繰り返しの記憶
ウロボロスという仮想上の生物について初めて情報を得たとき、マイカはその内的挙動に得体のしれない不気味さを感じた。周囲の人員が、その強制的なエントロピーの収奪――あるべき未来を奪い去り、単独の個体の生存へとすべてを召し上げる挙動そのものについて拒否的な意見を述べている中で、マイカはひとり、そこに対する感情の言語化ができないままでいた。
珍しく口数が少なくなった彼女を慮り、何人かの同僚が声をかけてくれたが、彼女は気丈に笑って見せただけだ。何が心に引っかかっているのかもわからないまま、ただ、「わからない、なんというか、もやもやしてさ」と、軽い口調で返答するばかりだった。
その考察は、彼女の研究室を兼ねた寝泊り部屋に戻り、一気に進められた。背後でドアが閉まるのを感じてから一呼吸おいて、個人端末の前へ直進する。回転椅子に飛び乗るように腰かけて、モニター上のフォルダを開いて回る。どこに入れていたか、最近は忙しい日々であまり開いていなかった、遠い思い出のデータ。
数か所の思い当たりを経て、ようやくそのファイルは現れる。
多くの何でもない画像の中に埋もれる、『いってきます』と名付けられた画像ファイル。
開いてみると、そこには笑みを浮かべたマイカと、彼女に肩を組んで誇らしげに笑う女性、そして、その背後でふざけた様子の男性が3人。彼女らは、マイカの故郷に残してきた家族である。
「あと何日かで来るらしいなァ」
窓の外に望遠鏡を向けた長男が、こちらにも聞こえるように声を張って知らせてくる。次男、三男と続いて、彼が上っている2階半の見張り台へ梯子を上る。末っ子のマイカは図面を描いていたため、作業場から声をかけるにとどめた。
「何がくるってー?」
「中期リセットだ!オレ初めてかも!」
「バカ、お前は1回目の時チビだったから覚えてないだけだよ」
浮ついた様子の三男と、げんなりした様子の長男が降りてくる。三男が放った「中期リセット」という言葉。この家で母親が教えてくれた物事のうち、特に重要な事象の一つであり、マイカにとっては、かつて悪夢にも見たほどのトラウマだった。
「えぇーーっ!?来るの!?ほんとに!?」
「大げさだなぁ、死ぬわけじゃないんだから心配しすぎんな」
軽薄な雰囲気で自室に戻っていく三男と対照的に、あとから歩いてきた長男は、マイカの恐怖心をよく理解している。彼は末っ子の頭をぽんぽんと撫でて、少し憂いを帯びた目で言った。
「……ここに生まれちまったからには、乗り越えるしかない」
「わかってるよ、わかってるけどさぁ……」
長男が声かけに困っているのは、マイカにもなんとなく伝わっていた。どうにかして、と言い出したいくらいの恐怖があるが、それを口に出してしまうことはできなかった。顔を上げると、次男がまだ、見張り台の上でぼんやりと外を見ているのが見えた。
もう大した意味もないとわかっていながら、マイカは描きかけの図面に目線を戻す。
マイカは観測台に接触して初めて知ったことだが、この世界は「エッタ・コア」と呼ばれている。世界内部の住民は自らが何という名前の世界に住んでいるかなど気にしないことが多いが、彼らはなんとなく、その名称に納得がいくものだ。
エッタ。それがあの広い空を収束させる、巨大な渦、穴、もしくは目……とにかくあらゆる言葉で形容される実体の名称だ。人間が名付けたのではない。はるか昔、まだ人間が知性を持たなかったころに突然現れ、人間に最初に与えた言葉なのだという。アルス風に言うならば、それは「神」と呼ぶにふさわしいかもしれない。
エッタ・コアの住民はみな、自らの心身が自らの所有物とはならない。
すべてはエッタの所有権の下にあり、それは何か契約や約束などといった生ぬるいものではなく、文字通りすべての存在が発生した時点から、「そうあれかし」と定義されたものだった。
エッタは自らが生存するために莫大なエネルギーを欲した。世界はエッタによって切り分けられ、最適化され、すべてがうまく働くように整理された一方で、知性体は、その収奪によって重すぎる対価を払うようになってしまった。
