灯火をくれた人
少し遠くで体育教師が笛を鳴らし、クラスメイトたちが汗を流している。
この時から私達は世界でたった2人だった。
大人になった今、この時を思えば、思春期独特の性的錯綜だの閉鎖的なコミュニティの共依存関係だの文句を言われる余地がある。
だけど、私達のあの中学校の1年間は、お互いが世界でたった一人の理解者だったのは間違いないだろう。
「ねえ、なんで休んでるの?」
私は彼女に聞く。
新学期から躓いて教室になじめなかった私は、体育でも厄介者でもう何度目かわからない見学をしていた。
隣のクラスの彼女はいつも横にいた。
髪は日に焼けて色素が抜けてパサパサなのに白く細い腕を組んで体操座りしている。
「そっちもね。私は体育が嫌いなだけ」
開いているかわからない細い目を少しだけ開いてこちらを見つめる。何だか自分が見透かされるような気がさえした。
「体育、嫌いなの?」
私はもう一度聞いた。彼女は少しだけ顔を上げ、空を見上げた。
「うん。だって、みんなと同じことをする意味が分からないんだもん」
「意味?」
「そう。例えば、みんなで同じように走ったり、跳んだり、ボールを追いかけたり。それが何になるのかなって」
彼女の言葉は、私にとって新鮮だった。
私はただ、要領が悪くて、みんなと同じようにできない自分が嫌だった。
でも、彼女は違った。
体育という行為そのものに疑問を持っていた。
「でも、みんなで何かをするのは楽しいよ」
私は思ってもないけどそう言ってみた。彼女はまた、細い目を開いて私を見た。
「楽しい?私はそうは思わないな。みんなと同じように笑って、同じように汗を流して、同じように疲れて。それが楽しいなんて、私には理解できない」
彼女の言葉に、私は何も言い返せなかった。彼女の言うことは、私には理解できないことばかりだった。でも、彼女の言葉には、何か惹きつけられるものがあった。
「ねえ、君はなんでここにいるの?」
彼女はそう聞いてきた。
「私は…」
私は自分のことを話そうとしたけれど、言葉が見つからなかった。
私はただ、教室にいるのが嫌で、体育も嫌いで、誰とも話したくなくて、ここにいるだけだった。
「私は、ここにいるのが楽なの」
彼女はそう言った。
「楽?」
「うん。ここにいると、みんなと同じようにしなくていいから。みんなと同じように笑わなくていいし、同じように汗を流さなくていいし、同じように疲れる必要もない。私は、私でいられる」
彼女の言葉に、私はハッとした。私は、みんなと同じようにできない自分を責めていた。
でも、彼女は違った。彼女は、みんなと同じようにしない自分を受け入れていた。
「私、あなたのこと、好きかも」
彼女はそう言った。
「え?」
私は驚いて、彼女の顔を見た。
彼女は、細い目をさらに細めて、キラキラ光るような顔で私を見ていた。
「だって、あなたも私と同じだから。みんなと同じようにできないから、ここにいるんでしょ?」
私は何も言い返せなかった。彼女の言う通りだった。私は、みんなと同じようにできない自分を隠すために、ここにいた。
「私達、友達になれるかもね」
彼女はそう言って、私に微笑みかけた。その笑顔は、とても優しくて、温かかった。
「うん」
私はそう言って、彼女の隣に座った。私たちは、体育の授業が終わるまで、ずっと話していた。彼女は、私の知らないことをたくさん知っていた。
ムーミンしか見たことのない私が知らない、少年漫画発のアニメの話。
男同士が睦み合う恋愛が好きなこと。
動画サイトで聞いている音楽の話。
絵を描くのが好きなこと。
彼女は、ある日、学校の図書室で見つけた古い海外の小説を手に持ってきて、「これ読んでみなよ。世界が歪んで見えるから」と言った。
彼女が貸してくれた本は、私には難しすぎて半分も理解できなかったけど、彼女はその物語の登場人物になりきって、私に熱っぽく語った。
彼女にとって、世界はいつも少し斜めに見えていて、それが彼女の絵や言葉に滲み出ていた。
彼女の言葉は、私にとって新鮮で、刺激的だった。
その日から、私たちはいつも一緒にいた。
教室でも、廊下でも、帰り道でも。
私たちは、いつも隣にいて、色々なことを話した。
彼女は、私にとって初めての友達だった。
でも私はやっぱり何だか爪弾き者であんまり学校にいけなくなっていった。
彼女はそんな私を見て、とんでもないことを言う。
「君が休むなら私だって別に行く意味はないかな」
そう言って休んでいる私の家に来た。
私も彼女の家に行った。
一緒にアニメを見たり、プールに行ったり。
