第14話 ランナウェイ
「先生! 長井くんが抜け出そうとしてます!」
表裏が行った作戦。それは掬央を囮にするというものだった。表裏は最も姑息で最低な手段を行ったのだ。声で振り向いた掬央と、表裏は目が合う。掬央はあらん限り目を見開いて、口をぱくぱくと大きく動かしていた。
そんな彼に表裏は拳をグッと握り突き出した。応援のつもりだ。
さらに、彼が表裏に向かって口を開いた瞬間、ドシンドシンと重苦しい足音が鳴り響いた。
表裏は思わず視線をそちらに向ける。そこには、眉間に大自然で見られるような大きな谷が刻まれた山田がいた。鼻息荒く、蒸気機関が燃えさかっているような熱気を感じさせる様であった。
「長井! まだ懲りてないのか!」
表裏が掬央の方を再び見ると、既に彼は背中を向けて逃走を始めていた。それはこちらに一切振り返ることのないほど一心不乱であった。
そうして、掬央はグラウンドから去っていった。山田も彼を追いかけてものすごいスピードで姿を消した。
「作戦成功っ!」
表裏はほくそ笑んだ。
やがて、監視の目が無くなると、彼は一人優雅にゆっくりと歩を進めた。しれっと集団から外れてグラウンドから死角となる校舎裏へと向かう。
授業中であるために、休み時間や放課後に見られる喧騒を微塵も感じられない道を歩く。無事に抜け出せた達成感も合わさって、彼は心が弾んだのを感じた。
ふと、ふわっと香りが彼に届いた。それはどうにも香ばしく、昼食を食べたはずであるのにお腹が鳴ってしまうものであった。さらに言えば、どこか嗅いだことのある香りだった。
彼がその匂いの元に辿り着くとそこには予想通りの光景があった。
「何やってんだよ、あんた」
一人の生徒が座り込んでいた。その前には七輪があり、もくもくと煙を上げている。ジュージューという焼ける音も響いている。目の前の彼は熱心にパタパタとうちわを動かしてそれに風を送ったりもしていた。
表裏の存在に気づいたようで彼は顔を上げた。そして、表裏と目が合うと怪訝な顔をして言った。
「ダメじゃないか、新入生君。今は授業中だよ」
「いや、あんたの方が俺より性質悪いだろ」
至極真面目そうに説く彼であるが、当然説得力なんてものはなかった。むしろ、表裏の方が呆れたぐらいであった。
それでも、彼は表裏のその言葉に対しても、涼しげな様子でゆったりとくつろいだ姿勢を崩そうとはしない。
「まあまあ、午後の授業って眠たくなっちゃうからね。ちょっとした休憩だから。大丈夫だよ」
「今回は何を焼いてんだよ、ししゃも先輩」
そう、そこにいたのは以前出会った羽打末広だった。
表裏は彼の隣に腰を下ろし、七輪を眺める。今回は前回とは違い、焼いているのはししゃもではなかった。
「よし、そろそろだ」
どうやら焼き上がったようで彼が皿に取る。さらに、どこからか海苔を取り出してそれに巻きつけた。
「今回はこれだよ。ほら、君も食べるかい?」
そう言って手渡されたのは、四角い部分を基盤としてそこから丸く膨らんだ白い食べ物。つまりは餅だった。
「何で餅なんだよ。正月はもうとっくに過ぎただろ」
「だからだよ。ピークが過ぎたからか安売りされていてね。それをいっぱい買ったんだ。それに、餅はいつ食べても美味しいからね」
そう言って末広は美味しそうに餅を頬張った。
つられて表裏も餅に手をつける。モチモチとした食感と程良くついた焦げ目によってパリパリとした食感もあるというコントラストが表裏の食欲を非常に刺激した。加えて、海苔の風味もあり、さっぱりと食べられた。
「そうだ、はいこれ醤油」
末広から醤油瓶を渡された。表裏はごくりと喉を鳴らす。ただでさえこれほど美味しいものが更に上があるという期待感が胸を焦がしたのだ。
慎重に瓶を傾ける。ゆっくりと一滴ずつかけ過ぎないように。餅本来の味を台無しにしてしまわないように。
「いただきます」
表裏は餅にかぶりつく。咀嚼し、飲み込んで彼は目を見開いた。餅の甘味と醤油のしょっぱさが絶妙にマッチしてまるで全く違う料理を食べているように思えたからだ。
そこからは一言も発さずに食べ進めた。餅が冷めてしまう前に最高の状態で食べてしまおうと味わいながらも、あっという間に。
「口に合ったみたいだね」
「まあな。餅なんて久しぶりに食べた」
