自己紹介三人目 3
始め、彼――想太――にとってそれは幸せの象徴であった。両親に頭を撫でられる。褒められる。だっこをしてもらう。そんな、温かく優しい日々をこれでもかというほど証明してくれているものであった。当然、愛されていると自負もあったが、それによってより深く感じることができたのだ。
そうした、それ――不自然――に彼が違和感を覚えたのはある程度大きくなって両親がだっこをするのに苦労するようになった頃だった。
ある日、想太は物心がついてから初めて人が多く集まる場所に向かった。
それはある祭り会場で、皆煌びやかな服に身を包み、非日常を彼に感じさせた。彼も他の人と同じように目を輝かせて楽しみ、射的や金魚掬いを体験した。さらには、夜空に咲いた眩い花も堪能したりもした。
しかし、彼はその時ふと気持ち悪さを覚えた。何か嘔吐しそうというわけではないが、胸がざわついて不快感が溢れてきた。
幸いにも、その日は目ざとく気づいた両親に連れられてその場から離れたためか、すぐに治った。彼の両親は人混みに酔ってしまったのかもしれないと言い、彼もそうなのだろうと思い気にも留めなかった。だが、そんな思いとは裏腹に彼は何度もその不快感を覚えるようになった。
今度はあるショッピングモールへと家族と共に出かけた時のことだった。祭りのこともあり、多くの人がいる場所は両親も避けてくれていたため、彼にとっては久しぶりの人混みであった。
彼は手を引かれながら豪奢に飾り付けられた様々な店に目を奪われた。何度も立ち止まり、首を傾げた母へ指差してアピールした。そんな彼のおねだりは苦笑されて流されたが、それほど彼は新鮮な光景を楽しんでいた。頻りに調子を聞いてくる両親の言葉に対しても次第に生返事になってしまうほどであった。
そんな時、歩き回っていたためか、彼の腹は空腹を訴えてきた。彼は母の袖を引き、腹をさすってみせた。
「お腹が空いちゃった? そうだ、ここにはフードコートってものがあるの。そこに行く?」
「フードコート?」
彼にはその言葉に聞き覚えがなかった。彼にとって外食といえば母が作ってくれるお弁当か、たまに行くレストランぐらいであったからだ。彼は頭の中で未知の光景を思い浮かべた。フードコート。食べ物に関するものであることは何となく流れから理解ができた。しかし、彼には全くその詳細がわからなかった。
「そっか、よくわからなかったね。ええっと、フードコードっていうのはね、色んなレストランが集まっている場所のことを言うの。だから、想太が食べたいと思う物を何でも好きに選べるの」
彼の困惑に気づいた母がフードコートについて補足してくれた。
彼はそんな母の説明を聞いて、改めて想像した。
頭の中の彼は豪華な椅子に座り、足をぷらぷらと揺らして踏ん反り返っていた。そして、手を叩くと、ピシッと燕尾服を着こなした人がそっと料理を提供してくれた。彼が器に乗っていた蓋を開けると――。
「行く!」
彼は即座にフードコートに行く旨を伝えた。口元から垂れたよだれを拭いながら、母の手を両手で引いて急かした。
そして、やってきたフードコート。彼は空いている席をいち早く見つけ、そこから周囲を見渡した。
そこにあったのは多くの店。甘いデザートのようなものからがっつりと迫力のあるボリューミーなものまであった。
「ふふっ、どれにする? ゆっくり選んでいいからね」
彼は慎重に吟味していった。気分に合うのはどれなのか。ああでもない、こうでもないと頭を悩ませた。その結果、彼はあるうどん屋さんに決めた。つるんとした喉越しと、サクサクとした天ぷらが彼の目を引いた。
緊張の面持ちでその店に並ぶ彼。その間にメニューを決めておき、彼の番が来るとスムーズに注文した。料理を受け取り、溢さないように慎重に足を運んだ。人とぶつかることがないように、まるで世界の命運かかっているような気持ちで進んでいった。そして、彼は見つめてくれている母の下へと大きなミスを犯すことなく辿り着いた。
