ラーメン屋にて
食欲を刺激する香りが鼻腔をくすぐった。カランカランと戸に付けられたベルが引っ切り無しに鳴っている。
どうやら相当の人気店のようだ。
今だって、仕事終わりであろうネクタイを緩めたサラリーマンが数人連れだって入っていった。
「何を突っ立っている」
「そうだよ、早く入ろうよ」
後ろからの声に表裏は慌てて涎を拭った。
目的の店に着いて、期待できるか観察していたのだ。掬央が後ろから急かしてくる。途中で諦めて自分の足で歩いていた想太も不満気な顔だ。
「わかってるよ」
戸を開け、手短に人数を告げる。案内されたのは四人掛けのテーブル席。まず始めに表裏が座った。続いて向かいの席に掬央が、表裏の隣に想太が座った。
「どれにする?」
備え付けられていたメニューを開いて見せる。パラパラとページを捲って一通り目を通す。
メインとなるラーメンについては既に決まっている。メニューを開いて一ページ目にでかでかと載ってあったからだ。一ページ目の左上。そこは大抵の場合その店の目玉、所謂看板メニューが位置している。ここも例には漏れていないようだった。様々な文言――例えば一番人気など――と共にシンプルな醤油ラーメンの写真があった。
決めかねているのはそれ以外だ。何をトッピングするか。それともセットメニューにするか。
「俺はもう決めてある」
「僕も」
二人は直ぐにメニューを指差した。掬央は言っていた通りに醤油ラーメンとチャーハンのセットに。想太は単品の醤油ラーメンにしたようだった。
二人が表裏を見る。店員を呼ぶつもりなのだろう。このまま単品で頼んでも別に大きな問題はないが、家に帰ってからベッドに入った時に腹がなることはごめんだ。程よく腹を満たすもの。だからと言って、ごはん系は気分ではない。サイドメニューの中から選びたい。
「俺も決めた」
折よく目に入ったメニューがあった。それは唐揚げだ。ごはん系ではない上に、程々のボリュームがある。何より自分の好物であることが決め手だった。表裏はそれのセットとラーメンにはチャーシューをトッピングしたものを注文した。
頼んだ料理を待っている間店内の様子を眺める。至るところから湯気が立ち上っており暖房の効果以上に熱気を感じる。まったりとしながら同伴者と話しながら食べ進める人や黙々と食べている人などそれぞれ楽しんでいる。中には湯気でメガネが曇っても一心不乱に舌鼓を打っている人もいた。
店内の壁にはいくつかの色紙。この店は普段から相当に豪華な食事をしている芸能人も足繫く通う店であるようだった。
否が応でも期待感が高まる。今か今かと厨房の方を伺った。
いくつもの料理が乗っているトレーを持った人が厨房から出てくる。器になみなみと注がれたラーメンのスープは少し揺らせば零れてしまうが、見事なバランスで一滴も零さないで待っている客の下まで運んでみせた。忙しい中、少しでも効率を上げようとして身に着けた技術だろう。表裏は感嘆の声を上げた。
さらに、厨房の中まで視線をやると調理風景が見えた。大きな寸胴鍋に火にかけられたフライパン。それらの前には調理担当と思わしき人。他の従業員が髪をまとめたり帽子を被ったりしている中、その男の装いは少々異なっていた。まず目についたのは頭に巻かれた白いタオルだ。いかにもラーメン屋の大将という恰好であった。次に着ているシャツだってよく見れば「麺命」なんて力強く書かれた文字が印刷されている。長年鍋を振るってきたのだろう。その腕は血管が浮き出でいるほど太く、額に刻まれた皺は年月を感じさせた。
表裏はその動きを見逃さないようにじっと見た。人気店であろうこの店の大将はどんな手さばきを見せるのか気になったからだ。
しかし、男はどういうわけか動きを見せなかった。何か調理器具を持つわけでもなくじっと見つめるのみ。適切なタイミングでも見計らっているのか。
そこに他の従業員がやってきた。新たに来たその男は先の男よりも幾分か年若かった。そしてなぜかその男が調理し始めた。そのまま調理は終了し、風格のある男に料理が入った器が渡された。タオルを巻いたまま男は厨房を出て、その足で表裏たちの下までやってきた。
「お待たせいたしました」
待ち望んだ料理が並べられることよりもその店員のことが気になった。間近で観察してみると、年を重ねたそれは年輪のように確かに刻まれていた。
「ご注文は以上でございますか?」
伝票を置いて男が去っていく。直接理由を聞こうとしたが、仕事の邪魔をしたくなかったために堪える。ちょっとしたモヤモヤを抱えながらも食べようと割り箸を割った時、男の胸に付けられていた名札が見えた。そして、そこにはこう書いてあった。研修中と。
(研修中の風格じゃないだろ! 何一人だけタオル巻いてんだ! 意味のわかんねえオリジナリティを出してんじゃねえ!)