「中期リセットの瞬間は、およそ死ぬようなもんだ」
その日の夕食時、長男からの報告に、母は目を伏せてつぶやいた。いつも豪快に笑っている彼女が、この話のときばかりは声を低めて、どこか躊躇するような言い方をする。昔からそうなのだ。
「痛い?」
まだシチューに手をつけられていないマイカの口から、かろうじて絞り出した言葉。三男は気持ちが落ち着いたのか、ただとぼけた顔で母を見やる。次男と長男は何も言わず、あえて目線を上げることもしなかった。
「痛いってことはないさ。でも、アタシは……怖いね。アンタたちがちゃんと戻ってこられるか心配だよ」
「俺がなんとかするさ」
即座に、長男が力んだ声で呼応した。三男が何か囃し立てているようだが、そんなものは耳に入ってこない。兄たちと母は、その一声で少し気持ちが上向いて、徐々に日常へ戻っていけたようだった。
その後のことを、いま観測台で写真を眺めるマイカは、よく覚えていない。
エッタ・コアの住民は中期リセット前後で、「知識」と名付けられる情報を取り置くことはできる。しかし、重要なのはそこに付随する感想、記憶のうちでも特に感情や心情にかかわるような――彼女が「思い出」と呼んでいるようなものが、根こそぎ失われる。もちろん、物質的な損失も非常に大きい。長期リセットよりは災害性が低いが、これが十数年単位のうちに必ず起こる。それを機に離散してしまう家族もたくさんいると聞く。
何かあったとき、自分たちもそうだったのではないか?という問いをいつでも否定できるように、マイカ・ハルマルトの一家は頻繁に写真を撮った。そういう繋がりを十分に保っていられたおかげで、彼らは中期リセットの苦難を乗り越え、数年の間をおいて再び同じ場所に戻ってこられた。
そこから先のことは、また鮮明に思い出せるようになる。リセットとはそういう時空間なのかもしれない。
マイカが実際にリセットを通過した際、抱いた感想は淡泊だった。正直、拍子抜けだった。ただこれだけ?という気持ちが抜けないまま、家族とは然したる感動もなく再会し、ほんの些細なお祝いをして、また日常に戻る。
白紙になった図面を前にして、言葉にならない思いがあふれた夜が印象的だ。何がどう、いかなる理由や要素で、と分析できない、ただ漠然と、それが「嫌」だった。マイカはその気持ちに決着をつけられないまま、ここまで生きてきてしまった。
「ねぇ、バンカーデバイス。起きてる?」
彼女は机上のコンソールへ、友達や姉妹に話しかけるように、気だるい声を入力した。
『こちらバンカーデバイス。コンソールからの呼びかけを確認。用件をお話しください』
「ぼくさ、ちょっとなんか、気持ち悪い気持ち、なんだ……”気持ち悪い気持ち”?なんだそれ。まあいいや」
離散した思考や言葉を続けながら、ディスプレイの家族写真に目線が戻る。
「エッタ・コアの話、したことあったっけ。作業中だったかもしれないけど」
『マイカ・ハルマルト主任の出身世界。第5次起動試験にて、テスターE80パーティションが記憶した非優先データが保存されています』
「あはは~そうだよね。しゃべった記憶あるある……組んでる機械に話しかけるとか、なんかクセなんだよね。あっちにいたときから……そう……」
言いよどむ。バンカーデバイスは、彼女の沈黙を急かさない。
「エッタがいてくれたおかげで、ぼくも、お母さんも、兄ちゃんたちも……リック、オーヴォン、ミリ、それから……うん、みんなが生まれてきた。リセットはかかるけど、別に消えちゃったりしたわけでもない。それでも、なんだか嫌だった。あのリセットが」
『中期リセット。エッタ・コアにて”亜種流転的終末事象”として観測される定期的なエントロピーの収穫行動。上位存在エッタにより実施されるものと記憶』
「……生まれて、育って、そんで大きくなったら収穫される。そういう、概念的な部分で言ったら、エッタとウロボロスは似ている。違うのは――」
「後者は、自分が食べるばっかりだってこと」