「餅は良いよ。美味しいし、腹持ちも良い」
その言葉に表裏は腹をさする。末広の言った通り、とても満足感があった。
表裏は足を伸ばす。だらんと脱力してくつろぎ出した。ぼうっと空を眺める。温もりを感じさせる柔らかな日差しが心地良かった。
「そういえば、大丈夫なのかい? その格好、護身術の授業なんじゃないかな。山田先生は厳しいよ」
表裏はだらしなく曲がっていた背筋をピンと伸ばす。そうだ、微睡んでいる場合ではなかったと。
そして、表裏は末広に話した。山田のスパルタから逃げ延びるために抜け出したのだと。
「ははっ! やるね! いきなり抜け出すとは!」
表裏は頭を抱えた。何だかんだでここまで逃げてきたのだが、それも全て勢いに任せてしまったものだった。そのため、今になって少し後悔してしまっていた。
「笑い事じゃねえよ……。バレる前に戻った方がいいか……!?」
末広はそんな表裏の様に顎に手を当てて黙りこくった。
そして、少ししてから表裏に言った。
「だったら、こう言うのはどうかな?」
表裏は藁にも縋り付く思いで末広を見つめる。一言一句聞き逃さないように続きを待った。
「勝負を挑むのさ」
返ってきた言葉はどうにも解決手段となり得るようには思えなかった。
勝負を挑むなんてことをしたら、余計火に油を注ぐことになってしまう。
「勝負? そんなもん、何の解決にもなってねえじゃねえか」
だが、末広はどうにも自信があるようで首を振る。指を立てて表裏に続きを話し始めた。
「いや、案外そうでもないよ。山田先生は知っての通り厳しい人だ。でもね、それ以上に自分に対してストイックなんだ。だから、勝負によって負けたのならば多少のことは見逃してくれはずだよ」
表裏は悩む。末広の言った通りに勝負を挑んで良いものか。果たして、そう上手くことが運ぶのか。
仮に勝負を挑んだ時のことを考える。どうすれば山田に勝てるか。それを思い描く。
表裏は冷や汗をかいた。全く山田を突破できるイメージが出てこなかったのだ。
一度、二度と頷いて表裏は決めた。
「よし、やっぱ無理だ! 今の内に戻る!」
表裏は立ち上がって宣言した。一刻も早く戻ろうと、急ぎ出す。
そして、餅のお礼を末広にしようと見ると、彼は何故だか手で顔を覆っていた。
首を傾げた表裏だったが、気にする暇はないと別れの言葉を告げる。
「じゃあな、お餅先輩! 俺は今から――」
「今から何だって」
「そりゃあ、こっそり戻って――」
その声は表裏の背後から聞こえた。
表裏の頭を混乱が支配する。そこには誰もいなかったはずだ。末広は確かに前にいるはずだと。
恐る恐る表裏は振り返る。
「浦原、何か言い分はあるか?」
山田がいた。肩に掬央を担いだ山田が立っていた。
心なしか穏やかな声で表裏に語りかけてくる。むしろ、それが表裏には恐ろしかった。
「ど、どうしてここに!?」
掬央を囮にして、山田の目に表裏は入っていなかったはずだ。それなのに、表裏がいないことを見抜いてここにいる。表裏にはそのわけがわからなかった。
山田は静かに担いでいる掬央を指差した。
それで、表裏は理解した。
「裏切ったなああ!」
目の前のこいつは仲間を売ったのだと。それは人として最低の行為であるはずだと。
すると、担がれていた掬央が息も絶え絶えに顔を上げた。
「裏切ったのはお前だろう……! だが、俺は優しいからな。お前を一人にはさせやしない!」
「こ、このやろう!」
表裏は怒りを何とか抑えた。今、冷静さを欠いたらどうにもならない。最も優先すべきことはここを逃れることだと、思考を切り替える。
「それで、覚悟はできているんだろうな」
山田の目が吊り上がる。さらに、ギチギチと音を立て始めるほど拳を強く握った。今にも飛びかかってきそうな迫力であった。
「俺はそいつに唆されたんです!」
表裏は咄嗟に掬央に罪をなすりつけようとした。せめて、自身の罰は軽くしようとした悪あがきだ。
しかし、山田は鼻で笑うだけで大きな反応を見せなかった。
その反応に表裏は内心首を傾げた。通じるにしても、通じないにしても、納得したり怒ったりなどするはずだと思っていたからだ。
「こいつもそう言っていたが?」
(クソ野郎……! 足を引っ張りやがって……!)
