第13話 初歩の初歩
そうして、準備を終えた表裏とようやく自立できるようになった掬央。
そんな彼らは今、広々としたグラウンドを他の生徒たちと共に走っていた。
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「これからお前たちにはひたすら走ってもらう」
生徒たちの準備が終わり、開口一番に山田はそう言った。
そんな彼に対し、生徒の一人が手を挙げて質問をした。
「走るって、何メートルですか?」
最もな疑問だった。そもそも、走る距離がわかっていなければペース配分も何もないからだ。
そんな当然の疑問に対して、山田は厳かに腕を組んで答えた。
「限界までだ」
「え?」
呆けた声を出す生徒を気にすることなく山田は更に続けた。
「もうこれ以上は、と思うまで走れ」
生徒たちに困惑した空気が広がる。生徒たちの多くは表裏とは同じように軽い気持ちでこの授業を選んだ者が多かったのだろう。そのため、突然のスパルタ発言に着いていけていない者が大半を占めていた。
そんな中、おずおずと上がる手が一つ。表裏とは面識のない生徒だが、その足は非常に細く、見るからに運動が苦手であることを感じさせた。
「あ、あのすみません。僕、体力に自信がないのですが……」
彼の言う通り、体力の差というものはどうしても存在するものである。そのため、体力に自信のない者は全く走れずに終わってしまうなんてことになりかねなかった。
そんな彼の言葉に山田は鷹揚に頷いた。
「当然、体力に不安を抱えている者もいるだろう。だから、これはそのためのものだ。護身術を学ぶに際して、そもそもの体力がないことには始まらない。体力の無さは思った通りの身体の動きを阻害する。そして、それが予期せぬ怪我へと繋がるのだ」
そんな山田の言葉に、生徒たちの間にピリッとした空気が広がった。どこからか、ごくりと喉を鳴らす音までも聞こえてきた。山田のその静かに語る気迫に気圧されたのか、皆表情を引き締めてみせた。
そんな生徒たちの様子を見て山田は一度頷き、相好を崩した。
「だからといって無茶だけはするなよ。気分が悪くなったり、どこか痛んだりしたらすぐに止めるんだ。それに、自分のペースで走るんだ。決して焦ることのないように。ゆっくりでも、少しずつでも、自らの足で進むことが大切なんだ」
最後に告げられた言葉は、先ほどの厳しいものとは違いどこか柔らかさを含んでいた。そんな丁寧に包まれた言葉が届いたのか、生徒たちは大きな声で「はい」と返事をした。
そんなことがあって表裏たちはグラウンドを走ることになった。
そして、その表裏はと言うと。
(も、もう無理だ……。これが俺の限界だ。そうに違いない!)
なんてことを早くも考えていた。
さらに続けて、彼は考える。
そうだ。山田も言っていたはずだ。自分のペースで良いと。ならば、ここで止まってしまうのもまた自分のペースであるのではないのかと。
ゆっくりと速度を落としていく。やがて、足が完全に止まった。そして、彼は膝に手をつく。頻りに額を袖で拭い、荒い息を吐いた。ついでに、膝もガクガクと震わせたりもした。
彼はクールダウンでもしようとグラウンドの端に移動しようとした。
「何をやっているんだ、浦原。早く走れ」
そんな表裏の背に山田の声がかけられた。
思わず彼は逃げ出しそうになるが、それをどうにか抑える。
「ハア……ハアッ! 何って……ハア、そりゃクールダウンをと……」
話すのもままならない風の表裏は途切れ途切れに答えた。さらに、そのままふらふらと覚束ないような気がする足を動かした。
すると、突如現れた壁に彼は顔をぶつけてしまった。
「あだっ!」
彼は思わず鼻を押さえた。そして、その壁を睨もうとして、顔を青くして咄嗟に飛び退いた。
そんな彼に向って壁――腕を組み彼を見下ろした山田――が口を開いた。
「それで、クールダウンとか言っていたな。だが、まだまだ足が動くようじゃないか」
「や、やだなあ。思ってたよりも動けるみたいですね、俺って。ちょっとうっかりしてたみたいです!」
そう言って表裏はグラウンドへと再び駆け出す。他の走っている生徒に合流し、仕方なく再開した。
表裏は息を乱さないように一定のペースで走っていく。周囲の生徒も彼と同じように淡々と足を動かしていた。皆、他人を気にする余裕はなく前だけを見て走っているようだった。