デバイスは、何も返答しなかった。意図的に彼女にそうした、何か人間じみた挙動を組み込んだ覚えはもちろんない。そのうち人間と会話していく中で、徐々にそうした振る舞いを獲得していくかもしれないとは考えていたが、いま、こうして沈黙している彼女は、どういう処理の結果が表れているのだろうか。マイカは、ただそういった二つの出来事について、同時に思考していた。
「本当は、生き物ってみんなそうなんだよ。でも、どうしてぼくたちは、あの存在を殊更に、気味が悪いって思えるんだろうね」
『被捕食者が捕食者に対し、嫌悪や恐怖の感情を想起することは自然な反応です。主任を含めたあらゆる観測台職員や、USO世界住民は被捕食者側であり、その反応に違和感はないものと思考します』
「う~んそれはそうだよ。それは、うん。きっとそういうこと。生命は他者を食べて生きるくせに、自分が食べられるのはとても怖い。これだけ切り出して考えると身勝手な話だけど、自然。それを責めるつもりにはなれないな」
それでも、彼女が思い出したのは中期リセットの経験だった。あっけないほど無感覚で、何か苦しいわけでもなく。ほかの職員や研究者が、その強制的な終末に対して抱いた感想を、どこか距離のある位置から眺めてしまっていたのだ。
エッタの行いは”ひどかった”。それでもその存在と性質を受け入れてしまう心も、同時にあった。思い出が失われることを嫌がる気持ちがある一方で、エッタそのものに対して不満を抱いたことは、あの世界ではついぞ一度もなかったのだ。
リセットされたものはその後また発生する。ウロボロスに飲まれた情報はやがて、新しい世界で同じように再生される。最終的にこれらは食いつぶされ、また同じように、同じ位置に至る。長短の違いはあっても、個人の眼にそれはわからない。ただ自分の生があって、その時間だけを、何も知らずに生きるのだから。
ウロボロスに、どうしてもその姿が重なってしまう。あれは違うと思っていても。
ようやく整理がついてきた気持ちを喉に詰まらせながら、マイカは頭を抱える。
「……人があんな目に遭ってるのを、どうしてぼくは……」
規模が違う。対象が違う。来歴が違う。あれは理不尽で、これは自然。でも、両方とも人の未来を収奪する。
知識さえ残していれば発展はする。食いつぶさなければ消えたりはしない。ウロボロスのように暴力的でないあの神は、世界そのものを自らの内とするものは、どんな気持ちで、彼女たちを眺めていたのか。
『大丈夫。あなたは心から悲しんでいる。それは確か』
バンカーデバイスの、少し時間を置いた発話に、はっとして起き上がる。明らかにいつもと違う反応だ。
「――バンカーデバイス、いまのって」
彼女はそれきり、何も答えなかった。
稼働状況モニターに、不明なネットワーク導通が一件、示されていた。
マイカ・ハルマルト
観測台 セクター2 世界観測技術部門 フォギング・セル計画 主任技師
現在はセクター3 プロジェクト・エステンに出向中。
18歳+16歳(2巡目)
エッタ・コア(ETK-1055) 第2循環系 極西地域 名前のない知性体居住エリア出身。
飛行機械の整備士として働く母のもとに、4人兄弟の末っ子として生まれる。
初等教育を受けた以外には家族からの技術教練のみを受け、しばらく整備助手として働くが、第2循環系の「中期リセット」を機に新たな知識を得るため現地の中等・高等教育課程に進学。
その過程で概念的機械知能の技術に触れ、その研究に没頭する。
次回の中期リセットまでに自身の知覚能力を拡張する装備を開発することを目標とし、これを達成。
観測台が調査のため派遣していたエージェントが彼女の実績を発見し、スカウトした。
主に技術開発部やセクター3が主導する複数のプロジェクトに参加しており、特に新型観測システム「フォギング・セル」の開発プロジェクトにおいては、制御AI「バンカーデバイス」の発明など多くの貢献実績がある。
プロジェクト・エステンの初期メンバーの一人。




