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消えたダイバーの手記 #2

 いつ見返しても、こんな小さなオフィスで今日まで経営を続けてきたことに、得も言われぬ誇りを感じる。ロベルトは斜陽差し込む部屋で、珈琲を口にしていた。彼はインターネットメディアサイトの運営者である。少なくとも、彼はそう主張している。


 昨今、検索エンジンやSNSの発達、ついにはAIの台頭によって、人々が情報を得たいと思う欲求は無制限に増幅され、一方、その欲求は以前よりずっとインスタントに満たせるものになっていた。個人ブログが役に立つこともあるが、そこまで深堀して事実を見つけようとする人間など、まれなものだ。


 誰もが情報を売る、または無料公開する中で、広告は嫌がられ、無価値化している。こうして感慨に浸っている間にも、彼の頭には「廃業」の文字が浮かぶ。現ビジネスモデルの概観に乗っかって始まった彼の仕事は、もうまもなく、まだ見ぬ次の時代へ向かう前に、その変革に飲まれて消えるだろう。


 きっと、今回の取材が最後だ。


 そんなことを毎回のように考えている。実際に、もう関わりのなくなった同業者、情報協力者、取引先、そういった人々がたくさん思い当たる。この分野で一山当てて、老後はゆっくり家族と過ごすんだ、と意気込んでいた大学時代の友人ですら、もう半年も連絡がつかない。


 もっとも、最近の状況を鑑みれば、廃業よりももっと悪い事態に陥っている可能性も、十分にあるのだが。


 メールアプリの通知音。出先にいる部下からの連絡だ。彼はメールの内容を読むや否や、すぐにオフィスを出ていった。おそらく彼に残された最後のジャーナリズムが燃える対象について、取材の許可が下りたのだ。


 オーストラリアの西海岸、それほど大きくはない港湾都市に、その大学は存在する。


 オセアニアや太平洋地域の海洋生物に関する研究を行っていたらしい、ひとつの研究室。入室して最初に抱いた感想を、思わず口にしてしまう。


「はは、こりゃすごい。いかにも”研究者”って感じだ」


 ロベルトの言葉に、先導していた学生がふっと噴き出して笑う。


「そうでしょう?私もほんとに、初めてここに来たとき同じことを言いましたよ。当時の先輩に咎められましたが」


「いやはや失礼、あまりにも、その……」


 目が泳ぐ。黒板には何度も、何度も搔き消したような跡と、最新の汚い走り書き。本棚はあるが、そこにある資料のナンバリングは整理されているが、到底そのサイズに収められる分量ではないだろう。うずたかく積まれた書籍が日陰にたたずみ、もう帰らない教授の帰りを待っている。


「それで……ええと、一応確認しましょう」


 ロベルトは、鞄から取り出したホチキス留めの資料をペラペラとめくる。学生の目に、その表題――「消えたダイバーの手記」が目にあたる。


「そう、これだ。この写真。彼が辛うじて残してくれた、唯一の個人情報と思いますが、どうですか」


「はい、間違いありません。タウ・ホワイト教授です」


 この部屋に用件があって来訪する学生は、近年そう多くなかったという。ごく一般的な大学教授。取り立てて講義が上手いとも、堅苦しい人間だとも、そういった話は聞こえてこない。淡々と、苦心してフィールドワークを行い、学生を数人連れてメラネシアの島へ行ったり、ある年には慰安も兼ねてハワイまで行ったと。そんな、穏やかで優しい人物の評価が、彼のすべてだった。


 何か大きな変化があったと考えられるのは数年前。最後まで彼の活動を見ていた唯一の学生である彼女は、その”晩年"の研究に心酔し、職に就くことも諦めてここに残る決心をしたのだという。


「教授について、教えていただけますか」


 学生は数秒、目を横にそらしてから、ため息をつくように話し始めた。


「教授は、その最後の時間に……未確認潜水物体を追っていました。南西大西洋、あの有名な都市伝説の、いわゆる卵とか、そう呼ばれるものに紐づけて、あの大鯨を追っていました」


「……ポイント・ネモの鯨ですね」


 彼女は頷く。壁に貼られた大きな海図と、その上にちらほらと刺されたピン、メモ書き。そうした捜索の足跡が、研究者タウ・ホワイトの熱意を物語る。


「かつては海底の小さな生き物や、彼らが海底地形を使ってどのような生存圏を形成しているかを研究していたのですが、ある島で見たものが、彼を変えてしまったんだと思います」


「ある島……ウィンケンス島?」


「はい、2018年に訪れました。私も同行していて、実際にこの目で、見たんです。一緒に」


 その時のロベルトは、彼女の目つきに顕著な変化を見て取った。会話内容を走り書くメモの端に小さく、「恍惚か、または憧憬か」と書き残す。


「島の民話に語られる崖から、朝日を見たんです。とても穏やかでした」


 聴取の研究室には、遠く喧騒が聞こえてくる。街を行く車や鉄道の音、何か鳥の声に似た音に、学内を行き交う学生の話し声。その全てがここではノイズに過ぎず、まるで彼らは万物から隔離されているような心地だった。


「島の英雄アリイは、ここで太陽を呼び起こす役を担い、大鯨に導かれるまま世界の卵へ向かい、やがて深遠の知恵を得て王になった……いまでも覚えています。倒木に座って微笑む彼の顔。そうしてしばらくしていたら、急に立ち上がって……私たちは、水平線にそれを見ました」


