87話、悩める昼食
「ふうっ。アールグレイとジャスミンティも、悪くないわね。ああ、おいしい」
「メリーさん。アイスコーヒーさんが、なんで僕だけ盛大に吹きこぼしたのって、泣いてますぜ?」
「うっ……」
私の横へ座ってきたハルの儚さが宿った囁きに、体を波立たせる私。ブラックのアイスコーヒー、唯一私に『まずい』と言わせた飲み物。
一応、喉を受け付けてくれなかった原因を探るべく、何度か飲み直したものの。結局分からず終いだった。
たぶん、強烈な苦みのせいだと思うけれども。飲めなかったのが、なんとも悔しいわ。
「ハル、これは警告よ。夕食には絶対、ブラックコーヒーを出さないでね?」
「身に沁みる警告、誠にありがとうございます。しっかし、なんでだろうね? カフェオレは普通に飲めてたから、やっぱり苦みのせいかな?」
「たぶんね。その苦みさえ薄れれば、普通に飲めると思うわ」
そう。飲めなかったのは、何も入れていないブラックのアイスコーヒーだけ。同じコーヒーを使っている飲み物でも、カフェオレはとてもおいしく飲めた。なんなら、おかわりをしている。
この二つの違いは、強い苦みがあるか無いかだけ。なので甘いコーヒーなら、難なく飲めるはず。つまり私は、コーヒーが飲めないんじゃなくて、強い苦みがダメなのかもしれない。
「なるほど、ねぇ」
相槌で会話を終わらせたハルが腕組み、視線を右へ逸らしていく。久々に出たわね、思案している時の癖が。「ふ~ん……」と呟いているけど、一体何を考えているのかしら?
「どうしたの?」
「……ん? ああ、いやね? 苦い飲み物がダメだったら、苦い食べ物もダメなんじゃないかなって、思ってさ」
「あ、確かに」
まったくもって、その通りだ。苦い飲み物がダメなら、当然苦い食材や料理だって食べられない。これ、かなりまずいわね。
今すぐハルと話し合って、誤って夕食に出さないようピックアップしておかないと。
「でも、ピーマンは普通に食べられるじゃん? それ以上に苦い食べ物って、あんまなさそうなんだよね」
「あら、そうなの?」
「うん。今パッと出てきたのが、ゴーヤだけでさ。とりあえず、これは夕食で出さないようにしとくよ」
「そうね、そうしてちょうだい」
ゴーヤだけ? いや、そんな訳ない。もっとあるはずよ。部屋に戻ったら、インターネットで色々調べておきましょう。
それで有益な情報が出てきたら、ハルと共有しておかないとね。
「そういえば、ハル。なんで急に、私の隣に来たの?」
「おっと、そうだった。もうちょいで昼になるから、ゆっくりじっくり、楽な姿勢で次に行く店を決めたくてね~。お隣、失礼しますぜ」
緩い笑顔で断りを入れたハルが、テーブルにスマホを置いた。画面には『アリオン』のフロアガイドが載っていて、現在の時刻は、十一時二十三分になっていた。
「本当だ、もうこんな時間なのね」
ここへ来て、初めて時間を見たせいか。『銀々だこ』と『ミスドーナツ』で食べたばかりだというのに、だんだんお腹がすいてきちゃった。私のお腹って、意外と単純ね。
「二件行っただけで、一時間半も経ってらっしゃるのよ。この調子だと、あと行けて三、四件ぐらいかな? んでもって、昼食に適した店も、これまたいっぱいあるんだよね~」
「一階で案内板を見た時、適当に流し見したけど……。やっぱり、すごい件数があるわね」
有名なハンバーガー専門店が二件。フライドチキン専門店は一件。ちゃんぽんと皿うどんを扱ったお店。ラーメン、うどん、そば、パスタ専門店が、各一件ずつ。
中華料理屋があれば、洋風レストランもあり。他にも餃子、お寿司、唐揚げ、焼き肉、ステーキ、ハンバーグを取り扱ったお店や、しゃぶしゃぶとすき焼きが食べ放題のお店なんかもある。
もうすごい。店舗数が多すぎて、お店のメニュー表を見ているような気分だ。いくらなんでも多すぎよ。こんなの、一日で決められる訳がないじゃない。
「とりあえず、メリーさんは何か食べたい物でもある?」
「食べたい物、ねぇ……。お店と食べたい物を決めるだけで、二日ぐらい掛かるかもしれないわ」
「マジか。アリオンで二泊三日は……、やろうと思えば出来そうだな」
どうしよう。私がこよなく愛する、唐揚げ専門店らしきお店があるけども。ちょっと他のお店に目を移せば、食べたい欲が秒で傾いていく。
そういえば、ハルが二件目に『ミスドーナツ』を選んだ理由は、家の近くや商店街に無いお店に行きたいから、だったわよね。
ならば私も、同じ条件でお店を選べば……。ああ、この条件はダメだ。大体全部のお店が、当てはまっちゃうじゃない。やっぱり、二日間掛けて決めるしかないようね。
「ちなみにハルは、何か食べたい物ってあるの?」
「私? 今ね、全部食べたい」
「それ、すごく分かるわ」
どうやらハルも、膨大なお店を前にして、食欲が迷子になっているようだ。
確か、こういうショッピングモールって、迷子を匿う場所があったはずよね。私達の食欲、そこで保護でされていないかしら?
