第12話 前準備
表裏たち三人が辿り着いてすぐさま護身術の授業は始まった。
そこで現れた教師に表裏は顔をしかめる。
広い肩幅、真っ直ぐに伸びた背筋。鍛え上げられた身体を持った男がいた。そして、その身体能力を表裏は嫌と言うほど思い知っていた。
反射的に後ずさろうとしてとどまる。あの時と違って何も後ろめたいことなどない。堂々としていればいいと自分に言い聞かせる。
教師の視線が表裏を捉える。睨まれてもいない。ただ視線が合っただけ。それでも威圧感があった。
「護身術の授業を受け持つ山田だ。この授業は治安の悪化が懸念されている昨今において、身を守るために重要なものになる。身を守る知識と術を手に入れ、不自然に不安がある者はそれを扱えるように修得することを目標にしてほしい。当然、慎重に指導していくが気を抜くと怪我の原因になるからくれぐれも気をつけるように」
教師、山田は軽く説明と注意を行った後、咳払いをし、表裏を見た。今度はしっかりと睨んできており、迫力が桁違いだった。表裏は冷や汗を流して身体を震わせる。
遅刻はしていないし、心当たりもない。理由もなく怒られるなんて理不尽にも程がある。
表裏は何を言われてもいいように反論の言葉を頭の中で用意した。
そして、山田が大きな歩幅で表裏に近寄った。
「またお前たちか。浦原、長井」
「名前をもう知られている……だと!?」
「当たり前だ。問題児はマークするに決まっているだろ」
「今回は何もしていねえよ!」
「ならば、それは何だ」
指し示した先は地面。首を傾げて表裏はその先を目で追った。
そこにあったのは、未だに防護服を着てひっくり返ったままの掬央だった。
完全に忘れていた。調子に乗って自滅したバカがいたことを。
掬央にどうにかしろと目線で訴える。だが、彼は首を振って、その場でバタバタと暴れただけだった。むしろ、懇願の視線を寄越してきた。
(使えねぇ!)
そこで表裏は次の手段に出る。膝を折り、手で口を押さえる。顔を背けて「うっ、うっ」と声に出す。
「俺は止めたのですが、どうしても聞かなくて」
彼は流れるように掬央を売った。さらに、出てもいない涙を拭きながら悲痛に身体を折る。
その際、掬央から睨まれた気がしたが無視した。
今の彼は自分が助かることが優先だった。
「浦原はこう言っているが、どうなんだ」
「確かに俺は自分の意思でこれを着ました。ですが、脱げなくなってしまうことは想定外だったんです。こいつにも助けを求めて……。それなのに、ううっ。助けるどころか、引きずってくる始末で……」
こちらも涙は枯れていた。今度は顔を隠せもしないのでよりわかりやすかった。
表裏は失敗を悟った。掬央に内心で憤る。人をあっさり売るなんてとんでもないやつだと。自分の行動を棚に上げてそう罵った。表裏は今を生きる男だった。
「そうか。お前たちの言い分で大体わかった」
「じゃ、じゃあ」
「ああ、お前たち二人とも大バカだ!」
当然、そんな二人の馬鹿げた言い分は教師に通用しなかった。
眉間にシワを寄せてまなじりを吊り上げる。ずかずかと足音を大きくたててさらに距離を詰めてくる。
(今から逃げるか? いや、逃げられねえ)
仮に今すぐに走り出したとしてもあっという間に捕まってしまうだろう。そうなってしまったら、逃げ出した分も追加で怒られてしまう。
表裏は必死に頭を回す。怒りを鎮められないかと。
そして、最後の手段に出た。
「可哀想と思わないのか!? こんな手も足も出ないやつを相手にして! 浦島太郎なら助けてるね!」
情に訴えたのだった。
人間とは豊かな感情を持つ生物。その中には当然優しさも含まれている。
表裏は人の心を忘れてしまったであろう、目の前の人物の中に眠る微かなモノを呼び覚まそうとしたのだ。
膝を折り地面に手をつく。身動きが取れなくなった掬央の隣で悲痛に顔を覆う。
その際、ついでに掬央に拳を入れておく。当然、表裏には他意はない。あくまでも演出のための犠牲だった。
数回身体をぴくぴくと動かした後、掬央は沈黙した。表裏はそれを彼が作戦を理解した証明だと受け取った。
「が、がめ゙え゙」
「ほら、泣いてんじゃん! 動かせない身体に嘆いているんです! 可哀想に!」
「いや、今殴ってたよね!?」
想太が何か言っているが表裏には聞こえなかった。今はただ、この悲しき生物の無念を払ってやることに精一杯だった。
白目を剥き、口から泡を吹いている掬央。その姿はきっと教師に通じたはず。
表裏はそう思って顔を上げる。
(よし!)
