桜前線迫る
自分の鼓動の音だけがやけに響く。目の前で色々と状態を教えてくれているがろくに頭に入ってこない。
喪失感が襲ってきて、足元が崩れてしまったかのように現実味がない。しかし、その沈痛な面持ちがその事態をありありと語っていた。
手続きを終え、建物の中を進む。真っ白な廊下でコツコツと鳴る足音がカウントダウンのようにそれと直面する猶予を削っていく。
目当ての名前を見つけて、ドアを大きな音が鳴らないように軽くノックする。
「……はい」
困惑気味な返事があった。きっと、誰が来たのか心当たりがないのだろう。
鼻をすすり深く息を吐きだす。ここにようやく自分が靴を履き替えることもせずに上履きのまま来たことに気づいた。
ドアハンドルへ伸ばした手が何度も空振り、震えを抑えてようやく掴むことができた。
そっと静かに扉を開けて、笑顔を相手に見せた。
「初めまして!」
そうやって大きな声で桜花は言った。
それは、厳しい寒さが襲って、木々が葉を落とした冬の日のことだった。
◆
柔らかな風が身体をくすぐった。
ここ数日の間でみるみるうちに気温が上昇し、花の香りが辺りから漂ってくる。いつもは憂鬱であったこの学校への道のりも何だか心地いい。どうやらこれほど厚着する必要はなかったようだ。マフラーを外しながら表裏はそう思う。
移り変わっていく季節のグラデーションを楽しみながら歩いていると、いつも通る公園の辺りまで来ていた。
下校時に見えるこの場所は多くの小学生やより小さな子供を連れた親子、そしてペットと共に来た人などで賑わっている。だが、やはり朝のこの時間ではそれぞれ忙しいのだろう。喧騒とはかけ離れた静けさがあった。いるのは精々散歩しに来たお年寄りぐらい。
そのせいだろうか。普段は子供たちが遊ぶのにちょうどよい大きさのこの公園が広く感じられた。
表裏が物思いに耽っていると見覚えのある背中が見えた。表裏と同じ星見学園の制服に身を包み、公園の外縁に沿って植えられた木の側で見上げていた。
「何してんだよ。遅刻すんぞ、想太」
「おはよう、表裏くん。今日は早いんだね」
「俺だって毎回遅れるわけじゃねえよ」
表裏は想太の横に並び、立ち止まる。想太が動かなかったからだ。
「何見てんだ?」
想太は挨拶を返したきり、じっと何かを見ていた。
想太の視線を追う。彼が見ていたのは何の変哲もないただの木だった。この場所以外でも見ることができるどこにでもある木だ。
「こんなの見て面白いか?」
「よく見てみなよ」
苦笑と共に返される。表裏は促された通りにじっと目を凝らしてみた。
まずは、幹を見た。太く立派な幹であるが、至って普通のものだ。次に、枝を見る。まだまだ緑はなく冬の名残があった。しかし、それは別にそこら中にあるものだ。
「違うよ、もっと先の方だよ」
そう言って想太が指を差したのは枝の先も先。何もついてはいない、面白みのない質素な景色。
いや、表裏はそこに微かな変化を見て取れた。
「これは……蕾か?」
比較的太い枝から伸びた細い枝の先端。そこにまるで米粒のように細長くて丸い蕾があった。その蕾はふっくらと膨らんでおり、今にも内側から花が現れそうだ。
「そう! 桜の時期がやってきたんだ!」
気づいていなかったが、この木はどうやら桜の木であるようだ。それならば、想太がここまで関心を持っているのも頷ける。
桜は日本人にとって最もポピュラーでありながら、楽しめる期間が非常に限られている花である。そのため、人々は楽しみを凝縮し、熱烈に桜を愛す。
「春だなあって思って見てたんだ」
想太もその一人であるようで、蕾をキラキラとした目で見つめていた。
「桜か……いいな!」
当然、表裏も例外ではない。何なら、今から桜が咲き誇った景色を想像してもいた。
変わり映えのしない通学路を鮮やかに彩る薄桃色の花。その道を通ると、盛大に飾り付けられたアーチをくぐるように華やかな気持ちになれるだろうと。
「でしょ! 今朝もニュースでやってたんだ。今週末に満開だって」
そういえば確かにやっていた。沖縄や九州の方では既に満開で、その様子をリポーターが興奮気味に伝えていた朝の情報番組は表裏も見た。
放送では大人が昼間から酒盛りをして大騒ぎをしたり、小さな子供がまさしく花より団子という様子で豪華に盛り付けられた弁当を一心不乱に食べるなど思い思いに楽しんでいる様が映されていた。
その後場面が切り替わり、気象予報士が天気と共に桜についての予報もしていた。桜前線が北上し、本州でも次々と桜が見られるだろうと。