「鯨を?」


「はい」


 彼女は手帳から、一枚の写真を取り出す。差し出されたものはお世辞にも巧いとは言えないが、そのぼやけた風景の真ん中に、大きな何か、鯨の尾のようなものが写っている。


「見とれていました。それで撮影が遅れてしまったので、これは去り際ですが。私たちはその存在に気づいてから、いなくなるまで、じっとそこに立って見つめていたんです。彼が変わったのは、その時から」


「どのような変化が?」


「すぐに、その後のフィールドワーク計画を見直したんです。直近のものが軒並みキャンセルされて、向こう半年くらいの予定が立つまではすぐでした。何をそんなに急ぐのかと不満を漏らす人もいましたが、教授は意に介しませんでした。その、誤解を招くかもしれませんが、彼はもっと、優しい人だったはずなんです」


 鯨に魅入られた研究者のもとからは、その後彼についていけなくなった学生がひとり、またひとりと消えていき、やがて彼女一人になってしまったという。


「それで、QED社のプロジェクトにも」


「はい。探索にあたって教授の知識は本当によく貢献しました。もしかすると、このままメルボルンで社員登用か、お抱えの研究員に、なんてお話もあったのですが、教授は固くお断りしました」


「なぜでしょう……」


「多分、こうなることがわかっていたんです。彼は鯨に魅入られて、海に魅入られて、いつかこうして、いなくなってしまうのだと」


 彼女の沈痛な面持ちに、ロベルトは思わず目を伏せ、黙り込んでしまった。


「ご存知ですか、未確認潜水物体……QED風に言うと、”モビィ・ディック"に出会った時にすべきこと」


 唐突に切り出された話題に、ふと顔が上がる。空気を読んでのことだったのか、彼女の表情は元の柔和な微笑みに戻っているようだった。


「あー、確か思いつく限りの言葉で、彼を褒め称える、でしたっけ?」


「そうです。なんだか変な風習というか、どうしてそうするのかを誰もわかっていない、不思議な習わしなのですが。教授は最後の一ヶ月くらい、よくぼんやりと空を見上げながら呟いていたんです」


「内容を覚えていますか」


「ええ。何度も聞きましたから」


 警告者たる 先導者たる 傍観者たる


 モビィ・ディック


 応答者たる 回遊者たる 観測者たる


 モビィ・ディック


 到達者たる 伝達者たる 啓蒙者たる


 モビィ・ディック


 継承者たる 送別者たる 完遂者たる


 モビィ・ディック


「……長いですね、他の事例はもっと簡素だったと思いますが」


「思いつく限りの、ですからね。本当はいくら言ってもいいんだと思います。教授は、あの鯨を本当に強く……ええ、信仰していたのだと、私は思います」


 ロベルトは未だ、不思議に思っていた。モビィ・ディック。その存在がなぜそこまでも、名前や肩書きを列挙されるようになったのか。それが鯨の求めによるものなのか、信仰する側が始めたことなのか。


 その後もインタビューは続くが、彼が徐々に孤立していく様子、破綻していく生活、様々な彼の崩落を確認していくのみとなった。


 そんな状況の悪化にもかかわらず、ホワイト教授の熱意は一定だった。彼女はそれを「プロ意識」と呼んで讃えたが、ロベルトには、形容し難く不気味な狂気のように見えていた。


 突然、部屋の中に流れ出す電子音。二人はすぐに、それがPCの通知音であると気がつく。慌ただしく彼女が向かった先は、研究室の片隅に置かれた旧式のコンピューター。


「メールですか」


「……はい、すみません、これはすぐやらないといけなくて」


 手早く何かをタイピングする彼女を遠巻きに見ていると、少しして、作業の手が止まった。思い出したように、彼女はロベルトに提案する。


「見ますか、これ」


「見ていいんですか?その、多分研究のことかと……」


「いえ、いえ、見てください。是非。彼が私に残した責務です」


 ロベルトはほとんど反射的に、彼女の隣へ駆け寄る。画面上には、紺色のプロンプトと、そこに黄色く書き記された文字列。どこかから送信されてきた情報を、この画面からどこかへ転送しているようだった。


「これは、以前ホワイト教授が媒介していた定期連絡です。これを……正直誰なのかは、わかりませんが、重要な人に送っていたらしいんです」


「送信元は?」


「……”USO-3360”」


 画面の上部に記載された、その文字列。密偵のコードネームか、昔ソビエト連邦にあったという秘密都市の番号だろうか。


「私は、この媒介だけを任されています。それ以上は、何も深掘りできていないんです」


「これは……興味深い」


「ロベルトさん。よろしければ、この情報も持っていってください。私では無理でしたが、もしかすると、あなたなら何か、大事なことにたどり着けるかも」


 彼女が送信ボタンを押下し、ウィンドウが自動的に閉じられる。それに続いて、よく整理された表計算ソフトの画面が出現した。見たところ、これまでに媒介した通信の日時と内容、その他いくつかの通信情報が記録されているようだった。


 末尾に追加された最後の通信を、黙読する。


『送信 42号:


 USO-9488の同胞へ。


 情報提供に感謝する。


 デバイスは我々の元にも出現した。


 これを最後の希望とし、


 9488:2025-11-22に送り出す。


 ヴォイド・レガシーに舵を切れ。


 親愛なるあなたの継承成功を願う』

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