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お見舞い

11月20日。渋谷駅からメトロで数駅、乗り換え一回。都心によくある小さな地下鉄駅を出て、女性がひとり、賑やかな坂道を下っていく。


「え〜と……」


 彼女は地図アプリを頼りに、この坂の街を一路、マンションへ向かう。外国人観光客と、商品輸送の業者と、高校帰りと見えるカップルと、あらゆる人々を横目に、彼女は閑静な住宅地へ入っていく。


 15回目のお見舞い。親友が生きていることを確認するために、不定期ながらもここに立ち寄るのだ。


 エントランスに響くインターホンの音。空白の中でしばらく続く不安な気持ちは、まだ本調子ではなさそうなマイク越しの声で取り払われた。


「高槻です、また来ました」


『あぁ、ミコトちゃん。あがってきて』


 高槻ミコトは、QED社という宇宙開発企業の日本支部で働いている。もとは技術職だったが、最近はその人懐っこさを買われてか、広報部に移った。


 見舞い先の人物、彼女の大学時代からの親友––仲道こおりは、エルマー症候群の発症者である。発症したのは、彼女たちが知り合ってから数年後。彼女もまたQEDの社員であり、かつては天体観測に関する部門にいたと聞く。


 玄関の扉をゆっくりと開いた向こうに、少しやつれた笑顔が見える。目尻に皺をよせて、実にあたたかい笑みを浮かべている。


「いらっしゃい、ありがとうね」


「お邪魔します!今日も持ってきましたよ、これ」


 バッグから取り出したビニール袋には、鮮やかに赤く綺麗な形のリンゴが入っている。こおりの大好物だ。


「わぁ、今年もおいしそう」


「今年は特に甘くておいしくなってるみたいですよ」


 廊下をゆく、ふたつのスリッパの音。きれいに整頓された部屋の中は、それ自体が、仮に彼女の症状が再発したとき、命を守り切るための些細な違和感に満ちている。ミコトには、それを敢えて思考に立ち昇らせる動機など、とうになくなっていた。


 きょうは双方、嬉しい話で頭がいっぱいだ。


「このまえのラジオ、聞いた?」


「BEDSIDE STORIESですよね……!読まれましたよね!」


 キッチンでリンゴを切り分けながら、ミコトは興奮気味に返答する。この地域ではそこそこ有名な深夜ラジオで、こおりが闘病中に書いた『跡を辿る』という短編小説が朗読されたのだ。エルマー症候群の発症直後、奇跡的にほとんど致命的な自傷に至らなかった。沈静化したあと、むしろ頭の中に一種の鋭敏なものを得た彼女は、ある夜のうちに突如思い当たり、これを書き上げたのだ。それまで、文学などほとんど触れてこなかったというのに。


 当時すでに病気のため休職状態にあったが、メールでのやり取りでミコトのもとへ届いたテキストデータが、合意のもとで部署内に伝播し評判を呼ぶと、あれやこれやと事は進んで、ささやかながら書店の店頭に並ぶこととなった。大ヒットとまでは行かないが、少なくとも、置いてくれた書店からは完売の連絡を受け取ることができた。


「いやーもう私も感無量ですよ。やっぱり私の目は間違ってませんでしたね」


 ふふん、と誇らしげに笑うミコト。著者が当時、公開に踏み切ってくれたことは本当に大きな一歩だった。


「どうしてあんなお話が書けたのか、今でもわからないの。でもね、多分一過性のものじゃないって、最近思えてきたの。ほら、これ」


 彼女がパソコンに映し出したのは、新しい原稿。タイトルは未定だが、その始まりから、ミコトの脳裏には再び、火花のような感覚が走るのだった。


「病気になってからは大変だし、いついなくなるかもわからなくて怖いけれど……でも、こんな私の時間に、特別な意義を生み出すことができたのは事実だと思うの。多分、まだやるべきことがあるから生かされていて、それが、これなんだと思うわ」


