体力勝負 2
スタートの際、余計なことに気を取られてしまった表裏だったが、どうにか持ち直して目の前の勝負に集中する。
注意すべきは時間のみ。制限時間にさえ間に合っていれば、負けはしないと意識を切り替える。
彼は慎重に走る。タイマーに表示される残りの秒数を見て、逆算した。ちょうどギリギリで間に合うペースを。表裏にはわかっていた。持久走において、大切なことはとにかくペースを乱さないこと。一定のペースで走り続けることこそが長く走るコツとなる。走る、止まるを繰り返すほど体力の消費が多くなってしまう。そのため、表裏は限りなく一定のスピードで走れるペースを探った。
(よし、このペースだ。これを意識しろ。焦る必要はない)
ひとまず、ちょうどよいペースを見つけた彼は意識を前方に向けた。
そして、彼はその姿を視界に入れた途端に嘲った。
彼と異なり、山田がどう見ても温存など考えてはいないペースで走っていたからだ。それも表裏が半分ほど進んだ時点で山田は一周を終えるようなペースで。それほど体力に自信があるのか、それともただの考えなしか。表裏には意図を読めなかったが、それが有利に働くことは理解できた。
(バカめ、舐めてやがるな……。けど、その分こっちにも勝機ができた)
そうして、表裏は冷静に焦ることなく一周を制限時間ぴったりに走り終えた。
再び着いたスタート位置では、既に山田が腕を組んで立っていた。当然始まったばかりでまだ両者とも余裕があるが、彼は見るからにそれ以上の余裕を見せていた。
「待ちくたびれたぞ。身体が冷えしまうではないか」
「そっちこそ、バカみてえなペースで走りやがって。すぐにガス欠になんぞ」
表裏が辿り着くと同時に二周目が始まった。表裏は止まることなくそのままに。山田は一度目と遜色ないどころか、それ以上に力強いスタートを切った。
「そんなやわな鍛え方などしておらん。こんなペースであれば日が暮れても走っていられる」
「それはこっちの台詞だ。俺はあんたと違って考えて走っているからな。明日までだって走れるぜ」
二人は互いの距離が離れる前に軽口を叩き合った。
そして、山田の姿が離れていくと表裏は再び自分のペースを遵守することに没頭する。
ああ言ったが、圧倒的な体力差を彼はひしひしと感じていた。ほとんど短距離でも走っているかのような山田の走り。それはその身体能力を改めて表裏に思い知らせてきた。
表裏は昂った心を抑え、呼吸のリズムを意識した。できる限りインコースを走り、体力の消費を最低限に抑えることも頭に入れた。
そうして、一周目と全く同じように二周目を終えた。
続いて三周目。表裏は一切ペースを乱さず、山田はこれまた速く駆け抜けた。
一周走るごとに山田は余った時間でゆったりとリラックスする姿を見せていた。それは表裏の目にも当然入り、その余裕が彼を苛立たせた。そのため、彼は何度も言い聞かせた。これは山田との勝負ではない。自分自身との戦いだと。
彼らの勝負は更に加速して五周、十周と積み重なっていった。
すると、表裏の身体にも変化が現れ始めた。身体が熱を持ち始めたのだ。通常であれば、まだこの時期は肌寒く半袖で過ごすことなど到底できない。実際、彼も長袖のジャージを着用してこの勝負に臨んでいた。しかし今、彼はそんな冷気を感じなくなっていた。終いには、背中にじんわりと汗をかき出した。
「顔が赤くなっているみたいだが、もう終わりか?」
一周を終えたところでそんな言葉を山田からかけられる。表裏は声を出さず、走りながら上着を脱ぎ捨てて答えた。
「そう来なくてはな!」
汗をかき始めたが、表裏の息はまだ乱れていない。彼はようやく身体が温まってきたところだと再度気合いを入れ直した。
そこからも勝負は続いた。
表裏がかく汗はより多くなり、頬を伝い顎から地面に落ちるようになった。さらに、額から滴る汗が度々目に入って彼の視界を歪ませた。
それに対して、山田は依然として涼しげな顔で腕を組んで彼を待っていた。
