77話、旨味が溶け込んだ出汁の活用法
「はぁ~っ、おいしかったぁ~……」
タラバガニとズワイガニのカニしゃぶを、長い時間を掛けてじっくり味わって食べたけれども。余韻の凄まじさが、まるで桁違いだわ。
きっとこれが、夢心地ってやつね。お風呂に入っている時よりも、気持ちがいいかもしれない。このまま横になって目を瞑ったら、十秒以内に眠れる自信がある。
「おやおやぁ~? メリーさん、もう満足しちゃったのかい?」
「ふぇ?」
心身がとろけていく夢心地を遮る、そことなく邪悪なハルの声が遠くから反響してきたので、ぼやけた視界を前に合わせてみれば。
テーブルに両肘を突き、前に手を組んで、その両手で口元を隠しているハルの顔が見えた。なに? あのハルの目? あんなに凛々しいハルの切れ目、初めて見たわ。
「当たり前でしょ? これで満足出来ない人間が居たら、逆に見てみたいわ」
「ふ~ん、そっかぁ。まだ締めを食べてないけど、これで終わりにしちゃう?」
「へ? 締め?」
締め? 締めって、料理の最期に食べる物だったわよね。お酒を飲んだら、ラーメンやお茶漬け。焼き肉といった重い料理を食べた後は、アイスクリームやサッパリとした蕎麦。
けど、今回食べたのはカニしゃぶのみ。もちろん、ちゃんと食べ尽くしたので、残っている食材は無し。あるとすれば、カニのエキスをたっぷり吸い、やや白く濁った出汁だけ───。
「……あんた、まさか?」
「ふっふっふっ。どうやら、気付いちゃったようだね?」
ニタリと笑ったハルが、鍋を両手で持ちながら立ち上がる。
「私が作る締めがなんなのか考えながら、そこで大人しく待ってな」
そう私に命令を下したハルが、まるで魔女が発するような高笑いをしながら、台所へ消えていった。カニの旨味が凝縮された出汁を使用した、締め。
考えられるのは、ラーメンやうどんといった麺類。しかし、台所に他の食材を用意している可能性も捨て切れない。なので、白米を使った雑炊もあり得る。
……正直、何が出てきてもすごく嬉しい。だって、締めの存在なんて、すっかり忘れていたからね。どうしよう。腑抜け切った心が、再び弾んできちゃった。
「私、ハルーさん。今、締めを持って来たの」
「うっ……。き、来たわね」
再びハルーさん化したハルが、蓋をした鍋をコンロに置いたかと思えば。ダッシュで台所に戻り、今度はお盆に乗せた別皿とレンゲを持って来て、テーブルに並べていった。
お盆には、鍋の中身を取り分ける用としてか、プラスチック製のお玉。薬味として万能ネギもある。
「あんた、それ気に入ってるでしょ?」
「かなりね。私のテンションが最高潮の時に、ちょくちょく出てくるかも」
「そ、そう……。なら、この締めも、あんたのテンションが上がる物なのね」
ならば今後、ハルーさんが出現したら、良い意味でとんでもない料理が出てくると思った方がいいわね。ラーメン然り、カニしゃぶ然り、この締め然り。
「そうっスよ。もう爆上がりだね。んじゃ、蓋を開けるよ~」
「どれどれ……。うわぁ~っ、カニ雑炊じゃない!」
ハルが蓋を開けたと同時。カニの塩味を感じる湯気を浴びつつ、鍋の中身を覗いてみる。そこには、見ただけで食欲が刺激されるような、黄色と赤の配色が美しい雑炊があった。
糸状にまでほぐされた、なんとも柔らかそうなカニの身。かなり量があるので、四本分ぐらい入っていそうね。
卵も、これまたふわふわだ。噛まずとも、チュルンと飲み込めそう。
あと、別で味付けもしていそうね。辛うじて分かるのは、香ばしい醤油の匂い。それにほんの僅かだけど、かつお節の匂いもするような?