表裏は頭の中で作戦の邪魔をした掬央への復讐方法を考える。せっかくの完璧な作戦を台無しにした不届者を許してはおけなかった。
そして、ハッと気づき、思考が逸れていると再度その衝動を抑えた。
「そ、それはこいつの戯言です! 見てくださいこの目を! 正直者の目でしょう!?」
ひとまず、掬央のことは頭の済みに置いて、表裏は彼よりも自分を信じてもらおうとした。表裏は必死に山田へ視線を送った。できる限り瞬きをし、潤いを持った目で見つめる。そんな表裏の目は不思議なほど無駄に透き通っていた。
「そうか。では、ゆっくり腰を据えて話そうか」
当然の如くそれは通じなかった。そもそも、一連の言動で表裏が碌なやつじゃないと丸わかりだった。
「そ、それじゃあ、俺は行くところがあるので!」
失敗を悟った表裏は逃げ出そうと背を向けた。最速で一歩を踏み出して走り出そうとした。
だが、足が空回った。同時に乾いた笑いも出た。今度も首根っこを掴まれたのだ。
「安心しろ。行き先は決まっている。それと、羽打! お前もだ!」
表裏が追い詰められている間に、いつのまにか七輪などを全て片付けて、こっそりと逃げ出そうとしていた末広が観念したように足を止めた。
「ははは……、どうも山田先生」
末広が顔を引き攣らせて振り向いた時、不自然に口を動かした。それに気づいた表裏は何を意味しているのか考える。そして、さっきまで話していたことを思い出した。
(や、やるしかないか……!)
表裏は宙に浮いた身体を揺らしながら声を出す。
「し、勝負だ! 俺とあんたで、体力勝負だ!」
反応を待つ。山田が乗ってこなければどうにもならない。
すると、あれだけ力強く掴まれていた手が離された。
「ほう、勝負か。良いだろう。やってやろうじゃないか!」
思いの外あっさりと山田は話に乗ってきた。
表裏は地面に足がついたことも合わせてひとまず安堵する。とりあえず、この場はどうにかなったのだと。
「それで? 勝てば何がある?」
表裏は答えに詰まった。勝てば何を得るか。それを表裏は全く考えてもいなかったからだ。怒られないようにすることばかりで頭がいっぱいだったのだ。
だが、山田の言葉で表裏は改めて思う。ちょうどいい機会だと。
「だったら、俺が勝てばこれから護身術の授業で走るのはなしだ!」
表裏はその言葉と共に気合を入れる。これで、勝つ理由ができたと。
そして、彼は山田に対して返答を促した。
「そっちの要求は?」
「そうだな……。その時になったら教えてやろう」
しかし、返ってきたのはそのような曖昧なものだった。
思わず追求したくなった表裏だったが、堪える。ここで下手に山田のやる気に水を差せば、勝負自体がなくなってしまうかもしれないからだ。
(ま、まあ、勝てば問題ない……はずだ)
表裏は自分に言い聞かせる。勝ちさえすれば、関係ないと。そう勝てさえすれば。
「最近鈍っていたからな。ちょうどいい運動になるな」
山田がその場で軽く足踏みをする。掬央を担いだままに軽やかに。次に、足の筋を伸ばすように前後に足を開いた。
その時、長さが足りなかったのかはたまた窮屈になったのか、ズボンの裾が少し捲れた。
瞬間、表裏の頭によぎる後悔。
(あっ、早まったかも……)
そこから見えたふくらはぎが山のように隆起していたのだ。
「まだ、授業中だからな。勝負は放課後だ」
そう言って去っていく山田を表裏は呆然と眺めることしかできなかった。
そんな彼の肩に手が置かれた。末広の手であった。何も語ることなく置かれたその手が彼にはやけに重く感じられた。