い背中越しに、その浄霊師が今まさに直面している分厚い壁を、そして彼が求めている答えを、正確に察知していた。


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