胸を張りながら彼は席についた。運び切ったそれは今まで食べてきたものよりもはるかに輝いて見えた。
「いただきます!」
彼は手を合わせて、箸を持った。まず一口食べて、彼ら身振り手振りでその味を母に伝えた。そして、間髪入れずに二口、三口と食べ進めていった。
だが、そうした彼のリアクションを彼の母が微笑みながら眺めていると、彼は唐突に箸を置いた。
「嫌いなものでもあった?」
母に問いかけられても彼は力無く首を振るのみだった。皿の中の料理もまだほとんど減っていなかった。
彼は背中を丸めて口を押さえながら言った。
「……気持ち悪い」
胸がムカムカとしてあれだけ空腹だったはずなのに身体が食べるのを拒絶していた。
悪寒、不快感、苦しさ。そのような原因不明の体調不良が彼に突如として襲いかかってきたのだ。
「今日は帰ろっか!」
彼の異変に気づいた彼の母が手早く片付けて、彼を抱き上げた。
彼はそうして母に抱えられてフードコートから離れてショッピングモールを出た。その後、切羽詰まった彼の母に連れられて、そのままの足で病院へと向かった。
ショッピングモールから離れると微かに気持ち悪さは和らいだが、未だ残るそれに彼は待合室の中でも落ち着けなかった。ソワソワと席を立ったり、座ったりを繰り返した。何だか大事のように思えて、彼の目から涙さえ溢れてきた。
「大丈夫だよ。ほら私もここにいるよ」
彼の涙が拭われた。優しく頭を撫でられて、そっと手を握られた。
「うん……」
強張っていた肩から力が抜けて、彼はようやく落ち着くことができた。椅子に座り、順番となるのを待った。
そして、彼は名前を呼ばれて診療を受けた。
しかし、何の異常も見つからなかった。熱は当然、喉の腫れや鼻水などの症状もなかった。念の為、子供がかかりやすい感染症についても検査をしてもらったが、そちらも異常はなかった。彼は正真正銘の健康体であった。医師は慣れない人混みに酔ってしまったのかもしれないと言った。
その結果にほっと安堵した彼であったが、内心首を傾げた。人酔いなどとは到底思えないほど突然気分が悪くなったのだ。そのため、何か別の理由があるのではないかと彼には思えた。
それから大勢の人がいる場所に向かうことはほとんどなくなった。それに伴って強烈な気持ち悪さが起こることも少なくなった。だが、それが完全に消えたわけではなかった。腹の奥にぐるぐると渦巻く何かがあった。
彼がその正体を知ったのは随分と先のこと。それは制服に袖を通すようになってからしばらく経った日のことだった。
微かに覚える不快感にも慣れてきて、彼は何の問題もなく日々を過ごせるようになっていた。
しかし、その日の不快感は非常に強烈で思わず蹲ってしまうほどだった。地面が波打ち、立っていることもできなかった。まるで、彼の身体を見えない手が掴んで引き倒しているようであった。
幸いにも、倒れた場所は自宅であったので大きな音を聞いた彼の母が駆けつけてくれた。
「どうしたの!? どこか痛いの?」
そして、母が優しく手を伸ばす。その目にあるのはあらんばかりの心配で、加えて隠しきれない慈愛もあった。幼い頃から受け続けてきたそれに肩の力を抜いて、彼もその手を取ろうとした。
「……っ!?」
しかし、その瞬間彼の目に母へと伸びて絡みつこうとする黒々としたものが映った。
彼は咄嗟に手を引いた。同時にそれが何なのかも感じ取った。今まで腹の中にあった淀みが形となって外に漏れ出したのだと。
「何かあったの? 私も力になるから!」
彼の母はその様子を見て心配の色を濃くして語りかけた。彼の様子が尋常なものではないと悟ったようであった。そして、今度は強引に彼の手を掴もうとした。
止める間もなく彼に近づく手。それに絡みつく淀み。
彼は思わずその手を払った。
「いたっ!」
考える間もなく振り抜かれた手は彼の母の手を強く弾いた。それこそ、その手に傷をつけてしまうほどに。彼は恐る恐る母を見た。愕然とした表情で彼を見て、母は腕を押さえて蹲っていた。爪が伸びていたこともあったのだろう。その手はほんの少し出血してもいた。