「ここが最前線となる日も近いな!」
「そうだね。楽しみだね!」
想太と話しながら歩いていくと、徐々に同じ制服を着た人が増えてきて、やがて星見学園が見えてきた。
門の前ではたくさんの生徒で溢れている。おそらくは上級生だろうか。先週までは見られなかった、慣れた様子で靴箱に向かって行く生徒もいた。
門をくぐってからは更に活気が増した。
「新入部員募集中でーす! 興味がある人は是非!」
部活勧誘だ。多くの部活動が道の脇にプラカードを持って立っていたり、チラシを配ったりしている。それぞれのユニフォームに身を包み、個性がある。きっと、そうすることで印象に残ろうとしているのだろう。一目でその部活とわかれば興味を惹きやすいのだろう。
「うわっ! すげえ人だな」
「何というか、こっちにまで必死さが伝わって来るね」
「囲まれたらチャイムが鳴るまで抜けられなさそうだな」
部活動の中には強引な勧誘を行っているものもあった。新入生を囲んで道を塞ぎ、熱烈に紹介していたり、チラシを押し付けていたりもしていた。押しに弱い者ならば中々断りきれなさそうな剣幕だ。
人混みを掻き分け進んでいく。幸いにも表裏たちには強引な勧誘はなかった。チラシを渡されたぐらいであった。
「やっと……着いたよ」
「朝っぱらから……無駄に疲れたぜ」
それでも疲労困憊だ。押しのけて進むため、無理に押して怪我をさせないように気を張らなければならなかったからだ。
靴箱付近から改めて人混みを眺める。このままでは新入生とそれに殺到している上級生も多くが授業に遅れてしまうだろう。そのうち教師や生徒会などが注意に来るかもしれない。
「何だ……?」
唐突に人混みが真っ二つに割れた。最も人が集まっていた真ん中に道ができる。
あれだけ熱狂的に勧誘していた生徒たちが何かを遠巻きに見ている。表裏もつられて何があるのか見た。
すると、一人の生徒が歩いてきた。見たところ新入生であるようだが誰も近づいていかない。
というのも――。
「何でガスマスクしてんだよ!」
「シュー、シュー!」
「いやわかんねえよ! 人語を話せ!」
そう。表裏たちの目の前に来た人物はごってごてのガスマスクをしていたのだ。
顔を全て覆い、シューシューシューと言っている様はひたすら不気味だった。
「シュ、シュー!」
「やむにやまれぬ事情があるんだって」
「何でわかんだよ! 絶対文字数合ってねえよ!」
誰も近寄ろうとしないのもわかる。表裏だってできれば近づきたくない。
だが、相手が知っている人物ならそうもいかない。というか、想太がいきなり通訳し出したのも信じられなかった。
「何となくだよ。合ってるよね、掬央くん」
「シュ、シュ、シュー!」
「だって」
「バカにされてるのはわかる……!」
そいつの、掬央の笑顔が透けて見えた。首を振っている様子は呆れているようだった。
呆れたいのはこっちの方だ。表裏は苛立ち混じりにガスマスクへ手を伸ばした。
「折角いい天気なんだ。外しやがれ!」
「シュシュシュ!」
「やめねえよ!」
「シュ……この人でなしが!」
「人の言葉を話してから言うんだな!」
奪いさろうと伸ばしてくる手を躱す。手に持ったガスマスクは思ったよりもずっしりと重く、ちゃんとしたものだった。
「こんなもん着けて、オシャレのつもりか?」
「オシャレなわけないだろう。センスのない奴め」
「お前にだけには言われたくねえよ」
ため息まで吐いている掬央の様子は非常に腹立たしい。
「じゃあ何だよ。仮装か?」
「違う。もっと実用的なものだ」
「余計わかんねえよ」
ガスマスクを着けて登校なんて表裏は聞いたことがない。着用しているのを見るとしても映画やドラマなどでしかない。学生が触れることのないものだ。
「マスクと言えば、用途は一つに決まっているだろ」
「ガスがついてなければな!」
すると、掬央が深刻な顔をして言った。
「普通のマスクも試した。だが、それが通じなかった。ただのマスクではどうしようもないような有害物質がばら撒かれているのかもしれない……!」
「そんなわけねえだろ……」
「いいや、俺はこの身で体験した。あの恐ろしさを!」
(まさか……マジで――)
思わず息を飲む。掬央の身体が震えていることがわかったからだ。心なしかその表情は青ざめて見える。妄言でも、おかしいわけでもなくそれほどのことがあったのかもしれない。
掬央の言葉を待つ。そして、掬央は震えた声で語りだした。