家では絵を描いたり、小説を書いて見せ合ったりしていた。
彼女との日々は、私にとって初めての色鮮やかな時間だった。
学校へ行かなくなった私は、世間から取り残されたような孤独を感じていたけれど、彼女はいつも私の隣にいた。
彼女の存在が、私の世界を少しずつ広げてくれた。
「ねえ、このキャラクターのここ、すごく君に似てると思わない?」
彼女はそう言いながら、オリジナルのキャラクターの絵を見せてくれた。
それは、少し影のある、でもどこか惹きつけられる魅力を持ったキャラクターだった。
「え、どこが?」
私は照れ隠しにそう言ったけれど、内心では彼女の言葉で小躍りしていた。
彼女の絵は学校一と言われていて今考えても当時で言う「神絵師」とやらだったから。
「ほら、この何とも言えない表情とか、ちょっと周りと違うところとか」
彼女はそう言って笑った。
その笑顔は、私を肯定してくれているようで、心が温かくなった。
私たちは、お互いの好きなキャラクターになりきって、想像の世界で自由に生きた。
それは、現実の息苦しさから逃れるための、私たちだけの秘密の遊びだった。
「もし私がこのキャラクターだったら、君を絶対に一人にはしない」
彼女はそう言って、私の手を握った。
その時、私は彼女がただの友達以上の存在になっていることに気づいた。
彼女への恋心を封じ込めながら、私は彼女とごっこ遊びに興じていた。
それは、現実逃避であり、同時に、彼女との距離を測るための手段になっていった。
「ねえ、もしこのキャラクターに好きな人がいるとしたら、どんな人だと思う?」
私は、キャラクターになりきって、彼女に問いかけた。彼女は少し考えて、
「うーん、やっぱり、自分と同じように、ちょっと変わってる人がいいかな。周りに流されず、自分の世界を持ってる人」
彼女の言葉は、まるで私に語りかけているようだった。
「じゃあ、タイプは?どんな人が好きなの?」
私は、さらに踏み込んで聞いた。彼女は少し照れたように笑って、
「タイプなんて、よく分からないけど…一緒にいて、楽しい人かな。あと、私のことを理解してくれる人」
彼女の言葉に、胸が締め付けられた。
私は、彼女の理想の人物像に、どれだけ近づけているのだろうか。
「あのさ…」
私は、意を決して切り出した。
「男同士の恋愛が好きな君は、女同士の恋愛って、どう思う?」
彼女は、少し驚いたように目を見開いた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「私は、好きになってくれた人を、全力で愛したいんだ。それが、男の人でも、女の人でも、関係ない」
彼女の言葉は、私の心を揺さぶった。
彼女は、私の予想をはるかに超えて、自由で、寛容だった。
ある日、いつものようにじゃれ合っていた時、くすぐり合いがエスカレートした。
彼女の柔らかな肌が、私の手に触れる。
その度に、私の心は、彼女への恋心で溢れかえりそうになる。
「もう、やめて…」
私は、泣き出しそうになるのを必死に堪えて、そう言った。
「どうしたの?」
彼女は、心配そうな顔で私を見つめた。
「恋人でもないのに、こんなに私に触らないで…」
私は、震える声でそう言った。
彼女は、私の言葉の意味を理解したように、少しの間、黙り込んだ。
そして、静かに言った。
「じゃあ、付き合おっか」
私は、彼女の言葉が理解できなかった。
「え?」
「だから、付き合おうって言ってるの。私が、君の恋人になる」
彼女の言葉に、私は息を呑んだ。
それは、私がずっと夢見ていた言葉だった。
でも、同時に、現実のものとして受け止めるには、あまりにも衝撃的な言葉だった。
「本当に…?」
私は、震える声で聞いた。彼女は、私の目をまっすぐに見つめて、
「うん。私は、君のことが好きだよ。ずっと、一緒にいたい」
その瞬間、私の心は、喜びと安堵と、そして、少しの戸惑いで満たされた。
私は、彼女のことが好きだった。
でも、それは、友達としての好きだと思っていた。
「でも…」
私は、言葉を探した。
女の子同士であること、私たちの小さな世界が壊れてしまうかもしれないことが、私の喉を締め付けた。
「でも、何?」
彼女は、少し不安そうな顔で聞いた。
「私たちは、女の子同士だよ?」
私は、そう言った。彼女は、少し考えて、
「それが、何か問題なの?」
私は、何も言い返せなかった。
彼女の言葉は、私の心の奥底に響いた。
私は、世間の常識や偏見に縛られていたのかもしれない。
「私は、君と一緒にいたい。それが、私の気持ち。君は、どうなの?」