彼はさっと顔色を変えた。いくら温厚な母でも怒られてしまうと思ったからだ。
母が立ち上がった。
彼はぎゅっと目を瞑った。
床が軋む音がひどく大きく聞こえた。
そして、それが止み、沙汰が下された。
「大丈夫だよ。ごめんね、びっくりさせちゃったね。何があったのかお母さんにゆっくりで良いから教えてね」
想像していた痛みはなかった。
優しく抱きしめられた。そう彼が理解するのに少々間があった。
柔らかな表情を母は浮かべていた。背中に回わされた腕は穏やかにトントンと彼を叩いた。静かに聞こえる鼓動は温かさを伝えてくれた。
凍えた身体をゆっくりと溶かすようにその思いを届けてくれた。
しかし、彼は自分の腕を母の背に回すことはできなかった。
ただただその優しさが辛かった。頭を撫でてくれた、手を繋いでくれた、そんな温かな幸せをこの手で壊してしまう気がしたから。
そして、そんな温もりとの対比で彼は自身の中にある淀みの正体に思い至った。優しさを感じれば感じるほどそれが際立ったのを感じたのだ。
彼を蝕んでいたもの。それは蓄積した悪意だった。
故に、その日を境に彼は部屋に引きこもった。
できる限り他者との接触を避けるためだった。彼は家族とすらまともに会話もしなかった。
そんなあらゆるものを拒絶しようとした彼の唯一のコミュニケーションはドアの前に食事と一緒に置かれたメッセージカード。
いつものようにドアを開け、トレーを部屋に持ち込む。
きれいにラップで覆われた料理。ラップを外してもまだ湯気が出ていた。
食べる前にメッセージカードに目を通す。
『今日のご飯は生姜焼きです。生姜をちゃんとすりおろした自信作です! これを食べて元気を出してください』
すぐにカードを置いて、手を合わせて食べ始める。これ以上メッセージカードを眺めているわけにもいかなかったためであった。きっと、その文字が滲んでしまうから。
彼が引きこもっていた期間はあまり長いものではなかった。彼はすぐに部屋から出たのだ。
理由は色々とあった。第一に、一向に淀みに変化が見られないこと。そして、何よりも家族に心配をかけられなかったからだ。
彼の家族は彼が部屋から出た時には飛び跳ねて喜んだ。抱きしめて、涙だって流した。彼はそんな家族に迷惑をかけたくはなかった。
だが、彼が部屋から出たからといって、問題が解決したわけではなかった。
そのため、彼はその蓄積した悪意を除去するためにさまざまなことを試みた。明るい気持ちになれるようなドラマを見たり、気分転換に遠出したりもした。鏡の前で笑顔の練習も行ったことがあった。口角を上げようとしても鏡の端に映る淀みがそれをさせてくれなかった。
そうして、彼が試みたほとんどは一切の成果を見せなかった。しかし、その中で一つだけ手掛かりを見つけることができた。
ある日のことだった。彼が悪意に蝕まれながらも必死に取り繕って行った学校の帰り道。
彼の隣をフルフェイスのヘルメットを被った男が駆けて行ったのだ。見るからに怪しいその姿はやはり悪人で、周囲の人がひったくりと叫ぶ声が聞こえた。
彼は逡巡した。追いつくことができるのか。そもそも、こんな自分に何ができるのかと。
そして、ひったくり犯が角を曲がり見えなくなってしまう寸前、誰かが彼の傍を通った。
「待ちやがれ!」
その言葉と共に一つの影が走っていき、あっという間に後ろ姿すら角を曲がって見えなくなった。どうやらその人物は同年代の少年のようだった。彼が重く、靴に鉛でもあるかのように進めないその道を力強く軽やかに駆けて行ったのだ。
やがて、犯人を捕まえたのか、姿が見えなくなった先から歓声が聞こえた。想太は思わず踵を返した。情けなかったからだ。何もできない自分と走っていった彼を比べて。
そんな帰路の最中、想太は微かな、だが確かに変化を感じた。何をやっても変わらなかった胸の中の淀みがほんの少し和らいだように感じたのだ。