「う~ん、仕方ない。心を鬼にして、消去法で店を絞っていきますか」
「消去法?」
「そっ。たとえば、そうだな~。最近食べた物を省いたり、これを食べてみたいけど、こっちほどじゃないかな~ってな感じで、候補を少しずつ外していくんだ」
「へえ。いいわね、それ。だったら、外せるのが何件かあるかも」
ここ最近、インスタントラーメンとうどんを作って食べたので、この二つは外せる。お寿司も、数週間前に『銚子号』で食べた。これで、五件のお店を候補から外せそうね。
しゃぶしゃぶだって、この前『カニしゃぶ』をしたばかりし。だったら中華料理も、候補から外してしまおう。よしよし、もう七件も外せた。
「メリーさん、何件ぐらい絞れそう?」
「えっと、ラーメンとうどんでしょ? 後はお寿司、しゃぶしゃぶ、中華料理店の七件かしら」
「おお、良い感じで減らせてるじゃん。それで、残りの候補は十三件になるね」
「そうね。後はハンバーガー専門店が二件、とんかつ、洋食レストラン、タコス、フライドチキン、串カツ、餃子、唐揚げ、パスタ、焼き肉、インド料理、ステーキとハンバーグ店があるわ」
だいぶ絞れてきたので、料理に偏りが出てきた。主に、肉をメインに使用した料理が多いわね。
「う~ん。こう絞れてくると、だんだん肉が食べたくなってきたや」
「そうね、なんだかガッツリ食べたくなってきたわ」
肉肉しくなってきたラインナップに、ハルも触発されてきたようだ。ここから更に、食べた事がある料理を外すのもアリね。
「ならば、とんかつ、フライドチキン、串カツ、唐揚げ、焼き肉、ステーキとハンバーグまで絞れるね」
「ハンバーグは、かなり前の夕食で出たし。唐揚げも、ハルが作った物が一番おいしいから、今回は見送ってもいいわよ」
「うおっ、急に嬉しい事言ってくれるじゃん。ねえ、メリーさん。今のもう一回言ってくんない?」
「あんたが作った唐揚げが、世界で一番おいしいわ」
「ありがとうございます!」
やたらと聞きやすい張った小声で、綺麗なお辞儀をするハル。
ハルの唐揚げだったら、たとえ朝昼晩、三百六十五日連続で出てきたとしても、喜んで食べられるわ。そして、絶対に飽きないと断言出来る。
「もうっ、しゃーないな~。海鮮祭りが終わったら、ニンニクがとびっきり利いた唐揚げを作ってあげるね」
「ええ、是非頼むわ」
「うっし! でさ、メリーさん。一つだけ、謝らないといけない事があるんだ」
「え? 謝る事?」
そう改まって話を切り出してきたハルの表情は、なんともばつが悪そうな苦笑い。……こういう時のハルって、なんだか決まって嫌な予感がするのよね。
「な、なに?」
「唐揚げって言ったらさ、フライドチキンがめちゃくちゃ食べたくなってきたんだよね」
「フライドチキン? ああ、『ゲンカツギー』の?」
「はい、そうなんスよ」
今度は緩い笑顔になったハルが、後頭部に手を回した。通称、『ゲンカツギーフライドチキン』。テレビでやっているCMだと、特別な日に食べるイメージがある。
使用しているのは、大きな鶏肉でしょ? フライって言うぐらいだから、それを油で揚げているのよね? あっ、なるほど。ハルが急に謝ってきた理由が、ようやく分かった。
大好物の唐揚げを候補から外したというのに、それに似た物を食べたくなってしまったから、私に謝ってきたのね。
なんだ、そういう事ね。だったら、別に謝らなくてもいいのに。ハルが食べたいというのであれば、私はそれで全然構わないわ。
「じゃあ、昼食は『ゲンカツギー』にしましょう」
「あれ、いいの?」
「ええ。あんたが『ゲンカツギー』を食べたいって言ったら、なんだか私も、それが食べたくなってきちゃったの。さあ、ハル。食欲が浮気する前に、早く行っちゃいましょ」
「ははっ、そうだね。んじゃ、早速行くとしますか」
話が決まったら、私の口も、だんだんフライドチキン色に染まってきた。一体、どんな味がするんだろう? 初めて食べるから、楽しみになってきちゃった。
っと。『ゲンカツギー』へ行く前に、コップをお店に返却しておかないと。……ブラックのコーヒー。いつの日か、残さず飲めるようになりたいなぁ。