そんな中、一人の生徒の動きがやけに表裏の目についた。その生徒は他と異なり、顔をきょろきょろと動かしていたのだ。一人だけ前を見たり後ろを見たりとどうにも忙しない。
表裏はその人物が何をしているのか気になり少しペースを上げて横に並んだ。
「何やってんだよ。怪しく見えるぞ」
彼は山田に聞こえることのないように小声で話しかけた。そんな彼の声が聞こえたようで、その生徒が彼を見やる。そして、目が合いその生徒――というか掬央だった――は顔をしかめた。
「何だお前か。あっち行ってろ。俺は今忙しいというのが見てわかるだろう」
そう言って、掬央は手で追い払う仕草をしてみせた。
当然、邪険にされた表裏は苛立った。だが、それを彼は堪えて、努めて冷静に聞き手に回った。
「へ、へえー。俺には忙しそうに見えないけどなあ。むしろ、随分余裕があるように見えるけどなあ!」
表裏に対し、掬央はやれやれと言わんばかりに首を振った。おまけにため息まで吐いていた。
さらに、声を潜めて表裏に語る。
「だから、お前はダメなんだ。さっきも見ていたぞ、お前が馬鹿正直に止まって追い返されたところを。もっとやりようがあるだろう」
そう言って彼は山田の方を指差した。つられて表裏もそちらを見ると、生徒たちをその鋭い眼差しで見守る山田の姿が目に入った。相も変わらずその姿は目があったわけでもないのに身が竦みそうになるものであった。
顔をしかめ、走るペースを落とす表裏。そして、掬央の言葉の意味を問いかける。
「先生がいるから無理なんじゃねえか」
「バカめ。よく見てみろ。この生徒数のために、奴もその分気を配る対象が多くなっている。そのため、あそこからほとんど動いていない。わかるか? つまり、どうしても注意の行き届かない場所ができる。そこで抜け出す。おそらく、一人ぐらい減ってもバレないはずだ。それに、既にどこで動くべきかおおよその見当はつけた」
「マジか、お前……」
「おおマジだ。俺もマラソンなんてごめんだ。なに、授業が終わる前に戻ればバレはしない。それに、他の生徒も俺の顔と名前が一致していないはずだ。だから、すぐに俺だとバレはしないだろう。それで、お前はどうするんだ? 大人しく従って辛い思いをするか、リスクを背負ってでも自由を得るか」
表裏は逡巡する。このまま走っていれば怒られることなく終えられるだろう。しかし、そうなるということは限界まで走ることを意味する。へろへろになってしまうのだ。それは表裏も嫌だった。だからと言って抜け出すことを選んだ場合、それがバレた時に走る以上に辛い目にあってしまうかもしれないのだ。表裏は叱られるのもごめんだった。
「そうは言ってもな、リスクがでかすぎる。バレた時にどうなるか。というわけだ、俺は……乗った!」
「そう来なくてはな!」
そう話している間にも一周の終わりが近づいてきたために二人は押し黙った。山田が立っている場所に近づくごとに表情を引き締め、真面目に走っているようにもした。そして、その場所を過ぎたあたりから徐々にペースを上げていった。
山田の姿が遠くなり、段々生徒たちによって遮られるようになっていった。さらに、まとまって走っている集団が表裏たちの近くに来た。それによって、彼らの姿がついに完全に山田から隠された。
アイコンタクトを交わす表裏と掬央の二人。絶好のタイミングであった。これを逃せば次のチャンスがあるかはわからない。
まず、先に掬央が動いた。集団から離れてグラウンドの端を目掛けて駆け出した。彼は脇目も振らずに走っていく。周囲の生徒から奇異の目が向けられているが、それすらも振り払って抜け出していく。
次に、表裏が続こうとした。前を行く掬央の背中を追いかけようと足を進めた。しかし、そこで一歩を踏み出して止まってしまう。躊躇してしまったからだ。頭の隅にあった微かな懸念が顔を出したのだ。果たして、本当に逃げ延びることができるのかというものが。
そもそも、掬央の作戦は山田が満遍なく全ての生徒に注意を払っている場合のことで、もしも特定の生徒に対して注目していたとしたら成り立たないものなのだ。そして、表裏たちは既に目を付けられていることがわかっている。加えて、授業前にも直接注意されたのでまだ山田の記憶に強く残っている可能性が高かった。
このままでは作戦の成功確率はとても高いとは言えない。そのため、表裏はある作戦に出た。
(悪いな、掬央! 尊い犠牲だ!)
表裏は大きく息を吸い、できるだけ大きな声で叫んだ。
「先生! 長井くんが抜け出そうとしてます!」