この道推定数か月の歴戦の職人がキリっとした顔で厨房に戻り、皿を洗っている。その様も作品を仕上げにかかっている陶芸家のようだった。というか一人だけ好き勝手にしすぎだろ。
すると、呆れた声音で掬央が言った。
「何を黄昏ているんだ。にらめっこの練習か?」
「そんなわけねえだろ! 色々とあったんだよ!」
「そうか。練習する必要がないからな」
「誰の顔が変顔だコラ!」
「そんなことより早く食べたらどうだ。麺が伸びるぞ」
「わかってら! いただきます!」
言い捨てて早速食べ始める。まずはレンゲを手に取ってスープを一口。底が見えない深い茶色のキレのある醤油にガツンとインパクトを与えてくる背脂。加えて、飲み終えた後のピリピリと残る唐辛子の辛味もラーメンを一層魅力的なものに仕立てているように思えた。
次に麺を啜った。細く硬めに茹でられた麺はスープとよく絡み、噛めば小麦の風味が感じられた。最後にトッピングに箸を伸ばした。ネギで新鮮な味を楽しみ、追加したチャーシューを食べる。薄切りにも関わらずジューシーで、漬けられたタレの濃い味が身体に染みた。
「うまっ」
「美味い……!」
「美味しい!」
ラーメンは期待以上であった。そうなると気になるのは自分が食べている物以外。
掬央を見る。掬央は醤油で香ばしく色付けられたチャーハンをパクパクと休みなく食べ進めている。
「チャーハンはどうだ?」
「言うまでもないが、とても美味い」
「だが」掬央は言いながらレンゲでチャーハンを掬い、持ち上げる。「お前にはやらないがな」
掬央は口を大きく開けて食べる様子を見せつけてきた。
「こっちだって唐揚げがあんだよ! 見てみろ!」
箸で掴んで唐揚げを見せつける。「あーん」と声に出しながらかぶりつく。
「ああ、美味い美味い。分けてやっても良かったんだけどなあ。どうやらいらねえみたいだからなあ」
「卑しい奴め!」
サクサクとした衣の下から溢れ出る肉汁が次の一口を急かしてくる。目を閉じて浸っていると、この味を知らない奴の戯言など耳に入らなかった。
「この味を知らないなんて損してるなあ!」
一個食べ終え、次の一個に手を伸ばす。その時ある違和感に気づいた。
(一個少ない……?)
自分が食べた分ではない。それとは余分に少なかった。
(まさか……!)
掬央を睨みつける。予想通り掬央はもごもごと口を動かしていた。
そして、ぬけぬけと言い放った。
「どうした? あんまり箸が進んでいないみたいだったからもらってやったぞ」
「唐揚げは俺の財産だ……! 少し先の俺の幸せをよくも……!」
「つまり投資というわけだ。俺は幸福になれたからな!」
「リターンはどこにあんだよ!」
「俺の幸せはお前の幸せ。お前の不幸は俺の幸せだ!」
「何だよその最低なジャイアン理論!」
見せてきたのは初めて見た満面の笑み。気持ち悪さどころか、怖気を覚えるほど似合わない。
「全然嬉しくねえよ!」
「投資が足りていないのだろう!」
掬央が再度唐揚げに奪い去ろうと箸を伸ばしてくる。
「やりやがったな!」
器を手で覆い防ぎ、逆にチャーハンを奪おうとするが空振る。
「お前の方こそ人の食事を邪魔するな!」
「食い意地張りやがって……!」
反撃を諦めて両手で防御する。前のめりになり掬央の前側に手を置き、器を腕の中に収めた。
「取れるものなら取ってみやがれ!」
掬央が伸ばした全ての箸を届く前に叩き落す。
「中々やるな!」
「この守りはサクサクの衣が如き堅牢さだ! お前にやるものはねえよ!」
そうして、無事守り抜くことができ、表裏は勝利の味を楽しもうとした。
だが、その油断が良くなかったのか伸びてきた一組の箸が唐揚げを掴み取った。
表裏は下手人を睨みつける。
「まだ諦めてなかったのか!」
「お前の目は節穴か。俺じゃない」
掬央はレンゲを置いて、水を飲んでいた。器には米粒一つない。掬央ではない。信じたくなかったが、その言葉に嘘があるように思えない。明らかに一息ついた掬央が取れるタイミングはなかったからだ。
なので、表裏は隣を向いた。掬央以外のこの場にいる他の容疑者。それは想太しかいなかった。
「想太、お前か!」
想太はあらぬ方向に顔を反らしてとぼけていた。しかし、その口元が忙しなくもごもごと動いているのを見逃さなかった。じっと見ていると、口を押えて悶え始めたので、水を渡してやった。ごくごくと勢いよく飲み干し、落ち着いた。
「や、やけどするかと思った……!」
「慌てて食うからだ。それで、言い分は?」
「い、いや~、あんまり美味しそうだったからつい」
目を泳がせながら想太は答える。ラーメンを食べ始めてからしばらく静かにしていたと思ったら、既に器の底にある店名が見えるほど平らげていた。よっぽど堪能していたようだ。今もチラチラと唐揚げに目線がいっている。
「まあお前の奢りだからな」
「まだ、覚えてたんだ……。そ、そうだよ! 僕にも食べる権利があるはずだ!」
「――なんて言うと思ったか! 唐揚げの恨みはでかいんだぞ!」
恨みを晴らす方法をいくつか考える。どうするのが最適か。想太が手をわたわたと動かして弁明をしているがもう遅い。そこにあった唐揚げは返ってこないのだ。仮にもう一つ頼んだとしてもそれは別物だ。一期一会であったのだ。下手人その一と一緒に後悔させなければならない。
「あっ、そういえば忘れてた」
「な、何を? 食べていいってこと?」
それはないが、一つ重要なことを聞きそびれていた。傍から見れば、取るに足らないようなことだが、聞いておきたいことがあった。
「どうだ、美味かったか?」
想太はきょとんとしてこちらを見る。そして、微笑みながら言った。
「最高に美味しかった!」
くだらない問いかけの返答もまた、ありふれたものであった。それでも、その笑顔は決して嘘などとは言えない。想太の心の底から赴くままに、余すことなく溢れたものであった。