表裏は拳を握った。成功を確信したのだ。
山田の姿は、先ほどまでの威圧感はなく静かに顔を伏せていた。
表裏はそれを感涙に咽び泣いているのだと捉えた。幼い頃に聞かされた昔話、まだ純粋であったであろう日の物語。それが心を動かさないわけがない。
表裏は口角が上がるのを隠しきれなかった。
そして、山田の次の言葉を待つ。
「そうか、そうか。お前は優しいのだな」
「ええ、それはもちろん。この浦原表裏、理不尽に虐げられる者全ての味方!」
山田の言葉に表裏は飛び上がる。両手を大きく広げ、柔らかな笑みさえも浮かべてみせた。
今なら、そこに転がっている亀にも本当に優しくできそうだった。それこそ、気づけの一撃をお見舞いしてやっても良いと表裏はそう思えた。
そんな表裏にかかる影が一つ。表裏に近づいた山田のものだ。
表裏はひっくり返った亀を起こすのだと思い、距離を取る。心優しき男の行動を祝福するように、静かに微笑みを携えながら。
「どこへ行くつもりだ、浦原」
しかし、そんな彼の肩を掴む手が一つ。表裏はなぜか汗が止まらなかった。そこまで強く掴まれていないはずなのに、その手は身を捩っても離れない。
ついには、両手で引き剥がそうとしても肩にめり込む形で掴んできた。
「あだだだ! 脇役の出番は終わりです! 後は主人公が頑張ってください!」
「何を言うか。学校とは生徒が主役だ。なれば、連れて行ってやろうではないか。竜宮城に!」
「俺は泳げないんですう! 亀だってきっとあんたが良いって言っています!」
表裏の言葉を受けた山田は顎に手を当て少し思案した。
そして、何を思ったか横たわる掬央の顔に手を伸ばした。
表裏が怪訝な顔で見ていると彼は掬央に語りかけた。
「浦原はああ言っているが、どうだ長井。どちらが主役か?」
表裏はぎょっと目を剥いた。掬央の意識は確実に刈り取っていたはずだと。
そして、はっと気づく。掬央が身に纏っていたのは何だったのかと。あれだけ、強固な防護服だ。そのため、いくら覆えていない箇所だとしても衝撃を散らしてみせたのだろうと。
表裏は掬央の方を伺う。表裏には掬央が自身に不利な発言をする心当たりがなくもなかった。
だから、表裏は祈るような眼差しを掬央に送る。
(掬央、わかってるよな!?)
そんな表裏の思いが届いたのか、掬央と目が合う。
さらに、掬央は表裏に合図するように瞬きをした。
表裏はひとまずの危機が去ったことにそっと肩を撫で下ろす。
そして、掬央が語る言葉を待った。
「表裏です。あいつに以外には考えられないな!」
「だそうだ」
「て、てめえ! ここまで連れてきてやった恩人に対して薄情だぞ!」
「なーにが恩人だ! お前が余計なことをしなければ、俺はとっくに自由の身だ!」
表裏は詰め寄り、掬央は喚く。そんな醜い争いを再度始めた二人だったが、すぐさま沈静化した。
なぜなら、表裏を掴む手があったからだ。
「というわけだ。浦原、長井。二人とも今すぐにでも連れて行ってやろう」
山田が表裏の首根っこを掴み宙吊りとする。
表裏がぷらぷらと浮いた足を必死にバタつかせても地面につく気配がない。
腕を振り、揺れながら周囲に助けを求めた。
「横暴だ! 誰かこの理不尽をどうにかしてください!」
しかし、誰も応えない。他の生徒たちは目を背けて、こそこそと語り合うのみであった。
表裏から抵抗する力が抜けていく。握っていた拳はゆっくりと開かれ、歯を食いしばっていた口からは気の抜けた声が出た。
そんな彼にたった一つかけられた声があった。
表裏はその声の方を見る。この状況の助けになるかもと、そんな期待を抱きながら。
(日頃の行いのおかげか――)
「残念だったな、表裏。俺に手を差し伸べなかった報いだ!」
「くたばれ!」
そこにあったのは憎たらしい掬央の姿だった。身体を動かせない分、その満面の笑みが彼の心情を表していた。
表裏の怒号など意にも介さないと掬央の笑い声が響く。