そうして、淀み、悪意を打倒するためにはあるものが必要だということを知った。
それを知った彼だったが、彼自身には既にそれはなく、覆すことはできなかった。
そんな中でも日々は流れ、生活の中で淀みは膨らんでいく。最初は足、次に腰と徐々に沈んでいく身体。動かそうとするたびに重くまとわりつきその動きを阻害する。そして、ついには全身が飲まれて一寸先も見渡せない暗闇となった。
足をばたつかせても決して底にはつかない沼。
それはどこまでも彼の足を引きずり込んだ。
自身の限界が近いことを彼は感じ取っていた。限界を迎えて暴走するとどうなるか。彼は確信していた。あの日、母を振り払った程度で済むわけがないと。
そんな焦燥に駆られていたある日、彼はとある学校の存在を知った。元々名前は聞いたことがあったこともあり興味を惹かれていたこともあったが、それが決定的なものになったのは紹介文を眺めていた時だった。
想太はある一文に目を奪われた。不自然を上手く扱うことができない者のための授業。まさに彼にうってつけの内容であった。彼はそれに望みをかけてその学校――星見学園――に入ることを決めた。
そうして、入った学校であったが、すでに限界寸前であり悠長にしていられないことはわかっていたので彼自身でも動いた。
彼が取った手段。それは適当な不良に彼が絡まれて不幸な生徒を演じることであった。そうすると、助けに入る者が現れるかもしれないと彼は考えた。そして、その人物こそが彼が求めるものを持つ可能性があるとも。
そうして、彼は思惑通りに入学初日に出会うことができた。実際には、それは人目にあまりつかない場所で行われた――所謂、予行練習のような――ものだったが確かに功を奏したのだ。
建物に囲まれた路地であったのにも関わらず、どこからか想太を見つけて現れた二人。浦原表裏と長井掬央。想太は彼らに自身の場所さえわからなくなるような暗い泥沼の中で微かな光を見た気がした。
◆
想太は静かに目を開く。眼前に映るのは彼が望みをかけた二人。
だが、その二人も倒れてしまった。悪意の前では敗れるのみだった。
一度溢れ出た悪意は止まらない。止められない。既にそれは彼の制御を離れ始めていた。
彼は自身に言い聞かせる。
(わかっていたはずだ)
この悪意と対峙した者がどうなるかなんて。
深くまとわりつく泥の中、彼は微かに動く腕を自身の胸元に持っていき掴んだ。
まだ新品同然の制服がくしゃりと見る影もないほど強く握られる。数刻の間、そうしていた彼だったが、気を取り直したように力を緩め、眼前を見据えた。
開かれた手はほの白く、その服に刻まれたのは深く、粘土が渇いてひび割れたような皺。
「君たちは“勇気”がなかった。特別ではなかったんだ」
ゆっくりと溢れる悪意が眼前の表裏たちを襲うように動き出す。倒れ伏した表裏たちには到底どうにもできない。
想太はそれを見届けることなく目を瞑る。きっと、この後も悪意が尽きるまで暴れることになるだろうと。だから、せめて最低限の被害で、なんてことも願いながら。
やがて、想太の耳にある音が届いた。鈍いものではなく軽やかな音。それが何度も小気味よく聞こえた。
想太は思わず目を開けた。そこにはーーーー。
「勇気を持っている奴が特別だあ!? 勇気がそんな大層なもんであってたまるか! 勇気ってのは誰もが持っているもんで、それで進めるのなんて精々が一歩分だ! けどな――!」
そこには、二本の足でしっかりと立ち、その足で踏み出した表裏がいた。
表裏は寸前まで迫っていた悪意による攻撃を潜り抜けて想太へと走り出す。先ほどまでの様子を全く感じさせない地面を力強く蹴る走りで。
一歩、また一歩と距離を縮めていく。ありとあらゆる方向から襲ってくるものには目もくれず、想太のみを見据えて歯を食いしばって駆けてくる。
「けどな! その一歩は何かを変えることができるかもしれない一歩だ!」
(どうやって立ち上がった!?)
