毒は広がる
「シルヴァント商会からの提案、拝見しました。ガラス発注の追加契約ですね?」
セリナの声は落ち着いているが、書類を手に持つ指には緊張が滲む。カールは微笑を浮かべ、柔らかな口調で答えた。
「その通り。ハイデの市場でファニキアのガラスは評判だ。だが、契約には国王の直筆指示が必要だと聞いている。確認のため、原本を見せていただけるか?」
セリナは一瞬、眉をひそめた。だが、シルヴァント商会が特区の重要取引先であることを思い出し、書類を差し出す。羊皮紙には、アルスの流れるような筆跡と、ファニキア王家の紋章が刻まれた封蝋が輝いている。
カールは、書類を手に取り、ゆっくりと目を走らせた。心臓が高鳴る。そこには、アルスの署名——「アルトゥース・アルノー・ド・ラ・ファニキア」と、特注の青いインクが鮮やかに刻まれていた。
「確かに、国王の指示書だ。だが、複写を作る必要がある。ハイデへの報告用に、原本を一時預かってもいいか?」
カールの言葉に、セリナは躊躇した。だが、交易の円滑さを優先し、渋々頷く。
「一日だけ。必ず返却してください」
カールは丁寧に頭を下げ、書類を革の鞄にしまった。その夜、シャンテ・ドレイユの外れにあるシルヴァント商会の隠れ家で、カールは書類を広げた。蝋燭の光の下、羊皮紙の質感、インクの微妙な青の色合い、封蝋の紋章の細部を記録する。彼の手は震えていたが、それは興奮だった。ユーベルタール北方商会に送るこの情報は、ヒースルールの計画の要となる。
翌朝、カールは原本をセリナに返した。セリナが書類の返却を確認した瞬間、彼女の疑念は霧散する。カールは微笑を浮かべ、会議室を後にした。だが、複写された羊皮紙は、すでにノルドハーフェンへ向かう馬車の闇に消えている。
ユーベルタール北方商会の秘密工房では、熟練の書写職人が待機していた。蝋燭の光が、羊皮紙の表面を不気味に照らす。職人の手は、まるで魔術師のように正確だった。アルトゥースの筆跡を模倣し、青いインクで一文字一文字を刻む。封蝋には、ファニキア王家の紋章が精巧に再現された。
完成した書簡を、ヒースルールは手に取る。彼の目は、羊皮紙に刻まれた言葉を貪るように見つめた。
「ガーネット教会のガラスを破壊せよ。教皇の偽の権威を打ち砕き、ファニキアの経済を盤石にせよ。——アルトゥース・アルノー・ド・ラ・ファニキア」
ヒースルールの唇に、冷たい笑みが浮かぶ。ローグが部屋の隅から静かに言った。
「これで、教皇の騎士団はファニキアに牙を向ける。レオニード皇太子も、名誉挽回の好機と見て、帝国軍を動かすきっかけが出来る」
ヒースルールは書簡を革の筒に納め、暖炉の炎を見つめた。
「教皇とレオニードがファニキアに総力を挙げる・・・・・・そして、共に潰し合う。両者の力を削いだ後、アレクセイを帝位に押し上げるとしよう」
ローグの瘴気が揺れ、まるで闇が笑うように響く。
「油断は禁物だがな。アルトゥースの実力は本物だ。ファニキアの出方次第で違う展開も十分あり得る」
ヒースルールは笑みを深め、答えた。
「だからこそ、あなたの力が必要なんです」
「この書簡を誰に送る?」
「大司教コンラッドとレオニードの重臣、グレゴリー公です。闇ギルドの運び屋を使い、ハイデの商人を経由させます。追跡は不可能でしょう」
こうして書簡は、夜の闇に紛れて送り出された。ガーネット教会の聖堂とレオニードの城に、偽りの火種が投じられる。
ザルツ帝国のヴェルムシュタット城は、夏の陽光に照らされていた。石壁に刻まれた紋章が、眩い光に鈍く輝く。謁見の間では、グレゴリー公爵が革張りの椅子に腰を沈め、届いたばかりの羊皮紙を手にしていた。開け放たれた窓から、夏の熱気が流れ込み、羊皮紙の端を揺らす。ファニキア王家の双頭の鷲の封蝋が、燭台の炎にきらめく。書簡の内容は、グレゴリーの心を戦の鼓動で満たした。
「ガーネット教会のガラスを破壊せよ。教皇の偽の権威を打ち砕き、ファニキアの経済を盤石にせよ。——アルトゥース・アルノー・ド・ラ・ファニキア」
グレゴリーの灰色の髭が震え、太い指が羊皮紙を握り潰す。レオニード皇太子の忠実な重臣として、彼はヴィタリー伯爵の失脚で傷ついた名誉を回復する機会を渇望していた。夏の暑さが、謁見の間に漂う重い空気をさらに重くする。
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