表裏が怒りに震えていると彼の身体が一際大きく揺れた。彼自身が動いたわけではない。彼を掴んでいる山田が突然歩き出したのだ。
「ああ! 誰か助けてええ!」
などと表裏が叫ぶがその歩みは止まらない。彼を掴んでいることの重さを感じさせない軽やかさで一歩一歩と進んでいく。
「もうダメだああ!……えっ?」
突如、山田がその足を止めた。怪訝に思った表裏が目を開けると、そこは先ほどの場所からほんの数メートル進んだ地点であった。
生徒指導室に連れて行かれていないことに安堵した表裏は足元の物体に気づいた。それは掬央であった。どういう訳か山田は掬央の下まで表裏を連れたまま進んだのだ。
表裏の目に改めて掬央のニヤケ面が映った。思わず殴りたくなった表裏だったが動きを止めた。首根っこを掴まれていたこともあるが、何よりも掬央の表情の変化が目についたのだ。
上げられた口角が引きつり、笑っていた目もこれ以上ないくらい見開かれていた。
掬央の目は既に表裏を捉えていなかった。彼は表裏を掴んでいる山田を見ていた。
「な、何の用ですか? 早くそいつを連れて行ったらどうですか」
それに対して山田の返答はなかった。その代わり掬央に手が差し伸べられた。そして、その手は掬央の顔まで伸び、むんずと掴んだ。
「もごご!」
「何を言っているんだ。言っただろ。お前たち二人とも連れて行くと」
途端に顔を青ざめさせる掬央。彼はようやく自身が安全圏にいないことを悟ったようだった。今になって身体を動かしもがくが、掴まれた手はビクともしない。彼は振り子のように空しく、ただ揺れるのみであった。
「バカめ! 因果応報だ!」
そんな掬央の姿を表裏は嘲笑った。自らが置かれている状況も忘れて盛大に嘲った。彼が肩を揺らす度に宙に浮いた身体が前後に揺れる。今では、そんな揺れがまるで揺籠のようだと彼には感じられた。
「むがが!」
「何を言っているかわからないなあ!」
「ぐがが!」
「先生! こいつを早くぶち込みましょう!」
「いやお前もだからな」
「そんな! どう見たってこいつが悪いでしょ!」
「ふごご!」
「ほら、こいつもそう言ってます!」
「どう考えても違うだろ」
自らが危機に晒されていると思い出した表裏が流れで難を逃れようとして当然如く却下される。
そうして、山田は二人を掴んだまま歩き出す。
表裏は口々に言葉を出す。掬央が悪いといったもの。自分は巻き込まれただけだというもの。
しかし、山田は取り合ってはくれなかった。それどころか速度を上げて、表裏たちは布のようにたなびくようになっていった。
風によって目を閉じようとしても瞼が無理矢理上げられ、声をかけようとしても顔の皮膚ごと引っ張られて言葉にならない。
「ふごっ、ちょ、せ、せん――!」
そんな中で表裏はどうにか言葉を伝えようともがく。腕で顔を覆いながら、よく聞こえるように大きな声で。
そして、とうとう言葉にすることができた。涙や鼻水を流す不恰好で情けない様相で。
「ご、ごめんなさあい! 許してくださああい!」
すると、その表裏の言葉が届いたのか山田は徐々に足を緩めだした。
とうとう足が完全に止まり、表裏は恐る恐る山田の顔を覗き見た。ほんの少し、怒りが収まったのではないのかという期待も添えて。
果たしてその結果は――。
「だったら早く準備をせんかああああ!」
山田のこめかみはぴくぴくと動き、さらに荒く深い息を吐いていた。誰が見ても大噴火であるのは一目瞭然だった。
すると、そのあまりの怒りによるものか表裏を掴んでいた手が離される。
受け身も取れず表裏は尻餅をついて、その態勢のまま後ずさる。彼は山田の剣幕に顔を引き攣りながらカサカサと気味の悪い動きを取った。
そんな彼に再びかかる影。いくら動いても、それはつかず離れず彼を覆った。
彼は堪らず叫んだ。
「い、今すぐ準備をしてきますうう!」
彼は、同じく地面に投げ出されていた掬央を引っ掴んでそう言った。