消えたダイバーの手記 #1
2022年、南太平洋到達不能極――通称“ポイント・ネモ”隣接海域にて、一隻の船が漂流しているのが確認された。この船は一名の海洋生物学者を乗せてニュージーランドを出港した後、実に数か月に渡って行方不明となっていた。
海洋生物学者の姿はなく、積み荷は僅か。消費され尽くしたあとの食糧と水のケース、油性ペンで「潜水服」と書かれた空箱、そして一冊の、非常に乱雑な文字の書かれた手記だけが遺されていた。
彼の行方は未だにわからない。
以下に、このとき発見された手記の内容――辛うじて解読することのできた一ページの内容を掲載する。
沈み切った底の澱みへ。
大きな一角が、ただ横たわる場所。
沈み切った暗闇の中へ。
存在しえない深度、生命なき場所。
私は名前を問う。
モビィ・ディック。
あなたの本当の名前を知りたい。
彼は"かぷかぷ"と、小さな、ほんの小さな泡を少量吹き出して、
私にひっそりと微笑みかけた。
目尻に皺を寄せ、その巨体でゆるやかな波を及ぼしながら。
その数瞬の印象は、幼く尊い過去のゆりかごを想起させた。
まだ小さく、儚く、しかし懸命に生きる命を慈しむ。
それがどんなに独善的でも、利己的でも、
時として大きな罪を犯す存在であろうとも、
全てをあるままに観察し、
「結果はどうあれ、君は必死だったね」
と結論づける極限者、
太極の中心、
世界の奥底に眠る上位者の雄大な許容だ。
私はその渦の中心で、認識可能な限界の果てに、彼と相対している。
[不明瞭な文字列。ラテン文字とは異なる文字に見える]
彼の言葉を音として知り尽くすには、あと数千年の進化が足りない。
それでも、私は懸命に発話した。
[不明瞭な文字列。ラテン文字とは異なる文字に見える]
[不明瞭な文字列。ラテン文字とは異なる文字に見える]
複数回の試みの中で、やはり、物言わぬ大きな一角は横たわり、ただ私を見つめていた。
潜水服の酸素は、いまだ十分。
原理も出自も異なるあなたと私が、ついに皮膚表面に降り立つ。
私が彼にたどり着いたのと同じように、
彼もまた、私に出会ったことを一つの歩みだと言祝いだ。
私には、そのように聴こえていた。
アームストロング船長のように。
足跡ひとつすら残らない滑らかな皮膚を、私は不明な重力に引かれて歩いた。
身を捩ることもなく、声を発することもなく、また詮索することもなく、
しかし、必ず意識を私に向けて、眼差しを投げかけている。
私は観察されている。
人間。
この海底へと遂にやってきて、
大きな一歩を踏み出す知性体の代表者として。
私はメッセージを聴く。
海淵の上位者よ、我らは応答を待つ。
彼は呼び声を放つ。
地表に茂る葦の群れ、彼らの到着を夢見る。