「どうした、限界か?」
表裏はこの問いに対しても答えなかった。いや、答えられなかった。彼の息がとうとう乱れてしまったのだ。あれだけ意識していたはずの呼吸が浅くなり、酸素を求めて口が開いてしまっていた。
それでも、タイムリミットはあるため彼は止まらなかった。だが、目に見えてその影響が出始めた。最初から今まで保っていたペースが乱れ出した。先ほどまでの感覚で走っていると想定よりも遅れが出ていたのだ。力を振り絞りペースを上げる表裏。そして、今回も制限時間ぴったりに着いた。
しかし、それは今までとは違い狙ったものではなかった。彼は辛うじて間に合っているという状態だった。
姿勢が崩れて前のめりになる身体を起こして、彼は懸命に走った。腕を振り、ペースなんて跡形もなくなっても足を動かした。
そして、彼はとうとう遅れてしまった。一周する前に制限時間を迎えてしまった。次の制限時間が来るまでに後二回スタート位置まで走らなければならない。
彼は不恰好なフォームで走った。顎が上がり、足が上がらなくなりながらも走り切った。どうにか間に合わせられた。
しかし、もう既に決着が着いたことは誰の目にも明らかであった。ほとんど息が切れていない山田。対して、ふらふらで今にも倒れてしまいそうな表裏。考えるまでもなく表裏の敗北だった。実際その通りに彼の足はその勢いを徐々に緩めていった。やがて、彼は完全に立ち止まった。その時、彼は腰に手を当てて肩で息をしていた。
「決まりだな。これで俺の勝ちだ」
山田が勝利宣言をして組んだ腕を解いた。そして、彼はグラウンドに背を向けた。
そんな彼を表裏は引き留めた。
「……待てよ。まだ……終わって、ねえぞ」
紡がれた声は途切れ途切れで小さなものであったが、山田には届いた。そして、彼は振り返って表裏には問いかけた。
「まだやるつもりか? 素直に負けを認めたらどうだ」
その言葉に彼は不敵に笑ってみせた。追い詰められているとは思えない表情を浮かべた表裏。山田が怪訝な顔をしている中、彼はその場で腕を軽く上げた。唐突な彼の行動を訝しむ山田。そんな山田を意に介さず彼は手を掲げ続ける。
そして、その手のひらを叩く者がいた。いつの間にか体操服に身を包んだ掬央だった。彼は軽く表裏の手を叩くと、表裏に代わって山田と対峙した。
「というわけで、選手交代だ!」
「は?」
あっけに取られて固まった山田を置いて場の状況は変わっていく。
表裏はそれを見届けて、場を見守っている末広の近くに腰を下ろした。
「いやダメだろう! そんなのが罷り通ったらルールも何もないだろうが! おい、羽打! これはどうなんだ!」
「と、おっしゃっておりますが、どうですか審判」
表裏は末広に尋ねた。
末広は何度か頷いた後、口をもごもごと動かして答えた。
「別に……問題は……ふぅ、ないですよ。僕がルールですから!」
「お前何か貰ったな!?」
「そんなことないですよ。……うまっ」
「買収されやがって……!」
「ふっ、喚いたところで結果は変わらないぞ。権限は審判にあるからな。これもあいつの卑怯な作戦だ」
「ただの反則だろうが! はあ、まあいい。……二人がかりで来ても無駄だ。結局のところ長く走っていた方が勝ちだ」
「そう言っていられるのも今のうちだ。行くぞ、第二ラウンドだ!」
そう言って、掬央と山田の二人は勝負を再開した。
表裏は息を整えながら、その勝負を眺める。表裏の時と同じように掬央が丁寧に、山田が速く走っていた。恐ろしいのは山田の体力だ。掬央は万全の状態であったため理解できるが、山田に関しては表裏と走った後であるにも関わらず一切の影響を感じさせなかった。
そして、あっという間に山田が帰って来た。
「まだまだ余裕じゃねえか……!」
「当然だ。俺が小細工などに負けるわけがないわ!」
「くそっ。掬央! ゴールはまだまだ先だぞ!」
「任せておけ! じきに俺が前を走るようになる!」
掬央も帰って来て二周目が始まる。