想太は驚愕に目を剥く。信じられなかったのだ。
徹底的に打ちのめされ、その身に纏わりつく悪意をものともしない。そんな人物を見たこともなかった。
その足は止まらない。止まってくれない。きっと、真っ直ぐに変えようとしているのだろう。
(だけど、それは届かないよ)
ついに表裏が想太まであと数メートルというところまでやって来た。
だが、とうとう悪意による攻撃が追いつき表裏に降り注がんとする。
もう逃げ場はない。虎穴に入らずんば虎子を得ずなどと言うが、これはそんな生易しいものではない。それよりも遥かに恐ろしいものなのだ。
抵抗は潰える。想太には容易くそれが想像できた。
「……変えられなかったね。君も……僕も」
それでも、表裏は少しも怯まなかった。目に光を灯し、不敵に笑ってさえみせた。
そして、声をかけた。この場にいたもう一人の男へと。
「まだだ! 頼む!」
表裏までほんの少しという距離まで攻撃が迫った時、それに向かって飛んでくるスプーンがあった。
「……無茶……言いやがって。……早く行け……バカ野郎!」
「ああ! 任せろ!」
想太がそちらに視線をやるとそこには、倒れ伏して動けなくなっていたはずの掬央が立っていた。
彼は息も荒く、身の丈ほどもある大きなスプーンを支えになんとか立っていた。そして、そんな彼によってほんの少しの間、悪意の動きが止まる。
援護を受けて、止まった悪意の隙間を表裏は潜り抜けた。動き出す前に滑り込んで彼はその勢いを更に増していく。
「ぐっ……!」
それでも、止めきれなかったものや効果が切れたものが表裏の身体を少しずつ打ちつけていく。
だが、止まらない。表裏は後退する身体を押し留めてさらに一歩と、前のめりになっていく。
さらに、表裏に悪意が牙を剥く。
「いくら立ち上がっても無駄だ! この感情に終わりはないよ!」
表裏へ二本に分かれた悪意が迫っていく。確実に対処できない攻撃が向かっていく。
「表裏!」
とうとう表裏に悪意が直撃した。よろめき、勢いが止まる。その衝撃で背中が曲がり、今にも顔から倒れそうになる。
そこに迫るもう一本の悪意。足を止めた表裏には躱わす術はない。
今度こそ完全に想太には表裏の歩みは終わったようにも思えた。
ところが、表裏は倒れなかった。
「……こっちだってなあ! まだ進んでねえんだよ!」
表裏は倒れるどころか、一方の悪意を受けながらも、もう一方の悪意の衝撃を裏返してみせた。
さらに、表裏は前進していった。
(まだ止まらない……!?)
