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ヒイラギの散る廃屋で  作者: 都桜ゆう


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1:依頼と廃屋の前の違和感

 その住宅街は、緩やかな死を待つ老人のように、ひっそりと静まり返っていた。

 かつては新興住宅地として家族連れの笑い声が絶えなかったのだろう。しかし今では、(あるじ)を失った庭木が歩道にまで枝を伸ばし、主の加齢とともに色褪せた外壁が、午後の西日に照らされて力なく影を落としている。


 町外れにあるこの古い区画は、都市の再開発からも取り残され、緩やかに、だが確実に地図から消え去る日を待っているかのようだった。

 ひび割れたアスファルトが続く街路の突き当たり。まるで街の行き止まりを象徴するように、その廃屋(はいおく)は佇んでいた。


 周囲の家々が辛うじて保っている生活の気配さえも、この一角だけは完全に途絶えている。

 空気を遮断するように高く伸びた雑草と、腐食(ふしょく)した門扉(もんぴ)。その家は、まるで街の境界線そのものが朽ち果てて()き出しになったかのような、異質な沈黙を(まと)っていた。


 その重苦しい沈黙を、一歩の足音が微かに揺らす。

 (かおる)は、数日前に依頼主から聞いた話を反芻(はんすう)しながら、その家の前で足を止めた。


「……廃屋に引きずり込まれそうになった、か」


 門扉の隙間から覗く暗い庭を眺めながら、馨はその言葉の裏にある恐怖を想起した。

 それは単なる建物の老朽化への不安などではなかった。この数ヶ月、近所の住民の間で、まるで呪いのように静かに広まっていった奇妙な噂――。


 庭の雑草が生い茂り、蔦が建物を絞め殺すように絡まりついたその空き家の前を通ると、背後から冷たい風が吹き抜け、見えない何かに服の(すそ)を強く掴まれるのだという。

 抵抗しようとすればするほど、その力は意志を持ったように強まり、獲物を巣穴へ引きずり込もうとする蜘蛛(くも)のように、強引に門の中へと身体を引き寄せられる。


 馨の脳裏に、憔悴(しょうすい)しきった表情で助けを求めてきた依頼主の震える声が蘇る。

 幸い、これまでに大怪我を負った者や、完全に行方不明になった者はいない。だが、辛うじて逃げ出した人々は一様に、血の気の引いた顔でこう訴えた。


「あの家には、底知れない、どす黒い悪意がある」


 それは単なる恐怖ではなく、生命そのものを否定されるような、生理的な嫌悪感けんおかんを伴うものだったという。


 だが、その時はまだ、馨はその言葉の真意を完全には理解していなかった。

 悪意という言葉は、恐怖に()られた生者が、理解不能な現象に対して抱く主観的な解釈であることが多いからだ。


 馨の仕事は、この世に未練を残し、彷徨(さまよ)うことしかできなくなった魂の言葉を拾い上げることだ。


 彼らの後悔(こうかい)を聞き、(から)まった心の糸を解きほぐすことで、自らの足で次の世へと進めるよう道を繋ぐ。それが馨という存在の在り方だった。

 今回も、依頼を受けた当初は、孤独な死を遂げた住人が寂しさのあまり、生者(せいじゃ)の温もりを求めて手を伸ばしているだけだろう、そう考えていた。


 しかし、いざ現地の門の前に立った瞬間、馨の端正(たんせい)な眉がわずかに寄った。

 鼻を突くのは、古い家屋特有の埃っぽさだけではない。どこか内臓を焼いたような、生臭い、不吉な沈黙がそこにはあった。


 視線を落とせば、コンクリートの隙間から這い出した逞しい雑草に混じって、硬く鋭い葉がいくつも地面に散っている。

ヒイラギの葉だ。


 本来、ヒイラギは冬でも青々とした葉を絶やさない常緑樹(じょうりょくじゅ)である。ましてや、今はまだ芽吹きの季節。自然に落葉するなど考えにくい。

 それだというのに、足元に転がっているのは、まるで激しい暴風に晒されたかのように千切れ、あるいは何者かに無理やり毟り取られたような、痛々しい姿の葉だった。


「……保護の葉が、これほど無惨に」


 ヒイラギの花言葉は「保護」「防御」。

 古来より、その鋭い(とげ)が邪気を払うと信じられ、魔除けとして庭の鬼門(きもん)に植えられてきた木だ。


 その守護を司るはずの葉が、自ら枝を捨ててまで何かを拒もうとしたのか。あるいは、家の内側で(ふく)れ上がる何かを押し留めようとして、限界を迎え、力尽きてしまったのか。

どちらにせよ、この惨状(さんじょう)は尋常ではない。


 足元で砕ける葉の感触は、この先に待ち受ける事態が、単なる寂しい霊の悪戯などという生易しいものではないことを、馨の肌に突きつけていた。

 馨は居住まいを正し、一つ深く息を吐いた。


 家の内側に潜む正体を見極めるべく、彼は静かに目を閉じ、家の奥へと意識の触手を伸ばした。

 いつもなら、浄霊(じょうれい)の対象となる場所には、微かであっても人間の気配が残っているものだ。


 愛用していた茶碗への執着、窓辺から眺めた四季への愛着、あるいは最後に独りきりで死んでいったことへの深い悲しみ。

 そうした、かつての住人が紡いできた温かな生活の断片や、去りがたい後悔の声が、記憶の残滓(ざんし)として空気に溶け込んでいるはずだった。


 だが、この廃屋から伝わってくるのは、そうした情緒的な重みではなかった。

 そこにあるのは、ひどく純粋で、ひどく(にご)った、ただの害意だけだ。

 獲物を捕らえることだけを目的とした、理性の欠片(かけら)もない渇望。そこには対話の余地も、振り返るべき愛おしい過去もない。


 ただ、通りかかる生者を無差別に道連れにし、底の見えない泥沼(どろぬま)のような暗闇へと引きずり込もうとする、剥き出しの飢えが渦巻いていた。


「これは……浄霊の対象じゃないな」


 馨は、自分に言い聞かせるように独り言ちた。


 自分ができるのは、あくまで本人の意志で後悔を捨て、次の一歩を踏み出す手助けをすることだけだ。

 しかし、目の前の怪異には意志など存在しない。あるのはただ、生者を呪い、壊そうとする破壊衝動のみ。対話すら成立しない呪いの塊を前にしては、彼の持つ導きの力は、あまりにも無力に等しかった。

 関わるべきではない。


 冷徹な判断を下し、(きびす)を返そうとした馨の耳に、廃屋の奥から微かな音が届いた。

 古びた木材が軋む床の音。そして、その奥から聞こえてくる、低く落ち着いた男の声。

 怯えている様子はない。むしろ、その声には、このおぞましい場所には不釣り合いなほどの平熱の響きがあった。


 誰か、先客がいる。

 しかも、この害意の渦中にあって、なお毅然と立ち向かっている何者かが。

 馨はわずかに躊躇(ちゅうちょ)したが、放置して去ることはできなかった。もし、何も知らない一般人が入り込んでいるのであれば、手遅れになる前に連れ出さなければならない。


 馨は意を決し、錆びついた鉄の門扉を両手で押し開けた。

 キィ、という耳障りな金属音が静寂を切り裂く。

 一歩、庭へと足を踏み入れた。


 足元に重なっていたヒイラギの葉が、警告を鳴らすように靴の下でパキリと乾いた音を立てて砕けた。それはまるで、これから始まる日常の終わりを告げる合図のようにも聞こえた。


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