「少し前から俺の身体がおかしいんだ。何ともなかったはずなのに外に出た途端、くしゃみが止まらなくなる。ああ、鼻水もだ! それに目のかゆみだって襲ってくる! これを異常事態と呼ばず、何というか!?」
「花粉症だな」
「何というか!?」
「だから花粉症だろ! 何が異常事態だ、有害物質だ! 異常はお前だ! 見てみろ、周りにドン引かれてんぞ!」
「これが花粉症なわけないだろう! そもそも去年までこんなことは起きなかった!」
「新しくなるやつもいるんだよ、諦めろ!」
「認めてたまるか! これは何かの陰謀だ。俺はそれに巻き込まれたんだ……!」
とんだ肩透かしであった。あまりに真剣に言い出したものだからちゃんと聞こうとしたが時間の無駄だった。
手に持ったガスマスクが無駄に重く鬱陶しい。なので、表裏はそれを投げ捨てた。放物線を描きガスマスクが宙を舞う。
「最後の希望がああああ!」
掬央がそれを追って走っていった。
これで厄介事も無事に片付いたと、表裏は少しだけ清々しい気持ちになった。
随分と時間を食ってしまった。早く教室に向かうべきだろう。
「よし、行こうぜ、想太」
「うん、そろそろ時間だしね」
想太も同意して、歩き始める。
そこで、ふと忘れ物がないか気になった。時間割は伝えられているが見る曜日を間違えてしまったら、意味がない。そのため、表裏は鞄の中を確認しながら聞いた。
「今日の授業は何があったっけ? ……想太?」
顔を上げた。返事がなかったからだ。
想太は人混みの方を見ていた。変なガスマスク男が現れてできた道が未だあった。気が削がれたのか、時間がなくなったのかとも思ったが違った。再び誰かを見ていたのだ。周囲の人たちは真ん中を歩くその人物を見ながらひそひそと何か話している。
「またなんか来たのか」
「今度はどんな感じの人かな?」
「少なくともまともじゃねえだろ」
「来たよ」
その人物が近づいてきて全貌が見えてくる。
その人物は一人だけまるで世界観が違うかのような華やかさがあった。演出のような美麗な光景があったのだ。桜の花が舞っているというものが。
表裏はげんなりした。
「知らないやつだな。変わったやつもいるもんだな」
「うん、関わるべきじゃないね」
なので、他人のふりをした。ただでさえ人混みのせいで疲れているのだ。授業も控えているし、これ以上疲れるのはごめんだった。
「やってきたな俺の季節が! そうだろう? 表裏、想太!」
しかし、逃げられなかった。声をかけられて他人のふりはできなくなった。
表裏は観念して桜花へ向き直した。
「見てみろこの注目の集めようを!」
「悪目立ちだろ」
「お前の目は節穴だな! どう見てもこの俺の不自然に見惚れているだろうが! 桜と言えば俺。俺と言えば桜。なあ、桜と言えば何を連想する?」
「花見か?」
「そう! つまり彼らは俺を見て花見をしているのだ! おまけに俺はいつでも満開ときた。これを俺の季節と呼ばず何と呼ぶか!?」
「自惚れ」
「そう! 憧れの感情を向けられるのも仕方ないことかもしれないな!」
(話が通じねえ……!)
「折角だ。お前にはサービスしてやろう」
そう言って渡されたのは桜花の不自然で生み出された桜の花弁だった。
「これがあれば、あなたの心も満開に!? 誰でも簡単、俺セットだ!」
「使い方は極めて単純。持つだけで良い。それだけで花見に行ったように華やかな気持ちになれる! どうだ、表裏! 素晴らしいだろう!」
花の香りが漂ってきて、一足早い桜の季節を感じさせる。何というか、非常に安らぐ香りであるのが逆にイラッとする。
なので表裏は思い切り地面に叩きつけた。
「何をする!?」
「何をする!? じゃねえよ!」
「まだ足りなかったのか! この欲張りめ!」
「ちっげえよ! 誰がお前ので花見なんかするか! というかこれ散ってるだろ!」
「何を言うか! この瑞々しさを見てもそれが言えるか!? そうだろう、想太!」
桜花が想太に意見を求める。
誰に同意を得ようとしても無駄だ。きっと、想太もそう言うだろう。
「確かに……いいかも」
「何!?」
「そら見たことか! お前に美的センスがないだけなのだ!」
「いや、僕もそれはいらない」
「何だと!?」
「正しいのはこっちのみてえだったな!」
「くっ! ならば何をいいと言ったんだ!?」
表裏も桜花と同様の疑問を持った。桜花の桜がいらないのならば何に対して「いい」と言ったのか。
言葉を待つ。すると、想太はしゃがんで落ちた花弁を摘みながら言った。
「お花見しようよ!」