想太の内心の驚愕をよそに、表裏は襲いかかる悪意全てを乗り越えてついに辿り着いた。
無茶を通した表裏の姿は傷だらけで、制服には穴が開き、顔にはアザだってあった。
想太には分からなかった。どうしてそこまでするのか。逃げればいい。折れてもいいはずだ。何度も打ちのめされた姿を知っている。
それなのに、表裏はこうしてヘラヘラと何でもないように想太の目の前で笑っていた。
「よっ、意地っ張り。色々言いたいことはある。でもな、まずはその趣味の悪いもんから出てきやがれ!」
表裏はあろうことか想太に向かって手を伸ばし、彼の身を覆う悪意の元へ手を突っ込んだ。
ぎょっとして、目を見張る想太。悪意の大元であるそれが無害なんてことは当然ない。
それなのに、一切の躊躇いもなく手を伸ばしてきた表裏。
苦悶の表情を浮かべながらもその手を引っ込める気配はない。
それどころか、さらに奥へと手を伸ばしてくる。
「何をやってるんだ……!」
表裏の拳はもう想太に届くはずだ。今すぐにでも攻撃してもいいはずだ。それがどうして、そのような無駄な行為をする必要があるのか。想太には理解ができなかった。
「やっと気づいたんだ。苦しいんだろ、お前!」
「何を根拠に……! 的外れも良いところだ!」
想太は蔑むようにその言葉を否定する。そんなわけがないと。
だが、表裏はどこか確信を持った様子で更に続ける。
「そんなもん抱えてりゃあ、苦しいに決まってんだろ! 俺でもわかるぜ!」
そう言って表裏は更に腕を悪意の奥へと伸ばしていく。
いくら想太が拒絶しようとしてもそれさえも意に介さずに。
振り払った。傷つけた。二人の善意を利用して一方的に巻き込んだ。それに今だって苦しいはずだ。
「何でだよ……!」
想太が絞り出すように放った声は震えていた。
さらに、心の内から溢れ出た理解が追いつかない二人の行動に対する言葉をぶつけていく。
「僕は君たちを騙していたんだぞ……!」
悲痛な言葉が想太から発された。
そもそもの始まりが嘘であった。すなわち、想太と彼らの間には何もない。最初から繋がりなどなかった。
故に、助ける義理もまた彼らには全くもって存在していないはずだった。
「騙す? 何を言ってんだお前。あれで騙していたつもりかよ」
しかし、表裏はあっけらかんとそう言い放った。心の底から疑問に思っているように首を傾げてもみせた。
想太は呆気に取られた。ここまで来てまだわかっていないのか。それほど、楽観的だったのか。それとも、何か信じているのか。
想太は表裏の認識を正すために思わず口を開いた。
「だから……! 僕は――」
ところが、その先が言葉として出されることはなかった。表裏が遮るように続けたからだ。想太の言葉さえもかき消すような大きな声で。
「いいか、俺たちを騙したいって言うんならなあ! もっと上手く笑いやがれ! 下手くそに泣きやがれ! わかったか、大根野郎!」
一人、たった一人で沈んでいた一寸先すらも見えない真っ暗な底なしの泥沼の中に波紋が広がる。何かが泥沼の中に入ってきて同時に伝わってくる。それは泥を掻き分けて何かを探すように進んでいる誰かの手だと。
その手が想太の近くまでやって来る。手探りで、時間をかけてもその手は決して止まらず向かってきた。
そして、ついにその手は想太の手を掴んだ。
その瞬間、何度も踠いてはその度に疲弊し、冷え切った想太の身体に微かな熱が宿った。悴んだ身体に力が入る。想太は必死に力を込めた。すると、あれだけ底が見えなかったはずなのに足が泥沼の底についた。
想太は足でその感触を確かめ、渾身の力で地面を蹴った。
彼の身体がもの凄い勢いで上昇していく。掴んだ手を離さないように、その手に引っ張られるように。
しかし、後少しで水面というところまでやって来て、纏わり付いた泥が重みとなった。勢いが死んで、再び水面が遠くなっていく。掴んだ手が引っ張り上げる力も弱まっていき、繋いだ手が解けていく。
今まで通りの暗闇が広がっていく。背筋が凍るような冷たさが伝わってくる。
(僕にはやっぱり――)
そんな思いが頭を過ぎる。水が目に滲みて開けていられなくなる。
「手を伸ばせ! 想太!」
声が、聞こえた。
歯を食いしばる。不恰好に、顔を歪めながらも手を伸ばす。今度は両手で掴みにいく。
すると、先ほどとは違う手が掴んできた。
(長井君……!)