「実は、これも食べたいって思ってたんだよね。いやぁ~、マジで美味そう」
「ほんと、すごくおいしそうね。ちなみにこれ、別で味付けしたでしょ?」
「おお、よく分かったね。全体の旨味を引き立てる為に、和風の顆粒出汁、みりんを小さじで一杯ずつでしょ? あとね、かつおが利いた白だしも小さじ二杯分入れたかな」
「あっ、だからかつおの匂いがするのね」
よかった、気のせいじゃなくて。けど、かつおが利いた白だしなんて、初めて聞いた。ちょっと興味があるし、食べ終わったらインターネットで調べてみよっと。
「マジで? よく分かったね。入れた本人が言うのもなんだけど、全然分かんないや」
「あれ? って思った程度だったから、あまり自信が無かったけどね」
「それでも十分すごいよ。はい、メリーさんの分」
「ありがとう」
ハルが差し出してきた別皿を貰い、レンゲと共に手前に置く。このカニ雑炊、盛り付けされても平面になるのが遅いから、程よくとろみも付いていそうだ。
「で、仕上げに万能ネギを上に添えてっと。それじゃあ、いただきまーす!」
「いただきます」
逸る気持ちを一切抑えず、レンゲを持ち、カニ雑炊をたっぷりすくう。レンゲを伝って落ちていく米粒の速度が、やたらと遅い。これは、かなりトロトロになっていそうね。
「ふー、ふーっ。ホフホフホフっ……、んん~っ、おいしい!」
まず先行するは、数多のカニから受け継いだキリッと締まった塩味。やや強く感じるけど、卵のまろやかな甘味が加わり、程よく調和していく。
けど、後から湧いてくる風味は、かなり複雑だ。鼻で呼吸をすれば、磯とかつおの香りが通っていき。舌で転がしてから噛んでみると、辛味のアクセントが利いた万能ネギが主張してくる。
が、糸状にほぐれたタラバとズワイも負けてはいない。舌触りのいいとろみの中に、どこか懐かしいプリプリとした弾力を感じる。
ここまで細くなったのに、風味はしっかりしているわね。しかも、噛めば噛むほど卵とは異なった塩味やカニ本来の甘みと旨味が、どんどん濃くなっていく。
ちょくちょく顔を覗かせてくる、ふわりと香る磯の匂いは、間違いなくズワイね。濃厚な甘さを持ったタラバの方は、磯という個性を兼ね揃えたズワイに、ちょっと押されているかも?
そして、飲み込んだ後も終わらない。最後に待っていたのは、出汁のベースとして活躍していたであろう、昆布の風味。実は僕も居たんだよと、後味として健気に残り続けているわ。
流石は、数多の旨味を取り込んだカニ雑炊ね。一口目から情報量が多すぎる。もう一度味わって確かめてみたいと、おかわりが止まらないわ。
「ほおっ。すごいわね、カニ雑炊。色んなおいしさがあって、何回食べても食べ足りないわ」
「めちゃくちゃ分かる。こんなの、旨味の暴力じゃん。体も良い具合に温まるし、もっと寒い日に食べたら、余計美味しく感じるだろうね」
「確かにそう……、あら。天気予報によると、明日も雨で今日より冷え込むらしいから、明日食べた方がよかったかもね」
梅雨真っ只中のせいで、週間予報には、晴れのマークが恋しくなるほど雨マークで連なっている。気温だってそう。明日の気温に至っては、二十℃を下回るようだ。
「げっ、マジじゃん。最高のカニしゃぶとカニ雑炊を食べるタイミングは、明日だったか。しくったなぁ」
「ほんと、明日だけ気温がやけに低いわね」
「だね。明後日以降は、平年通りぐらいかな」
時間別による気温の変化は、ほぼ無し。十八℃から十九℃の横ばい状態。安定して肌寒そうだ。なら明日の食べ歩きは、温かい物を買って───。
……いや、そうだ。明日は土曜日だから、ハルはずっと家に居るのよね。そして買い物は、基本私が行っているので、ハルは外へ一歩も出ない。
お駄賃も、それなりに貯まってきた。総額はちゃんと数えていないけど、たぶん千円以上ある。確か商店街には、あれを扱った専門店があったはず。
よし、決めた。明日の食べ歩きは中止にして、ハルにちょっとしたサプライズをしてあげよっと。ふふっ、ハルは喜んでくれるかしら? 楽しみだわ。




