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80話、決めた事は破るもの

「私、メリーさん。今、今日の夕食が何なのか気になっているの」


『うっわ、やっべぇ。へへへっ、もっと盛り付けちゃおっとぉ~』


 携帯電話から返ってきたのは、なんとも上機嫌でねったりとした、耳奥にこびり付きそうなハルの声。私の話を聞いていないし、もはや会話ではなく独り言だわ。


「なんだか嬉しそうにしてるわね。何を作ってるの?」


『ええ~? 私がハルーさんになりそうな料理ぃ』


「……と、とりあえず、あんたのテンションが上がる物のようね」


 昨日の『カニしゃぶ』も、そうだったけど。海鮮類が届いてから、ハルーさんの出現度が著しく高まっている。連日の出現は、今までに無かったレアケースだ。


「へいっ! 高級爆盛り丼、お待ちぃっ!」


「あら、堪え切れたのね……、うわっ!?」


 なんとか自我を保った様子のハルが、声を高らかに張りながら戻って来て、テーブルに丼ぶりを並べたので、前かがみで丼ぶりの中身を覗いてみれば。

 片や左側には、黄金の草原を彷彿とさせる生ウニが。片や右側には、艶やかな光沢がなんとも美しい、まるで宝石のように輝いているイクラが、所狭しと敷き詰められていた。

 盛り付けの量が多すぎるせいで、上にちょこんと添えられたわさびが、なんとも可愛く見えてくるわ。

 それにしても、いくらなんでも盛り過ぎじゃない? 丼ぶりのふちギリギリまで迫っている。


「す、すごいわねぇ~。圧巻だわ」


「やばくない? この量。鮮度は抜群でどれも大きいし、お店で注文したら二、三万円ぐらいいっちゃうんじゃないかな?」


 まるで反省の色を見せないハルが、恐ろしい事をサラリと言い放ち、無垢な笑顔を浮かべた。


「昨日のカニしゃぶといい……。聞いてるだけで、金銭感覚が狂ってくるわ」


「だよね。カニとイクラは、まだ残ってるし。このまま続けたら、十万円コースは余裕で突破すると思うよ。……ははっ。半年分以上の食費が、たった数日で吹き飛ぶとはね。こわっ」


 食費を大雑把に計算してしまったハルの口元が、だんだんヒクつき出し。テンションがあからさまに下がっていった。

 そう。まだサーモンや中トロといった、夕食に出ていない海鮮類も控えている。

 正直、ちゃんと計算するのは私も怖い。もし家計簿をつけていたら、声にならない悲鳴を上げていそうだわ。


「ちなみにこちら。生涯で、もう一度食べられるか怪しい量となってますので、しっかり味わいながら食ってくだせえ」


「当たり前でしょ? こんな高級な丼物を、ガツガツかき込んで食べたら後で後悔しそうだわ」


「でもさ? 一回やってみたいと思わない?」


「そうなのよね……」


 イクラと生ウニ、共に『銚子号』で食べているので、味自体は知っている。だからこそ、試してみたいのよ。口一杯になるまで頬張るといった、贅沢を極めた行為を。

 そもそも、ハルもハルよ。忠告したり勧めたりして、秒で心が揺らいでいるじゃない。無論、私もなのだけれども。


「よし、決めた。イクラと生ウニ、一回ずつ頬張るわ」


「おお、回数制限を設けるのはいいね。なら、私もそれにしよっと。あと、はい。メリーさんのわさび醬油」


「あら、ありがとう」


 遅れてハルが渡してきたのは、丼物に添えられた物より多めのわさびと、醤油がたっぷり注がれた小皿。

 ハルめ、やってくれたわね? こんな物を掛けたら、レンゲが止まらなくなっちゃうじゃない。


「そんじゃ、いただきまーす!」


「いただきます」


 食事の挨拶を唱え、レンゲを持つ。さてと、イクラと生ウニ、どっちから食べようかしら? 量が多い方から減らしていきたいし。ならまずは、イクラを食べよっと。


「んふっ、すごいプチプチしてるぅ~」


 ほぼイクラしかすくえなかったレンゲを、口の中へ入れてみれば。押し寄せてくるは、大量のイクラが弾ける怒涛のプチプチ感。

 量が量なだけあり。角の無い酸味を持った酢飯に合う、程よい塩味とまろやかであっさりとしたコク、醤油の味に似た丸い香ばしさが瞬く間に濃くなっていった。

 イクラの食感は、鮮度が高いからか。ややしなやかな弾力があり、弾け方も強い。一気に頬っちゃったので、香り華やぐ豊かなとろみが口の中で渋滞を起こしている。

 鼻で息をすれば、香りはもうイクラ一緒くた。でも、いくら弾けて風味が濃くなっていこうとも、しつこさはまるで感じない。むしろ、もっと頬張って食べたいという贅沢な欲求が、際限なく湧いてくるわ!


「ああ、食感も香りも全部おいしい~っ」


「やっばぁ~、めっちゃ濃厚じゃ~ん。生臭さも無いし、すいすい食べられちゃうや」


「ハル? 頬張るのは、一回だけにしときなさいよ?」


「ごめん、メリーさん。もう無理、レンゲが止まんない」


 そう素っ気なく返してきたハルの頬は、数秒もすればリスの様に膨らみ、少しして萎んではまた膨らんでいく。


「あ、後で後悔しないよう、ほどほどにしときなさいよ?」


「最悪、おかわりするから大丈夫」


 むしろ、必ず最悪の事態を起こしてやると、力強く親指を立てるハル。嘘? おかわりがあるの? だったら……、いやいや!

 このイクラと生ウニ丼は、お店で注文したら二、三万円は下らない、超高級丼物なのよ? 自制心だけは、なんとか保たなければ。


「でも、一回は一回よねっ」


 今度はご飯を巻き込まず、生ウニだけをレンゲですくう。山盛りの生ウニを一気に頬張るのって、ものすごく贅沢ね。焦らないように、ゆっくり味わないと。


「う~んっ! クリーミィ~!」


 思い切って噛めば、イクラよりもきめ細かなプチプチ感が迸り。爽やかな磯の香りがぶわっと広がり、濃いめ塩味と、濃厚でとろけるまろやかな甘さが口の中を満たしていく!

 濃く感じる塩味も、旨味とコクを含んだ上品な甘さを極限まで引き立てていくから、飲み込むタイミングがまったく分からない。

 舌触りもトロットロで、食べた量が多いから、とろけた生ウニが舌を丸ごと包み込んでくれている。磯の香りも強いので、目を瞑って鼻で呼吸をすれば、海のさざ波が聞こえてきそうだわ。


「ああ、海を感じるぅ~……」


「駄目だ、流石に生ウニはかき込めねえ……。意識がぶっ飛ぶほど美味いじゃ~ん」


 遥か遠くで、ハルのうっとりとした声が流れてきたけど。きっと、海風が運んできたんでしょうね。ああ、海鳥の鳴き声が風情に───。


「はっ!?」


「ん? どうしたの?」


「え? ……あいや、なんでもないわ」


 危ない。生ウニがあまりにもおいし過ぎて、意識だけが架空の海へ飛んでいた。けど、それも無理はないわね。だって、本当においしいんだもの。この生ウニ。

 でも、もっと多くかき込んだら、一体どうなっちゃうのかしらね。……ええい! もういいわ。わさび醬油を掛ける前に、もう一度だけ頬張っちゃおっと。

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