三、四と再び数を重ねていく。掬央も順調に走っていくが、山田はそれ以上に速く駆け抜けていく。
汗で身体が冷えないようにタオルで拭いながら、表裏は祈るように勝負の様子を見ていた。
そんな彼にペットボトルが差し出された。末広からだ。彼はそれをありがたく受け取って喉を潤した。
「やっぱり山田先生は凄いね」
「凄いなんてもんじゃねえよ。どうなってんだ、あの体力。筋肉がある分、身体だって重いはずだろ」
「それ以上に鍛えているってことなんじゃないかな」
「限度があんだろ……」
「僕も小耳に挟んだ程度だけど、休みの日にはフルマラソンに参加しているって噂があるくらいだからね」
「フルマラソンって、マジでまだまだ走れるってことじゃねえか……」
表裏は頭を抱えた。相手の強大さに彼にはこの勝負が無謀なものであるように思えてきた。仮に勝つことができたとしてもこのペースで進めば日が暮れても全く終わりそうにはない。彼は勝っても負けても碌なことにならないことを改めて悟った。負けたらペナルティがあり、勝つとしたら日が暮れるまで走ることになってしまう。
両方辛いが、どちらの方がマシか彼は考える。その結果、彼の中で勝つ方が最終的にはマシだという結論が出た。そのため、勝つための算段を再度組み立てる。そして、タイミングを逃さないようにじっと掬央たちを見つめた。
山田が軽快に走っている中、掬央の動きは回を追うごとに悪くなっていった。息が荒くなっているのが遠目でもわかった。表裏が呼びかけても反応することがなくなり、視線を向けてくることさえも少なくなっていった。
表裏はそのタイミングで次の手段に出ることにした。
体力的に考えれば、山田が制限時間に間に合わなくなることは非常に可能性が低い。だからこそ、表裏は考えた。物理的に止めれば良いのだと。そうしてしまえば、体力がいくらあろうと関係ない。確実な勝利を得られるはずだと。
そのために表裏は必死に走った。可能な限り山田の体力を削る必要があったからだ。掬央と交代したのも純粋に体力勝負に勝つためなのと、勝てなかった場合においてより体力を奪えるようにするためだった。さらに言えば、意識を掬央に引き付けて表裏から離す目的もあった。
掬央がちょうど前を通過する時に表裏は声をかけた。
「掬央、頑張れ!」
その言葉が予め伝えておいた合図だった。これならば声を張り上げても違和感を与えることはない。
表裏は一歩二歩と歩き、ふらふらと地面に手をついた。とは言っても、立っていられなくなったわけではない。これこそが物理的に山田の動きを止める手段だったからだ。
一周のゴールの手前付近。表裏はそこの地面の硬さを裏返して柔らかくした。踏み込むだけで沈み込むように。それによって山田を沈めて逆転できるはず。入学式の日には抜けられてしまったが、制限時間ほどの間は動きを止められる自信が彼にはあった。
思惑通り、山田が裏返されて柔らかくなった地面に差し掛かる。表裏は拳を握り、小さくガッツポーズをした。そして、山田がその足を進めて――。
「え?」
そんな呆けて声を出したのは表裏だった。勝利を確信していたはずの彼が呆然とそこを見る。
「甘いな浦原。俺が一度食らったものを警戒していないわけがないだろう。お前の妨害は想定の内だ。だから、常にお前の動きはそれとなく見ていた」
表裏の策は失敗した。山田が柔らかくなった地面まで来たところまでは上手くいっていたが、そこからは想定外のことが起きた。山田が跳んだのだ。その大きな身体を揺らしながら、まるでタンポポの綿毛のようにふわりと地面を跳び越えたのだ。走り幅跳びのように見事な跳躍を決めた山田は勝ち誇ったように腕を組む。
表裏は地面に手をついた。今度は作戦などではなかった。渾身の策が簡単に破られたショック、あまりにもの勝機のなさに手をついてしまったのだ。
(いや、まだだ! まだ何か方法はある。だから考えろ! ひとまず、掬央に走ってもらって、その間に考えるしかない!)