それによって、引き上げられる力が増し、纏わり付いた泥さえも振り落としていく。水面が近づいてもその勢いは衰えない。
そして、ついに想太は泥沼から飛び出した。
「うおっ!」
「あぶなっ!」
「うわっ!」
想太は勢い余って表裏と掬央を巻き込んで一緒に地面を転がる。ゴロゴロと目を回して三人で倒れ込んだ。
想太は仰向けで寝転びながら、そのままの体勢で一度、二度と深呼吸をした。それから、彼は語り出した。
「僕は怖かったんだ。増大していく悪意が制御を失い、大切な人に牙を剥くのが。僕は弱いんだ。一人じゃ何にもできないほどに。だから、探した。僕の代わりに悪意を倒してくれる人を。人を助けることを厭わない、“勇気”を持つ人を。僕にはこんな手段しか思いつかなかったけど……」
彼は身体を起こして、表裏と掬央の目を見た。その上で頭を下げた。
「でも……、だから……君たちの“勇気”を貸してほしい……!」
「最初からそれが目的だったってわけか。なら、早く言え。なあ、掬央」
「そうだな。いくらでもくれてやる。有り余っているからな。そうだろ、表裏」
「バカ言え。俺の方が持ってる。……って言いたいところだが、俺たちはさっき見事にやられちまったからな。俺たちだけじゃ勝てねえ」
表裏たちが未だ存在している悪意を指差してそう言った。
彼らの言ったように一見解決したように思えたが、悪意は想太が抜けたことで一時的に動きを止めているだけであった。その存在感を一層強めてさえいた。
「そ、そんな……。なら、僕はどうしたら……」
それによって、想太は狼狽した。突然梯子を外されて、彼は放り出された気分になった。
一方、表裏はどういうわけかニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「助けてやるってことは、お前は俺たちに借りを作るわけだ」
「う、うん。そうだけど……」
想太はその妙な迫力に困惑するがままに肯定した。
その際、彼に手が差し伸べられた。だが、彼はその手の意味を読み取れず、立ち尽くしてしまう。
そこに、表裏が更に続ける。
「だから、それを今ここで返してくれ。お前の力が必要だ。三人もいれば三歩は進める。そしたら、変えられるだろ!」
「踏み出せるかな……こんな僕でも」
想太は逡巡する。とうの昔に諦めてしまった自分に何かを変えられる力があるのだろうかと。彼にはそれに足る“勇気”がある自信がなかった。
手を伸ばしては、引っ込める。開いては閉じる。そんなことを数度繰り返してしまう。
「足がすくんだら、背中ぐらい押すさ」
そんな声が聞こえた。それは大きな声ではなかったが、想太の耳に強く響いた。
想太は自分の左胸にそっと制服についた皺を伸ばすように手を当てた。さらに、彼はその手をぎゅっと握り、強く胸を叩いた。
もう迷いはなかった。伸ばされた手をそっと慎重に、そして力強く掴んだ。
「……うん。改めてお願いするね。僕と一緒に悪意を倒してくれ!」
「よっしゃ! 行くぞ!」
掴んだその手をこれまた力強く握り返した表裏がそう言った。
三人並んで悪意と相対する。顔を見合わせて頷き、三人同時に走り出した。
「来るぞ!」
掬央が注意を促す。
言葉通り悪意が再び動き出し、その黒々とした鞭のようなものを振り回してくる。
想太はそれに対処するために足を止めようとして、やめた。
それよりも先に向かっていった背中が見えたからだ。
「一歩目!」
表裏が前に出て、攻撃を裏返して防ぐ。
言葉にされなくてもその姿から伝わってきた。先に行けと。
「浦原君、任せた!」
更に想太は先に向かう。悪意の中心部へと進んでいく。
それに伴って攻撃の密度も大きくなっていく。
掬央のスプーンに防いでもらっていたが、悪意の手数が上回ってくる。
そして、とうとう想太に攻撃が当たりそうになった。
想太は両腕を身体の前で組んで少しでも威力を減衰させようとした。
しかし、一切の衝撃が来ることはなかった。
「二歩目だ!」
なぜなら、掬央が巨大なスプーンでその攻撃を受け止めたからであった。
「ありがとう!」
想太は止まりかけた足を再度動かした。ここまでお膳立てしてもらったこのチャンスを無駄にはしたくなかった。
そうして、想太はついに悪意の下まで辿り着いた。
「もう前に進めないんじゃないかなんて思っていた。身体が重くて、乾いた泥は硬くて動けない。ずっとそんな感覚だった。だけど――!」
悪意へと手を伸ばす。奥へ奥へと、腕をそれへと沈めていく。悪意の中心部、それを壊すために。
悪意が流れ込んできて総毛立っても、噛み締めた歯がガタガタと震えてもその度に自身を奮い立たせた。
だが――。
(進めない……!?)