彼女は、私の気持ちを確かめるように、そう聞いた。私は、彼女の目をまっすぐに見つめた。
そして、心の底から湧き上がってくる気持ちを、正直に伝えた。
「私も、君と一緒にいたい。ずっと、一緒にいたい。君に好きだと言って触れていたい」
彼女の言葉が私の胸に突き刺さった瞬間、心臓が跳ね上がるような感覚がした。
友達として一緒にいるだけではもう足りない何か。
私の中で膨らんでいた気持ちが、彼女のまっすぐな瞳に映り込んで、初めて「恋」と名前がついた気がする。
それでも、それを口にするのが怖かったけれど。
私たちは、静かに抱きしめ合った。
それは、私たちだけの、秘密の誓いだった。
私たちは、文字通り、性的錯綜の中にいた。
触れ合い、キスをし、互いの体を求め合った。
それは、中学生の私たちにとって、未知の領域への探求であり、同時に、心の繋がりを確認し合うための手段でもあった。
彼女は、どこからか得た知識を元に、私たちを導こうとした。
しかし、どこまで行っても、私たちは中学生だった。
経験の浅さと、溢れ出る好奇心と、そして、少しの恐怖心が、私たちを奇妙な均衡の中に閉じ込めた。
そんな私たちの関係に、変化が訪れたのは、両親たちの介入だった。
不登校に業を煮やした親たちは、私たちを無理やり学校へ行かせようとした。
「特別クラスだから。別室で自習するだけだから」
そう言われて連れて行かれたのは、家庭科準備室だった。
そこには、私たち二人分の机が、まるで隔離されたように、離れて置かれていた。
学校へ行くのは辛かった。
でも、彼女と繋がっていると思えば、耐えられた。
昼休みになると、私たちは二人でトイレに篭り、誰にも邪魔されない空間で、時間の許す限りキスをした。
それは、私たちだけの、秘密の儀式のようだった。
しかし、そんな日々は、いつまでも続くものではない。
ある日、私は、このままの生活で良いのか、不安になってしまったのだ。
絵を描いたり、小説を書いたり、女同士で睦み合ったり。
それは、私たちだけの、閉ざされた世界だった。
「ねえ、もう、別れたいの」
私は、震える声でそう言った。
彼女は、信じられないという表情で、私を見た。
「何言ってるの?正気?」
彼女は、声を荒げた。
「だって、このままじゃ、私たちは…」
私は、言葉を続けることができなかった。
「このままじゃ、何?私たちは、ずっと一緒にいるって、約束したじゃない」
彼女は、涙目でそう言った。
私たちは、たくさん喧嘩をした。
彼女は、別れるなんてありえないと、私を罵った。
ごっこ遊びで使っていたキャラクターは、メンヘラになり、私のキャラクターをどこかに閉じ込めようとした。
そんなある日、彼女は、突然、転校すると告げた。
「お父さんの仕事の都合で、東京に行くことになった」
彼女は、そう言って、寂しそうに笑った。
私は、それが自分のせいだと思った。
私が別れ話を切り出したから、彼女は、私から逃げるように、東京へ行くのだと。
「私のせい…?」
私は、震える声で聞いた。
彼女は、首を横に振った。
「違うよ。これは、私たちのせいじゃない。ただ、私たちの時間が、終わっただけ」
彼女は、そう言って、私の手を握った。
「東京に、遊びに来てね。友達として、また会おう」
彼女は私の手を離すと、鞄から小さなスケッチブックを取り出した。
「これ、あげる」
と差し出されたページには、私たちの好きなキャラクターが二人で並んで描かれていた。
彼女の細い指が紙を撫でるのを見ながら、私は涙が溢れそうになるのを堪えた。
「じゃあね」
と彼女が小さく呟いて背を向けた時、校庭の風が彼女の髪を揺らし、私たちの時間をそっと奪っていくように感じた。
私は、彼女の言葉に、何も答えることができなかった。
私たちの1年間は、仄暗く、じっとりとした、宝物のような時間だった。
それを、今の価値観で汚してしまうのが、恐ろしかった。
次の年から、私は不思議と、普通に学校へ行けるようになった。
友達もたくさんできた。
進学すると、彼氏もできた。
そして、今は、結婚して、彼女のいるかもしれない東京で子育てまでしている。
今でも、娘が友達と笑い合う姿を見ると、あの体育館の片隅で彼女と交わした言葉が蘇る。
あの時、彼女が教えてくれた「自分であること」の意味は、私が大人になってからもずっと、私を支える小さな灯火だった。
彼女がいなければ、私はこんな風に笑って生きてはいられなかったかもしれない。
いつの間にか、彼女の連絡先は分からなくなっていた。
それでも、私の宝物箱には、いつまでも、スケッチブックのキャラクターが、大切にしまってあるのだ。