「掬央、頼む! 避けられた! 急げ――」
そこで表裏は言葉を途切れさせた。顔が引きつって、動きを止めた。
「き、掬央? お前何してんの!? 合図は!?」
「……必死に走っている時に合図を聞く余裕なんてあるわけないだろ。常識的に考えろ」
「こ、交代! 俺が走りまあああす!」
表裏は地面に半分ほど沈んだ掬央に代わって走り出した。
いくら軽く息を整えたとしても、疲労が抜けるわけではない。ろくに役に立たなかった掬央と交代した表裏には早くも余裕がなくなっていた。口を大きく開いて必死に酸素を取り込む。カラカラと喉の奥が乾燥してへばりつく。
そんな不快感を抱えながら表裏は一周走り終えようとしていた。制限時間に少し余裕を持っていた形だ。休んでいた分ペースがずれていたらしい。
「先生、喉が渇いていませんか?」
山田は既に走り終えていて掬央と話をしていた。掬央がにこやかにコップを差し出している。さっき持っていた粉末のスポーツ飲料で作ったものだろう。
「何だこれは?」
「飲み物です。そろそろ喉が乾いたのではないかと思いまして。どうぞ、水分補給は大事ですよ」
「そうだな、脱水でも起こしたら大変だからな。早めに水分補給をすることは大切だ。気遣い感謝する」
山田がコップに手を伸ばす。その瞬間、表裏は見た。にこやかな顔から一転、ほくそ笑んだ掬央を。
しかし、山田は掬央が差し出した方のコップを取らず、反対の手に持ったコップを取った。
「どうした、長井。俺がそっちを受け取ったらまずかったか?」
「い、いやそんなことはないです。ただ、表裏用に少し甘めにしてあるので口に合わないかと思いまして」
掬央はその手に持ったコップを離そうとしない。引きつった顔で必死に渡そうとした方のコップを押し付けている。
「だったら気にしなくていい。こう見えても俺は甘い物が好きだ。だから、ちょうど甘い物が欲しかったところだ」
「あっ、もしかしたらしょっぱくなっているかもしれません。やはりこちらの方を」
「何だ、言っていることが曖昧だぞ。それとも、どうしてもこちらを渡したい理由があるのか?」
鋭い眼光が掬央を貫く。掬央は静かに首を横に振った。
「そんなことあるわけないですよ!」
そうして山田にコップを渡した掬央が今度は表裏に近づいてきた。手には先ほど渡していなかったコップ。
「……なんだ?」
「水分補給だ」
「いや受け取らねえよ」
「何故だ!?」
掬央が愕然とするが当然だ。誰がこの流れで受け取るのか。ぐいぐいと顔に押し付けてくる手を払いのける。
「お前が飲んだらどうだ?」
「い、いや俺の分は他にある」
確かにもう一つコップが掬央が座っていた場所に置いてある。中身も同じくスポーツドリンクなのだろう。
表裏はしつこいセールスを押しのけ、置いてあったコップを手に取った。
コップを傾けて喉を鳴らしながら飲む。砂糖が多大に含まれているだろう甘さが身に染みる。失ったエネルギーの補給にはうってつけだ。
「それは俺のものだ! お前のはこっちだ!」
「別に良いだろ。中身は変わらないんだし」
コップを逆さにする。ぽたりと数滴残りが垂れたがもう空になっている。
「ほら無くなったぞ。お前の分はそれだな」
それでも掬央は飲もうとしない。コップを前に百面相している。
「どうした? もしやそれに何か入れたのか?」
山田もいい加減痺れを切らしたのだろう。もはや訝しんだ顔を隠そうともしていない。
「まさか、そんなわけあるはずがない!」
「だったら飲んでみろ」
流石にここまで言われたら逃れる術はなかったのだろう。どうやら観念したらしい掬央がコップに口をつける。
最初はそっと、少し口に含むとそのまま残りを一気に飲み干した。
そして激しく咳き込んだ。
掬央の手からこぼれ落ちたコップを拾う。そこからは微かに特徴的な臭いがした。酢の臭いだ。つまり、掬央は酢を混ぜたものを飲ませることによる妨害を図っていたのだ。
「こ、こんなはずでは……!」