悪意は中心部に近づくにつれて強固になっていた。故に、想太の手はその動きを阻まれてしまった。
それでも、想太は諦めなかった。彼は何度も力を込めた。強く噛んだ唇から血が流れるほど力んだ。
しかし、微動だにしない。後少し、ほんのわずかであるのに届かない。
(せっかく……ここまで助けてもらったのに……! 僕は……僕は!)
力が抜けていく。腕が曲がり、下がっていく。足が震えて身体ごと後退していく。体勢が崩れて立ってすらいられなくなっていく。
そんな中、不意に想太は後ろから衝撃を受けた。
「言っただろ! 背中ぐらい押すって!」
「それとも、まだ押し足りないか!」
想太は思わず笑ってしまった。油断などできるわけがないのに、力が抜けた。先ほどまでなら確実に倒れてしまう気の緩み。にもかかわらず、想太は今までの障害などなかったかのように前進していく。
(僕はまだまだ胸を張れる“勇気”を持ててはいないけど、いつかきっと僕自身の足で一歩進んでみせるから!)
「これで三歩目だああああ!」
ついに想太は最後の一歩を踏み出すことができた。
それによって悪意が崩れ始めた。悪意から黒が抜け落ちていき、さらさらとまるで灰のように散っていった。
「やっと……終わった」
それを見届けると、想太はその場に腰を下ろした。身体中の力が抜けて、何をするのにもふわふわとして億劫に感じる。
そんな彼に表裏と掬央が歩み寄って来た。彼は今すぐにでも休みたい気持ちを振り切って二人にお礼を言おうと口を開いた。
「二人がいなかったら、僕はきっといつまでもこの一歩を踏み出せなかった。二人とも本当にありがとう!」
しかし、少しの間待ってみても返答がなかった。彼が首を傾げて二人を見ても、聞こえてはいるようで頷いていた。そのうえ、ニコニコと不気味なほどの笑顔を浮かべていた。
「ふ、二人とも……?」
恐る恐る尋ねた彼の言葉に対する返答は拳だった。彼は混乱する間も無く、勢い良く倒れ込んだ。
「ぐ、ぐはあ! な、何を……!?」
「何をだと。こっちは散々ボコスカやられてんだ。仕返しの一つぐらい普通だろ」
「むしろ、一発で終わらせた分優しいと言えるぐらいだ」
「そ、そんな……空気じゃ……なかったと……思うんだけど……!?」
「なあに、これでチャラだ、チャラ! 蟠りはこれでなくなったということでラーメンでも食べに行こうぜ!」
「そうだな。何ラーメンがいいか迷うな」
「そ、そう。で、でも僕はあんまり気分じゃないなあ……なんて」
「何言ってんだよ。俺はチャーシューで」
「そうだぞ、想太。俺はチャーハンだ」
「その注文は何かな!?」
想太はしっかりと恨みを覚えていた二人から這って逃げようとした。このままでは財布が寂しくなってしまうと。
しかし、一向に進むことはできなかった。
「どこに行くんだよ」
「そっちにラーメン屋はないぞ」
「そっちこそどうして足を掴んで来るのかな!?」
そのままずるずると引きずられていく。その最中、想太はせめてもの抵抗として言った。
「僕はうどんがいいな……!」
「そうか、早くラーメン屋に行こうぜ!」
「何か……釈然としない……!」
当然却下され、彼はラーメン屋で注文するメニューを考えることにした。
その時見えた空は夕陽が差して赤みを帯びており、まだまだ肌寒いこの季節とは裏腹に、ポカポカと温かく感じられた。