 ミコトは、言葉を喉元に詰まらせる。こおりの口からは、発症以来、時折こういった、諦観のようなものを帯びた淡い希望を聞くことがある。それ自体を冷静に捉えれば、彼女はまだ前を向いて、自分のしたいことをしようとしているだけなのに、どこか、その陰に生まれるものに目が向いてしまう。そうしたときの、胸のちくりとした痛みを、まだどうすることもできないでいた。


「ミコトちゃんも、いいニュースがあるんでしょ?」


「――ええ、実は、すっごく楽しみなことがあって」


 本来なら社外秘、しかも最高級の機密事項として扱われるが、上長との協議により、いくつか取り出せる情報は限定してきた。


「私、今週末、南太平洋で潜水艦に乗るんですよ」


「潜水艦?」


 意外だと思ったのか、こおりはぽろりと笑みがこぼれ落ちるように驚く。


「海洋調査部に異動?」


「ううん、そういうことではなくて、あくまで広報部の指示です」


「そんなこともあるんだぁ、珍しいね……潜水艦かぁ、日本だと乗れるところもないし、楽しみだね」


「そう、しかも……所謂”最新鋭機”の乗組員に選ばれたんですよ!」


「えぇ……!いいなぁ~多分これ、いまとっても気を遣って喋ってるでしょ」


「そうなんですよ~!機密だらけだからこういう、なんかふわっとしたことしかお話できなくて……」


 リビングに笑い声が広がる。


「そうよね、わかるわかる。あんまり聞き出すと事故っちゃうから詮索はしないでおくね」


「ありがたいです」


 リンゴは、あとふた欠片。


 ミコトの元へ、一つの重要な通達が届いたのは、今年の夏頃だった。この会社で通知される事項など、そもそも理解を超えたものが多いとはいえ、今回の題目は群を抜いていた。


『外世界からの接触に伴う調査協力依頼について』


 彼らは、人間として何も違和感のない、ただ「外から来た」というだけの、普通の存在であるように見えた。しかし、彼らの口から語られる物事は、正直に言って、ミコトをはじめ多くの社員にとっては、全くもって既存の学術的世界観を大きく塗り替えてしまうものだった。


 彼らは自らを、「観測台」と称した。外なる利他的な介入者、世界を観測し、解析し、保護するもの。彼らが介入したということは、この世界には或る「滅び」が近づいているか、もしくはそれが既に為されているということを意味する。


 会議室の反応は多種多様だった。


 周りと目を合わせようとする。疑念を呈するように眉を顰める。えずくのを隠そうと、口元を咄嗟に手で覆う。


 ミコトは、ただ口を小さく開けたまま、来訪者の顔を見つめていた。


 興味があった。それだけ。彼らのことを、彼らが見る世界の姿を、知りたいと思った。


 もしかすると、そんな彼女の姿勢が、彼らには筒抜けだったのかもしれない。実にブラックボックスな判定基準により、QED社を代表し、彼らの調査任務に同行することが指示された。


 不安がないわけではないが、それ以上に、彼らの技術と知識に興味があった。幼い頃からそうだったように、再び、彼女は自身の好奇心に連れられて、新しい世界の形を知ることになる。


「わからないことは、ちょっと怖いですけど、でもやっぱり、楽しいです。ワクワクします」


 そう呟く彼女に、こおりは穏やかな笑みで答える。


「ミコトちゃんはいつでもそうだね。大事だよ、そういう気持ち」


 リンゴを食べ終わって、こおりは窓の外、冬がまさに到来する空を見た。二人の間に確かな静寂が訪れたのは、この時ばかりだった。


「きっと、それが大きなもののためになる。そういう時が、やっと始まるのかもしれないね」

QED日本支社広報部所属、高槻ミコトは、その「適性」により観測台の関心を引き、22日、潜水調査への同行を命じられた。

ここに、ウェイカー・スクアッドの構成を凍結する。

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