地面に手をついた掬央のポケットから酢の入った容器が落ちる。中身が三分の一ほど減っていて中々に使っているみたいだ。ひょっとすると粉末を溶かすのに水を使わずに全て酢でやったのかもしれない。
拾った容器の蓋を開ける。強烈な臭いが漂った。
表裏は落ちていた掬央のコップにそれを注ぎ入れた。
「ほら、口直しだ。飲んどけ」
「ああ、助かる……ぶふうううっ!」
掬央は勢い良く口に含んだと思えば、これまた勢い良く吹き出した。むせてしまったのかもしれない。
表裏はおかわりを注いだ。
「う、裏切り者め! 勝つために動いている俺にこんな仕打ちを……! や、やめろお! 押し付けてくるなあ!」
「先に裏切ったのはどっちだ! 失敗の責任は自分で取れ! これだけ飲んだら帳消しだ! ああ俺って優しいな! せいぜい身体を休ませておくんだな!」
気分が晴れた表裏は再び走るために意識を切り替える。すぐに次の一周が始まる。
山田も準備万端なようでスタート位置についていた。その顔は酢よりも酸っぱいものでもあったかのようであった。
「無駄に体力を消費していると思うんだが……?」
◆
勝負はそこからも続き、更に何度も表裏と掬央が交代して山田と渡り合った。時には掬央がスプーンを投げて妨害したりもした。
だが、その全てが悉く通用しなかった。山田は不自然を一切使用することなくその身体能力のみで全て叩き潰した。
そして、表裏が必死に走っていると遂にその時が来た。
(もう後がねえ……。掬央ももう走れねえ。俺も……)
表裏がふらふらの身体を動かしながら頭を回した。どうにか逆転する方法がないのかと。
掬央はすでに限界を迎えた。彼は交代した直後に荒い息を吐いて倒れ込んだ。もう欠片も走れないようだった。
そして、表裏も限界を迎えた。進もうとした足が上がらずに転んでしまったのだ。とうとう決着が着いてしまった。
(くそっ、まだだ……!)
表裏が震える足で立ち上がって走ろうとする。しかし、もつれて一歩も進むことなく再び倒れそうになった。
「これで終わりだな。俺の勝ちだ」
だが、表裏の身体は地面につくことはなかった。山田が支えたからだ。僅かに息を乱しながらも真っ直ぐに伸びた背筋はまだまだ体力が有り余っていることを表裏に伝えてきた。
「……ああ、俺の、俺たちの負けだ……」
表裏は素直に負けを認めた。ここまでぐうの音が出ないほどの体力差を見せつけられたら認めざるを得なかったのだ。
身体から力を抜き、空を眺める。勝負を始める前まであれだけ青かった空はほとんど赤く染まっていた。
「……それで、あんたは何を要求するんだ」
始める前には教えてくれなかった罰。それを彼は問いかけた。
しかし、山田はあれだけ険しかった表情を緩めて、笑って言った。
「暗くなる前に帰れ。そして、家に帰ってしっかりと身体を休めることだ」
「……あんたは俺たちを護身術の授業で走らせたいんじゃねえのかよ?」
表裏は拍子抜けして言った。そもそも、この勝負は表裏たちを授業で走らせるために始まったものだと、表裏は思っていたからだ。
「最初の授業で走らせたのは、生徒それぞれの体力を測るためだ。運動が得意な奴、苦手な奴に同じことをやらせても効果は薄いからな」
「じゃあ、体力をつけるとか言ってたのは……」
「それも狙いではあるが、体力なんて一朝一夕でつくものではない。それに護身術の授業を通して自然につく」
「な、ならこの勝負の意味は……!」
表裏が声を震わせる。そんな彼に対して、山田は大きな身体を揺らしながら答えた。
「中々やるじゃないかお前たち。たった二人で俺の息を乱させるとは。これなら厳しくしても大丈夫だろうな」
表裏の頭の中に様々な苦労が蘇る。荒い呼吸を繰り返し、必死に酸素を求めた時。足が言うことを聞かなくなり、気合いで足を上げていた時。お酢を飲んで苦しんだ時。その全てに意味がなかったのだ。
だから、心の底からその言葉が出た。
「く、くそおおおお!」
そんな表裏の叫び声がグラウンドに木霊した。